陪審員2番のレビュー・感想・評価
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さすがイーストウッド!
法廷劇や12人の怒れる男みたいな密室劇を予想していたら、また全く新しい形の裁判ドラマで面白かった!
イーストウッドの今までの作品にも通じる、1つの事実も見方を変えれば違うみたいなテーマがグッときた。
今観るべき映画。
【導入について】
最初は普通のドラマだが、陪審員のお知らせが来てからは、
陪審員に決まるとこんな感じの段取りなのかぁと普通に興味深々。
その後一気に引き込まれるのが
裁判冒頭の主人公がびっくり事実に気付くシーン。
事件当時の様子の回想シーンかと思ったらそこに主人公もいて…という演出が、
観客の意表をつきつつ、状況を伝えるために
映像でしか出来ない表現をしていてとても良かった。
【主人公、検事、陪審員
それぞれの事情による事件への向き合い方の違いと
心情や考え方が変化していく様子が面白い!】
陪審団が最初ダルイからさっさと決めちゃおう、ってノリだったのに、次第に真剣に取り組んで行く変化がよかった。
最終的に判決は変わらなかったが、その姿勢が検事の行動に影響を与える結果に繋がる展開も、市民の少しの行動で大きな事が変わっていく事が感動的。
検事は敵かと思ったら裁判の途中で疑問を抱いて行動に出る正義の人だった。それとは対照的に主人公は普通の善人だったのに、最後の方は開き直って無罪の男を有罪にする。それぞれの変化が予想外で面白かった。
人間はそれぞれの経験によって、先入観やバイアスがある。
陪審員になった時や選挙の時、それ以外にも人生で色々判断しなければならない時に、
自分の視野が狭くなっていないか、一時の感情や目先の利益だけを考えていないかしっかり考えていきたいと思った。
【最後の場面で作り手側の明確なメッセージ】
ラストは、正義が絶対ではない現実の厳しさを描く作品としてこのまま終わるの⁈と思いきや、
最後のセリフのない検事の表情がこの作品の前向きなメッセージを提示していて、映画の後味は爽やかなものだった!
紛うことなき傑作!!
人間の弱さ
12人の怒れる男と似ているがもっと深く考えさせられる。結局容疑者は無実の罪で終身刑。やりきれない。しかし主人公は刑務所には入らなくてもずっと地獄だろう。良心があるから。
ラストはこれからなにが起こるのか、という終わり方。それもいい。
この作品が配信のみなんて狂ってる
前半はニコラス・ホルト演じる主人公ケンプの表情を見ているだけで面白かった。この男はどうするのだろうかと。
徐々に自分が真犯人である事実を認識していく中で、一見すると無表情の奥にあるゆらぎが見え隠れする。
後半になると「十二人の怒れる男」のような様相になっていく。しかし「十二人の〜」と決定的に違うのは今の被告人が無実であることが観ている私たちとケンプには分かっていることだ。
言葉にはしないケンプの心情が揺れているのが分かる。ケンプにとってはどう転んだとしても覚悟が必要なのだ。その覚悟が中々決まらない心が遠くに見える面白さがある。
「十二人の怒れる男」は信念を持って正しい行いをしようとする男の物語だ。アメリカの正義などと言われたりもする。
中身をもっと正しく認識するならば、出自や環境、地位や人種、過去によって、その人物を決めつけるなというものだ。
本作でもそれと全く同じことが展開される。被告人は過去の行いによって有罪にされようとしているのである。
ここで重要になるのが主人公ケンプである。今の被告人が過去のことによって有罪になるのであるならば、ケンプもまたあの席に立てば有罪になるであろうことが確定していることだ。
確かに彼は被害者を轢いたが、酒は呑んでおらず、大雨により視界も悪かった。衝突のあと車を降り当たったものの確認もしている。
アメリカの裁判制度の場合、無罪となる可能性も高い。しかしそれは、しっかりした生活があり過去も綺麗な場合である。
「十二人の怒れる男」は1957年の作品だ。
その時から今までアメリカは何も変わっていないのだ。いや「人間」は、というのが正しい。
見た目が怪しいから、昔悪いことをしたから、それだけで「今」を罪人扱いしてしまう。
頭で考えず、イメージだけで物事を判断してしまう危うさは常にどこにでも存在する。
