セプテンバー5のレビュー・感想・評価
全173件中、21~40件目を表示
実況
ミュンヘンオリンピックでこんな事件が起こってたなんて知らなかった。
突発的に起こった「黒い9月」によるテロ行為。イスラエルの選手団を人質に立てこもったらしい。
途轍もないスクープだし、前代未聞のテロだ。
平和ボケしたとは言わない。
まさか、だったのだと思う。
大多数の人類には平和の象徴であっても、一部の人類にとっては世界規模のプロパガンダでもあるのだろう。
作品自体は時系列に沿って展開されていく。
アレは当時の映像なのかな?そんなものを交えて物語は進む。TVクルー達の混乱は勿論描かれる。が…そんな事も含めて視聴者の視点が提供される。
で、倫理観というか、放送理論というか…情報を提供する側の価値観を見る事にもなる。
1972年からマスコミの考え方って変わらないんだなと思うし、全世界共通なのかなとも思う。
もしくはこの事件を機に「報道規制」なんて言葉が生まれたのかもしれない。
内部ではなく外部の詳細をつぶさに報道する。
それしか報道するネタがないからだけど、テロ犯に情報を提供する共犯者みたいなもんだ。
鎮圧する側からすると邪魔でしかない。
クルー間の問題やユダヤ人差別が下敷にあったりはしたものの、根本的には「実況」だった。
センセーショナルな事件ではあったけれど、それを凌駕するような何かがあるわけではなかった。
何を読み取るかは個人の造詣にもよると思われる。
Wikiを読んでみたけど、それで十分だったとも思えるし、その事件に再注目させた功績はあると思われる。
気に入らないのは「よくやった」と言われた時のジェフのリアクションで…これが「大惨事だったけどな」と和訳される。
随分とブレてんなぁと思う。
言ってもいいけど独り言とかボヤきにすればと思う。
ああ、そっかと思ったのは、まだメディアとして絶大な影響力をTVが有してた時代、TVマン達は「揺るがない真実」に固執してたんだなと思った。
それだけが自分達のアイデンティティであると。
それから数十年が経ち、我国のTVの没落ぶりはほぼ自業自得なんだなぁと思えた。
政府もそうだけど公的機関が勧めてくるものに裏があるような気がしてならない。今じゃ、悪魔的な暇つぶしにしか思えないもんなTVって。
…余談だけと、今日NEWSで「中学生が生成AIと chatGPTでプログラミングを自作して楽天に不正アクセス〜」みたいなNEWSがあった。
俺的には凄い衝撃的なNEWSでもあったんだけど、このNEWSもいずれ埋もれていくんだなと思うと危機感みたいなものを覚える。
風化ではなくて上書きされてく状態かな。
なんか、何でもいいんだけど1つのNEWSを徹底的に掘り下げるコンテンツがTVにはあってもいいように思う。
が…そんな気概さえないのだろうなぁ。
TVとか消費されてく運命みたいなとこあるもんな。
色々間違えてきてるような気もするなー
濃密
臨場感が凄い。まるで中継スタッフとしてその場にいるかのようだった。脚本、演出、編集、俳優陣の全てに隙がない。これは傑作。
史実はスピルバーグのミュンヘンで知っていたので展開は承知。事件はとても残念であり、あってはいけないことだが、現在の中東情勢をあらためて考えさせられる作品だった。
息つく暇もない緊迫感
民族間の対立、憎しみ、悔み、恨み
問われる報道の自由
スポーツの祭典を伝えるスタジオが瞬時にして血生臭い犯罪現場を伝えるスタジオに。
報道とは何か、報道が果たすべき役割とは。報道というものが抱える問題点をほぼ網羅した作品。
憲法が保障する知る権利を裏で支えるために報道の自由が権利として保障される。しかし特に民主主義社会においては有権者の民主制の過程における意思形成に寄与するために必要な情報提供するという社会的責務も負う。その義務の履行のために可及的に正確で迅速な情報提供が求められる。その公的役割を担う報道機関は営利企業的側面も有する。
発行部数確保、視聴率獲得。社会的使命感と営利追求の狭間で揺れ動きながらも報道機関として事実をありのままに伝えるマスメディアの姿。
舞台はミュンヘン五輪を中継するABCテレビのスタジオ。衛星を使用した世界同時生中継により世界中が連日繰り広げられるスポーツの祭典にくぎ付けとなる。
