劇場公開日 2025年4月25日

「宗教勧誘系女子を待ち受ける苛烈な運命。ヒュー・グラントの狂気に過去の自分を見る。」異端者の家 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5宗教勧誘系女子を待ち受ける苛烈な運命。ヒュー・グラントの狂気に過去の自分を見る。

2025年5月23日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

面白かったけど、なんとなく思っていた映画とは違ったような。
なんなら、2時間みっちり、モルモン教徒と無神論者の論戦を拝聴したかったくらい。
せっかく「キリスト教信者Vs.無神論者」という、魅力的なシチュエーションを設定したのに、わざわざしょぼいサイコ・キラーの話にしちゃうのは竜頭蛇尾過ぎて、じつにもったいない。
というか、ヒュー・グラントを「実はただの頭のおかしいろくでなしでした」って落ちにしないと、全世界のキリスト者がとうてい許してくれないから、というだけの理由で「ただのホラー」に貶めたのだとすれば、製作者の度量不足であり、軟弱もいいところだとも思う。

敢えて、ホットゾーンに踏み込んで、この危険なネタに挑むことを選んだのならば、徹底的にキリスト教の欺瞞には踏み込むべきだし、キリスト者はキリスト者として、徹底的に無神論者の怠惰を責め立てるべきだ。

それに、振り返って考えるほどに、脚本の流れがとても歪で不自然な映画だった気がする。よく言えば先読みしづらい展開なのだが、悪く言えば理不尽なイベントが多すぎる。ヒュー・グラントが何をどうしたかったのかも、ヒロインが何をどう考えて行動していたのかも、両者の迷宮内での動線も、正直観ているだけでは細かい部分がよくわからない。

ただ、とにかく、これだけは思った。
やっべえ、あんなおうちに住んでみたい!!
超住んでみたい!!!
大邸宅とか、お城みたいな家だったら、
ああいう構造の屋敷もあるかもしれないけど、
一見「ただの家」なのに、奥がひたすら、
迷宮化・ダンジョン化してるとか、
マジでうらやましすぎる。
ホントに、机上のドールハウスの通りに
(あの模型も欲しい! 超欲しい!!)
「最奥部」が広がっているのなら、
こんな愉快でわくわくする自宅ないよね。
明らかにダンテの『神曲』地獄篇の
影響下にある建築構造だし。

あと、モルモン教の女の子二人が、超好み。
かたやウィノナ・ライダー系。
かたや正統派の地味系乙女女子。
こんな可愛くて、清楚で、礼儀正しい子たちが
おうちに来たら、おじさん舞い上がっちゃう(笑)。

なので、ホラー・サスペンスとしては、低きに流れた印象は否めないが、おうちの魅力とヒロインの魅力で、十分面白く観ることができました。

― ― ― ―

最初は観るかどうか決めていなかったし、相変わらずまったく予備知識も入れなければ、人の感想やプロの映画評もろくに読まない無精者なので、映画が始まって「A24」と出て、初めてこの映画ってA24作品 なのか、じゃあ観にきてよかったなってくらいの感じ。

実は、ずっと仲良くしてくれていて、このあいだ退職された会社の元同僚が薦めてくれたので観に行ったのでした。「セリフ使いが好きだと思うのでぜひ」とのことだったが、いざ観終わって思うに、これってもしかして、僕の会社でのしゃべり口調がヒュー・グラントそっくりだっていうご指摘なのかな??
なんか失礼にもほどがあるだろ!!(笑)
僕はたしかに理屈っぽいかもしれないし、ここの書き言葉とほぼ同じ調子で朝から晩までのべつしゃべくりまくってる気もするけど、絶対あんなんじゃないから!! あんなんじゃないって自分では思ってるから。
ていうか、あんな感じにまわりの人たちに思われてるとは思いたくないから……。

― ― ― ―

正直なことを言えば、僕はこの映画のヒュー・グラントに、結構なシンパシーを抱いている。
それは単に自分も無神論者で、「キリスト教なんかでたらめだ」と心底思っているというだけの話ではない。
僕は実際に、これまでもそれなりにいろんな宗教勧誘の人と、じっくり膝を突き合わせて話してきた人間だからだ。

