シンシン SING SINGのレビュー・感想・評価
全129件中、61~80件目を表示
刑務所であることを忘れ、一人ひとりの尊厳に目がいく
芸術を通じて更生を図るプログラムのRTA (Rehabilitation Through the Arts) は1996年にシンシン刑務所で始まった実在するプログラムで、RTAのサイトによれば、このプログラムを経た者たちの再犯率は、プログラムを受けていない者たちよりずっと低いそうだ。
彼らは演じることを通じで自分の内面と向き合い、他人の立場に身を置くことを通じて自分では気づかなかった新たな一面を発見する。また、決して一人では成り立たない演劇で互いに信頼し合うことを学び、協同して作り上げる喜びを感じ、人としての尊厳を取り戻していく。
鑑賞中、彼らの人間としての悩みや役者・芸術家としてのもがきを見ているうちに、彼らが収監されていることなどつい忘れてしまい、途中に挿入される減刑聴聞などの場面で「そうだ、ここは刑務所の中だった」と思い出さされる。
刑務所だから、犯罪者だから、といった色眼鏡を外して一人ひとりと向き合うことで、それぞれの人の素晴らしさが見えてくるのではないか。逆に言えば、我々は様々なレッテルを人々に貼って偏見で見ることが多すぎるのではないか?
初めから犯罪者として生まれてくる人間などいない。個人の責任がまず問われるのは当然のこととして、一方で、貧困や差別、偏見など社会的・経済的環境、あるいは家庭内での虐待などによって、いつの間にか犯罪手を染めざるを得なくなった人々も少なからずいるであろう。
だからこそ、個人の尊厳を踏み躙ることなく尊重することが大切なのだ。そして、一人ひとりが尊重されることが学べるのであれば、矯正プログラムだけではなく、学校などにおける通常の教育プログラムにおいても演劇はもっと取り入れられても良いのかも知れない。
タイトルなし(ネタバレ)
米国NYのシンシン刑務所。
最重警備施設であり、収監者の多くは重罪で長期収監されている者たちだ。
ただし、同施設では、演劇などの芸術を通じての更生プログラムRTA(リハビリテーション・スルー・ジ・アート)を行っており、同プログラムの受講者は更生率が高い。
演劇プログラムに欠員が出て、新たに受講者を求めることになった。
採用されたのは、クラレンス・“ディヴァイン・アイ“・マクリン(本人)。
麻薬密売地帯で生まれ育ったためか、犯罪・暴力の世界にどっぷり漬かっている。
プログラムを主導するのは、殺人罪で長期収監されているジョン・“ディヴァイン・G“・ホイットフィールド(コールマン・ドミンゴ)とマイク・マイク(ショーン・サン・ホセ)。
しかし、ディヴァインGは、殺人事件は冤罪だと訴えている・・・
といった物語。
ドキュメンタリー的と謳われていたので、RTAプログラムの詳細を伝える映画かと思ったが、意外とドラマ部分のウェイトが大きい。
RTAを通して、ディヴァイン・アイの心が落ち着いていく様などはドラマとしての見どころはあるが、ディヴァインGの冤罪設定などはドラマ的にはやや上滑りしている。
(劇中、殺人は自身が否定し、真犯人の告白もあることから冤罪だが、武器所持の罪は否定していないので収監自体が誤りというわけではないとも思えるので、冤罪部分のドラマが必要だったかどうか疑問符)
ドキュメンタリー的なのは、ディヴァイン・アイ以外のほかRTA受講の元収監者が本人役で出演しており、本プログラムが有効に機能していることはうかがい知れるが、RTAを受けた者と受けていない者との対比が映画の中で薄く、かつ、受講者で釈放された者の更生エピソードもやや薄い(後者は劇中では1名登場するのみ)。
そういう意味では、少し食い足りない。
元収監者が本人役を演じることで、製作意義は達しているとはいえるけれども。
表情が素晴らしい
米ニューヨークで最も厳重なセキュリティが施された
シンシン刑務所で行われている収監者更生プログラムの舞台演劇を題材に、
無実の罪で収監された男‘ディヴァインG’と収監者たち、
そして、途中参加の刑務所で一番の悪人として恐れられている男、
通称ディヴァイン・アイこと‘クラレンス・マクリン’との友情を描いた実話の映画化。
粛々と感動しました。
個々のバックボーンは深追いせずでしたが、
このような刑務所と更生プログラムがあることを知りえましたし、
また演劇に関わることが彼らにとって、とても大切なものであることが伝わってきました。
そして、演じている収監者の表情がとても魅力的。
俳優のコールマン・ドミンゴ(ディヴァインG)や、
ショーン・サン・ホセ(マイク・マイク)はもちろんなのですが、
本人役のディヴァイン・アイも良いのですが⋯
わたしは、個人的にこれまた本人役のショーン・“ディノ”・ジョンソンに惹かれました!
