木の上の軍隊のレビュー・感想・評価
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戦争の無い時代が続いていることの幸せということ
原作未読。事実に基づいた話ということで、思い出したのが横井庄一さんと小野田寛郎さんの2人です。横井さんは1972年にグァム島で、小野田さんは1974年にフィリピンで発見されました。
横井さんや小野田さんやこの作品のモデルになった人たち以外にも、戦争終結を知らずに何年も遠い戦地で過ごした軍人さんがいたかもしれませんし、中にはそのまま命尽きた方がいらっしゃるかもしれません。←鑑賞しながらそんなことを考えてしまいました。
堤真一さんと山田裕貴さんの2人芝居ですが、2人とも芸達者で良かったです。
生きて帰ることが厳しい状況下で、耐えぬいた2人には感動でした。
既に亡くなった大正末生まれの私の親父が、生前に「終戦は浜松飛行場だった」と言ったことを思いだしました…
誠実さと教材性に収まりすぎた反戦映画の限界
まず最初に感じたのはその誠実さ。沖縄戦という苛烈な歴史を題材に、国家から見捨てられた兵士たちの孤独と滑稽さを描こうとする真摯な姿勢は、現代においても強い意味を持つ。堤真一と山田裕貴という二人の俳優が、ほぼ木の上だけという極端に限定された舞台で二年間の潜伏生活を演じ切る。その姿勢自体は評価されるべきものだし、日本映画がこうした「反戦の記憶」を掘り起こし続けることには確かな意義がある。
しかし同時に、この映画が「教材的」に収まりすぎていることに物足りなさを覚える。舞台劇をベースにした構成であるがゆえに、映画的な臨場感や映像ならではのダイナミズムが希薄。観客が画面に釘付けになるような緊張感や、二年間という極限状況がもたらす狂気や絶望の実感は、ほとんど伝わってこない。むしろ穏やかに、ある種の寓話のように時間が流れていく。その抑制を美点と取るか、迫力不足と取るかは評価の分かれ目となる。
作品が抱える最大の課題は「戦争をどう記憶させるか」という方法論ではないと考える。沖縄戦の悲惨さは、今や証言映像やドキュメンタリーを通じて多くの人が知るところとなった。本作が狙うべきは、その上で「戦争が人間の内面をどう変質させるか」を突き詰めることだったはず。しかし、兵士二人の心理描写は穏当で、対立や葛藤が十分に深化しない。観客に痛烈な問いを突きつけるどころか、「戦争はいけない」という当たり前の結論に安全に着地してしまっている。
もちろん、この「平和教材」としての安定感は学校や上映会向けには適している。だが、映画は本来それ以上の表現力を発揮できるはずだ。観客の心を揺さぶり、怒りや涙、あるいは不快感すら呼び起こしてこそ「体験」として記憶に残る。『木の上の軍隊』は真摯で良質な作品であるにもかかわらず、その一歩を踏み出せなかった。
結局、本作は「良作」には違いないが、反戦映画としての衝撃や映画的快楽を求める観客には物足りなく映る可能性が高い。日本映画が戦争を描くとき、どうしても「教材」としての役割に縛られる傾向がある。本作はその典型であり、誠実さと引き換えに、映画という表現媒体の力強さを十分に発揮できなかったように感じた。
2人だけの軍隊
感想を書こうにも、上手く言葉にできない、言語化ができなく時間が経ってしまった。
言語化したとして、たいそうなこと言えないのでご了承の程(>_<)
堤真一、山田裕貴どちらも演技が半端ない…。
米軍がうろつく中、たった2人、木の上で隠れ援軍も無く食糧も少なくなり追い込まれる様が本当にえぐい。
太平洋戦争のころの日本人の気持ちを同感することは出来ない。
少し違うかもしれないが、コロナ禍の外出してはいけない、ほかの市から来た人は避ける、他の地域のナンバーをつけた車を必要以上に非難するなど、
日本が全体的に強迫概念のようなものを持っていたコロナ禍を経験したので、
戦争とは違うと思うが、ある意味日本国民全体が同じような気持ちになってたことを知ってる。
なので、後の世代がコロナ禍のあの異常な空気感や行動を理解できないと同じように、
今の私が戦争中の軍国主義、お国のために〜、と言う気持ちを理解できない。
想像できるし、自分もこうなっていたと思うけどね。
山田裕貴の沖縄の青年の感じ好き…。
自分の生まれ故郷が戦地になるなんて、きついなぁ。
戦後も数年間つらい思いをしたが、結果2人が生き残って良かった。
何を言いたいかまとまらないけど、おもしろかったです。
25.7.29 映画館
事実を基にしたフィクション
❶相性:中。
★事実を基にしたフィクション。
➋時代:1944~1947年。
❸舞台:沖縄県伊江島(いえじま)。
★沖縄本島の北西9kmに位置する面積23平方キロ(硫黄島と同等)の農漁村。昭和15年国勢調査による人口は6,800人(2025年は3,800人)。
★1943年、伊江島の土地を飛行場建設用地として強制接収、「東洋一」とよばれる計6本の滑走路建設に着手したが、1945年に大本営の破壊命令により自壊された。米軍の主要な攻撃目標となっていて1945年の「伊江島の戦い」で、一般住民約1,500人を含む4,700人余が犠牲となった。住民は沖縄戦における集団自決に追い込まれた。生き残った島民は米軍に収容され、北部の収容所や阿嘉島に移送された(出典:Wikipedia)。