とくにエホバの証人の皆さんとは、2年以上はお付き合いしていたと思う。
大学生で一人暮らしをしていたころにアパートに布教に来られたから、ぜひお話を聞かせてください、ただしそちらのホームに行って洗脳されると嫌なので、そちらからうちにいらっしゃってくだされば、と答えた。
最初はおばちゃんとお兄さんのコンビ(おたがいを「きょうだい」と呼んでいて、最初姉弟かと思っていたのだが、なんのことはない、エホバの証人のみなさんは全員「きょうだい」と呼び合うのだ。ブラザー&シスターなわけね。)が、ひと月かふた月に一度、新世界訳の聖書の講読会をしに来られた。
そのたんびに僕が「本当に七日間で神が世界を創ったという話を信じておられるのか?」とか「聖書の内容を現代の事象に合わせて解釈するエホバの長老たちの権威は何によって保証されるのか?」とか「予告された終末の日が何度も何度も先送りされることに仲間うちで疑念はないのか?」とか、いちいち面倒くさい質問ばかり10も20もするものだから、ついには「詳しい者を同行させます」といって、この映画でいう「エルダー」も一緒に来るようになり、最後は四人で来るようになった。
毎月、珈琲をふるまいながら、カルトの方から聖書の話をうかがうのは、とても刺激的な体験だった。あの人たちは決して悪い人ではなく、むしろとても善良な方々だったし、つねに懐疑的で冷笑的な僕に対して、怒ることもなく拉致することもなく、理論で調伏しようといろいろと話してくださった。
僕は、彼らの優しさに甘えて、徹底的にキリスト教をこき下ろし、宗教全般をこき下ろし、隣の人から聞いてもまず信じないような話を「聖書に書いてあるから」というだけの理由で信じようとする精神の愚昧さを嘲弄しつづけた。

そもそも本来は、誰が何を信じていようがどうでもいいと心底思っている僕なんかより、「世界の終わりが近づいているから準備しなければならない。このただならぬ『真実』を、信じていない人にも伝えて、何が何でも救いを広めなければ」という強固な使命感をもって布教して回っているエホバの証人のみなさんのほうが、よほど善良でお人よしな人々である気もする。
逆に、基本的に懐疑論者で相対論者で冷笑的な人間である僕から見ると、躍起になって信仰に生きる彼らの姿勢は、純粋な知的好奇心を抑えられないくらいに興味深いものだったわけだ。

僕が知りたかったのは、聖書に書かれていることが正しいかどうかといった些末なことではなかった(2000年の歴史と数十億人に支持される書物に、何らかの教訓や示唆がないわけがない)。
それよりも興味があったのは、宗教者の心の在り方だった。
何かを信じると決めて生きることで、果たしてどれくらい生きやすくなったのか。信仰に目覚める前はどんな生活ぶりで、何をきっかけに信仰の道に入ったのか。とくに身近な死や病気や不幸に見舞われたとき、心のなかで懐疑が生じる瞬間はないのか。聖書に従って生きるという「拠り所」のある生活は、むしろ退屈でモノトーンなものではないのか。
僕はそういったことを彼らに問い続け、彼らはそれに真摯に答えてくれた。

結局、2年くらいたったころに僕の就職が決まり、引っ越すことになった。
みなさんは「一度会館へ」とおっしゃってくれたが、そこは丁重に断った。
引っ越しのときに、なんと数名の方が、おにぎりをもって荷造りとゴミ捨ての手伝いにきてくださった。「何も聞いてくださらないかたより、ハルマゲドンであなたが救われる可能性は高まっていると思いますよ」といわれて、悪い気はしなかった。
ただ、「これを記念に」と下さった標語の書かれた妙な盾のようなものは、ちょっと気持ち悪かったので、そっと粗大ごみに紛れさせてから、住み慣れたアパートを後にした。
あのときはいろいろありがとうございました、そして本当に申し訳ありませんでした!