稽古中に後ろを歩かれて、イライラして喧嘩になったところを止めたシーン。
あの話は本当なのかなぁ⋯。涙が本物みたいだったから。
みんな涙がポロッと流れるのが自然で、とてもキレイでした。
「劇中劇」を超え、「劇中劇中劇」という新しいジャンルを確立した作品
NY、<シンシン刑務所>。無実の罪で収監された男ディヴァインGは、刑務所内の収監者更生プログラムである<舞台演劇>グループに所属し、仲間たちと日々演劇に取り組むことで僅かながらに生きる希望を見出していた。そんなある日、刑務所いちの悪党として恐れられている男クラレンス・マクリン、通称“ディヴァイン・アイ“が演劇グループに参加することになる。そして次に控える新たな演目に向けての準備が始まるが――(公式サイトより)。
演劇グループに所属する一義的な意味は、自由が制限され、娯楽が少ない刑務所の中で自由に楽しめるから。しかし本質は二義的な、「何者かを演じることで、自分に返ってくるから」であろう。掛け声にもなっている「RTA」とはRehabilitation Through the Artsの略称。これはどこまでに行っても更生プログラムである。
一方で、過去の罪を、自らではどうしようもなかった出自を、そこから連綿と続く現在の自分を乗り越えるのはなかなか難しい。娑婆に居るわたしたちにだって難しいのに、まわりが自分と似た犯罪者だらけの刑務所であれば、どこか赦される感覚を覚えることや却って居心地が良くなることもあるだろう。全体の出演者の85%が元収監者という本作は、いわばそういう虚無的な堕落を乗り越えた人たちによる、自分次第で何者にでもなれるのだという、静かな賛歌である。
その意味でこの映画は、いわゆる「劇中劇」を超え、「劇中劇中劇」というか、「ハーフドキュメンタリー」というか、何かしら新しいジャンルを確立したと言える。さらに、アカデミー賞にまでノミネートされたことで、「何者にでもなれる」がより強化された。さぞかし本人たちも驚いたであろう。
デジタル撮影が主流の現代において、16ミリフィルムで撮影した意図は、合間に挿入される刑務所での本当の記録映像との地続きを表現するためだろうか、デジタルに比べピクセルがでかい分、色が濃く、鮮やかに映える。
ドラマよりドキュメンタリーの方が良いかもしれない
犯罪者が刑罰でない更生プログラムを受けるという話はそれなりにわかっていたので、期待した。演じる場面より、じっとして口々に言い合う場面が多いので、退屈だった。黒人女性担当者から聴聞を受けることになり、演技ではないかと疑われる場面は、少し可哀想になった。結果が出るまでの待機時間に移り、実物のカーテンコールの場面が続き、少し希望を感じた。釈放で解放された後、エンディングでは、様々な表情や動きをする当事者たちが登場し、そのドキュメンタリーでも良かった気がした。
チームに仲間ができる流れが素晴らしい
刑務所で行われている演劇による更生プログラムを扱った映画と聞くと、不思議とフランス映画をイメージしてしまった。フランス映画をリメイクしたんじゃないかと疑ったくらい。でも、何より驚いたのが本当に元収監者たちが多数出演していたこと。この更生プログラムに参加していた人はほぼリアルな収監者じゃないか。そりゃ知らない俳優だらけだよな。
実際にあった出来事をベースにしているから、それほどドラマティックな事件が起こるわけではない。一からプログラムを作っていく姿を描くのではなく、何回か上映した状態の彼らと新たに参加した収監者を描く手法。でも、皆で何かを作り上げようとするだけでちょっと感動してしまう。一応のトラブルは待ち受けている。最初は壁を作って嫌な奴全開だったディヴァイン・アイが、プログラムの仲間になっていく過程もすごく好きな流れだ。途中から、ラストの感動はもう約束されたようなものだった。
ディヴァインGは無実の罪で収監されているから別の感情になるが、他の収監者たちは基本的に何かしらの罪を背負っている。そんな彼らにどこまで感情移入できるのかが大きなポイントに思える。だから彼らの罪名は基本的にわからないまま。変に知ってしまうとその罪の重さで観ている側に先入観が生まれることを懸念してのものだろう。正しい判断だと思う。
何かしらの罪を犯したとしても人間であることに変わりはない。シャバに戻った人間が訪問し、現在の気持ちを吐露するシーンはそれを象徴するいいシーンだった。つーか、アメリカの刑務所自由すぎないか!?人間的に生活できるよう配慮されている気がする。日本との違いを感じた(日本の刑務所は知らないが)。
