邪悪なるもののレビュー・感想・評価
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スタートから分からん
小さな小さな村に何故か悪魔に取り憑かれた男が居るかと思えば「腐敗者が我等の土地を汚した」と根拠無く地主は暴走して腐敗者を路上遺棄して、やがて自身と妻も良く分からん終わり方を迎える。
主人公のアルゼンチン版マリオブラザーズみたいな兄弟も事の起源や解決策を探すのでは無くただ暴走するだけ。
序盤の村から結構離れているはずなのに道中、血まみれでフラフラしていても誰とも会わない不思議な世界。
悪魔なのか、感染ゾンビなのか
一本通るスタイルがないホラー。
●村を出ない方が絶対、気味悪く怖いと思う。
●悪魔感がないし、パニック感もない。どういう恐怖の種類なのか中途半端でノレない。
序盤の雰囲気や、突発的な殺しは見せ方が良かった。
ザ・傾聴の姿勢
悪魔憑き+パンデミックという、盛りだくさんのホラーでした。
全体的に怖がらせ方はアルゼンチン流で、ハリウッド系ホラーのジャンプスケアや、Jホラーの『お分かりいただけただろうか』とは、全く違いました。
ジャンプスケアの代わりにコンマ五秒で暴力に切り替わるし、お分かりも何も、大抵のことは目の前で起きていた感じです。
特に、マスチフ犬とヴィッキーの場面では、私と隣のおじさんは座席から数ミリ浮いたと思います。
現実と地続きのようで、教会が役目を終えたという設定があり、悪魔憑き=感染症のような扱いです。それほど頻度が高くないのか、警察も『悪魔に憑かれた』という通報から一年ぐらい放置したり、積極的に触れようとしません。
放っておいたら朽ちて終わるんじゃね? みたいな扱いです。
興味深かったのは、主人公の母親が『都市の病気でしょ?』と言っていた辺りでした。
どことなく他人事で、実際本編で起きることのほとんどは、悪魔という存在を抜きにしても動物や人間の行動でそれとなく説明がつく辺りが、巧みでした。
・森の中で起きた猟奇殺人
・斧で刻まれた農場主とその妻
・子供を連れ去りに来る厄介者の元夫
・手懐けていたはずのマスチフ犬に顔を食いちぎられる子供
・元夫から子供を連れ戻したら、元夫の弟に車で轢かれる元夫の嫁
どれも、ニュースで一度は記事になったことがあるような出来事です。悪魔と思うから怖いのであって、現実にみんな共存しています。
加えて、悪魔に憑かれた人間に近づいてはならない、着ていた服に触ったりしてもいけないなど、こういった設定の塩梅は、どことなくコロナ禍の初期を彷彿とさせます。何より、この映画の悪魔には対処法があり、ルールもあります。
とは言え、接触してはいけないと分かっていても声をかけてしまうし、自分だけはルールから逸れたことをやってしまう。親しい相手だったり、自分がど真ん中に放り込まれたりすると、やっちゃいけないことをやってしまうものです。
でも、ペドロ。
あんたはもうちょい 人の 話を 聞け(笑)
どのコミュニティでも「厄介な人」扱いを受けている辺りが、リアルでした。悪気はないけど、突っ走りすぎて周りが酷い目に遭う。私の周りにも、こんな人はたくさんいます。
個人的には、ウリエルと戦うときに、首の後ろに刺せと言われていたダガーナイフ?を探すのではなく、手近な別の部品で頭をタコ殴りにする場面が好きです。
関西弁ではこういうとき「ちゃうて」と突っ込みますが、半年分の在庫を一本の映画で使い切りました。
結局悪魔の子供が誕生してしまい、「サンキュな」みたいな感じで頭に手を置かれたり、結果は散々。フルパワー往復ビンタを食わせたばかりの子供が「斧はあっちよ」って、言うわけないでしょうが。
それに、車で眠るジャイルから出てくる絵は、赤色に塗られた人型が朝日に照らされているという構図で、あれこそまさに悪魔の子供が誕生する瞬間の予言なのに、「ほーん」みたいな感じで眠ったり。もうちょい、周りを見ろと。
設定は凝っていますが、完成するのに五分かかるラーメンなのに、ペドロが三分で食べ始めた感じでした。
無知なるものと、善人だと思い込んでいるものが、悪魔に一番近いのかもしれません
2025.2.6 字幕 アップリンク京都
2023年のアルゼンチン&アメリカ合作の映画(100分、R15+)
ある田舎町の異変を描いた伝染系ホラー映画
監督&脚本はデミアン・ルグナ
原題は『Cuando acecha la maldad』、英題は『When Evil Lurks』で、ともに「悪魔が潜むとき」と言う意味
