劇場公開日 2025年4月4日

「PCのGUIと複数ウインドウから着想した1989年の原作漫画の前衛性は失われ、「ここ」に縛られる不自由さが残った」HERE 時を越えて 高森 郁哉さんの映画レビュー(感想・評価)

3.0PCのGUIと複数ウインドウから着想した1989年の原作漫画の前衛性は失われ、「ここ」に縛られる不自由さが残った

2025年4月6日
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鑑賞方法:試写会

ロバート・ゼメキスは大成してからも開拓精神を失わない稀有な映画監督で、当代の最新技術を導入した映像で観客を驚かせ続けてきた。2019年日本公開作「マーウェン」の映画評を担当した際は、『「永遠に美しく…」「フォレスト・ガンプ 一期一会」で90年代ハリウッドのCG視覚効果による映像革命を、ジェームズ・キャメロンやスティーブン・スピルバーグとともに牽引したロバート・ゼメキス監督』と書いた。だが、興行的・批評的ともに成功した傑作群を高打率で世に送り出してきたスピルバーグとキャメロンに比べ、ゼメキスの場合はその実験精神が空回りして幅広い評価や支持を得られなかった作品も多い。残念ながら「HERE 時を越えて」も微妙な出来に留まっている。

原作は米国人漫画家リチャード・マグワイアが1989年に6ページの短編漫画として発表し、2014年には304ページのグラフィックノベルとして出版した「Here」。マグワイアはインタビューで、1980年代にMacintoshやウインドウズPCによって普及したGUI(グラフィック・ユーザー・インターフェイス)とマルチウインドウから、1つのコマの中に別の時代を映す小さな“窓”を描くことを着想したと語っていた。

GUIが普及する前はテキストベースのコマンドを打ち込んで処理を実行させるインターフェースだったから、マウスでファイルをつかんで別のフォルダに移動させるといった操作は直感的だったし、デスクトップ上にテキストを扱うウインドウや画像を表示するウインドウなどを複数同時に並べられるのも便利で画期的だった。1980年代にコンピュータの分野で起きていた革命を漫画表現に応用したという点で、マグワイアの「Here」は確かに当時前衛的だっただろう。

映画「HERE 時を越えて」も、マグワイアのコンセプトを踏襲し、全体のフレーム(親画面)の中に別の時代を映す小さな窓(子画面)を複数出現させ、子画面が伸長して親画面になるなどしてさまざまな時代を行ったり来たりする。カメラはほぼ全編で定点観測のスタイルにこだわり、キャラクターを別の角度からとらえることもなければ、クローズアップして表情に寄っていくこともない(俳優がカメラに近づいてアップになることはあるが)。

このスタイルにこだわった映像を観続けているうちに、映画鑑賞とは自分が同じ席(ここ)に座ってスクリーンを眺める行為だということを改めて思い知らされる気がしてきた。従来の映画、作品の世界に没入できるタイプの映画なら、自分の物理的な居場所から解き放たれ、カメラが移動したりカットでシーンが変わったりするたび、海でも山でも外国でも瞬時に移動した気分になれる。だが本作の、スクリーン上に展開するさまざまな時代の映像を定点から見続けるというスタイルが、いかに窮屈で不自由なことか。その意味で、作品世界に没入して今の居場所(さらに言えば“今の自分”)を忘れさせてくれる自由さがあるからこそ、映画鑑賞は素晴らしいのだということを、本作から反面教師のように教わった気がする。

高森 郁哉
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