劇場公開日 2025年4月25日

異端者の家 : 映画評論・批評

2025年4月22日更新

2025年4月25日よりTOHOシネマズ日比谷ほかにてロードショー

宗教や音楽、そして映画も反復の歴史によって成立している

音楽のメロディは「パターンが出尽くした」と論じられて久しい。一方で、ワンオクターブ内の8音階で構成されるパターンは、約783億通りあるとの検証も存在する。つまり、有限ではあるものの「パターンが出尽くしたとは言えない」というのが本当のところのようなのだ。とはいえ、私たちは時折“似たようなメロディ”に遭遇する。「あの歌のあのメロディは、この歌にどこか似ている」というような感覚は、誰しも覚えがあるだろう。音楽を作る側にとって、また音楽を聴く側にとっても、音階が導く強力な引力のようなものを作用させる魅力的なメロディのパターンがあるからこそ、意図せず似てしまうということなのだ。

異端者の家」(2024)は、布教のために森の中の一軒家を訪れた2人の若いシスター(ソフィー・サッチャークロエ・イースト)が、家主のリード(ヒュー・グラント)と宗教論争を交わすうち、彼の手中にはまって監禁されてしまうという物語。「モーリス」(1987)などで1980年代の英国美男子俳優ブームを牽引するひとりだった、ヒュー・グラントの悪役ぶりには隔世の感もある。仕掛けだらけの家からシスターたちがどのように脱出を図るのか? という頭脳戦も本作の魅力のひとつ。そのことと同等に重要だと思わせるのは、<宗教>というモチーフを基にした対話の数々。リードは彼女たちの基本的な価値観(=宗教)を問うことで、宗教(=信じること)に対する信条を揺さぶってゆくのである。

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そのプロセスで、議題のひとつとなるのが<音楽>。ホリーズの「安らぎの世界へ」とレディオヘッドの「クリープ」は、メロディが似ていることから盗作疑惑による著作権侵害で訴えられるに至ったが、今度はラナ・デル・レイの「ゲット・フリー」が「クリープ」に似ているとして、レディオヘッドが訴訟を起こす側になったという経緯がある。転じて、音楽文化が反復されてきたことと同じように、すべての宗教も互いの繰り返し(反復)の歴史によって成り立っている。それゆえ「根本は同じ」だとリードは若きシスターたちに説くのである。そもそも、何がオリジナルで、どうリミックスされたのか? という批評的な視点は、今作にも当てはまるもの。例えば、「コレクター(1965)」や「羊たちの沈黙」(1990)など、サイコパスの棲家から脱出を図る女性の姿を描いた作品は、枚挙にいとまがないほど量産されてきたという歴史がある。つまり、オリジナル脚本を映像化した「異端者の家」といえども、反復の歴史によって生まれた作品だというわけなのだ。

そういった自虐に対して臆さない姿勢は、今作の「これまでも似たような映画はあるけれど、どれにも似ていない」という個性の源泉になっていることを窺わせる。限定された空間を舞台に、ほぼ3人だけで物語が展開されてゆくミニマムな作品ながら、観客は製作陣が仕掛けたミスリードに翻弄されてしまう。シスターたちが監禁された家屋の深部へと進むにつれて、リードが抱える深層心理の層も深掘りされ、衝撃の真相を段階的に目撃するという構成は見事だ。もうひとつ興味深いのは、監督もまた若きシスターたちと同じように、スコット・ベックブライアン・ウッズという“ふたり”である点。劇中ではリードが2択を迫る場面があるが、選択の結果は(リードにとって)どちらも正解で、(シスターたちにとって)どちらも間違いであると描かれている。その複合的な視点は、己の価値観を揺さぶってゆくこととも無縁ではないはずだ。

松崎健夫

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