陪審員2番のレビュー・感想・評価
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深い懐疑と「それでも」の論理
2024年。クリント・イーストウッド監督。妻の出産が近づいている青年は、ある殺人事件の陪審員になると、審議中にその事件の渦中にいたことに思い至る。実質的に自身の行為が被害者の死を招いたこと(過失致死)を疑いながら、相談した弁護士から申し出るのはやめた方がいいといわれて身動きができない主人公。無実の被告人が処罰されることに罪悪感を抱きながら、真実との間で行う決断とは。
まず、真実を求める法制度への深い懐疑がある。同期らしき検察官と弁護士は夜な夜なバーで「ないよりまし」な法制度をめぐって酒を酌み交わすし、ほかの陪審員たちの関心も真実の追求自体は断念したうえでの、被告人のふるまいに集中している。しつこいほど描かれる「真実への断念」は昨今のアメリカ社会を映す鏡のようでもある。ただし、イーストウッドの映画史のなかでは珍しいことではないが。それは。裁判所前の「正義の女神像」の天秤が常に揺れていることで映像的にわかりやすく示されている。
そして、その深い懐疑のなかで、それでも真実を目指して動く一人一人の人間の正義感がある。選挙で決まる検事総長になろうとする検事も、その同僚の真摯な弁護士も、陪審員たちも、「それでも」の論理で動いている。主人公の青年が最終的な告白によって真実に振り切れるのではないのが今作の特徴だが、この青年には「真実」を言い出せない状況が積み重ねられている。①アルコール障害からの立ち直り過程②かつての出産の失敗による心の痛み③妻への愛。かつてのイーストウッド映画とはことなって、青年はこれらの状況に打ち勝って真実を告白するのではないし、検事総長も自らの地位をなげうって真実を求めるわけではない。そうした行為の後、真実の蔓延ではなく状況による追求が延々と続くことがわかっており、それに辟易しているからだ。「それでも」やはりラストシーンで検事総長は青年の家の玄関に立つ。ここがイーストウッドのかっこいいところだ。しびれます。
2025 40本目
言い出せない悪
イーストウッド監督は物事を両面から考えさせる作品ばかりで好きだ。
本作もそう。
1年前の10月、前が見えないほどの豪雨の日に運転していて何かに当たった衝撃はあったが鹿に注意の標識もあり、何も見えないので鹿かも?と思った男が翌夏、陪審員に選ばれる。
タウン誌記者をしているが事件については何も知らずに参加した男。
家にはハイリスク妊婦の妻が待っていて本当はそばにいたい。
裁判について聞いてみると、それはもしや1年前、妻が双子出産予定日に流産したあの日、1人でバーに入った帰りに鹿に当たったかもしれないあの時か?と気づく。
被害者は鎖骨両方折れて頭蓋骨陥没するほどの現場写真に狼狽えて吐く男。
でも、男には飲酒運転の前歴と、妻の体調を最優先にしたい今と、子供が産まれ父親になる未来がある。
しかし、被害者の交際相手の元ヤンの人生がかかっている。第1級殺人なので、陪審員が有罪で一致すれば、おそらく死刑か終身刑。
裁判が進むたびに名乗り出るべきか揺れるが、妻子を守らねばならない未来を思うと、前歴の身でバーに入れば飲んでなくても飲酒運転轢き逃げとみなされ終身刑だろう。それはできない。
せめて陪審員によく考えさせようとする。
陪審員の中には、蓋を開けてみれば元シカゴ刑事の生花店おじいちゃんや一刻も早く帰りたい子持ちのおばちゃん、医師の卵など色々揃っていて、みんな検証にその気になり出すと、ひき逃げではという真実に迫ってきて、自分が追い詰められていく。
一方担当検事も、検事長になるため確実に有罪にする事に最初は躍起になっていたが、凶器も証拠もなく、勾留されている被害者の交際男性が本当に真犯人か確証が持てなくなっていく。
そこで、元シカゴ警察の陪審員が独自に調査したため陪審員から外された際に残した、修理歴がある車のリストをあたっていくと、男の妻に辿り着く。