❹主な登場人物
①山下一雄(堤真一Shinichi Tsutsumi、60歳):宮崎から派兵された厳格な少尉。敗戦を知らず、安慶名と二人で2年間、ガジュマルの木の上に身を潜めて生き延びる。
②安慶名セイジュン〔あげな・せいじゅん〕(山田裕貴Yuki Yamada、34歳):沖縄出身の新兵。故郷と家族への想いを胸に生き抜こうとする。敗戦を知らず、山下と二人で2年間、ガジュマルの木の上に身を潜めて生き延びる。
③与那嶺幸一〔よなみね・こういち〕(津波竜斗Ryuto Tsuha、30歳):セイジュンの幼馴染で友人の新兵。
④長田〔ながた〕(玉代勢圭司Keiji Tamayose):沖縄出身の兵士。
⑤松尾中尉(尚玄Shogen):沖縄出身で、沖縄本島から派兵された中尉。
⑥池田中尉(岸本尚泰Masayoshi Kishimoto):島での飛行場建設を進める中尉。
⑦安慶名郁子〔あげな・いくこ〕(城間やよいYayoi Shiroma):セイジュンの母。
⑧農道の農民男(川田 広樹(ガレッジセール)Hiroki Kawata):
⑨宮城(山西 惇Atsushi Yamanishi):アメリカ軍の捕虜となったことのある沖縄出身の島民。
❺考察
①冒頭に「事実に基づく物語」と出るが、複数のネット情報を調べた結果、正しくは「事実を基にしたフィクション」と言うべきである。
ⓐ映画では、経験豊富な将校と新兵の構図になっているが、実際は共に1944年に召集された兵卒。
ⓑ二人は2年間ガジュマルの木の上に身を潜めて生き延びたことになっているが、実話では木の上にいたのは6日間だったそうである。(出典:【映画 木の上の軍隊 ネタバレ徹底解説】YOSHIKIのMOVIE SELECTION’S 2025.07.27)
②島で孤立した日本兵が、敗戦を知らずに潜伏していた例は幾つもある。その期間は数か月から数十年に及ぶ。
有名な例では、
ⓐグアム島のジャングルに28年間潜んでいた横井庄一氏(1915-1997)、軍曹。
ⓑフィリピン・ルバング島の山中で30年間過ごした小野田寛郎氏(1922-2014)、少尉。
③彼らは途中で敗戦を知ったが、何かの理由で投降できなかったものと見られている。その理由は、投降の機会を逃したことに対する悔恨の念があったためと考えられている。国への忠誠を誓い、「命令には絶服従」し、「逃げ隠れや降伏は恥」の価値観を叩きこまれた結果と思われる。
④本作の上官・山下一雄と部下・安慶名セイジュンは、外部からの情報が完全に遮断された極限状況下に置かれ、恐怖と飢えに耐えながら、ひたすら援軍を待ち続けるのだが、二人の価値観は大きく異なる。
ⓐ山下の場合は、厳格な軍国教育を受けていて、上記の横井氏や小野田氏に共通する。山下は、終盤で敗戦を知ったが、それを安慶名に隠した。
ⓑ沖縄出身の新兵、安慶名の場合は、軍国教育が染みついておらず、自由な発想が残っていたと思われる。国よりも家族や故郷の方が大切だったのだ。
⑤これとは逆に、欧米では、降伏は恥ではなく、映画『大脱走(1963米)』で、ビッグXが、「捕虜の最大の使命は脱走して敵を攪乱することだ」と言っていたように、捕虜になっても戦うチャンスはあるとされている。
⑥当初は山下の指示通りに動いていた安慶名が、共同生活を続けるうちに、次第に自主性を発揮していく過程が興味深い。
⑦アメリカ映画『太平洋の地獄(1968)』は、登場人物がたった二人だけの異色作。太平洋戦争末期に、南太平洋の孤島にアメリカ兵・少佐(リー・マーヴィン)と日本兵・大尉(三船敏郎)とが漂着する。言葉が通じない二人は敵同士で対立するが、やがて生き延びるために力を合わせていく。戦いの虚しさを知った二人は正装し、敬礼し合って別れていくという物語で、本作と共通点がある。
❻まとめ
①本作からは戦争の無益さと生きることの尊さが伝わる。
②戦争を美化していないので好感が持てる
③かって、このようなことがあったという事実を知ることは、戦争というマイナスの歴史を風化させず、平和への願いを繋ぐことになる。
④舞台となった伊江島は、現在、島の面積の35%が米軍基地となっていて、戦争の傷跡が色濃く残っているそうである。
⑤戦後80年を迎える節目の年に、沖縄出身の監督が全編沖縄ロケで、本作を発信したことは、大変意義があると思う。
⑥惜しむらくは、映画としての描き方が平面的で、インパクトが弱かったこと。戦争の実態はもっと悲惨で残酷だと思う。
❼参考:舞台劇『木の上の軍隊』&こまつ座(出典:Wikipedia)
①『木の上の軍隊』:井上ひさし原案、蓬莱竜太作、栗山民也演出、藤原竜也主演で、こまつ座&ホリプロ公演として2013年4月に東京・Bunkamuraシアターコクーンにて初演された。沖縄県の伊江島を舞台に、終戦を知らぬまま2年間ガジュマルの木の上で生活した2人の日本兵の物語を実話をもとに描いた三人芝居。【登場人物(初演)】新兵:藤原竜也、上官:山西惇、語る女:片平なぎさ。
②こまつ座:1983年結成。井上ひさし作の戯曲のみを上演する演劇制作集団。代表は井上ひさしだったが、井上がガン告知された2009年から三女の井上(石川)麻矢が代表を務めている。立ち上げ時の座長は当時の妻であった好子であり、1987年から2001年までは長女の井上都が代表を務めた。
