「私的好みではない表現でしたが、一方で見事に深さある秀作だと思われました」異端者の家 komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
私的好みではない表現でしたが、一方で見事に深さある秀作だと思われました
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
結論から言うと、今作の映画『異端者の家』を、正直に言うと表現されている内容は好みではなかったのですが、一方で見事に深さある秀作になっていると思われ、大変面白く観ました。
個人的な関心に引き寄せると、今作は、「奇跡」と「信仰」について描かれた映画だと思われました。
すると、ではその「奇跡」と「信仰」とは何なのか?との設問が現れると思われます。
先回りして個人的な答えを示すとすれば、哺乳類である人間は生まれた後に親などの庇護や養育が必要になるのですが、「奇跡」とは、生まれ落ちた赤ん坊が親などの取り上げや庇護や養育によって生き延びることが出来た、その事に当たると思われます。
そして「信仰」とは、赤ん坊が生き延びる事が出来た「奇跡」を生み出した、親などの周りとの関係性をしっかりと感受して抱きしめる、実感のようなものとして信じる事に当たると、個人的には思われます。
すると、この映画の異端者の家の主人である、ミスター・リード(ヒュー・グラントさん)は、自身が生まれ落ちて生き延びることが出来た、親などとの周りの庇護や養育の記憶が、体感されずに破壊されている(「奇跡」も「信仰」も破壊されている)人物として存在していると解釈されると思われます。
ミスター・リードは、自身の異端者の家の家にやって来たモルモン教の宣教師のシスター・バーンズ(ソフィー・サッチャーさん)とシスター・パクストン(クロエ・イースト)を家に閉じ込め、2人に宗教問答を仕掛けます。
しかしミスター・リードの話は、理屈が通っている部分はあるかもしれませんが、観客である私達を含めて、大半の人間に、彼の理屈は根本的におかしい間違っている、と感じさせます。
なぜなら、ミスター・リードは、自身が生まれた後に親や周りから受けた庇護や養育によって生き延びたという実感の「奇跡」も「信仰」も根源的に破壊されているので、他者に対する信頼の根源である思いやりや共感と言った、心が破壊されていると伝わるからです。
他者との信頼の基盤である思いやりや共感と言った心が破壊されている人物の理屈は、信頼の基盤が壊れている為に、どこまで行っても本当の意味で正しいと他者に伝わる事は不可能なのです。
そしてミスター・リードは、生まれ落ちた後の周りとの関係性における「奇跡」も「信仰」も破壊されているので、心が基盤から溶解して、他者との区別を失くしていると感じさせます。
それが、モノポリーを例に使った、各宗教の違いを溶解させ、一体化させようとする論理の披露になります。
この全ての差異を溶解させようとするミスター・リードの理屈に、毅然と反論するのがシスター・バーンズです。
シスター・バーンズは、それぞれの宗教の違いを具体的に述べ、ミスター・リードの全ての差異を溶解させ一体化させようとする理屈が、間違いであることを示します。
これは、シスター・バーンズが、生まれ落ちた後の周りとの関係性における「奇跡」や「信仰」をしっかりと体感しているからこそ、他者との関係性の基盤の強さから、他者と自身や様々な差異を、しっかりと認識出来ているから成し得た主張だと思われました。
多くの観客も、シスター・バーンズの「奇跡」や「信仰」に裏打ちされた毅然とした態度に、静かな勇気づけをもらったのではと推察します。
ただ、この映画が凄いのは、この毅然とした魅力あるシスター・バーンズが、首をミスター・リードに切られて、命を落とすところにあると思われました。
そして、最後に異端者の家から脱出し、生き残ったのは、ポルノビデオにも興味を示す、「信仰」の意味から言うと中途半端にも思えたシスター・パクストンの方だったのです。
この中途半端にも思えたシスター・パクストンが生き残った意味は、以下だと解釈されると思われます。
実は、ミスター・リードの「信仰」の破壊(「不信仰」)も、シスター・バーンズの「信仰」の強さも、どちらも多くの私達はグラデーションの中で持っていると思われるのです。
なので、私達は、ミスター・リードの「信仰」の破壊(「不信仰」)も失笑して退けることも出来なければ、シスター・バーンズの「信仰」の強さにも惹かれ重要だと思われています。
そして、シスター・バーンズが首を切られて命を落としたように、「信仰」の強さが、特に現在では、破壊された「信仰」(「不信仰」)を救うことは出来ない、というのも真理として伝わるのです。
私達は現在、「信仰」と「不信仰」とに(あるいは、生まれ落ちた後の親や周りからの庇護や養育を、実感として持っている人物や思想と、破壊されている人物や思想とに)、分断されている時代に生きていると思われます。
そして多くの私達は「信仰」と「不信仰」との間のグラデーションの中の中途半端な人物として生きていると思われるのです。
その意味で、中途半端にも思えたシスター・パクストンが最後に生き残った事は、双方が両極端で分かり合えない分断の現在の中で生き延びなければならない、双方のグラデーションの中にいる多くの中途半端な私達への、勇気づけの表現になっていると思われました。
今作の映画『異端者の家』を、以上の点から深い秀作に思われ、ただ一方でスリラー的な描写は好みではない点もあって、僭越、今回の点数となりました。