物語の舞台は、アルゼンチンのヘネラル・ピラン郊外の田舎町
そこに住むペドロ(エセキエル・ロドリゲス)とジミー(デミアン・サロモン)は、ある夜に奇妙な銃声を聞いてしまう
ペドロは猟銃ではなくリボルバー式の拳銃の音だと言い、夜が明けてから探索をすることになった
一帯は地主のルイス(Luis Ziembrowski)が仕切っていて、ペドロも隣人のマリア・エレナ(Isabel Quinteros)も借地人として農場を経営していた
森に入った二人は、そこでマリア・エレナの家へと向かったと思われる一体の惨殺死体を発見する
鋭利な刃物で体を真っ二つに切り裂かれていて、そばにはジミーが見覚えのある何かの部品が散乱していた
ともかくマリア・エレナの家に行けば何かわかると思って向かう
だが、そこには「腐敗者」となった彼女の息子のウリエル(Pablo Galarza&Gonzalo Galarza、声:Berta Muñiz)がいて、彼女らは「処理人」を待っていた
だが、その処理人はたどり着く前に何者かに殺されていて、ペドロがそれを伝えることになった
物語は、ペドロが地主のルイス(Luis Ziembrowski)に相談をして、ウリエルを村の郊外に捨てようと考えるところから動き出す
村から数百キロ離れた場所に向かうものの、通行人と事故りそうになってしまう
何とか目的地に辿り着いたものの、いつの間にかウリエルはどこかに消えていて、通行人を避けようと急ブレーキを踏んだ時に落ちたのではないかと思われた
ペドロは「探すべきだ」と主張するものの、ルイスは「村からかなり離れたから問題ない」と言って、探すこともなく村に戻ることになった
だが、この事態を重くみたペドロは、家族を連れて村を脱出しようと試みる
母サラ(Paula Rubinsztein)を連れて、元妻のサブリナ(Virginia Garófalo)のところに向かうものの、かつての事件で「接近禁止命令」が下っていて、彼女は拒否反応を示す
彼女の今の夫レオ(Federico Liss)もパブロがとち狂ったを考えるものの、パブロは強硬な姿勢を崩さない
彼は自分の息子ジャイル(エミリオ・ボダノヴィッチ)を車に乗せ、レオの息子・サンティーノ(Marcelo Michimaux)と娘のビッキー(Lucrecia Nirón Talazac)も連れて行こうとする
だが、そこでレオの愛犬ロジャーがいきなりビッキーを襲ってどこかに消えてしまい、それを起点として、カオスな世界が訪れてしまうのである
映画では、悪魔に憑かれたものを「腐敗者」と呼び、それと遭遇した時には「7つのルール」というものがあった
サラはサンティーノに対して、「電気をつけてはダメ」「動物に近づいたらダメ」「悪魔憑きに近づいたものを身につけてはダメ」「彼らを傷つけてはダメ」「悪魔の名前を呼んではダメ」という6つのルールを伝える
サンティーノは一つ足りないというものの、サラはそれで全部だと思い込んでいた
そして、最後の一つは、ジミーの知り合いである元処理人のミルタ(シルヴィナ・サバテール)によって、「死を恐れては行けない」というものが判明する流れになっている
最後の一つを含め、そのルールは「処理人のルール」のようなもので、それを知る人々は災厄を避けることができるという感じに思えた
だが、無知なる者は禁忌を犯し、それによって悪魔は「伝染」してしまうのである
この悪魔は、コロナをモチーフにしている印象があって、それゆえに「伝染」という言い方をしているのだと思う
また、教会は滅んだというが、医療崩壊を起こしているようにも聞こえてくる
体が腐るものもいれば、精神を侵されるものもいて、腐敗の場合は進行速度も遅く治癒も難しい
だが、主に子供たちが感染して起こる瞬間的な精神支配の方は、免疫が作られれば元に戻るのかな、と思った
パンフレットなどが作られていないので、どのような意図で作られたのかはわからないのだが、腐敗者の体液を受けてはダメとか、さわってしまったら体を清める、服を燃やすなどの対応が、そのまま強度な感染症への対策のように思えた
いずれにせよ、ほとんどのキャラが喚き散らして理性的な行動を取れないところとか、善人だと思っている主人公が一番ヤバい行動をするなどの面白みがあって良かった
グロ描写はそこそこあるので耐性が必要だが、ウリエルがキモいのと、最後のシーンがちょっと気持ち悪さがあるかなと思った
田舎町で情報が伝聞しかないというところがリアルで、主人公がキリスト教の聖人の名前なのも色々と攻めているなあと思った
悪鬼のウイルス?