世界初の衛星による世界同時生中継がされた五輪大会が東京オリンピック、そしてその前年初めてアメリカと中継を結んで日本で生放送されたのはケネディ大統領暗殺のニュースだった。
その時の世界が受けた衝撃はすさまじいものがあった。現在のようにインターネットが普及していない時代に世界で起きた衝撃的事件が各家庭のテレビにタイムリーにダイレクトに映し出される衝撃。そしてそれは報道する側にとっても同じ。全世界が驚嘆する事件を自分たちが世界に先駆けて独占放送できることに報道陣として色めき立つのも理解できる。衛星生中継が可能になったことでスクープ合戦がより過熱したことだろう。
本作では少なくとも三つの報道が抱える問題点が描かれる。事実をありのまま伝えるべきかという報道倫理の問題、報道のもたらす弊害という報道被害の問題、そして誤報の危険性。
報道倫理。事件現場と近接した場所にスタジオが位置したABCテレビのクルーたちは建物の屋上にカメラを設置することで現場からの生中継に成功する。どこよりも独占的な生中継という力を得ることとなる。
犯人たちは人質を時間経過ごとに一人ずつ処刑すると宣言していた。このまま現場の生中継を続ければその生々しい殺害の瞬間映像をお茶の間に届けることになる。録画した映像を編集してから放送するのとはわけが違う。さすがに放送倫理に則りそのような場面が予想される前に中継を切り替えることでスタッフたちの意見は一致する。
報道被害。人質解放のためにドイツ警察が監禁場所を急襲する作戦を実行する。しかし生中継によりその急襲する警官たちの姿がテレビに映し出され、スタッフたちはこの映像を犯人たちも見てるのではないかといまさらながらに気づき、実際に犯人たちに見られていた。警察が中継をやめるようスタジオに乗り込んでくる。結局作戦は中止となる。
もしこの作戦が決行されていたなら多少の犠牲者を出しつつも人質全員の命が失われることはなかったかもしれない。この時点では確かにスタッフたちは悲劇の結末を知る由もないが、少なからず自分たちの犯した過ちを実感し慄然とする。しかし事態はめまぐるしく変化する、その変化に食らいつくのに必死なため自分達の行動を顧みる暇を与えてはくれなかった。
誤報の危険性。報道の役割は前述のとおり、可及的に正確な情報を伝えるためにはダブルチェックは不可欠だ。空港に到着した犯人グループから人質全員を救出したとの一報がスタジオに伝えられる。どこよりも先に自分たちが得た情報をいち早く報道したい。しかし完全に裏が取れていない情報でもある。スタッフたちを仕切るマーヴはダブルチェックを徹底しろとプロデューサーのジェフリーに念を押す。ジェフリーは選択を迫られる。他社に先んじて一番乗りで報道したい、しかし真実性には確信は持てない。苦肉の策として彼は噂によればという枕詞を使用するようキャスターに伝えて公表させる。
一報が流されてしまえば後は水流が小さな穴をいっきに流れ出し激流になるかの如く他の報道各社も追随し人質解放の報道が全世界を駆け巡った。ジェフリーを叱責するマーヴだったが、後に広報で確認が取れたためにそれ以上彼をとがめなかった。しかし、しばらくして真実が明らかになる。人質全員死亡という事実が。
噂によればという枕詞で誤報の責任が果たして免れられるだろうか。もちろん事実を断定しての報道ではなく正確には誤報ではない。しかしこの一報を聞かされた人質の家族やその関係者たち、彼らは事件が起きてから数時間もの間生きた心地がしなかったはずだ、そんなときに流れた人質全員解放という知らせを聞いてどれだけ胸をなでおろしたか。そしてその直後天国から地獄へと引き落とされるかのような急転直下の知らせを受けてどれほどの衝撃を受けただろうか。
報じてしまったからにはもう時間を元に戻すことはできない。いかに情報というものが一度流されてしまえば取り返しがつかないことになるかをABCテレビのスタッフたちは思い知らされただろうしそれは報道各社にとっても対岸の火事ではなかったはずである。