山田裕貴は素晴らしい
山田さんに伝えたい、映画関係のエックスに書き込むこともしたことない、ネタバレとか関係なく、映画の感想を伝えたい、オールナイトニッポンリスナーでもあり御本人に伝わる可能性があるかも知れないと思い、「山田裕貴のオールナイトニッポン」にメールすることにした。
これはその時のメールを手直して、多くの人にも私の感想を聞いてもらいたくなり、初めて映画レビューに書き込むものです。
敬称を略させていただきます。
山田裕貴 あなたは素晴らしい。
山田裕貴
山田裕貴
2025年8月11日
映画を観て、この名前が頭の中をぐるぐると、しかし穏やかに、回っている。
あなたの演技の数々とともに。
失礼ながら、あなたは若僧です。若僧に見えてしまうのです。ゴジラ-1.0でも小僧と呼ばれてました。実年齢34歳なのに。178cmと高身長なのに頭が小さい。今回は特に友人役の津波竜斗さんとのからみで、余計にその不思議な等身バランスが際立っていました。
そしてやはり切れ長の目が、画面だと不思議と大きく映り、美しい顔が若く幼い印象を与えていました。この事がこの映画では重要だと思うのです。
実は、「木の上の軍隊」を観る2日前に「国宝」を観ました。期待したとおり、吉沢亮さん始め横浜流星さん他の出演者も熱演で、メインキャストに本当に悪い人は居なく、なにもかも作り込まれ、映画エンターテイメントとして素晴らしいと思いました。そしてこの映画のポイントも「吉沢亮の美しい顔」なのです。
沖縄の伊江島の純粋な青年セイジュンが若僧として出てくる冒頭。若僧でした。
与那嶺の妹が目の前で死んでしまうシーンの叫び(ここでもう私は泣いてしまった)。逃げ回り、そして何とか生き続けられる場所「カジュマルの木の上」で、自分から出てきた虫だから自給自足とあっけらかんとウジを食べるセイジュン(虫嫌いなのによく食べたよ!)のおおらかさが表された後、食料なく痩せこけてゆく様が描かれた。減量したとはラジオで聞いていましたが本当に頰がこけていました。
闇の中にただ大きな白目が浮かぶ。殺し合いの中、生きるために存在する人間。
その闇の中のセイジュンの表情をなぜか私は「仏さまだ。」と思いました。
この映画にオーマイゴッドは勿論、神様仏様も南無阿弥陀仏も出てこない。それはおそらく宗教を感じさせない意図した演出だと思います。
しかし私は「仏様」を感じた。
狂気と神や仏は、常人を超えたところにあり紙一重なのではないでしょうか。
恐れさえ感じていた長官を救うために敵軍の缶詰を黙って日本軍の缶詰に入れ替え、食べさせ、「生きましょう。」と声をかけるセイジュン。この声のかけ方が優しく、心に伝わる。
また違った意味で、私の中の「仏」度が上がってゆく。
山田裕貴の顔は綺麗なのである。若々しく、凛々しい。そこにセイジュンのやさしさ、慈しみが表現された時、日本人の顔だからこそキリストではなく神でもなく仏さまの顔が出現したのだ。
「国宝」は凄いと思った。でも泣かなかった。「木の上の軍隊」セイジュンの嘆きに魂が揺さぶられ、何度も泣いた。「どうしてこの島で戦争するんですか?!」と長官に問い詰めるシーン、戦争が終わったと知り「このまま帰れるか!」と対面やプライドを気にする長官に対して純粋に「帰りたーいー!」と泣きわめくシーン、幻覚の中「俺もいつしょに(死者の国へ)連れていてくれ!」と嘆願するシーン、そしてラストのセイジュンの笑顔。映画としては必要なテロップと松下洸平さんのナレーションが続くけど、セイジュンの笑顔からすぐの主題歌「ニヌファブシ」でもっと泣きたかった。
ハブに噛まれた後のシーンを話したい。
幻覚の中の母、ご馳走いっぱい作るねと話しかける。もしかしたら母親はセイジュンをこの時連れていきたかったのかもしれない。そこへ与那嶺が庭先に現れる。セイジュンは母親が作った料理をひとつつまみ、庭先に降り、その料理を与那嶺の口の中に放り込む。既に黄泉の国にいる母親のあの家からセイジュンを呼び出し、逆に自分は黄泉の国の食べ物、ヨモツヘグイを食べる。それまで何度もセイジュンの周りに現れたのは、まだ与那嶺の魂がセイジュンを助けるために現世にただよっていたのではないか。妹を連れ、次のシーンではセイジュンの家(黄泉の国)に上がり、セイジュンを見下ろしている。このとき与那国はセイジュンの代わりに死んだのではないか。
山田裕貴の死者との対話に気がついてゆく演技が切ない。「俺も連れて行ってくれ!」見ているこちらも感情が爆発する。涙があふれる。
もう話してくれない死者の代わりに、現実でセイジュンの毒を切り出し生命を救った長官が現れる。
長官が毒を切り出すことをナイフをワンカットみせるだけの演出も良かった。
セイジュンの話を続ける。
うつろなままガジュマルの樹の下までやってくる。この時セイジュンは死者でも生者でもなかったのではないか。
そして歩きだす。海へ。
その顔に意思はない。自我がない。
仏陀は菩提樹の下で解脱する。
セイジュンは、ガジュマルの木の下である意味解脱し、無我になったのではないか。
意識なく歩く顔は神々しささえあった。海にたどり着く手前、陽の光が後光のようであった。