あえて今さら悪魔憑きものであることや、予告の雰囲気に惹かれて観たが…
とりあえず、登場人物がことごとく人の話を聞かないし終始喚き散らすしでストレスが溜まった。
また、悪魔憑きに法則性がなさ過ぎて意味不明。
他は凶暴化するのにウリエルは膨れて腐り、娘は即座に治癒したのにサブリナは怪我したまま。
というかサブリナは殺された側なのに何故悪魔に?
ウリエルの膿がアウトならマリアも憑かれるハズでは。
サブリナを轢いたジミーも、ウリエルを殺したペドロも何故か平気。
処理人がどう対応するかも結局不明で、7つのルールも特に活きてこない。
ってか、『傷付けるな』と『銃で撃つな』は同義だし、7つ目の『死を恐れるな』は無理ゲーです。
悪魔憑き自体はそれなりに認知されてるのに、対処法が周知されてないのも謎。
ペドロが警官から嫌悪され、元妻や子供に接近禁止令が出ている経緯も特に明かされない。
最後はミルタの家に母がいないことに疑問を抱かず、結局そのまま自宅に戻ってきてしまう。
悪魔の子(?)が生まれたところで終わってよかったのでは。
散々喚いてたのに、ミルタの断末魔やペドロの最後の叫びはなんであんなに下手なんだろ。
ラストカットで無駄に長回ししたせいで、手持無沙汰なジミーがウロウロしててかわいかった。
いっさい容赦も忖度もなし!『ミスト』を強烈に意識した南米産のオカルティック・ホラー。
感想欄では評価が二分されているようだが、個人的にはめちゃ面白かった。
悪魔憑きがテーマっていうけど、
これ、祖型となってるのはきっと『ミスト』(2007)だよね。
スティーヴン・キング原作(1980)で、フランク・ダラボンが監督した映画。
本稿では、『ミスト』のラストを思い切りネタばらししちゃってるので、未見かつ今後観る可能性のある方は、ここで僕の感想は閉じていただければ幸いです。
― ― ― ―
『ミスト』がなぜ衝撃的だったかというと、いわゆる「アメリカン・ヒーロー」の全否定という恐ろしい皮肉を利かせた映画だったからだ。
いかにもヒーロー然として登場したベビーフェイス(善玉面)の主人公が、いかにもヒーローらしくふるまってその他大勢の人々を導こうとするのだが、最終的に彼の判断は「すべて間違っていて、すべて裏目に出る」。
付き従った連中は片端から死んでいくわ、一番助けたかった自分の子供まで手に掛けるはめになるわ、それすらもすべて「早とちり」で、結局彼についていかなかったその他全員が助かる、というきわめてシニカルな結末。
要するに、アメリカ映画で一般的だった「ルール」(マッチョでエネルギッシュな主人公は間違わない、子供は犠牲にならない)を逆手に取った「イヤミス」ぶりが、アメリカ合衆国の権勢と正義の凋落と軌を一にしているように思えたことで、観客の心胆を寒からしめたのだ。
『邪悪なるもの』のプロットは、おおむね『ミスト』のそれに呼応している。
得体の知れない異形の怪異の日常への侵食。
対応方法についての村民間の意見の相違。
主人公の決断するスピード感と行動力。
最大の目的が「息子を守ること」である点。
結果的に「すべてが裏目に出る」最悪の展開。
彼の行動に巻き込まれた周囲の「全員」が、
とばっちりを受けて凄惨な死を迎える点。
妻を喪い、息子を喪い、悪魔祓いに失敗するバッドエンド。
本作でも、ヒーローは彼なりの決断を下して行動するが、結果的には「悪魔憑き」のパンデミックを街へと拡大し、世界滅亡への終末時計を進める役割しか果たさない。
彼がいちばん守ろうと腐心した子供たちには、悲惨な末路が待ち構える。
『ミスト』と違うのは、主人公がバカにしか見えない点だ。
『ミスト』の主人公は、「アメリカン・ヒーロー」に「擬態」していた。
『邪悪なるもの』の主人公は、魯鈍で、直情的で、コミュ障で、血のめぐりが悪い。
観客が「やめとけばいいのに」と思うことばかりを順繰りにやって、どんどんとドツボにはまっていく。その意味では、コーエン兄弟のテイストに近い部分がある。
さらに、『ミスト』においてはまだ一応のところいったん、「世界は救われた」。