家を訪ねて、夫婦の写真も後ろに飾ってある中で妊婦の妻と会話をするが、鹿をはねたのは違う道だと妻が答えるので、納得して家をあとにする。
いよいよ真犯人に気付くかと思ったが間一髪気付かず、判決は結局冤罪の交際男性が無期懲役。
判決直後、検事は車の持ち主の夫が陪審員2番だった事に漸く気付くが既に被告人は勾留されに連れ去られた後だった。
後味の悪い判決だが、無事検事長に上がり事なきを得たかに思えたものの。
出世祝いに届いた花に刺さる、宛名プレートには、検事の名前が。FAITH KILLBLUE。
アメリカの青は、民主党、憂鬱、陰湿、忠実などの意味を持つ。組織に忠実にのし上がったが事実を知りながら裁判結果に反映させずなんか晴れない心と真実を影に潜める陰湿をやっつけなければ!信頼という名前なんだから!という封印されそうだった正義感が飛び出してきたと一瞬でわかる、すごい名付けセンス。
ハイリスク妊婦な妻にも、1年前のような流産にならずに無事出産が訪れ、事実は伏せたまま子供との家族の人生が続くかに思われたが、ピンポーンと検事がやってきたところで映画は終わる。
実に後味悪く、クリントイーストウッド監督らしさ満載。
ただ、このあと、鹿をはねたと話していた別の場所にはいなかったという証拠が取れないと有罪にはできないのではと感じた。SUVの売却は決まった直後だが、現物があれば修理済でも何かわかるのか?
あの日あのバーに居合わせた証言はスタッフから取れても、立証は難しい気がした。
果たして男の人生はどうなってしまうのだろう?
モヤモヤするが、交際男性が大雨の中帰宅する被害者を放置したのと同じかそれ以上に、事実に気付きながら名乗り出ず、あの日あのバーにいたと気付かれたり再審にならないように最後の陪審員投票の日に欠席した故意の操作は罪深いだろう。陪審員の他のメンバーも違和感を感じていた。
世の中些細なことでも、真実とは違う内容で説明されていることなどごまんとある。
でもその結果、損する立場、得する立場がいるのかいないのか、よく考えることが、真実に気付く大事な習慣だったりする。
最近の選挙同様、誰かがよく考えようと言い出さないとなんとなく決まる流れは、日本人には多い。
アメリカでもそういうのあるんだなぁと見た。
真実、良心、正義、保身・・・人間の心の奥深さに問いかける作品。 クリント、引退しないで
いつ公開かと気になっていた映画でしたが、まさか配信とは。このような上質な映画が劇場公開されないのは残念で仕方ありませんが、観ることができたことに感謝。
よくある恋人同士の殺人事件。犯人は定石通り交際相手、そんな事件に絡む人々、陪審員・検察官・弁護士・その家族を本当に丁寧に分かりやすく描いています。序盤、弁護士と検察官の真っ向対立は「アラバマ物語」中盤の陪審員の有罪か無罪かは、まさに「12人の怒れる男」的展開。クリント・イーストウッド渾身の名作「硫黄島からの手紙」「父親たちの星条旗」を一本にまとめたような双方からの視点、本当に嬉しくなります。アメリカの良心、イーストウッドは、信じていますね。様々な問題を抱える国ですが、希望を感じさせてくれる、余韻に浸れる素晴らしい作品です。94歳、イーストウッド、凄すぎますが、まだまだ彼の作品は観たいですね。
法廷バトルモノかと思ってた
役者や演出のクオリティは高いので飽きずに観られるのだが、結構ベタな設定・展開で終わったので、淡白な印象。
冤罪を扱った作品なので、検事や弁護士、陪審員も少しおバカなのは仕方ないのだが、状況証拠だけで物語が進むのが違和感有り。
アメリカの法廷バトルモノ(ザ・プラクティスとか)で育ったので少し物足りない、、
もし自分が主人公と同じ境遇なら、とっとと陪審員から降りるだろう。
あるいは無罪を固辞しつつ、口を噤むか。
饒舌に「人は変われる」だの、「正義」だのを語り出すのは、ちょっとサイコパスすぎて理解できない。
そういう役割は元警察官のおじさんに任せればいいのにと思ったら途中脱落、再登場なしでしょんぼり。
ベタだが重く考えさせられるテーマ