つまりは、人ではないのだ。
戦争、木の上の生活、それは普通の人間を人間でなくしてしまうのだ。
セイジュンが海に出た時、次に何をするのか不安でしかたなかった。
戦争をやめることを決意した長官が、海にたたずむセイジュンに駆け寄る。自分で下した決定「戦争をやめる」ことがうれしくて笑みがこぼれる。
「そろそろ帰ろう」
海にたたずむセイジュンによびかける。
最初はまるで気づかないような、そしてゆっくりと、顔を長官に向ける。
仏の顔。
それが、やがて、
笑みに変わる。
この時、セイジュンはやっと、あたたかい人間として戻ってこれたのだ。
オールナイトニッポンにゲスト出演された長官役の堤真一さんが言っていた「この映画は山田君のものだから。」というのはまさしくそうだと思った。
「国宝」は人が人を超えた存在になる映画。
「木の上の軍隊」は人を超えた存在が人にもどる映画。
そんなふうに思いました。
観ているときに、同じ戦争映画の「戦場のメリークリスマス」を思い出し、回想シーンもあるデビッド・ボウイもたひたび思い出した。
感情をださないデビッド・ボウイが坂本龍一へのキスという形で表す感情表現と
自分の思いを、しかも純粋な思いを、泣き叫んで、解脱する山田裕貴。
優劣はつけられない
思い出したというだけです。
オールナイトニッポン繋がりで、水曜日の乃木坂46のパーソナリティ久保史緒里さんの映画「ネムルバカ」でも最後の久保さんの絶叫連呼で号泣した。私は泣き叫ぶ演技に弱いのかもしれない。
山田さん以外のことも話したい。
音響効果のこと。
飛行機は、飛行場建設シーンと、遠景の空爆シーンに登場し、アメリカ軍艦はセイジュンがアメリカ軍が上陸するするとき逃げ回るワンカットだけ映る港に出てきただけだけども、空爆、艦砲射撃、戦車も画面には映らないけど、映画には出てきていて、上陸戦が続いているんだとわかるのは素晴らしい音響効果があってです。
劇場によっては上陸戦の感じ方はかなり違いがでるのではないでしようか。
今の劇場は音響が素晴らしい。私が子供のときゴジラを観にゆくと、終わって劇場を出た時には耳が遠くなってました。
昔の映画を、画面は4Kリマスター、音響効果も設計し直せば、今の劇場で物凄く面白く感じるのだろうなと思う。
その最たるものが、深作欣二監督の魔界転生です。
観たい!
何度か作られていて観ていますが、千葉真一さんと沢田研二さんをこえる柳生十兵衛と天草四郎はいまだいません。
山田さん、柳生十兵衛、やりませんか?
今すぐでなく、千葉さんと同じ40歳すぎになったあたりに
自分の故郷が戦場なること、その悲しみ
本作鑑賞前に、たまたまyoutubeで都道府県別戦死者数(軍人民間人別、人口比で区分)の動画をみた。この動画の正確性は確認しておらず恐縮だが、圧倒的に沖縄、広島、長崎の戦死者が多い(動画では軍人は出身県でカウント)。本作の舞台、沖縄は核攻撃を受けたところよりも人口比では、人が亡くなっている。山田さんが演じる若い兵士は飢えや死の恐怖に耐えながら、海を見ることを切望し、故郷の丘が人殺しの舞台となったことを悲しむ。本作を見るまでもなく、沖縄、広島、長崎を忘れてはならないが、本作で描かれる沖縄の方々の悲しみを知らないふりをしてはいけない。まだ1度目の鑑賞だか、複数回観たいと思いました。
ガジュマルとプレイボーイと兵士
極限状況&極限状態の中で、
水から茹でたカエル🐸の様に、
平常そうに見えて、徐々に狂っていく2人の兵士。
そんな常軌を逸した環境に置いたのが、戦争と命令…軍人と云う肩書きなら、
気が触れるギリギリのトコロで踏ん張らせたのも、戦争と命令…軍人と云う肩書き。
皮肉なモノです。
多分…主人公達は、ガジュマルの上で過ごす内、気付いていたんじゃないか?って思うんです。
既に負けたんじゃないか?
戦争はもう終わったんじゃないか?って。
でも、認めたくない…気付きたくない、知りたくないが先行して、
軍人として!を正当化に使い、、命令だから!と言い聞かせ、自ら現状に馴れていったんじゃ?と。
ただ、それを一体誰が責められますか?
狂えた方が…簡単で楽だったろうに。
夢に幻に、死んだ部下や友を視る…その希望と絶望の狭間で葛藤し続ける悲しみは、本人達にしか知り得ないのでしょうから。
すぐそこにあった日常
舞台原作、樹上生活の2人の物語・・・と聞いて、これは相当濃密な会話劇、心理劇なのだろうと思いながら観に行った。
いざ始まってみると、ずっと樹上にいるわけではなく、ずっと話しっぱなしでもなく、ずっと2人の心象風景を描くでもなく。樹上生活が落ち着くまでの激しく緊張感ある展開を除けば、どちらかというと静かに淡々と進む彼らの「終わりの見えない新しい日常」を描く物語のように感じた。
生命の危機下における緊張感、恐怖、怒り、そして助け合い、思いやりの精神。
一転、なんとか生きる術を確立してからの、緩み、笑い、抑えていた欲望の発散。
折れそうになりそうな心の棒を辛うじてつなぎ止めていた糸が、村人からの返事の手紙で切れた後の安慶名(山田裕貴)の魂に突き動かされるような表情と演技に惹きつけられる。
途中から、彼らが肩に背負っているライフルをいつ、どのように捨てるのかが気になっていた。背負ったまま人前に出るのだろうか?どんな形で、この生活を辞めるのか?