だが本作のラストでは、反キリスト(アンチ・キリスト)が復活し、世界はしれっと滅亡する。
その意味で本作は、『ミスト』以上に「最悪」を極めている。
この映画における悪は、だれにでも無差別に牙をむき、
そこには容赦もなければ、忖度も、遠慮もない。
そして基本的に、善は悪に勝つことができない。
でも、これはこれで、とても「リアル」な恐怖映画だと思う。
むしろ、アメリカの「ルールまみれ」のホラーのほうが、実は道徳律に縛られた、よほど「不自然」で「いびつな」物語だともいえはしまいか。
たとえば、アメリカの一般的なホラーでは、子供や弱者、けなげなヒロインはだいたい助かることが多い。あと、ペットの犬が頑張って活躍したりとか。
でも、『邪悪なるもの』は違う。むしろそのノリは、イタリアのジャッロやルチオ・フルチの残酷ホラーに近い。「弱いもの」から順番にやられていく(フルチはとくに、子供を殺すことにためらいのない監督だった。ちなみに、アルゼンチンは南米にありながら国民の多くがイタリア人移民の血筋という白人主導の国家であり、イタリアとの文化的なつながりは深い)。
悪魔に魅入られるときに、最初に支配されるのは、
あたまが弱くて、精神が弱くて、防御の弱い順だ。
すなわち、動物がまず犯されて、
子供が次に汚染されて、
障碍者が手もなく篭絡させられ、
そのあと老人と女がやられる。
これが、世界の「弱肉強食」の「正しい」ルールなのだ、本当にリアルな現実なのだ、という話は、『胸騒ぎ』(2022)の感想でもまったく同じことを書いた。
僕はこういう「正しい」ホラーが好きだ。
弱いものから狩られていく、犠牲者の選定になんの忖度もないホラーが。
「悪いことをやった人間から罰を受けるように始末されていく」凡百のホラーや、「観客のためを思って子供は最後まで生き残らせる」上品なホラーより、「まっとうな因果律で編まれたホラー」のほうが、よほど世界の現実を知るよすがになると思う。
今度10年ぶりの新刊が出るジャック・ケッチャムの小説群などは、まさにそういった「天災」としての理不尽な加害と、屠られる犠牲者の酷薄な運命を学ぶ、恰好の教材だ。
『邪悪なるもの』の根底に流れているのも、まさにケッチャム的な運命観にほかならない。
主人公が「底抜けのバカ」なのも、実にリアルだ。
あまりこんなことを書いていると運営さんに削除されそうだが(笑)、
あんな僻地の農村で、そんなに頭のいいやつなど、いるわけがないのだ。
粗暴で、勝手で、弱虫で、いざというところで判断を間違う。
やるなといわれたことをやる。
行くなといわれたほうに行く。
妻に暴力をふるう。
障碍者の子供をもてあまして捨てる。
でも、弟とはホモソーシャルな血縁の愛情で結ばれている。
ああ、いかにも、こういう村にいそうな男ではないか。
(ちょっとエストニアの幻想映画『ノベンバー』(2017)の村民たちを想起させる。そういえば、あれもまさに「悪魔」が「動物に乗って」結界を破って村に侵入してくる話だった。時系列的に、本作の監督が『ノベンバー』を観て参考にしていてもちっともおかしくないように思う。)
それどころか、出てくる人間はアホばっかりだ。
わざわざ「元凶」の死体を移動し、撃つなと言われてる動物を撃つ農場主。
触るなと言われてる「腐乱者」を触りまくり、汁をまき散らして回る三バカトリオ。
挙句に、兄弟は感染した体で街まで出張ってパンデミックを暴発させる。
奥さんは奥さんでろくに話を聞かないただのヒステリー女だし、主人公は主人公でろくに説明をしない。
おばあちゃんは正常化バイアスにとらわれ、弟は事態の深刻さをイマイチ理解できていない。ちょっと月影先生みたいなたたずまいの「処理人」の女性だけがまともだが、こういう指導的立場の人間が容赦なくやられるのも、『エクソシスト』(73)の神父や『ジョーズ』(75)の船長でも見られた、古くからのギミックだ。
その後も、主人公は判断を間違いつづけ、処理人のおばちゃんまで見殺しに。