録画して編集に編集を重ねて上司のお墨付きを受けての放送ではない。予期せぬ突然の事態、起きた事件は国際的にも大きな関心事であるパレスチナ情勢をめぐる事件、対応したスタッフたちはスポーツ担当、本社報道からは荷が重すぎると言われた。しかしこの世界を揺るがすスクープを現場の目の前にいた我々が伝えなければならないという崇高な使命感と共に手柄を横取りされたくないという思いも確かにあった。
社を飛躍させるほどの特大スクープ、このスクープをものにすればもはや今後の出世が約束されたのも同然。そんな報道に携わる人間としての野心と自分もジャーナリストの端くれというプライドが混在する中で、事件をありのまま伝えようと奮闘した彼らの行いを一概に否定はできない、そしてこれが報道の在り方を再考するうえで大きな一石を投じたのも事実だ。
彼らABCのスタッフたちは偶然にも独占生中継をする特権を得た、権力を独占した。権力はもろ刃の刃だ。事実をありのままに伝えるということは社会にとって有益であるとともに時には有害でもある。報道は人々にとって必要で大切なものであると同時に人々を傷つけ最悪死にに至らしめるほど強力だ。だから報道は第四の権力といわれる。
権力を行使するには常に慎重さが要求される、どんなに差し迫った状況下に置かれていても。それが特権を与えられたものの義務でもあり使命でもある。
この事件の後、彼らは自分たちのしたことを総括したはずであり、それは報道各社も同じだろう。何が正しかったか、何が誤っていたか、あの時どうすべきだったか。そうして今回の経験を今後の報道姿勢に生かすべく糧としたはずである。こういった経験の積み重ねが現在の報道のありようを形作っているのだと信じたい。
本作はテロの脅威を伝える作品というよりはそれを伝える側のマスメディアがいかにあるべきかを問う作品。
いまやSNSの時代を迎え、報道の在り方やその真価が問われる時代。SNSに押されてテレビ新聞などの各メディアは世界中どこでも収益悪化にさらされている。
それに加えて相次ぐ不祥事や政権への忖度など、その信用性はマスごみ、オールドメディアなどと揶揄されるように地に落ちつつある。
そしてインターネット技術の進歩により彼らABCのスタッフたちが行ったような情報発信をなんら報道経験もない普通の人々ができる時代でもある。
情報発信の民主化と言えば聞こえはいいが、そんなSNS上で配信されるのは情報源が正体不明なものがほとんど。日々匿名性を盾にした真偽不明な情報が飛び交い、何の責任も負わず何の社会的使命感もない、ただ広告料目当てに閲覧数稼ぎのために注目を集めるためだけの情報が後を絶たない。そしてそれを無批判に信じてしまう利用者たち。
いまやABCスタッフたちが得た力を誰もが手軽に行使できる時代。長年現場で培われたノウハウや報道倫理、そんなものを持たない人間たちが報道の真似事を容易く行える。そこにはダブルチェックなど到底及ばない、それどころか確信犯的にデマを流すものまでいる始末。今のネットワークは無法地帯に近く、そこに垂れ流される情報はファクトチェックというフィルターに通さない、ろ過されない危険な汚水が水道の蛇口から垂れ流されているようなもの。だからこそ今報道の真価が問われている時でもある。
報道機関は自社名を堂々と前面に出して報道する。それは自分たちの情報に責任を持つことでもあり信頼性を保つことでもある。信頼を失わないために厳重なチェックを重ねて真実と確信したうえで報道する、だがどんなにチェックを重ねても人間だから誤ることもある、そうすれば迅速に訂正し謝罪する。そうして情報発信者側と受け取る側の信頼が築かれていく。古い歴史を持つ報道機関はそれを積み重ねて今がある。オールドメディアの強みはそこにある。オールドだけに新参者には決して真似できないものが。その信頼性が揺らげば利用者は離れていく。
しかし、そんな信頼関係もないネットの世界には信頼ではなく妄信だけがまかり通っているようにも思える。劣化してるのは発信者側だけでなく受け取り手側も同じかもしれない。
本作は秀逸な社会派サスペンスであると同時に現在信用を失いつつあるマスメディアにとって自戒の念をもたらしてくれるという意味でも大いに意義のある作品であった。
オールドメディア報道の自由とフェイク
真実を追う!