安慶名は、海を前にして、森の中に全てを投げ捨てた。そして真っ直ぐ海に向かった。
上官の山下(堤真一)は、砂浜を走り、安慶名に駆け寄りながらそれらを徐々に投げ捨てて行った。
この細かな違いが、戦をやめ、失われた日常に帰る2人の素の心の変化を上手く表現していたと思う。舞台ではできない演出だ。
戦争の悲惨さを、凄惨な戦闘シーンで伝えない。今すぐそばで生きていた者が一瞬で死に、日常が日常でなくなっていくことへの怒りと悲しみを、半ば「自己隔離」とでも言うような特殊な空間をサバイブする2人を通じて描く。新しい戦争映画。
そして、主演2人の演技に拍手。
ニーバンガズィマール
井上ひさし先生の作品は、"おとったん"と作文の書き方の本位しか読んだ事がなく、本作の原作も未読。
そしてあの沖縄戦から生き延びて、終戦を知らず2年もの間、木の上で戦っていた2人の日本人がいた事も知りませんでした。
"おとったん"同様に主に堤さん山田君の2人芝居。
後半は特に舞台劇の様でした。
この辺りの演出は好みが分かれそうですが、舞台劇は好きなので、個人的にはしっかりと戦争の恐ろしさは伝わってきました。
「沖縄戦の縮図」と言われる凄惨な戦いが行われた沖縄本島北部の伊江島。
1945年4月アメリカ軍上陸。
島民も戦闘に駆り出された6日間の地上戦で、島民のほぼ半数の1500人、日本軍2000人が犠牲になった。
そして8月に広島・長崎に原爆が投下。
15日終戦ーーー
戦後の日本という時間軸に取り残された2人の孤独な戦い。
2年もの長い年月を経て
1947時3月 2人は木から降りる。
軍は国・国民を護る事が役目のはずなのに、日本軍は全てにおいて軍事を優先させ、民間人保護は考慮の外。
島民も一緒に戦えなんて、負けるに決まってる戦争で降伏は許されない。
日本軍に殺された様なものだ。
もし降伏できる状況だったら、国際法で保障された保護を受ける事が出来た島民は多かったはずで、こんなにも多くの犠牲者を出さずに済んだはずだ。
(戦争なので、ある程度の事はあったにせよ)
皮肉にも日本軍と一緒にいた島民が地獄を見た事になったと言っても言い過ぎではないと思う。
どっぷりと帝国軍人の山下と、沖縄の純粋な青年セイジュンとの対比が、まるで日本と沖縄の関係性をそのまま表現しているかの様で、終始怒りの感情が渦巻いた。
どこかとぼけたセイジュンと山下のやりとりは時に滑稽で、言葉を選ばずに言うと、笑えたりもする。
だけど逆にそれがこの状況の異常さを物語っていて身の毛がよだつ思いがした。
帰りましょう
帰りたい
長い間お疲れ様でした
よく戻ってくれました
お帰りなさい
余談。。
本作について調べていたら実在のモデルさんは、宮崎県出身の山口さん(当時28歳)と沖縄県うるま市出身の佐次田さん(当時36歳)のお2人であった事を知りました。
歳の差に驚きました。
(セイジュンの方が年上という事になりますよね。)
本作の山下とセイジュンの関係性とはかなり違ったのではないかと想像しました。
実際は山口さんは何発も銃弾を受け木から落下した事もあったり、破傷風になり佐次田さんが必死に看病したとの事。
本作の堤さん山田君のお2人も素晴らしかったですが、この歳の差で、立場の違いでの視点からの物語も見てみたくなりました。
戦争反対。
今年も8月を迎えます。
2度と元には戻らない
戦争という狂気を、木の上で終戦も知らず2年以上過ごした2人の日々を通じて、少し違った切り口で表現した作品。
お2人の演技は、本当に素晴らしい!
「恥ずかしながら」と、終戦から遅れて戻って来られた元日本兵の方のことを思い出しました。
戦争を始めた愚かな人のせいで、多くの人や街が一瞬にして様変わりした。
亡くなったかたもいる。
生きていたけれど、人を殺し今までの自分とは別の自分になってしまった人もいる。
家族や大事な人を失った人もいる。
何もかも2度と元には戻らない。
戦争は嫌だ!
最後の海のシーンの後、バン!と真っ暗になり
テロップが流れたところ…とても残念!
余韻も何もなくなってしまった。
『生』
第二次世界大戦下の沖縄県伊江島での実話をベースにした舞台の映画化。
木の上に取り残された上官と兵士を通して、『生』を繊細に描き出す。
戦争作品だが、エンタメ色を強めたことで起承転結がハッキリし、纏まりが良く見やすい作品となっている。
作品の大部分を占めるのは、上官と兵士の会話となるが、堤真一と山田裕貴の演技は素晴らしい。堤真一演じる上官は、戦時下の情報制限の中での日本第一の盲信的な思考。一方、山田裕貴演じる兵士は兵士、故郷、現在としての『生』で揺れ動いていく。
また、上官の持つ盲信的な思考は他人事ではないと感じる。見たいもの、聞きたいことを選択でき、閉鎖的なコミュニティになりやすい、現在のSNSを中心とした社会にも通じるところがある。自らが信じたものと違う情報は聞かず、自らの考えを押し付け他者を攻撃する。この作品の上官と兵士の関係と似ている。 彼らは戦争という極限の状況下での被害者だか、我々は…。
だだの戦争作品としてではなく、他者との関わり、思考の変化、柔軟性といったメッセージも心に留めておきたい。
「帝国軍人」という名の戦争の被害者
最初に評価を3にしたのは、令和のコンプラか、はたまた広い年代で観れるようにとの配慮からなのか、いわゆるリアルさというか「生臭さ」がなく、マイルドな仕様になっていることからの採点であって、決して内容が悪いわけでも、劇場でお金を払って見るほどでもないというわけではありません。
実際、私は映画館で見に行ってよかったと思いました。
8月は戦争映画を見にいくと決めてました。
そんな時に公開していた戦争映画がこちらで、予告編を見た程度の軽い知識で足を運びました。
私が観に行った映画館では、上映時間が一日一度だけだったので、そんなに人いないだろうなぁ…と思ってたのですが、ポップコーン抱えてスクリーンへ行くと6~70代ほどのシニアのお客さんですし詰め状態だったので、あんまり上げてなかった期待値がこの段階でぐっと上がりました、8月だからみんな思うところは同じなんだなぁと。
堤真一演じる宮崎出身の上官が、絵に描いたような凝り固まった日本の軍人であることが冒頭のほんの少しの映像だけで分かるんです。
お国のために命を捧げ、非国民など言語道断、恥をさらすなら死を選べ、決死の覚悟で米兵を殺せ、米兵は10人殺して1人前だ!!