規模は小さいながら人一人の苦悩、葛藤は辛くて面白かった。どんな善人とはいえ過去に一つくらいは過ちは犯しているし、その過ちに足は引っ張られる。そんな身につまされるような気持ちもありつつも映画的「そうなるか!?」もあってエンタメとしても面白さを発揮しているあたり流石監督!伊達にドキュメンタリー、暗い映画を撮ってきただけある。
結局最後まで"主人公がやっちまった"という実際のシーン(被害者と一緒に映ったシーン)が映していないため、鑑賞者も「これ本当にそうだったと思う?」というほんの少しのモヤモヤを残していて考えながら観ることができる。もちろん主人公がやってるんだが、そんな些細な演出があることで右往左往する主人公はとても他人事のようには思えない。
バッドエンドしか見えないまま始まったこの映画、ラストの判決には納得しつつもスッキリすることなんかなかったが本当のラストシーンには一言、「やっぱりな!見事!」
真実が正義とは限らない
クリントン・イーストウッドが自身の遺作として発表した本作がアメリカで物議を醸した。配給元のワーナーブラザーズが「まだ商業的魅力を持つ映画製作者にとっては奇妙なアプローチ」と称して、本作を一部限定的上映にとどめ一般公開を見送ったのである。映画自体はすでに2023年に出来上がっていたものの、時はバイデン民主党政権の真っ只中、司法の正義を世に問いただす映画などもってのほかとばかりワーナー側が忖度したのか、はたまた民主党陣営から圧力がかかったのかはわからない。その限定公開もトランプ政権が正式に発足してからというのだから、胡散臭いことこの上ないのである。日本の配給会社も当然ハリウッドの動きには逆らえないわけで、残念ながら劇場公開は見送られ配信のみの上映となってしまった1本だ。
ジャスティン・ケンプは雨の夜に車を運転中、何かをひいてしまうが、車から出て確認しても周囲には何もなかった。その後、ジャスティンは、恋人を殺害した容疑で殺人罪に問われた男の裁判で陪審員を務めることになる。しかし、やがて思いがけないかたちで彼自身が事件の当事者となり、被告を有罪にするか釈放するか、深刻なジレンマに陥ることになる。 映画.comより
陪審員の中で唯一容疑者が無罪であることを知っているジャスティン(ニコラス・ホルト)は、おそらく良心の呵責に耐えかねたのだろうか、ほとんどの陪審員が“有罪”に傾くなか、「もうちょっと審議を続けてみよう」と態度を保留する。やがて、医大に通っている日本人女性陪審員から“ひき逃げ”の可能性について指摘があると、なんと有罪:無罪が6:6のイーブンに。ここまでの展開はシドニー・ルメット監督の傑作法廷劇『12人の怒れる男』とそっくりだ。
すんなり犯人が無罪になってTHE ENDと思いきや、最近はすっかりなりを潜めておとなしめの映画ばかり作っていたイーストウッドは、最後の最後にして伝家の宝刀を再び抜いて、その切っ先を観客に突きつけるのである。『ダーティハリー・シリーズ』や『ミリオンダラー・ベイビー』、そして『アメリカン・スナイパー』でも見せていた、“法”と“良心”を禁断の秤にかける悪魔的演出を見せているのである。結論をあえて観客の手にゆだねるイーストウッド流の問いかけはいつも以上にキレがあり、リベラルの終わりの始まりが見えてきたちょうどその時期にぶつけてきたあたり、完全な確信犯と言えるだろう。身体はヨレヨレに見えるけれど、おそらくまったくボケていなかったのだ。
大学同期生の国選弁護人に「今のあなたは政治家だ」と指摘され、心の中に眠っていた良心がグラグラと揺れ出す遣り手女性検事フェイス・ブルーキラー(民主党殺し?)をトニ・コレットが好演している。直近の出演作の中でも出色の存在感と言えるだろう。事件をもう一度洗い直してみると、捜査線上になんと陪審員の一人ジャスティンが浮かび上がる。「僕は家族を守り、あなたは州民を守ればいい」すっかり人が変わってしまったジャスティンの言葉に、フェイスは自問自答を繰り返すのである。何かがおかしいのに、このままでいいの?