あれだけ悪魔憑きだと警告されていた長男と、自分の母親を家に置き去りにして悪魔退治にでかけたのには、さすがに呆れた。
だが、彼らの行動は、ある意味とてもリアルだ。
人は実際に追いつめられたとき、
ちゃんとした行動など、とれるわけがないのだから。
超常現象の在り方も、実にリアルだと思う。
この映画における融通無碍な「悪魔」顕現のヴァリエーションに違和感を覚えるのは、むしろアメリカ的な「ルール」と「法則」重視の、型にはまったホラーに身体が馴染みすぎているからではないか。
この映画の悪魔は、とにかく、ありようが茫洋としている。
肉体変容と腫瘍状の腐乱という、糖尿病や癌を思わせる身体破壊恐怖の形を取ることもあれば、動物を介して乗り移ることもある(そのまんまコロナのアナロジーとなっている)。さくっと殺してくることもあれば、精神を乗っ取って操ってくることもある。犠牲者は殺されたままの姿で徘徊することもあれば(母親)、なぜか無傷で悪魔の僕として戻って来ることもある(娘)。
起きる現象が一貫しない。現実的なロジックで組み立てられていない。悪魔憑きが出た時の「7つのルール」というのも、あやふやでとらえどころがない。
(悪魔の立ち現れ方の幅が広いというのは、ちょっと『オーメン』(76)に近いかも)
むしろ「本人が怖いと思っていること」「起きるとイヤだと考えていること」の心理的反射として、「いちばん悪いこと」があらゆるシチュエーションで起きる仕組みになっている。
いわゆる「悪夢のロジック」を用いて「悪魔の絶対的恐怖」が描かれているわけだ。
この教会すら廃れ果てた「神なき国」では、因習と、言い伝えと、被害者本人の恐怖によって、現象は「後追い」で生成され、最悪の形であらゆる人々を汚染し、侵蝕していく。
なにが現実で、なにが幻想か、
なにが原因で、なにが結果かは、
もはやどうでもいい。
「恐怖の澱み」のなかでは、
あらゆる怪奇体験が発生し、
人の心をへし折り、諦めさせ、
悪魔へと隷従させていくのだ。
― ― ― ―
この映画では、「犠牲者のルール」もなければ、「起きる現象のルール」もあやふやだ。
したがってジャンル感もあやふやで、ゾンビも出てくれば、『クージョ』(81)みたいな犬も出てくるし、悪魔憑きによる肉体変容も出てくる。
家族を食べちゃうゾンビネタは『ブレインデッド』(92)でも似たネタがあった。
メンチを切ってくるヤギなんかは『LAMB/ラム』(2021)を想起させるし、先述したとおり、動物に乗って悪魔が村の結界を越えるのは、『ノベンバー』と共通する。
そもそも、今回の「悪魔憑き」の設定は、強くコロナ禍のパンデミック恐怖と結びついている。
後半には、『ザ・チャイルド』(76)みたいな「おそるべき子供たち」も登場する。
あるいは、マリオ・バーヴァの『呪いの館』(66)の影響もあるかも。
悪魔に取り憑かれた少女が言葉巧みに騙してくるあたりは、しっかり『エクソシスト』の系譜の作品群からネタを持ってきているし、急な交通事故などは『オーメン』を想起させる部分もある。
ラストにおける反キリスト(アンチ・キリスト)誕生は、『エクソシスト』や『オーメン』『ローズマリーの赤ちゃん』でも展開された、まさに悪魔たちの「本願」である。
主人公の額につけられた悪魔の紋章は、まるでその愚かさゆえに自らの復活に「おおいに役に立ってくれた」下僕へのご褒美であるかのようだ。
こういった、「あらゆるホラーからいただいてきた」ネタの雑駁な詰め込みように加えて、土着的な幻想や伝承が現実世界と混淆しているようなボルヘス的な魔術性や、幻想シーンと現実シーンがシームレスに同居するブニュエル的なモンタージュからは、「南米」らしいテイストが強烈に感じられる。しれっと「教会の廃れた世界」といった宗教的なSF要素をかませてくるあたりも、いかにも南米の映画っぽい。
映画としての出来が、相応にきちんとして見えるのもポイントが高い。
おそらく低予算映画だとは思うのだが、そのわりに映像感覚としてチープな印象があまりなく、一貫した美意識と冷え冷えとした鈍色の色彩感覚で貫かれている。