イーストウッド監督の最後の作品かもと言われている本作だが、ニコラス・ホルトの表情と脚本の功績が大きいように思う。
とても面白かった。
ただの法廷劇ではない仕掛け
あのイーストウッド監督作がまさかの配信スルー。本国でも劇場公開の期間は短く早々に配信へと移行した今作だがそれらの背景や一見法廷劇とも思えるようなキャッチを見るとなかなか重そうな気がするが、観始めてしまうと物語に引き込まれ、展開にエキサイティングしてしまうほどだ。観終わってしまうと何故これをスルーにしたのかが疑問に思う程である。近年のイーストウッドの作品の中でも重厚なテーマ性がありつつもダレない作りになっていてとても観やすい作りになっている。
出演陣も実力派ばかりである。
米国の裁判制度では陪審員制度を取り入れており、
判決に陪審員団の評価が考慮される司法制度になっている。
ただし陪審員に選ばれた人たちは公正な判断を下す為に情報統制などの拘束下に置かれる事になる。
OJシンプソン事件を取り扱ったドラマシリーズの「アメリカン・クライム・ストーリー」では今作のように短期間で終わると見込まれていた裁判が長期に渡り、その間にTVを見る事や電話も出来ない陪審員団が精神的にも追い込まれ、終わらせたいがために本意とは違う評価を出そうとするような場面もある。
真実に近づけば近づくほど、期間が長引き、精神的にも陪審員は追い込まれていくのである。
本作にもそのような描写があるので陪審員裁判での陪審員の過度の負担は現代でも問題とされているのだろう。
完璧とは言い難い証拠しかない中で彼女を殺害したと疑われている被告人だがその裁判の陪審員であるニコラス・ホルト演じるジャスティンが実は彼女を轢き逃げしていたのかもしれないという疑惑が持ち上がるのが本作の大筋だ。
この“かもしれない”や“疑惑”等の思い込みで進行する本作は、近年のソーシャルメディアでの個人特定や法廷闘争中であるにもかかわらず、如何にも結果が決まっていると断定しているような書き込みやマスコミュニティなど民主主義とは言い難い状況を表しているのだろう。
被告人は過去の人物像から殺害を疑われるが、その証拠はなく有罪と断定するには不十分である。
そこでジャスティンも自らが真犯人だと思い込んで入るが
事故当時ジャスティンもその場で周囲を確認しており、
遺体を確認しているわけではないので確実にそうだとは言い難い。車のDNA鑑定等すればわかるかも知れないが、殺意があった訳ではないし、被告人を無実にしようとする姿勢は考慮されてもいいのかもしれない。
エンディングでは警察ではなく、検察が個人的に家に来るところで終わるがこれも何か別の取引があるのかもしれない。
結末のワンショットに、イーストウッド監督が全作品をかけて訴えてきたメッセージが凝縮している感のある一作
ついに本作で映画監督を引退する(ということになっている)イーストウッド監督ですが、あらすじだけでは盛り上がりポイントが分かりにくいにもかかわらず、しっかり全編に緊張感をみなぎらせた無類に面白い作品に仕上げる、という手腕は相変わらずで、「裁判映画じゃ、途中で飽きるんじゃない?」という事前の予測をやすやすと裏切ってくれます。
本作はものすごくざっくり言うなら、陪審員としてある事件に携わったら、どうも自分自身が事件にかかわっていたんじゃないか、と気づいてしまった男の物語です。
他の陪審員も有罪に傾いているし、じゃさくっと有罪にしちゃえば真相は明るみに出なくて済むはず、という状況。しかし「善きアメリカ市民」たろうとする彼は、不十分な根拠や思い込みだけで有罪の評決を下すことに強い抵抗を感じます。良心に従って真相を明らかにするべきなのか、それとも彼の経歴と家族のため、真実に目を瞑って容疑者を有罪にするべきなのか。あまりにも苦しい状況に、見ているこちら側も緊張しっぱなしです。
結末の最後のワンショットの切れ味は鋭く、ここで監督は画面の向こうにいる観客に、最後の、そして鋭いメッセージを投げかけているようです。イーストウッド監督が全作品をかけて、正義について、人間の尊厳についてどう語ってきたのか。これからさらに問い直していくことになりそうです。
ていうか、やっぱり本作で引退は惜しすぎ。きちっと劇場公開した作品で引退していただきたいところ!