新旧メディアの報道のあり方が、これまでに無い注目を浴びる現在を生きる私たちに鋭く問い掛ける傑作だと思います。
1972年9月5日、ミュンヘンオリンピック開催中に起きたパレスチナ武装組織が選手村に侵入し、イスラエル選手団を襲撃した人質テロ事件の顛末を、事件を生中継したテレビクルーたちが直面したテロ事件を生中継することへの葛藤が映し出されます。
それは偽情報が拡散する時代に報道の在り方をシビアに問いかけ、報道の自由、事件当事者の人権、報道がもたらす結果の責任など現代社会にも通じる問題提起となりました。発生から終結まで何が起こり、彼らはどう向き合ったのかをありのままに伝え、まるでその場に放り込まれたかのように追体験できます。
「HELL」のティム・フェールバウムが監督・脚本を手がけました。
●ストーリー
1972年9月5日。ミュンヘンオリンピックの選手村で、パレスチナ武装組織「黒い九月」がイスラエル選手団を9人を人質に立てこもる事件が発生します。そのテレビ中継を担ったのは、ニュース番組とは無縁である米テレビ局ABCのスポーツ番組の放送クルーたちでした。彼らは五輪中継から一転、事件の模様を全世界に伝える使命を負うことを決断します。
現場管理者のルーン・アーレッジ(ピーター・サースガード)から全権をまかされた若い調整プロデューサー“ジェフ”ことジェフリー・メイソン(ジョン・マガロ)は、犯人たちが閉じ寵もった部屋の窓が見えるスタジオの屋上にカメラを1台据えることを指示すします。
やがてその屋上カメラに、銃を構えた警官たちの姿が映ります。犯人たちの部屋をうかがってにじり寄っていたのです。クルーの誰かが言いいます。衛星中継だから奴らも見ていないのではないのかと。これは衛星中継初期のことでしたので疑心暗鬼になっていたのですが、実は世界の9億人が固唾をのんで事件の行方をテレビ中継を見ていたのです。
エスカレートするテロリストの要求、錯綜する情報、機能しない現地警察。テロリストが定めた交渉期限は刻一刻と近づき、中継チームは極限状況で選択を迫られます。
めまぐるしく状況が変わる中で視聴率は急上昇、生中継は止められません。その中でこの中継を犯人グループも見ていて、捜査当局の動きが伝わり、突入が失敗してしまう事態が発生します。報道する側の姿勢をめぐり現場は混乱します。米本社からの「報道局に任せろ」という圧力に、現場を統括するアーレッジは「これは私たちの事件だ」と抵抗します。進行を仕切るジェフは野心と倫理のはざまに置かれ、苦悩するのでした。
その中で政府広報が、イスラエル選手団の救出をファックスで伝えてきます。しかしテレビクルーたちは、あまりに突然の打電で、にわかに信じられませんでした、そこでジェフは、選手団の救出をそういううわさがあることにして、報じようとします。しかし厳重な裏取りを説く現場総責任者のマーヴィン・ベイダー(ベン・チャップリン)が待ったをかけるのです。的確な判断力と胆力で核心情報をつかもうとするドイツ人通訳のゲブハルト(レオニー・ベネシュ)は志願して、救出現場とされる空軍の空港へ突撃ルポに向かいます。
果たして政府広報が伝える全員救出は、世紀の大誤報だったのでしょうか。そしてジェフはどのように報じたのでしょうか。
●解説
スティーブシ・スピルバーグ監督「ミュンヘン」(2005年)など、この事件を題材とする映画は何度も作られていますが、本作は大半が放送スタジオで展開していくという点で一線を画しています。
当時使われていたアナログ機材を置くなどして忠実に再現したコントロールルームを主な舞台に、実際のニュース映像も盛り込みました。何を撮り、どうやって情報源にあたり、報道するか。未曽有の事態の中、判断を迫られるクルーの姿を描き、緊張が途切れません。
銃声らしき音が端緒となり、人が殺された、テロだといった事実が明らかになっていきます。スタジオ内で刻々と高まる緊迫感と熱気、興奮を生き生きと描き出した導入部から引き込まれるのです。