いわゆる「爆弾理論」(時間制限で爆発することのわかってるものを交互に映すことでサスペンスを高める手法)のモンタージュを多用しているのも見どころで、犬の周囲をぐるぐる回りながら撫でる幼女とか、悪魔の名前をつぶやき続ける自閉症児とか、「あああ、気を付けてえええ!」みたいなシーンが頻出する。羊と斧の出てくる例の意想外な殺戮連鎖シーンと、いきなり自閉症児がぺらぺらしゃべりだすシーンの怖さは、本作の白眉といえる。
一方で、いわゆるジャンプスケアは極力抑えて使用していて、観客の目をそらさせることなく、じっくりと「ひどい」シーンをガン見させる方向で演出しているかのようだ。
つくづく優秀な監督さんだな、と思う。
観のがしていたデミアン・ルグナ監督の前作『テリファイド』も、ぜひ観てみたくなった。
鑑賞動機:テリファイド9割、予告での容赦ない斧の振り下ろしっぷり1割
子供は観ちゃダメですよー。
暗闇での銃声とふたりのおっさんの緊迫したようすから始まるので、「これは前菜にされちゃう人たちね」と思ったら…あんたら主人公かーい。
悪魔付きが伝播するという設定をいつ飲み込めるかでだいぶ印象変わる気がする。
グロテスク描写というか、精神攻撃がすごいかも。子供もお年寄りも妊婦も容赦や忖度0なので。犬は酷い目には合わない…犬に酷い目に合わされるのですけどね。
不満は既存の悪魔の枠組みであるように見えること。名付けられない純粋に邪悪なるものだったらなあ。
まあでもお約束の範疇を超えてくるということで、中南米ホラーには今後も期待したい。
悪魔的?病気的!
銃声の音がした夜の翌日、辺りを散策し変死体を見つけた兄弟ペドロとジミーの話。
変死体から出てきた物を頼りに一軒の家に辿り着くと…、置くの部屋で寝る腐敗(悪魔に取り憑かれる)し始めた男を見つけたことで事は起こる。
部屋に寝る体中から膿男に悪魔的なこと!?いやっ病気でしょ!と、ツッコミと疑問を持ちつつも…。やはりお国柄?!もあり、この手の作品、悪魔絡みは正直怖くない、元々ホラー、心霊系は好物な私だからってのもあると思うけれど。
ただ本作にあった斧で旦那の顔を殺っちゃって、その後、奥さん自身も斧で顔を切るとか分かりやすく例えるなら「ミッドサマー」的な気持ち悪さはあったかな。
上映時間約100分とあったけど何一つ解決してませんね…、てか状況悪化(笑)
不気味な映画
あの兄弟に、特に兄貴にイライラ。ことごとくやる事、判断を間違えたよね。結局は悪を拡大し被害者を広げただけ。しまいにはあーいうエンド。最後のかすかな光だった彼女を信じなかったの事はかばいようもない落ち度。彼の教養の無さが招いた災いとしかいいようがない。怖さより不気味さとイライラした。でも面白かった(笑)
映画が臭う!!
この映画には、入り口も出口もない!
Evil comes in many forms, and
whether you are male or female,
that doesn't matter as much as
what lurks in your mind.
ヤングアダルト向け小説家サバア・タヒア(New York Times-bestselling)の語録より そして何よりもこれより
The Man Who Can Scare Stephen King...
の見出しで始まる "American Heritage" による1995年のコラムより一部抜粋
“Lovecraft. . . opened the way for
me,” writes King, “as he had done
for others before me.... it is his
shadow, so long and gaunt, and his
eyes, so dark and puritanical, which
overlie almost all of the important
horror fiction that has come since.”