出演していた人たちは基本的にいい人に思えたが、他の収監者たちの中には減刑を審査する人に対して平気で嘘をつく人も多いかもしれない。だからこその「今も演技しているのですか」という質問なのだろう。あの発言に対して自分ならどう答えるのか考えてしまった。アンガーマネジメントのいい事例なんじゃないか。自分の成熟さを問われる嫌な質問だ。単純に感動させるだけではない、奥深さを感じる映画だった。
ドキュメンタリーを観ているような・・・
元受刑者だった出演者たちの面構えが、存在感が素晴らしい
ドラマティックな展開があるわけではない。原則として俳優たちが大見得を切ったりもしない。一見、「治療共同体(TC)の車座対話」を淡々と追ったドキュメンタリー作品のようにもみえる。劇映画らしからぬ静かな作品だ。
刑務所の収監者たちが演劇を上演するというコンセプトは、過去にタヴィアーニ兄弟の『塀の中のジュリアス・シーザー』などの作品にもあった。しかし、本作では舞台本番に向けてドラマが収斂していくというより、むしろそのリハーサル過程における人間関係の微妙な変化をじっくり見つめることの方に主眼が置かれている。
言葉にしづらい感情をカタチにする作業を地道に重ねていく行程において、「自分」という殻の奥底に閉じ込めていた心の声に向き合い、ひいては周囲の他者の声にも耳を傾ける——この「RTA(芸術更生プログラム)」への参加経験を有する元受刑者が本作に大勢出演していることもあって、この映画自体が、一種の「ドラマセラピー」ともいえそうな演劇の有効性を証明するものとなっている。
見方を変えると「アマチュア演劇が上演に漕ぎつけるまでの過程を追う」という設定だから、「演劇本来の魅力」や「戯曲の台詞」をしみじみ噛みしめることができるようなシーンはほぼない、とも言える。
それでも、コワモテの収監者がRTAへの参加希望理由を問われ、獄中でたまたま手にした本の一節「人間、生まれてくるとき泣くのはな、この阿呆どもの舞台に引き出されたのが悲しいからだ」(※小田島雄志訳『リア王』より)に激しく共感したから、と答えるシーンなどは、演劇ファンなら大きくうなずくところだろう。
このコワモテの男を演じるのが、元受刑者のクラレンス・“ディヴァイン・アイ”・マクリン本人だ。彼の面構えががイイ。前歯の欠けた口元が実にいい。映画後半ではにかむような表情をのぞかせると人間味があふれ出す。
彼以外に本作に起用された元受刑者たちも一人ひとり、佇まいそのものが存在感を放っている。ちなみに映画前半で、彼らが刑務所内の舞台オーディションを受けるユーモアたっぷりのシーンがあるが、これは本作における実際のキャスティング・オーディション時の映像を使っているのだとか。
そんな彼らに対し、主役のコールマン・ドミンゴらプロの俳優陣も抑え気味の演技で応え、あたかもフレデリック・ワイズマン作品のような日常感を保つことに貢献している。それだけに、コールマン・ドミンゴの仮釈放審査委員会のシーンをはじめ、幾つかの箇所で見られる「典型的な劇映画」的演出には少々違和感を覚えた。また、仮釈放の希望を閉ざされたうえに大切な仲間も喪った彼が周囲に八つ当たりしてしまうあたりの描写も、演技臭が強く出過ぎており、全体の雰囲気を破ってしまって惜しい。
格子のない窓
主役以外はご本人とはいえ、元受刑者で現俳優みたいな人達なのかなぁ。更生プログラムの参加者ではあったみたいだけれど。
普通に見れた。
いや…普通過ぎた。
とても崇高な作品だとは思う。過ちを犯した人間を許せる社会が実現されていて、舞台上には一般の共演者もいて、客席からは笑いと拍手が向けられる。
…複雑だけれど、更生させる資格があるのかと疑問を抱く人もいるとは思うけど、長い目で見たら間違ってはいないんだろう。
参加者にしてみれば別世界なんだと思う。
よくこんなプログラムを思いついたなぁと感心するのだけど、理には適ってるようにも思う。
演出家をかって出た人は肝が据わってんなぁとも思うし、途中途中で挟まれる各人の半生からはバイオレンスしか感じない。
札付きの悪である囚人がプログラムを通して更生し、本人も諦めてた仮釈放を許可されたりする。
その手伝いをしていた主人公は、心の支えでもあった友達を亡くし、仮釈放の面談では「それも演技なの?」と理不尽な質問もされる。立ち上げたプログラムがマイナスに働いた瞬間の表情は…あのまま動かないんじゃないかと思う程に絶望に支配されてた。
主人公のお気に入りの場所として、度々出てくる格子のない窓。
拳が一つ通る程の大きさなのだけど、そこが唯一格子に邪魔されず景色を眺める事が出来るのだとか。
なんかコレが更生プログラムとリンクしてくる。コレを「希望」と呼んでいいのか「泡沫の夢」と呼ぶべきなのか。近づけば格子は見えない。が、引いて見れば格子の存在に気づいてしまう。無くなるわけではないのだ。彼らが収監されてる事に変わりはない。