『ダーティハリー』では正義の鉄拳を弾劾される刑事、『ミリオンダラー・ベイビー』では再起不能ボクサーの自殺幇助に手を貸す老トレーナー、『アメリカン・スナイパー』では戦争中毒にかかった英雄を通して、イーストウッドは“法による正義”と“人としての良心”のどちらが人間にとって心地よい秩序をもたらすのかを問い掛け続けてきた。今作では“些細な殺人事件”を検事長になるためのステップとしか思っていなかった女性検事が、人としての良心に目覚め行動するまでを描いている。本作を観る限りこのイーストウッド、やっぱり“隠れトランピアン”だったような気がするのだがはたしてどうだろう。
そりゃね
疑いの時点でも自首しないとか。。。
ましてやもうすぐパパになる人なのにね。
奥さんも隠し通そうとしてた感じだよね。
罪もない人が終身刑になったってのにサイテー、、、
、、て思ってたら
ラストはやっぱり正義の真実を求めて弁護士がやってきたね。
そこでエンドだったけど、
あの後はもうね、そうだよね。
捕まる、弁護士は昇格したてだったけど降格、終身刑の彼は勿論無罪で釈放、警察は冤罪容疑、
て展開をあえて見せないラストにしたんだね。
一番厄介にしたのは、、
橋の近くに住んでる家のオジサンじゃない?
あのオヤジが犯人の顔を見たとかいって確かでもないのにコイツだ、とかいうから警察も確信持って信じてしまったんじゃん。
傑作です!感動しました
陪審員2番
21世紀の「12人の怒れる男たち」です
ことによるとイーストウッド監督によるリメイクだったかも知れません
陪審員達の言動に似たようなものがあります
かといって密室劇ではありません
真っ正面から司法制度の根幹は民主主義にあり、民主主義の根幹は国民の心の中にあるということを結論にした映画です
国民の心が腐敗したとき、民主主義も司法制度も社会自体が崩壊し、正義はなされなくなるのだというイーストウッド監督からのメッセージです
1950年代の「12人の怒れる男たち」のアメリカ国民だったら
本作でも同じように評決は一致して無罪で映画は終わった
21世紀はどうだ?
