「誠実さと教材性に収まりすぎた反戦映画の限界」木の上の軍隊 こひくきさんの映画レビュー(感想・評価)
誠実さと教材性に収まりすぎた反戦映画の限界
まず最初に感じたのはその誠実さ。沖縄戦という苛烈な歴史を題材に、国家から見捨てられた兵士たちの孤独と滑稽さを描こうとする真摯な姿勢は、現代においても強い意味を持つ。堤真一と山田裕貴という二人の俳優が、ほぼ木の上だけという極端に限定された舞台で二年間の潜伏生活を演じ切る。その姿勢自体は評価されるべきものだし、日本映画がこうした「反戦の記憶」を掘り起こし続けることには確かな意義がある。
しかし同時に、この映画が「教材的」に収まりすぎていることに物足りなさを覚える。舞台劇をベースにした構成であるがゆえに、映画的な臨場感や映像ならではのダイナミズムが希薄。観客が画面に釘付けになるような緊張感や、二年間という極限状況がもたらす狂気や絶望の実感は、ほとんど伝わってこない。むしろ穏やかに、ある種の寓話のように時間が流れていく。その抑制を美点と取るか、迫力不足と取るかは評価の分かれ目となる。
作品が抱える最大の課題は「戦争をどう記憶させるか」という方法論ではないと考える。沖縄戦の悲惨さは、今や証言映像やドキュメンタリーを通じて多くの人が知るところとなった。本作が狙うべきは、その上で「戦争が人間の内面をどう変質させるか」を突き詰めることだったはず。しかし、兵士二人の心理描写は穏当で、対立や葛藤が十分に深化しない。観客に痛烈な問いを突きつけるどころか、「戦争はいけない」という当たり前の結論に安全に着地してしまっている。
もちろん、この「平和教材」としての安定感は学校や上映会向けには適している。だが、映画は本来それ以上の表現力を発揮できるはずだ。観客の心を揺さぶり、怒りや涙、あるいは不快感すら呼び起こしてこそ「体験」として記憶に残る。『木の上の軍隊』は真摯で良質な作品であるにもかかわらず、その一歩を踏み出せなかった。
結局、本作は「良作」には違いないが、反戦映画としての衝撃や映画的快楽を求める観客には物足りなく映る可能性が高い。日本映画が戦争を描くとき、どうしても「教材」としての役割に縛られる傾向がある。本作はその典型であり、誠実さと引き換えに、映画という表現媒体の力強さを十分に発揮できなかったように感じた。