そんな帝国軍人山下と、地元民でもある若い新兵が共に木の上で2年過ごすという内容。
ガジュマルの木の上に逃れるまで、味方も島の住民も、いきなり殺されるんですよ。
そしてどこか呑気な若い新兵セイジュンも、木の上に行くまでに米兵を一人射殺してしまうんです。
終戦に気づかないまま2年を過ごすってことで、映画を見るまではもっと平和な内容だと思ってたんですよ。だって、木の上に登って間もなく戦争は終わったって内容なんですから。
ところが、直前まで狙い撃ちにされ、数秒前にいた場所は爆撃され、おまけに殺しも経験して、取り返しのつかない状況下での敗戦による終戦。
終戦に気づかず米兵を終始警戒する2人なんだけど、終わってるのに終わらせられないという悲しさというかやるせなさを感じてしまいます。
米兵のアジトで缶に入ったパスタを夢中になって頬張る山下の場面は一番印象に残りました。
敵兵の缶詰を腹に入れるくらいなら飢え死にのほうがマシだ!!と一喝し、味方の缶詰だと嘘をつかれ米兵の缶詰を食べたことに気づいた時はショックに身体を震わせながら、騙したセイジュンを射殺しようとまでした山下がいざ敵兵のアジトへ行ってどうなったかと思いきや、パスタがっついてニンマリしてるんです。
ああ…お国のために戦う軍人さんも、戦争がなければ元々は普通のおじさんなんだよなと改めて思う場面。
戦争の犠牲者はこういうところにもいるんだよなぁと考えさせられました。
思い出のあった丘は、はじめて敵兵を殺した場所に塗り替えられ、海は艦隊で黒く覆われ、島のあちこちは爆撃で荒れ果て、以前はどういう風景だったかも思い出すことはできない。
セイジュンが涙ながらに「帰りたい」と叫ぶ場面。母親や友達と過ごし、海に行って釣りをする平凡だけど最高だった日常。銃を向ける山下もその言葉に戦争前の幼い時代の故郷の息子が重なり、帰るべき日常がよぎり戸惑う。
最後の最後、帝国軍人であった山下の「そろそろ帰ろう」という言葉で幕を閉じます。
帰るのは故郷であり、かけがえのないものであった日常の世界。
ほぼほぼ満席だった劇場内は最後までとても静かでした。
みんな、ただただ真剣に見てて、私もその一人でした。
2時間と少しの上映時間でしたが、本当にあっという間でした。
名作とか、劇場で観たほうがよいとか、そういうことではないのですが、見終わって思ったことは一つ。
私はこの日この映画を映画館で見に行って良かったです。
生きることの大切さ
予告から観たいと思っていた映画なので鑑賞しました!
太平洋戦争末期、戦況が悪化の一途を辿る1945年。飛行場の占領を狙い、沖縄県伊江島に米軍が侵攻。激しい攻防戦の末に、島は壊滅的な状況に陥っていた。
宮崎から派兵された少尉・山下一雄と沖縄出身の新兵・安慶名セイジュンは、敵の銃撃に追い詰められ、大きなガジュマルの木の上に身を潜める。仲間の死体は増え続け、圧倒的な戦力の差を目の当たりにした山下は、援軍が来るまでその場で待機することを決断する。
戦闘経験が豊富で国家を背負う厳格な上官・山下と、島から出たことがなくどこか呑気な新兵・安慶名は、話が嚙み合わないながらも、二人きりでじっと恐怖と飢えに耐え忍んでいた。やがて戦争は日本の敗戦をもって終結するが、そのことを知る術もない二人の“孤独な戦争”は続いていく。極限の樹上生活の中で、彼らが必死に戦い続けたものとは――。
というのがあらすじ!
実話をもとに制作されているらしいです
昔にネット記事でちらっと見た記憶がありすごいとも思ったしどうやって2年も…と思ってました
大部分が実話らしくどこまでがほんとかはわかりませんがかなりの過酷な状況でしたね
昨日まで話していた島民や仲間が次々に亡くなっていくのはつらいというだけでは言い表せないほどの気持ちがあると思います
この映画でも思ったのですが戦争で描かれる日本軍はほんとに理解できないですね
愛国心があるのはわかるのですが敵を殺して一人前だとか投降は国の恥、捕虜になるくらいなら死を選ぶというのがほんとに理解しがたい…
昔はこの考えが当たり前だったんでしょうけど一種の洗脳にも似たものを強く持っていますよね
山下少尉がまさにこの考えを持ってる人でした
こんな人と木の上で2年もなんて耐えられない気がします…笑
しかもあんな極限状態になるなら余計に…
確かラジオで聞いたのですが実際に虫を食べていたとか…
あとガジュマルの木も植えて撮っていたらしくほんとにすごいですね!
沖縄本島でのことはよくテレビであってたりしましたけど伊江島も激戦地だとは知らなかったです
周りが敵兵ばかりで外部との連絡手段もなく日本の敗戦した事実を知らなかったことが2年間も続けることになったんですね
終戦を知ったのは手紙だというのは実話だそうです
もっと早く知っていればとは思いましたけど情報が大切な戦場です
早く知っていれば玉砕覚悟で戦っていた可能性もあるのでよかったと思うべきなのでしょうか…
そして最後にまさかの松下洸平さんの声でびっくり!!