情報は外にいる記者からの電話や無線連絡、中継カメラの映像やニュース番組のみ。手持ちカメラの、あえて画質を粗くした映像で建物内を走り回る登場人物を追います。観客は彼らと同じ現場に放り込まれ右往左往することになるのです。
一方、カメラを搭載した携帯端末が広く普及し、SNSでは簡単に情報を発信できる現代において、本作が作られた意義は大きいと思います。報道の担い手には言うまでもなく、万人に警鐘を鳴らす一本です。
脚本(共同)監督はスリラーで名をあげたティム・フェールバウム。このあたりの緊迫感は尋常ではありません。テレビモニターだけが一段と明るい副調整室に張り詰めている空気が今にも破裂しそうです。
しかし、サスペンスばかり言い募るのはこの作品の本質を見落とすことになります。
ここで逸してならないのは《噂》の扱いです。「ストーリー」で触れたましたが正確にいうと、まず突然人質解放の噂が飛び込んできたのです。しかし裏がとれません。でも、この上ない朗報です。噂にすぎないがと断って、別室のキャスターに伝えます。すると、ファックスから公報が流れたのでした。解放と描かれています。それを見てスタッフたちは歓声あげ、乾杯します。
けれども私たちはこれが誤報であることをすでに知っています。そして考えるのです。噂はどこから出たのか。公報とは何だったのかと。映画は画面を通じて無言で問いかけるのです。ジャーナリズムの倫理について、責任と影響について。 21世紀は情報の世紀と記録されるだろう、と学者が言っています。映画は私たちにも、のっぴきならない歴史の教訓について問いかけてくるのでした。
●感想
本作テロ事件報道は教訓として語り継がれながらも、現在は状況が変わっていると思います。それは何を報道するのか、しないのか。テロ事件では単純な正解が出せなくなったからです。テロを報じることが、社会的な脅威につながる2次被害を起こしかねません。
本作でも現場中継によって警察の動きが読まれて、突入に失敗し、その後の悲劇的結末につながることになってしまいました。
本作は、虚偽情報を特定するファクトチェックの重要性にも触れています。人質が全員救出されたとの未確認情報を報道し、それが事実として世界中に広がってしまうのです。 これは現在のSNSの問題と同じでしょう。アメリカを代表するテレビ局でさえ、間違いを起こすのです。誰もがテレビ局、新聞社になれる時代だからこそ、自分自身の物語だと思って見てほしいものです。
報道の自由、事件当事者の人権、報道による結果の責任は誰にあるのでしょうか?世界各地で続く戦争や、大統領選や日本の選挙など、新旧メディアの報道のあり方が、これまでに無い注目を浴びる現在を生きる私たちに鋭く問い掛ける傑作だと思います。
世界を震撼させたテロ事件を、こんな切り口で描く映画が作られるとは思いもよりませんでした。臨場感みなぎる手持ちカメラのショットを連ね、ニュース映像をふんだんに挿入したビジュアルの迫真性がすごいのです。
現場が至近距離なのに、カメラや取材者が近寄れない状況を逆手に取った手法も素晴らしいと思います。映画の大半はABCのコントロールルームから出られません。狭い部屋で情報を限定された一方、映像は外の状況を刻々と伝える状況が閉塞感を強調します。
予測不能の極限状況に直面したテレビクルーの混乱を描きながら、事態の情勢変化を伝える脚本もお見事。ただし限定的な視点の室内サスペンスゆえに、事件の全貌をつかむのは容易ではありません。
それでも道徳的ジレンマと野心の間で葛藤しながら、瞬時の判断を下すチームの熱気や緊迫感はヒシヒシと伝わってきます。テレビマンの呼吸までもが映りこむようです。スタジオ自体が最高の演出を生み出したのです。照明はすべて天井から当てられ、上からの光が作る陰影の濃淡が、リアルな感覚を際立たせていました。