本作のようになったとしても、まだマシなぐらいだ
アメリカが病んでしまったのは私達国民が劣化したからだとの悲しい反省です
それ故に新しい大統領がああいう人になるのはあたり前だ
私達国民が正義の実現に目覚めないかぎりまだまだこういう世の中は続くのだろう
自分たちの世代がそうしてしまったんだ
そういう諦めに似た悲観的なトーンです
それが揺れる天秤です
それでもラストのノックで現れた人物はまだ諦めるなとの現役世代へのエールと期待でした
正義は必ず成されなけばならない
この映画もそう終わらなければならないのだという意味に受け止めました
劇的な絵作りはない映画ですが、蝉の声が急に大きく残響を持って聞こえてきて映画は終わります
その蝉の声が私達の心のなかでいつまでも消えることなく残るならばアメリカに正義は戻るのだという演出だったと思います
今時、こんな青臭い事を主張する映画を撮るなんて浮き世離れしていると言われても仕方無いのかも知れません
イーストウッド監督だからできることなのかも知れません
何も派手なことは何一つ起こりません
美男美女もです、有名俳優もひとりだけチョイ役ででるだけ
それでも素晴らしい脚本と演出に、あっという間に引き込まれて集中して目を離せなくなってしまうことでしょう
クリントイーストウッド監督94歳ながら衰えは一切感じません
むしろ、はしばしのこんな小さな所まで神経を行き届かせているのかと驚嘆するばかりです
たとえば、序盤でパーティーに集まった近隣の住民に主人公がスピーチをするシーン
「なんていい旦那さんでしょう!」というオバサンは横の自分の旦那に冷たい目を向けて言っています
日本では配信のみだそうです
残念です
逆に日本だけで劇場公開でヒットしていたなら誇らしいことにだったのに
せめてU-NEXTさんが見放題配信してくださって感謝するしかありません
本作の言っていることは日本国民にも当てはまります
今年の日本は選挙の夏になりそうです
JAL国際便でみれます
御大、まだまだいけますよ!!
久々に観ていて胃がチクチク痛む様な思いをしました。
私なら初審を最後に何かしら言い訳して陪審員を辞退するでしょう。
主人公ケンプも何故に最後まで付き合ったのか。
しかしながらケンプがひき逃げしたという確証も無く
時間差でケンドルが転落した後に本当に鹿を跳ね飛ばしたしれません。
そこを落とし所にするしかケンプの人生は救われませんが、、、
ラストシーンの展開の続きは?
しかし状況証拠と目撃証言だけで終身刑になってしまうのは怖すぎる。
こんなの見たことない&ネタバレ厳禁!
法廷物って、映画も小説も好きなので、結構見てます。
だけど、このストーリー展開は初めてかも。
実はチラッと映画.comの感想を見ちゃったんだよねー、しまったー。
というのも。
事件の犯人が最初に明かされるんです。コロンボ的な感じで。
それが誰かはすぐわかるけど、見ちゃったので驚きが・・・。
陪審員の事前評決、ほぼ「有罪」。
それが審議される話に、本当の犯人の心の中の話が挿入されていて。
いつバレるのか、被告はどうなるのか。
嫌な汗かきまくりでした。
渋い作品ではあるけど、劇場で見たかったよ(マジ)。
トニ・コレット、JKシモンズ、キファー・サザーランドの助演も、光りました。
⭐️今日のマーカーワード
「真実が正義とは限らない」
神様だぞ 粗末にするなよ!
このように劇場公開から配信に変わっていくのか
なぜか劇場公開されないイーストウッド監督の本作。国際線の飛行機の中で見たが大傑作だった。
「12人の怒れる男」ベースに陪審員自身が当時者になり困惑する展開は先行きどうなるか気になる作品だ。元警官JKシモンズの着眼点からの詮索からの発覚の退場あたりもかなりの盛り上がり。
そこからの展開も素晴らしく十分満足した。
司法のバグ
「正義(正しいこと)とは何か?」を観客に突きつけ、非常に丁寧に作られた、イーストウッド監督らしい見応えたっぷりのシリアスな法廷劇。
正義が不確かなこの時代。
思い付きで政治も経済も破壊しまくる大統領がいる時代には刺さる内容。
奇をてらってない。
天秤の傾きのイメージシーンなど、オーソドックスな演出。
ああ古臭いかもな、とさんざん油断させておいて、ラストには驚かされました。
そして司法って「事実」を基に「善意」と「誠実さ」で成り立つもので、「悪意」に弱く、また事実というのも「恣意的誘導」「不確かな記憶でも断言してしまう人」「信じたいことだけ信じる人間」によって歪められやすい、そんなシステム的なバグを抱えているんだ!