テーマの表現がよくできている
タイトルなし
役者さんには申し訳ないのですが、陪審員2番の顔が生理的に受け付けず、何故この人を主役にキャスティングしたのかと憤って観ていたが、コイツしかいないって位、キャラに合ったナイスな顔立ちだった。
女性が死ぬ瞬間を映像化していないところが絶妙にモヤモヤさせてくれるし、作品の観ている人を、ちょっとした陪審員に仕立て上げてくれている。クリント・イーストウッド監督が並べ立てた証拠は陪審員2番が犯人だって導いているが、それでも女性が死ぬ瞬間を観ていないから100%とは言い切れない。やっぱり恋人なのかもしれないし、誰も知らない第三者という可能性もゼロにはならない。実際の殺人事件は監視カメラなんかに映っていない限り、その瞬間は真犯人しか知り得ない。裁判官や陪審員も確信を持って犯人に有罪判決を与えていたとしても、やっぱりモヤモヤとした物が心に残るのかなと思った。
ラストも検事が陪審員2番の自宅を訪れたところで唐突に終わりモヤモヤさせられる。正義の為に動き出してくれた事を願っているが、やっぱり映像化してくれていないから、予想の範疇を超えない。もしかしたら、この事は墓場まで持っていこうぜって意識合わせの為に現れただけなのかもしれない。
子供が待ってるから有罪にして、さっさと帰りたいって言って御婦人には少し腹がたった。本当に、こんな適当な感じなんですかね。きっとそうなんでしょうね。
心揺さぶられる映画
タイトルなし(ネタバレ)
よかったです。
起訴された被告はこの件では無罪でも過去に悪いことやってそうなので、有罪になってもいいんじゃない?と思ってしまった。それもこの映画の意図なんだろうけど。
怖いことだが実際どうなのか
重い。けれど、事の成行から目が離せない。
いきなり陪審員の数人が、有罪で良い、早く終えようと言う。さらに、議論しようと言う人に無駄だと言って食ってかかる。瞬間的に小学校でのグループ活動を思い出した。どうでも良いから早く終わって帰ろうとする。残念ながら大人になっても、目的や結果を考えない人がいる。だが、事は裁判、冤罪を生むかもしれない。嘆かわしい。
最終的に主人公は有罪としてしまった。真実を隠して罪を免れた。家族のために、純粋な正義感や罪悪感を押し殺して。全くの自己都合で考え方を変更した。でも、この結果、後々心が蝕まれるかもしれない。最後の検事長の訪問が何のためなのかは明確にされずに終わったが、真実を明らかにした方が、主人公の心の健康のためには良いかもしれない。
この物語は、陪審員制度には問題があることを提示している気がするが、その意図があるかは定かではない。ただ、問題があることは、よく示されていたと思う。日本の裁判員制度で同様の事が起きていないことを望む。
愛の観念
愛はその内側に善意と悪意の競争を孕んでいる。善意と悪意が競い合って勝ったほうの観念を愛と呼ぶ。善意の愛が〝慧眼〟であるなら、悪意の愛は〝盲目〟である。
オープニングの目隠しをされた妻のシーンにそんなことを考えながら鑑賞。
真実はわからない。犯人はいるのか、そもそも事故だったのかもしれない。重要なのは有罪が無罪かというよりも、主人公があの日の夜をどう捉えるかだ。
主人公は、被害者とサイスへの罪悪感から懊悩を繰り返すが、最終的には有罪に〝決める〟。
確かに、被害者が死に至った原因はサイスにある。雷雨の中を酔って歩いて帰る彼女を迎えに行かなかったのは、サイスの愛が自分本位で薄情であることを語っている。
しかし、検事が面会したときのサイスの〝目〟はよく見えているようだった。彼女に死なれて初めて、善意の愛が勝ったようだ。
一方、善意の愛の力で人生をやり直している主人公。彼が妻に秘密にしたいことは、何かにぶつかったことよりも、バーに寄って少し酒を飲んで(と私は解釈)近道をして帰ったことだ。
こうなると当然、保身のため悪意の愛が勝つ。妻も察しが付いているが、敢えて見ずに目隠しをしたまま歩むことになる。
どちらも〝愛〟であることを射抜きつつ、「では検事の愛は?」と余韻を残すあたり、さすがのクリント・イーストウッドだった。
映画を知り尽くした映画人間、元祖アウトローの素晴らしい作品だった。
正義!
事件当夜のフラッシュバックでもラストまで飲酒したかははっきりと見せない。最後に主人公は禁酒を守った事が明らかになり、家族のために頑張ってる事が明らかになる。観客は立ち直った主人公を許したくなるが、イーストウッドは許さない。
容疑者を無罪にしようとするも、自分が納得出来る言い訳が見つかると、容疑者を見捨てる事も厭わなくなる。 判事もラスト直前まで同じ。(私も含め、皆さんも一緒?)
家族がいなかったら、最初からただの自己保身のストーリーだよね?
物語る量の丁度良さ。
面白いんだけど
死因に対する捜査が雑過ぎて・・・・。陪審員の中に居た元刑事が裁判のやり取りだけで真相に迫ってるのに。
陪審員だけでの話し合い・・・・いや、いきなり評決取ろうかって、それで良いんかい!