金かけたら映像化できたのかな〜
予告に惹かれて鑑賞しました♪。
ちょい肩すかしで残念な作品でした(個人的にね)。
実際にあった事件で実際のTV局での出来事なのかな?緊張感はあったし事件は気になったけど、現場カットがなく(あえてそういう風に作成してるとは思うのだがやはり現場もみたいよね💧(目ざし帽の犯人は映ったが)、会話だけではもたなかった🥱💧。
とはいえ最後の結末からなにまで事実に基づいてだろうからかなりやばい事件だったんだね💧。
当時の情報網でも誰が人質か写真付きですぐ調べて公表するとか躊躇ないな〜、あとTVスタッフが警備すり抜けて何度も出入りするとか警備甘いだら💧選手に間違われて他局のインタビューに当たるとかは面白かったが(笑)。
作品内でも問題になってたが中継中に血がでたらどうするって所この時代はルール決めがまだあまかったんだね、流石に家族が見てたらショックデカいのぐらい想像は当時しなかったのかなー😰。
字幕やったしちょいものたりなかったが配信されたらもう一度みてもよいかな、30分ぐらいぬけてるし😓。
世界丸見え
面白くなかったわけではないんですが…
1972年、ミュンヘンオリンピック開催中にパレスチナ武装勢力がイスラエル選手団の宿舎を襲撃し選手11人を人質にする事件が発生。現場の近くにいたことから事件の中継を敢行することになったアメリカのスポーツ中継のTVクルーをドキュメントタッチで描く。
うん、面白そうだ。興味をそそられるし、しかも実話ベース。作品の求心力になっているのは生中継の裏側と事件の顛末。
作中ほとんどが中継ブースからの視点で、アメリカ本土のテレビ局と放送枠を確保する為の丁丁発止のやり取りとか運び込まれる素材フィルムをピストン運行で現像していく様やデジタル技術がない時代の急きょのテロップの入れ方など70年代のテレビ中継の緊迫した裏側という、お仕事描写はなかなかの物。
事件の結末についてはネタバレなので言及は避けるとして、全体としての評価は「地味だけど悪くないんじゃない?」くらいなんですが……
「この映画から何かを受け取ったか?揺さぶられる物があったか?」と問われたなら、うーんと唸ってしまう。
報道の自由とそれに伴う責任や放送される被害者の人権など、今作が放送倫理の問題を提示しているのは間違いないんですがそこに「今までもいろんな媒体でやってるし何回も聞いた」問題提起以上の事が感じられないんだよなぁ。私が鈍いのかしら?
なんだか、今さら「ネットの情報には嘘もあるから鵜呑みにするのは危険」とドヤ顔で注意された時に「うん知ってる」と、まったく心が動かないあの感じに似ている。
結果「なるほど、こんな事があってそんな結末になったのか」という好奇心と知識欲は満たせたものの、それ以上はなく、凄く良く出来た『世界丸見えテレビ特捜部の再現ドラマ』を観たような気分でした。
苦悩と陶酔
タイトルなし(ネタバレ)
1972年9月5日。
西ドイツ・ミュンヘンでは平和の祭典オリンピックが開催中。
選手村を、パレスチナの武装組織「黒い九月」が襲撃。
イスラエル選手団のコーチや選手を人質にとった。
現場周辺には多くの報道陣がいたが、テレビ生放送の設備を備えたのはABCのスポーツクルーのみ。
まだ生放送が一般的ではない時代だったのだ。
彼らは、テロ事件の一部始終をつぶさに放送することを決断する・・・
といった実録物語。
いわゆる、72年のミュンヘン五輪「黒い九月」事件を描いたものだが、同題材の過去作には『テロリスト/黒い九月』、スピルバーグ監督『ミュンヘン』がある(いずれも未見)。
が、本作はを報道側から描いた意欲作。
現在と比べると乏しい器材、乏しい情報のなかでの報道という、ある種「プロジェクトX」的な側面の面白さもあるが、人間の生命がかかった緊張状況、その側面を楽しむだけにはいかない。