という指摘と、批判の精神が込められているようにも思えました。
これって、日本の冤罪事件などにも通じるなぁとしみじみ。
配信&ビデオ(Blu-ray)スルーになって、劇場で観られなかったのがもったいない作品でした。
ゾワゾワする。
タイトルなし(ネタバレ)
ある殺人事件の陪審員に選ばれたジャスティン・ケンプ(ニコラス・ホルト)。
初公判の日、事件のあらましを説明された際に、いやな思いが湧き上がってくる。
それは、事件が起きた同じ雨の夜、車を運転中、事件現場で何かを轢いてしまったこと。
確認したが何もなく、鹿が頻出する場所であることから、ぶつかった鹿がそのまま逃げたと思ってそのまま立ち去ったこと。
よもやあれが被害者女性だったのか・・・
といったところからはじまる物語で、2時間サスペンスだと「アホくさ・・・」と馬鹿にするような設定。
が、映画はそういうふうにならない。
というか、事件の真相は明確には描かれていない。
(まぁ、彼が轢いたと思うひとが大半かもしれないが、やっぱり鹿かもしれない)
主題は、クリント・イーストウッドがマルパソ設立当初からこだわってきたこと。
「ひとは人を裁けるのか。そして、裁きに正義があるのか」
(マルパソ第1作が『奴らを高く吊るせ』)
なので、裁きも正義も(事件の真相も)観る側に委ねられる。
演出的には丁寧で、事件そのものの描写は「目撃する者」と「事件当事者」とでは異なるため、同じシーンでも微妙に異なって撮られていますね。
近年のイーストウッド監督作品でも上位に位置する作品と感じました。
以下、余談。
わたしが主人公だったら、事件のあらまし聞いた時点で、事件の発端となったバーに居たんだから、「関係者です」と名乗り出ちゃうなぁ。
轢いたのは、やっぱり鹿で、事件には関係ない、と思い続けるかなぁ。
なにせ、ひき逃げ説が浮上するのは、評決審議の中。
公判では、ひき逃げ説は出ていないので、深く考えなければ、やっぱり鹿だなぁ、と。
まぁ、卑怯といえば卑怯だが、本作の主人公の心情よりは安心できるからね。
「失って初めて気づく」の逆で表す大人の映画
最後のシーンは鳥肌立ちました。
主人公のジャスティンは、アルコール依存症を克服し、流産を乗り越えて我が子を授かり、自分がひき逃げを立証するかもしれない不安要素のSUVも売れる算段が立ち安心を、検事のアリソンは検事長を「手に入れた」。
彼らそれぞれの人生の生きがいや目的を手中に納めた瞬間、手に入れた瞬間、人としてどう生きるべきかという方向性に気づいた。それが最後二人が向かい合うシーン。
「本当に大切なものは、失って初めて気づく」とよく言うが、その逆をいく「全てを手に入れて初めて、本当に大切なものに気づく」パターン。
ラストシーンの後、きっと、「このままではダメ。明らかにすべきよ」という話し合いが行われる……のかもしれない。ただ、「このことは私たちだけの秘密にしましょう」という話し合いかもしれない。
陪審員制度に鋭く切り込む内容で、痛快。社会派。陪審員に元刑事がいることに気づけなかったことに、裁判官は確認しなかったあなた(弁護士)が悪いと言い放つ。これは、立証責任を“正しく”果たさない検察が悪いというメタファーにも思える。「判決は決まりましたか?」と陪審員に尋ねるシーンでは、全員一致でなければ評決不能という制度に、「じゃ裁判官いらなくない?」「裁判官っていつからMC扱いなん?」というツッコミを入れているような。
毎度毎度、襟を正して見させてくれる監督の作品は、まだまだ見たい。次回作も楽しみです!
全99件中、21~40件目を表示












