「子ども社会のシビアさを痛切に描く」Playground 校庭 めるさんの映画レビュー(感想・評価)
子ども社会のシビアさを痛切に描く
自分の小学生の頃の話を思い出し、瘡蓋を剥がされている気持ちになった。また仕事とのリンク性も高くそちらの観点からもみてしまった。
子どもは自分の気持ちを言語化する能力がまだ低い。大人ですらうまく表現できないこともあるが、子どもだと尚更。なんとなく嫌な気持ち、苦しい、辛い、つまらない…そういう気持ちを他人への暴力で表現する子もいる。子どもだからといって何を考えていないわけでもない。むしろ、大人たちより子ども社会は冷徹かもしれない。親のステータスをみて順位づけ。誰に媚びれば良いのか感覚的にわかっている。狡猾な子どもってほんま先生に好かれるんやよね。自分は表舞台に立つことなく裏で操っていたりする。映像は終始ノラ目線で写され、ほとんどの登場人物の顔がはっきり見えずそこもこの子ども社会の狭さを表しているようであった。
お父さんの対応も悪手。子どもを大切に思っているのは分かるが、子どもの立場を考えていない。子ども≠自分の分身である。自分とイコールではないのだから対人間としてきちんと話を聞かなあかん。(これこのお父さんに限らず、日常でもよく思う)
ノラは誕生日パーティー行きたかったわけではないと思う。ただ、自尊心を傷つけられた彼女なりのプライドで行きたいと言わざるを得なかったのだろう。そっと静かに寄り添う臨時の先生とのやりとりは胸が痛い。
アベルの傷に本当の意味で寄り添う大人は誰もいなくて、形式上のごめんなさいを言わせることで問題を終息させた気になっている教員たち、保護者たち。自分の立場しか考えていないのかなと思ってしまう。そりゃあアベルはその傷を別の形で見ないようにしようとするよね。
アベルにノラが抱きつくシーン。はじめてアベルの心の傷に瘡蓋ができた。重いが少しだけ希望の光が見えたラストシーン。
余談
小学生の頃、クラスでもヒエラルキートップの狡猾女子がいた。当時、内気で人見知りの私はその子から誕生日会呼ぶから呼んで〜と言われ声をかけてもらえたことが嬉しく私のパーティに呼んだ。しかし、その子のパーティは結局知らない間に終わっていた。しかもそれを嬉しげに私に報告してきた。
今となってはなんであんな意地悪な奴呼ばなあかんかったんやろって思うけど子どもにとっては学校=社会。誰とでも仲良く!みんな仲良し!がスローガン。なので、仲良くしないという考えはなかった。
時は流れ大人になり同窓会でその子に再会。
当時から周りを見下したり、裏で陰湿ないじめをするなど歪んだ行動はしていたが、大人になってもやはり歪んだままなんやなと言葉の端々から感じた。この子は誰にもそれは間違っていると言ってもらえなかったのか、はたまた言われたけれど自分の欠点と向き合う強さがなかったか。
それはわからないが、子どもの頃は粘土のように動くけれど、固まってしまうとどうにもならない。寄り添い、時には励まし、時には真剣に叱ってくれるそんな大人の存在が必要なんだと今は痛感している。
今晩は。コメント有難うございます。
又、仰ることは全く共感です。
余談も興味深く拝読しました。人間の性格って小学校である程度、出来上がるんですかね。
私は、今作の前に観た「小学校~それは小さな社会~」を少し思い出しながら、観ていましたよ。ではでは。