邪神の名前である「Cthulhu」は、本来人間には発音不可能な音で現在でもハッキリとはしていない... ので、建前上「クトゥルフ神話」と呼ばれている。何故なら、その神話の創設者であり怪奇小説・幻想小説の先駆者の一人である彼は、夭折し、名前すら知らていない為に... 付け加えると、このような事を何故?載せるのかというと彼の思想的宇宙観は、地球というちっぽけなモノではなく、本作に登場する "悪" のような人の理解の範疇を越えた邪神とあたしは捉えている為に
話を映画に戻すと...
Mom: You don't kill evil like that,
it will be worse.
Her son: If you kill him, you die.
Mom: It will take our bodies, it will
take our souls. Don't do it,
please, it will make it worse.
この警告を無視したジミーとペドロの兄弟は、今後、果てしのない悪夢を見続けることとなる。
ストリー展開やシナリオ自体は単純明快で分かり易くできていて、それでも本作『When Evil Lurks』が人々を夢中にし虜にさせるのは、想像もできない "モノ" の設定と精巧にできたギミックによるゴアな表現であり、その巨大化したヒキガエルともジャバ・ザ・ハットとも例えることもできるウリエルの気色の悪さや血生臭さ、そして、彼の体から流れる浸出液のグロテスクさは画面を見ているだけで臭ってきそうにも感じる。ただ、少し誇張ですので失礼しました。(※そんなゴア表現の中でも映画製作者に対して好感が持てるシーンがある。あまり詳しくは言いたくはないが、少女を〇めるところでは、何故か稚拙な人形で代替えをしていた。)
Mirta: Evil loves children.
And children love evil.
男の名前にもなったウリエルとは何者なのか?
『ペトロの黙示録』にも登場するウリエル... "最後の審判" の時に全ての魂を席に着かせる役割を担い、「懺悔の天使」または「地獄の支配者」として描かれ四大天使の中でもマイナーで知る人は少ない。何故なら、ウリエルだけが堕天使となった理由かもしれない。天界にいる天使が堕落すれば、追放され地上まで堕ちた天使は人間に、またさらに深く堕ちた天使は悪魔になったとされる。
covid-19を彷彿とさせる最も悪質に残酷で無垢で善良な人々の魂と心の深淵をえぐるような不安で不快な際どい映画となっている。アルゼンチンの日本では敵わない程の特殊効果には拍手を送りたい。しかも筋書きをシンプルにしたことで、家族の崩壊が手に取るように明快になったことが反って、第四の壁に阻まれるただ見ている事だけしかできない傍観者となってしまい、それにともなう喪失感が、最後のツイスト・エンディング的ファクターに活かされているのかもしれない。
前出のラドクリフがこんなことを残している。
The oldest and strongest emotion
of mankind is fear, and the oldest
and strongest kind of fear is fear
of the unknown.
深淵と言えば「人生や世界は無意味であり、道徳的な基準は存在しない」と表現しているニヒリストで後に若くして病死をしたニーチェの言葉は、映画の本質を捉えている。
"Whoever fights with monsters
should see to it that he does not
become a monster in the process.
And if You Gaze Long into an Abyss,
the Abyss Also Gazes into You"
最後に
重要なカギとなる7という数字
"Remember the Sabbath day, to keep it holy"
the Sabbath day:安息日
何故一週間が7日になったのかは、ユダヤ教の十戒の第四条からで、もう少し説明を加えると「神は6日間で世界を創造し、7日目に休息し、その日を祝福し聖なる日とした。」
南の島にいた時、日曜日になると大手のスーパーからショッピングモールに至るまでシャッターを閉めて休業をしていた。なれない旅行者が食料品を買う方法といえば、デイリーという個人経営(移民の方が多い)のコンビニのようなショップが、開いていた。この世界は天国では決してないのでそんなことは長続きしないし、天国でしか成立はしないので、経済破綻の結果、現在は、ショッピングモールもスーパーも日曜日も平日と変わらず開いています。(※ジュースなんかを自動販売機で手軽に買えばいいジャンなんて、日本でしか通じません。その当時、島で唯一のコーラの自販機は、ぶっといチェーンでグルグル巻きにされていました。)
そして、キリスト教では別の呼び方をする"七つの大罪"
"七つの大罪" の存在も忘れることは出来ない... のではなくて、忘れることを禁じていると言えるかもしれない。
皆さんは、7をラッキー・セブンとか言って、幸運の数字として捉えている方が多いかもしれないけど、あたしからすると...
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