全く予想してなかったので驚きました笑
山田さんと堤さんの演技はすごかったですね!
役作りもすごくて話が進んでいくたびにどんどん痩せていってましたし演じる役のいろんな思いが伝わってきました!
生きることや日常の大切さ、戦争の悲惨さを改めて考えるいい機会になったと思います
子供から大人まで観れると思いますしぜひ観てほしいと思います!
素晴らしい映画をありがとうございました!
家に帰りたい…
…沖縄戦となった伊江島
終戦を知らずに二年という月日を
がじゅまるの木の上で過ごした
二人の兵士の話
米軍兵に見つからないよう
生きるために食料、水を探し
協力しながら過酷な日々を送る
はじめは上官である山下(堤真一)
を気遣いなから必死に生きるために
前向きな言葉が多かったが…
沖縄で生きてきたセイジュン
戦争によって島が壊され
元に戻らないと嘆く
大切な友を失い母や友の妹
が夢となって出てくる
何もかも失い
"生きる"意味をなくしていた
戦争は
人を殺したくないのに
殺さなくてはならない
大切な人が殺される哀しさ
セイジュン役の山田裕貴の訴えかけてくる
"目"の演技が素晴らしかった
堤真一がセイジュンを助けようと
必死で海辺を走るシーンが心に残った
上官である雄一は
国の訓練を受けてきた
絶対に個人の弱音を受け入れなかった
しかし
セイジュンは大切な人を失くして
精神的に追いつめられていった
生きる望みを無くし
心の拠り所である海に行く
唯一変わらない場所で
彼は何を思ったのだろう
ラストで台無し
「台無し」は言い過ぎかもしれないが、名作を傑作に(傑作を秀作に、または秀作を凡作に)ワンランク落とすようなラストでした。
まず「おおむね良作」だと、自分の感想を示します。
それでも2つの点が、どうしても引っかかりました。
①「敵の飯」を食えるか問題
本作をご覧の方は、少しでも先の戦争に関心をお持ちだと思います(堤真一萌え、山田裕貴萌えの方は…これから知ってください)。先の戦争を知っているなら、地獄のインパール作戦の際の「チャーチル給与」が脳裏をよぎったのではないでしょうか。私はよぎりました。
チャーチル給与とは、補給を無視した最前線(現在のミャンマー→バングラデシュ)に投入された日本の将兵が、敵英軍に対して英空軍がパラシュート落下させた補給物資を、敵と味方の入り混じる前線で拾い集め、「チャーチル(英首相からの)給与」だとありがたく利用し、命をつないだという、割と有名なエピソードです。
「腹が減っては戦はできない」。最終的に、堤真一もそう妥協してはいますが…。そもそも、なぜ彼はそこまで「敵の飯を食いたくなかったのか」。むしろ、根っからの軍人なら「今は敵の飯に甘んじても、近いうちに基地をつぶしてやる」と考えるのではないでしょうか。
ならば、「そこまで敵の飯を食いたくない背景が、この後に描かれるのか?」と想像しましたが、そういう訳でもありませんでした、チャーチル給与の史実を思えば、堤真一の考え方は不可解です。
まあ「それが戦場の狂気だ!」というマジックワードで納得するかもしれませんが…。
②余韻=観客が想像する大切な時間をぶった切った
ラスト、堤真一の「帰ろう」に対して、山田裕貴が何かを言おうとした、そこで終わればよかった。
しかしその後に、テロップ&ナレーション(彼らは2年抗ったが、すでに沖縄戦の組織的戦闘も、あの戦争も終わっていた)が入りました。まったくの蛇足です。
そういったことは、本作を観る前に知っておくべきだし、知らない観客をケアするためなら、始めのうちに明示しておくべきです(されていたと記憶しています)。
私は、あのラストで山田裕貴が何を言おうとしたのか、それを観客に考えさせることに本作の意義があるのではないかと思います(私が想像したのは、「もう帰るところなんてありません」)。したがって、その余韻をぶった切るテロップ&ナレーションに対して「FUCK YOU!」という感想です。
しかし、戦後もはや80年。この世はタイパ時代。よく知らない世代へあの戦争を伝えるための演出だったのかとも思います(「世代」という言葉を使いましたが、私だって、たとえば日清の戦に先人がどんな覚悟で挑んだのか想像しづらいです。世代論で分断するつもりはありません)。
もしかするとこの映画は今後、小中学校の授業で「教育映画」として視聴させられていくのかも知れません。
あのお節介なラストにしたのは、子供に分かりやすくするためと考えるならば、納得できなくもないのです。
(ひかえめに言って)ノンフィクション作品だとしたら「愚作」、フィクション作品だとしても「駄作」。
序盤の爆撃や砲撃のスペクタクルシーンにはやや迫力があり、沖縄戦の悲惨さを描いた一連の映画の一つなのかと思ったが、中盤以降の継戦の目的を見失い、棄兵となったものの「自決」する勇気もなく援軍を待つだけの日々は、ただただ冗長で退屈に思えた。
なお、二人劇となってからの「短気」で「粗暴」なだけの少尉と、それに逆らうことも出来ない気弱な新兵との生活は、たとえるなら小説『山椒魚』(井伏鱒二著)に出てくる「山椒魚」と「蛙」との関係、強制された‘共依存’とでもいえるものに見えた。
「2年間米軍の残飯を喰って生き抜いた日本兵」のサバイバル物語を描いたにせよ、なぜか米軍から継続的・安定的に廃棄されるサビ一つない「缶詰」、腐敗もせずハエもたかっていない‘美味そうな’「残飯」にリアリティはなく、また住民たちとの希薄な関係性-密告されることも、協力することもない不自然さも目についた。