なんか一気に虚しさが込み上げてくる。
そりゃそういうもんだよなぁ…。
彼らを描くから、彼らに感情移入もするけど、れっきとした犯罪者だもんな。
物語は主人公の出所で幕を閉じる。
不慣れな自由を肌で感じてるかのような主人公は絶品だった。
どんな場所でも状況でも、人って1人じゃいられないんだろうなぁなんて事を思い、人と協力して創る「演劇」ってものには、他者共生の側面なんかもあったんだなぁと、そんな事を漠然と思う。
にしても、どなたもカメラを全く意識してない芸達者ぶりだった。監督はどんな脚本と演出を用意したんだろうか?見事だと思う。
良作ではありますが
エンドロールまで見てね
囚人と刑務所なのでケンカや血みどろもありかなと思ったら全然なく…人は亡くなるけどね、そうゆう亡くなり方かと思うと世間を凝縮した世界にも思う。自由はないし、愛する人にも会えないけど。
エンドロールも良かったので最後まで観て下さいね。
演じて自由になることと、本当の自由を得ることの間には何があると思いますか
2025.4.24 字幕 京都シネマ
2023年のアメリカ映画(107分、G)
実在する芸術によるリハビリプログラム(RTA)に参加した元受刑者たちの活動を描いた伝記映画
監督はクレッグ・クウェルダー
脚本はクリント・ベントレー&クレッグ・クウェルダー
原題の『Sing Sing』はニューヨークにあるシンシン刑務所のこと
物語の舞台は、ニューヨークにあるシンシン矯正施設
そこに収監されている受刑者のディヴァイン・Gことジョン・ホイットフィールド(コルマン・ドミンゴ)は、RTAと呼ばれる「芸術を使ったリハビリテーション」に従事し、受刑者たちと演劇を披露することを生き甲斐としていた
主に、隣の独房のマイク・マイク(ショーン・サン・ホセ)、演出家のブレント(ポール・レイシー)らとともにプログラムを運営していて、そこに参加希望の受刑者が参加する、という内容になっていた
シェイクスピアの「真夏の夜の夢」を成功させた彼らは、次の演目のために欠員を補充することになった
志願者を面接することになり、ディヴァインGは、ディヴァイン・アイ(クレマンス・マクリン)に興味を示す
彼は「リア王」を読んで演劇に興味を持ち、素養があると思われた
だが、彼は自分をコントロールされることを極端に嫌い、グループの中心となっているディヴァインGの方針を受け入れようとはしなかった
映画は、元受刑者を集めて、使われていない矯正施設などを利用して撮影に望んでいる
本人役として参加しているのが11人ほどいて、実際に行われた演劇をベースに組み立てている
テーマとしては、居場所の獲得というものだが、自由になることを諦めている者もいれば、足掻こうとしている者もいる
ディヴァインGは殺人容疑で収監されていて、これは不当逮捕だったことが証明されている
だが、25年という時間を奪われていて、その間に立ち上がったのがRTAだった
彼を含めた数人の男性グループが演劇の上演と支援を申し立て、そこにキャサリン・ヴィッキンズという人物が加わってRTAの創設が実現した
ディヴァインG自身が書いた戯曲などもたくさん上演され、それ以外にも4作の小説を書いている
ちなみに映画の冒頭にてサインを求める受刑者がいるのだが、この人がディヴァインG本人である
奇妙な演出だが、この映画におけるディヴァインGの演技は本業でなければ難しい部分もあったのかな、と思った
いずれにせよ、受刑者にも色々とあってというエクスキューズがあるものの、受刑者というだけで色眼鏡で見る人もいると思う
とは言え、アメリカの司法制度と人種差別などの背景を考えると、日本的な感覚で断罪するのも無茶だとは思う
また、矯正プログラムに参加しようという意欲がある時点で何かしらの心の変化があると思うし、そう言った中でプログラムに参加することで変わるものもあるだろう
映画は、このプログラムを通じて、自分自身を探求するとか、変化を促すなどの種にすれば良いと思うし、俳優がセリフを覚えるためのコツであるとか、舞台演出における俳優への促し方などを学ぶ場になっている
そう言った意味において、そこで描かれているのが受刑者だからというので断罪するのではなく、そこから学ぶことで自分の人生の何かしらの糧にしたり、起こり得る未来に向けての心構えを持つということが大事なのかな、と感じた
凄く凄い映画かも
アメリカの刑務所内には、こんな更生プログラムがあるなんて驚く。
「塀」の中で続く自分自身との闘い
全129件中、61~80件目を表示