他にも、大学の正門のところにはいつも二人組の原理ねーちゃんがいたし、高校の同期で同じ大学に行って統一教会の信者になったS君や、同じく親鸞会の信者となったT君とは、何度も学生会館で論戦した。
妙齢の生保レディのお姉さんが、実は「冨士大石寺顕正会」の熱心な信者だったこともあった。お姉さんにバレンタインデーに駅まで呼び出されて、もしかして僕に気があるのかと内心バクバクしながらのこのこ出向いたら、「実は富士山の近くに大変ご利益がある曼荼羅があって」と切り出されたときには、さすがに泣きたくなった(そのあと速攻で生保会社にチクりの電話を入れた。笑)。

僕は無神論者だが、信仰を否定しない。
趣味の一環として、30年以上かけて1000体以上の仏像を(美術品として)鑑賞して回ってきた僕が、ほとけを信仰する人々の素朴な宗教心を、望ましく思わないわけがない。
信仰している人が布教するのも、むしろ当たり前の行為だと思う。
相手の信仰や無宗教を認容し共存するよりも、自分の信じる「真実」を分け与えたいと考えるほうが、宗教者としてはまともだとすら考える。

だが、やはり布教されるのは、率直に言って迷惑だ。
皆さんが真剣なのはわかっているし、優しくもしてあげたいし、駅でエホバの証人が「エホバ立ち」(独特の姿勢)で寒い中ポーズを決めているのを見るとつい応援したくなる。
それでもふつうに考えて、宗教の勧誘はウザがられて当然だと思う。

そんなこんなで、僕は「前半のヒュー・グラント」には全幅の共感を抱かざるを得ないし、だからこそ後半に単なるバカ&サイコに堕していくヒュー・グラントには、がっかりせざるを得ない。
前半のテイストのまま、ひたすら私的な公会議を美少女ふたりとえんえん繰り広げてくれたら、さぞ傑作になったろうになあ。

― ― ― ―

●「魔法の下着」という「きっかけのキーワード」が、ちゃんと二回ともバリバリに機能していたのはネタとして面白かったけど、「魔法の下着」って、パンフによれば「モルモン教徒が性交渉や自慰行為から身を守るために着る独特の下着」のことで、「この下着を正しく身に着ければ、誘惑や悪から身を守ってくれるとされる」らしい。全く知らなかった。
だから、わざわざこれを反撃のキーワードにしたんですな。

●アメリカでもモルモン教徒は思い切りカルト扱いなんだね。出だしでモルモン教徒とは言わないまでも、「ユタ州ソルトレイク」と言った瞬間に「ああそうか」とわかる感じ。町の若者からも「ウィアード」扱いでひどい悪戯されてるし。こんなにふたりとも超可愛いのにクソガキどもに迫害されるなんて、本当にあってはならないことだと思う(ルッキズムw)。

●ブルーベリーパイに特別な意味合いがあるのかと思ったのだが、映画を観ているあいだはわからず。単に「パイを焼いてると思ったら、アロマキャンドルだった」ってだけのネタ?

●モルモン教が一夫多妻制を敷きながら、それを後から辞めて世間に妥協したとヒュー・グラントは責める。そんな簡単に変えられる教義ならそれはそもそも欺瞞ではないのか、と。で、自分は似たり寄ったりのああいうことをやってるわけですね。初志貫徹というか同族嫌悪というか。

●パンフ掲載のヒュー・グラントのインタビューが妙に面白かった。
「私は自分の仕事が嫌いなんです。(略)撮影中に1、2度パニックで凍りついたことがあり、常に恐怖状態にあります。それが私と撮影現場全体に暗い影を落としています」
「私はメッセージが嫌いなんです。映画や本、小説など架空のものには決してメッセージがあるべきではないと思います。メッセージを伝えたり、政治的社会的、何かの主張をしたいなら、他に適した媒体があるでしょう。創造的なストーリーテリングは、ただそれだけを伝えるためにあります。映画クリエイターや作家が『これが私が伝えたいメッセージだ』と言い始めたとたん、彼らはくだらないクリエイターに成り下がると思います。それが私の考えです」
久しぶりにこんな見識に富んだ俳優の見解を拝聴した。よくぞいった。
左派系監督の激怒しそうなことを、まるで「無神論者」のように高らかに主張している。
だから彼はキャリアの初期をロマンティック・コメディに捧げていたのか!
そりゃオックスフォード出の、バリバリのインテリなんだもんね。
ヒュー様、100%あなたのご意見に賛同します。
ぜひ弟子にしてください(笑)。

じゃい
ノーキッキングさんのコメント
2025年5月23日

A24といえども付いている保険会社のダメ出しには逆らえないし、現政権下で増長している白人キリスト教福音派は興収に影響大。ましてモ教なんかいじったらヤバイですよね。あくまでグラント主演のエンタメということで……

ノーキッキング
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