唯一、ラストちかくの海岸の砂浜で海へと続く新兵の足跡のシーンは一瞬、『馬鹿が戦車でやってくる』(山田洋次監督・ハナ肇主演 )へのオマージュかと期待させたが、そうでもなく...。
最後に、歯にキヌきせずひと言で言えば「あえて製作される必要のなかった映画」だったと思う。ただ一つ、セイジュン役の山田裕貴の熱演によって、かろうじて「最低点数」にはとどめた。
見たかったので観た。
早起きしていってきた。井上ひさしさんの原案に興味があり、行かなくては行けないと思いました。舞台っぽい気もしました。舞台でこそ、生える内容なのかもしれません。だけど全編通して丁寧に大切に作られてきたんだろうなあと思いました。「こんな戦争は絶対にだめ!!」とか、「戦争はこんなに怖いことなんだ!!」みたいに仰々しく表現するのではなく、波みたいな穏やかだけど猛々しい、なんとなく二人の毎日を画面にみながら、小さな希望とか、明かりを私は感じました。どでかいメッセージがなくても本作は成り立ってました。私はこの作品が好きです。山田裕貴さんと堤真一さんに拍手です。
人間の本質と究極の生存本能
まずは、戦争により命を失った方々に追悼の意と、本作のモデルとなった佐次田さんと山口さんに、生還された喜びと感謝をお送りいたします。
毎年恒例ですが、戦争の悲劇を伝える映画。
本作は、「生きる」「逃れる」事だけを目標にした人間の究極の生存本能の行使と、時代や民族に支配され構築された「性格」というものが、究極の状況で最終的には心の安らぎ、「平和」を望む「優しい性格」にたどり着くという「性善説」を伝えている映画と思えました。
それは、私は一つの仮説として、気付かれていた可能性の考察にも繋がります。
いくら大きな木で、更にカモフラージュしていたとしても、人間の居る気配や痕跡は何かしら有る。
悪と善の戦いではなく、それぞれの民族間の大規模な争いであり、当然戦争行為を良く思わない軍人も多いはず。
それは敵国も然り。
もしかしたら、気配は有っても敵意を示してこないため、見逃していたのかもしれない。
もう、殺し合いはする必要がない事に意識が向いていたのかもしれない。
直接支援できないにしても、もしかしたら廃棄において生き残るための物を残してくれていたのかもしれない。
もしかしたら、背中を撃たれてももう殺し合いをしたくないという「優しい性格」になっていたのかもしれない。
「性善説」。私はそれを信じたいと思いました。
鎖国的な思想により「絶対拒絶」の意識が強すぎた日本帝国だが、それもまた思想に支配されてはいても、人間の本質ではない。
それを相対的な立場の人間を主役にした本作によって表していると思う。
最後は、「平和」に合意する。
残念ながら戦争は現実的に無くなっていませんが、それでも戦争の悲劇をこうして後世に伝えていく事が重要であり、少しずつ反戦の意識が波及していってくれていて、日本において昨今戦争が勃発しない事は、その証明であるとも思えます。
出来れば、戦乱を継続している諸外国にも伝わってくれると良いのですが。
最後に、苦悩や純粋な思い、奇妙であり現実的でもあるユニークな心情を好演された堤さんと山田さんに称賛を送り、良い映画であった事をお伝えいたします。
よく木から降りている二人
主演の二人の演技が見たくて鑑賞。前半は戦闘シーンが多く、日本軍が追い詰められていく様子が描かれるが、悲惨さはあまり感じられない。何千人もの軍人、民間人が亡くなったはずだが、商業映画の限界か? 後半は二人の関係がだんだんと変わっていき、ユーモラスなシーンも多いが、2年も木の上で生活を送ることになった心理はよく分からない。食料や日用品の調達のために、木から降りていることが多いし、米軍のゴミを漁って生き長らえている。約30年も日本に帰らなかった横井さんや小野田さんとは違う。井上ひさしの原案の舞台は見ていないが、舞台とは違う、映画ならではの心理描写が見たかった。
タイトルなし(ネタバレ)
太平洋戦争末期。
沖縄では、対米先頭に備えて広大な飛行場を建設中、また上陸に備えて民間人も竹やりでの攻撃訓練を行っていた。
そんな中、米軍が上陸。
激戦がはじまる。
山下(堤真一)率いる隊は、山下と沖縄出身の安慶名(山田裕貴)を残して全滅してしまう。
彼らふたりだけがかろうじて生き延びたのは、ガジュマルの木の上に退却したからだ。
敵兵は木の下を行き来する。
援軍を待つふたりは、そのまま樹上での生活が続けられることとなる・・・
といった内容。
沖縄戦初期にふたりだけ樹上に残されたふたりの兵士。
限定空間での物語になる前に、米軍上陸前から描き、そこでの登場人物が後々に活かされる作劇を採っている。
これが成功している。
短いながらも凄まじい戦闘が描かれ、タイトルが出るタイミングもすこぶる良い。
山田裕貴、堤真一の両名、肉体を絞りに絞っての渾身の演技。
脇の面々も良い。
戦争が終わったことを知らずに、そのまま2年もの間、樹上生活を続けたふたり。
描き方によっては、哀しくも可笑しい話になるやもしれず。
だが、主題は後半、明確になってくる。
山田裕貴演じる兵士・安慶名が堤真一演じる宮崎出身の上官・山下に言う。
「この戦争で島は変わってしまった。本土に故郷があるあなたにはわからないだろうが、わたしはこの島で生きるしかないのです」と。
国破れて山河あり。
いや、山河もなし・・・だ。
この島で生きるしかない・・・のだ。
その慟哭が胸を突く。
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