「CМから逆算して構築したような映画」平場の月 クニオさんの映画レビュー(感想・評価)
CМから逆算して構築したような映画
堺雅人が居酒屋の暖簾をくぐり、井川遥が酒をゴクリとくれば、もう完全に酒のCМの世界、もっと正確に言えばサントリーのコマーシャル。実際エンド・クレジットに協賛と提示されるわけで。まるでCМから逆算して構築したような映画に少し私はトーンダウン。外食では金が勿体ないからと、推奨するかのように、家飲みにスライド、もちろん飲むのは「金麦」。井川遥は昔はアサヒビールのキャンペーンガールでしたのにね。さらに言えば、吉瀬美智子はアサヒビールのCМに出てますから、別れた妻の役なのかも知れません。
すっかり超一流の役者となった堺雅人のラブストーリーなんて、もとより映画は少ない彼ですので、ある意味新鮮で、よくぞ取り組んだ。歳不相応に前髪たらし、男らしさとは対極にある彼の個性をどう活かすのかが本作の肝でしょう。そもそも前妻役が吉瀬美智子って、何をどうこじらせ離別したのかの説明はほぼなく、男性観客には苛つきの元でしかない。倉悠貴扮する頼りない息子が触媒役となるのかしらと期待しても、まるで主題に息子は入ってこない。そんな草食系男子に男前過ぎる美女が絡む設定からして定番を逸脱で、ちょっと理解が進まない。それを補完するためか、中学時代の様相に随分と尺を割く。そこではひたすら井川遥扮する須藤の少女時代の不幸を描き、同情を集約するかのように学校でも家庭でも虐げられた過去をこれでもかと描写。そこへ頼まれもしてない堺雅人扮する青砥の少年時代が白馬の王子様を演ずる。これって高校時代ならいざ知らず、埼玉県の朝霞市では青春のピークを中学で謳歌し、卒業後も密接に繋がっているってこと?なわけないですよね。
そんな過去を持つ二人が偶然再会しゆっくりとゆっくりと大人の恋を育むのが本作の主題。であるならば、中学時代から「私は誰とも付き合わない」宣言をしているのですから、35年後とて青砥の一人相撲を予見さているわけで。実際、青砥のペースに引きずられるようにして須藤は溶けているわけで。さらに共に結婚生活に破綻した二人に何ら障害はないどころか、青砥の同僚も須藤の妹も応援以上に望まれていた状態。障害のない恋なんて、目出度い目出度いで終わりでしょ。
と言うわけで本作での障害は「禁じ手」のようなもので決着をつけようってのが、私は気になるのです。確かに「余命いくばく」は数多の映画の殺し文句のような常套手段。折角芸達者な大人の二人を据えたのであれば、その苦い終焉も大人の結末にして欲しかった。不満はさらに、青砥の四人組も大森南朋までキャスティングしながら全く主題に入り込まない勿体なさ。さらに須藤の元カレ役として登場する成田凌はもっとチャラ男でいて欲しかった、なんですかあれでは好い人でしかないじゃないですか。
12月20日をキーポイントに、その二年前から描きだし、一年付き合って、「温泉へ行こう」が「やっと普通の生活に戻れたの、だから来年にね」と素直に納得。須藤が相手をおもんばかって唐突な拒絶に出られたら、優しき男は信じてしまいますよ、可哀そう過ぎますよ。鈍い野郎だなんて彼を責めることは出来ませんよね。逆に言えば須藤の方こそ配慮がないと私は思うのです。一緒にいる事の幸せを最後の最後まで二人で噛みしめてこそ、と私は思います。噂話づたいに初めて知るなんて衝撃でしかないじゃないですか! 原作もののようですので、プロットは脚本と言うより原作に所以しているわけで、原作者さんの感覚には違和感ありありでした。
最後に、平場って言葉の使い方まで気になります。確かに庶民もその通りで、ましてや女一人病院売店のパートでしたら、さぞや苦しい生活ですよ。でもそれを都会の一角だろうと、上から目線で平場と称する感覚が少々厭らしい。
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