と言うか、主人公は何がしたかったんだろう?(やべぇ、あの時、自分が撥ねたのは鹿じゃなくって人だった)と思ったら、それを言うor被告になすりつけるかのどちらかだろうに、話し合いを誘導してもっと調べようって方向に持っていく・・・でっ、最後は結局被告になすりつけ・・・・・うーん。
と言うか、実は最後にどんでん返しが有って、他の陪審員が犯人とかって思ってた。
【”確証バイアスに囚われた陪審員、検察官。だが・・。”今作は”十二人の怒れる男”クリント・イーストウッドヴァージョンであり、真の良心、正義とは何かを描いた重いヒューマンドラマなのである。】
<Caution!内容に触れています。>
■ジャスティン・ケンプ(ニコラス・ホルト)は、身重のパートナー、アリソン・クルーソン(ゾーイ・ドゥイッチ)と暮らす物静な男である。
ある日、彼の元に陪審員の召喚状が届く。彼は辞退しようとするが、裁判長から”仕事と同じ時間には返すから。”と言われ引き受ける。
被告は、ケンドル・カーター(フランチェスカ・イーストウッド)の恋人で、旧道沿いのバー”ハイド・アウェイ”で喧嘩していたジェームズ・サイス(ガブリエル・バッソ)という全身刺青の入った大男である。
多数の人がその喧嘩を目撃しており、大雨の中、彼女を追って行った彼の仕業であると、多くの人が疑わない。
そして、第一回目の陪審員裁判でジャスティン・ケンプは、一人ジェームズ・サイスの無罪を主張するが、被害者ケンドル・カーターの旧道脇の小川に墜死している写真を見て、トイレで激しく嘔吐するのである・・。
<感想>
・今作は非常に重厚で、見応えがあるヒューマンドラマである。12人の陪審員同士の協議の間に、事件当時の光景が何度も映し出される。
そこには、ケンドルとサイスの姿の奥に、ウイスキーの入ったグラスをテーブルに置いて彼の人生の中でも素晴らしき日になる筈だった日に、ある哀しき出来事が起きてしまったために沈痛な表情をしながらも、飲むことを逡巡しているジャスティン・ケンプの姿が映し出されるのである。だが、彼がグラスに口を付けている姿は、最後まで映し出されない。
■陪審員同士の協議中に明らかになる、数名の陪審員の真実の姿。
1.ハロルド・チコウスキー(J・K・シモンズ)・・22年間、殺人課の刑事をしていて、リタイア後は自適生活。だが、彼は刑事の経歴から”サイスは無罪ではないか、実はケンドルは何者かにひき逃げされたのではないか”と疑い始める。
2.マーカス・キング(セドリック・ヤーブロー)・・17歳の弟がサイスと同じ刺青をしていて、抗争中に流れ弾に当たって死んだ辛い過去を持つ。故にサイスの有罪を固く信じている。
3.ジャスティン・ケンプ・・4年前に急性アルコール中毒で死んでもおかしくない程、酒を飲み運転し、木に激突するもその後は断酒会に通って酒を断っている。
そして、ハロルドと独自に調査を始めるが、その事がきっかけでハロルドは陪審員を外される。
ご存じのように陪審員が独自に捜査する事は禁じられており、更に元刑事と言う事もありハロルドは居なくなる。ここが大きなポイントになってしまうのである。
・この作品の脚本が上手いのは、ジャスティン・ケンプが酒を飲んでいる所を映さずに、只彼が自分の車である緑のSUVのハンドルに凭れて泣いている姿を映している所である。
そして、彼がバーに寄った後に、激しい雷雨の中、旧道を、運転している際に何かにぶつかったシーンで、何とぶつかったかは映されずに”鹿に注意”という標識が映される所である。
解釈は観る側に委ねられるが、矢張りケンプが哀しみを紛らわすために、少しだけ酒を飲んでしまい、”何か”を撥ねたのだろうという事が推測出来る、と私は思ったのである。
■ここからの、ケンプを演じたニコラス・ホルトの良心と、身重の妻を想う気持ちとの間で揺らぐ心を演じる様が、抜群である。
又、それまで直ぐに裁判が終わると思っていた検察官フェイス・キルブルーを演じたトニ・コレットが、徐々に独自に捜査していく過程で、ケンプが緑のSUVでケンドルを撥ねたのではないかと言う疑念が膨らむ様や、自身が裁判に勝てば検事正に昇進するという思いの狭間で悩む姿も抜群である。
<そして、陪審員達が出した判決。それは、サイスは有罪であるというモノであった。サイスは無期懲役、しかも減刑なしと裁判長から言い渡される。その際に、検察官フェイス・キルブルーに笑顔はない。
その後、彼女はケンプと会い、二人は夫々の正義について短く語り合うのである。
ケンプには娘が生まれ、妻と幸せを分かち合っている時に、家の玄関のドアがノックされ、ケンプがドアを開けるとそこには真剣な表情のフェイス・キルブルーが立っており、画面は暗転するのである。
今作は、”十二人の怒れる男”クリント・イーストウッドヴァージョンであり、真の正義とは何かを描いた重いヒューマンドラマなのである。>
■もう”MALPASO”という文字を、新作で観る事は出来ないのだろうか・・。
全66件中、21~40件目を表示