「15歳のままの彼女、50歳の今の自分」平場の月 PJLBNさんの映画レビュー(感想・評価)
15歳のままの彼女、50歳の今の自分
主人公たちだけを見れば大人の恋とかすれ違いとか言い方もあるが、「平場の月」というタイトル自体が何か人生そのものを示しているようでとても切ない印象の映画だった。
この映画を観ている自分はすでに50代で、主人公たちよりは少し年上。ただ地元で中学校時代の友人に偶然会ったり、またそのころの旧友とつながりがあったり、親を介護する現実や、結婚や離婚、病院や葬式、成人した子供たちなどの風景は、リアルというよりは見慣れたもので、特に映画で観たいものではない。どちらかといえば、ああ、50代ってこういう会話や絵が人生でも繰り返されるんだな、と。
ただ中学時代好きだった相手を名字で呼ぶようなままで偶然出会う、ということは何かちょっと引っかかるものがあり、この映画では特に須藤のキャラクター設定が、少し変わっているところがポイントなのだと思う。
須藤は、15歳のころからどこか「太い」芯があり、「ひとりでいきていく」という考えをもっていた。この彼女の孤独さというか、不可解さ、男が自由にできない何か、その言葉遣いから態度まで含めてこの映画の魅力の一つだろう。特に中学時代の彼女を演じた一色香澄の雰囲気が独特だ。
この須藤というキャラクターの他を寄せ付けない感じは、彼女の母や家庭環境が原因なのかもしれないが、だからといって青砥をそこまで拒否する理由にはとてもならない。それは井川遥演じる大人の須藤も同じで、略奪婚や若い子に貢いだ経験を経ても、どうして孤独を貫くのか不可解だ。
青砥はそういう意味では、最後まで須藤にとっては中学生の時の彼のまま、大人の関係になったとしても、永遠に中学時代の二人乗りをした想いの先の人物、川辺からいっしょに平場から眺めた月のままだったんだろう。だから一緒に最後を迎えるのではなく、「合わす顔がなかった」のではないか。メインテーマの歌詞の通り、「愛ってよくわからないけど、傷つく感じ」だった。
最後のシーンはやはり15歳のときの彼女と彼だ。いっしょに笑いあったときが永遠に懐かしい。50歳のいまの涙を流している自分とは、どうしてこうなったのだろうか。ひとつだけわかることは、今自分の隣に彼女はいなくなったということだけ。
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