ただならぬ緊張感が続く90分。
さらには、事件そのものの結末も「負け戦」であり、報道そのものも「世紀の大誤報」ともいえる報道を行ってしまうことになり、無力感が凄まじい。
事件を報道し続けるクルーたちは、現在のウクライナやパレスチナの混沌とした情勢を見続けるしかできない我々でもあるから、無力感をひとしお感じるのだろう。
出演者は、ジョン・マガロ、ピーター・サースガード、ベン・チャップリンと地味だが滋味。
三者三様の立場の描き方も興味深い。
英独通訳役のレオニー・ベネシュの気丈夫ぶりも印象に残る。
『シビル・ウォー/アメリカ最後の日』とあわせて観たい作品です。
倫理観と報道
日本の報道は昨今ぐっちゃぐちゃですが、そこにもやはり真実をいち早く伝えたいという思いと現実はハッピーエンドになるとは限らない残酷さがあって事実はいつも皆が願う方になるとは限らないしやはり救いは無い。
でも明日も皆生きなければならないという生命の積み重ねを思い出させてくれる映画でした。
通訳のマリアンヌは戦争世代では無いけど、ドイツという国が背負った敗戦によって職場で傷付かなければならないことも多くて、当時の戦争しなかった世代の苦しみや背負ったものの表現も重苦しくのしかかっている様が描かれていた。
真実は何か、いつの時代も見極めなければならないし、真実として報道される事が真実なのかは現代社会では分からない事が多くなったのかもしれない。
個人的には全く、、、
報道の在り方
見せるもの、見せないもの。
見せたいもの、見せたくないもの。
見せるべきもの、見せてはならないもの。
そこにはあくまでも誰かの主観(判断)が存在する。
ドキュメンタリー(タッチ)のこの作品も、作り手の、これを見せよう、という意志によって作られている。
報道の在り方が問われる今、考えさせられる作品だ。
こういった実話ベースの映画が好きで、今作は半世紀前の事件を題材にしたものだが、現在起こっている出来事の多くが、今から半世紀ののちには、映画の格好の題材になっているようなことだばかりだと思うととても悲しい。
比べてはいけないが、ショータイムセブンも吉田鋼太郎なんか入れずに今作のような描き方をしていたらもっと緊迫感が出て面白くなっていたかも。あの犯人では無理か。
今を考える映画、今観る映画
ガザ情勢はあるにせよ、何故今ミュンヘン五輪なのかと思っていたのですが、政治問題以外にも現在に通じる様々な課題を90分強の短い尺に盛り込み、とても見応えのある作品になっています。
・報道者魂 vs コンプラ、自主規制、裏取り
・組織内の衝突 リーダーシップvs 相互尊重
個人(ジェフ)の成長譚とも見れますね
・ITと人間 AIや自動翻訳機は勿論のこと携帯も
パソコンもない。知恵を絞り、考え抜いて工夫す
る。のりとハサミで切り貼り。
・今日は辛かった、とても疲れた。でも明日も仕事は
やってくる。もっと言うと人生はずっと続く。
人の死が数字に変わっても。
「コーヒー淹れてくれ」 無意識にお茶汲みは女子に言ってしまう時代。でも後でフォローを入れた描写はすごく良かったです。
あれから半世紀
1972年のミュンヘンオリンピックの背中に起こった選手村での人質事件を描いた作品。
オリンピックにはあまり興味がなく、ほとんど観ていないが、過去にこんな事件があったことは初めて知った。
米ABC放送が期せずして生中継をしたことで、放送史に残る事件だったはずなのに、まさかの悲劇が待っている。
ピリピリした生放送ならではの緊張感が伝わり、全編無駄がない。
鑑賞後にこの事件の報復として、イスラエルとパレスチナの血と血を洗う報復合戦には目を覆う。
あの事件から半世紀経つが、あの地は未だに紛争の解決の糸口が見つからない。
過去と現在を思うと、重い作品だった。
オリンピック取材班の目を通してテロ現場が描かれた緊迫感ある作品
全173件中、21~40件目を表示