「いっさい容赦も忖度もなし!『ミスト』を強烈に意識した南米産のオカルティック・ホラー。」邪悪なるもの じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
いっさい容赦も忖度もなし!『ミスト』を強烈に意識した南米産のオカルティック・ホラー。
感想欄では評価が二分されているようだが、個人的にはめちゃ面白かった。
悪魔憑きがテーマっていうけど、
これ、祖型となってるのはきっと『ミスト』(2007)だよね。
スティーヴン・キング原作(1980)で、フランク・ダラボンが監督した映画。
本稿では、『ミスト』のラストを思い切りネタばらししちゃってるので、未見かつ今後観る可能性のある方は、ここで僕の感想は閉じていただければ幸いです。
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『ミスト』がなぜ衝撃的だったかというと、いわゆる「アメリカン・ヒーロー」の全否定という恐ろしい皮肉を利かせた映画だったからだ。
いかにもヒーロー然として登場したベビーフェイス(善玉面)の主人公が、いかにもヒーローらしくふるまってその他大勢の人々を導こうとするのだが、最終的に彼の判断は「すべて間違っていて、すべて裏目に出る」。
付き従った連中は片端から死んでいくわ、一番助けたかった自分の子供まで手に掛けるはめになるわ、それすらもすべて「早とちり」で、結局彼についていかなかったその他全員が助かる、というきわめてシニカルな結末。
要するに、アメリカ映画で一般的だった「ルール」(マッチョでエネルギッシュな主人公は間違わない、子供は犠牲にならない)を逆手に取った「イヤミス」ぶりが、アメリカ合衆国の権勢と正義の凋落と軌を一にしているように思えたことで、観客の心胆を寒からしめたのだ。
『邪悪なるもの』のプロットは、おおむね『ミスト』のそれに呼応している。
得体の知れない異形の怪異の日常への侵食。
対応方法についての村民間の意見の相違。
主人公の決断するスピード感と行動力。
最大の目的が「息子を守ること」である点。
結果的に「すべてが裏目に出る」最悪の展開。
彼の行動に巻き込まれた周囲の「全員」が、
とばっちりを受けて凄惨な死を迎える点。
妻を喪い、息子を喪い、悪魔祓いに失敗するバッドエンド。
本作でも、ヒーローは彼なりの決断を下して行動するが、結果的には「悪魔憑き」のパンデミックを街へと拡大し、世界滅亡への終末時計を進める役割しか果たさない。
彼がいちばん守ろうと腐心した子供たちには、悲惨な末路が待ち構える。
『ミスト』と違うのは、主人公がバカにしか見えない点だ。
『ミスト』の主人公は、「アメリカン・ヒーロー」に「擬態」していた。
『邪悪なるもの』の主人公は、魯鈍で、直情的で、コミュ障で、血のめぐりが悪い。
観客が「やめとけばいいのに」と思うことばかりを順繰りにやって、どんどんとドツボにはまっていく。その意味では、コーエン兄弟のテイストに近い部分がある。
さらに、『ミスト』においてはまだ一応のところいったん、「世界は救われた」。
だが本作のラストでは、反キリスト(アンチ・キリスト)が復活し、世界はしれっと滅亡する。
その意味で本作は、『ミスト』以上に「最悪」を極めている。
この映画における悪は、だれにでも無差別に牙をむき、
そこには容赦もなければ、忖度も、遠慮もない。
そして基本的に、善は悪に勝つことができない。
でも、これはこれで、とても「リアル」な恐怖映画だと思う。
むしろ、アメリカの「ルールまみれ」のホラーのほうが、実は道徳律に縛られた、よほど「不自然」で「いびつな」物語だともいえはしまいか。
たとえば、アメリカの一般的なホラーでは、子供や弱者、けなげなヒロインはだいたい助かることが多い。あと、ペットの犬が頑張って活躍したりとか。
でも、『邪悪なるもの』は違う。むしろそのノリは、イタリアのジャッロやルチオ・フルチの残酷ホラーに近い。「弱いもの」から順番にやられていく(フルチはとくに、子供を殺すことにためらいのない監督だった。ちなみに、アルゼンチンは南米にありながら国民の多くがイタリア人移民の血筋という白人主導の国家であり、イタリアとの文化的なつながりは深い)。
悪魔に魅入られるときに、最初に支配されるのは、
あたまが弱くて、精神が弱くて、防御の弱い順だ。
すなわち、動物がまず犯されて、
子供が次に汚染されて、
障碍者が手もなく篭絡させられ、
そのあと老人と女がやられる。
これが、世界の「弱肉強食」の「正しい」ルールなのだ、本当にリアルな現実なのだ、という話は、『胸騒ぎ』(2022)の感想でもまったく同じことを書いた。
僕はこういう「正しい」ホラーが好きだ。
弱いものから狩られていく、犠牲者の選定になんの忖度もないホラーが。
「悪いことをやった人間から罰を受けるように始末されていく」凡百のホラーや、「観客のためを思って子供は最後まで生き残らせる」上品なホラーより、「まっとうな因果律で編まれたホラー」のほうが、よほど世界の現実を知るよすがになると思う。
今度10年ぶりの新刊が出るジャック・ケッチャムの小説群などは、まさにそういった「天災」としての理不尽な加害と、屠られる犠牲者の酷薄な運命を学ぶ、恰好の教材だ。
『邪悪なるもの』の根底に流れているのも、まさにケッチャム的な運命観にほかならない。
主人公が「底抜けのバカ」なのも、実にリアルだ。
あまりこんなことを書いていると運営さんに削除されそうだが(笑)、
あんな僻地の農村で、そんなに頭のいいやつなど、いるわけがないのだ。
粗暴で、勝手で、弱虫で、いざというところで判断を間違う。
やるなといわれたことをやる。
行くなといわれたほうに行く。
妻に暴力をふるう。
障碍者の子供をもてあまして捨てる。
でも、弟とはホモソーシャルな血縁の愛情で結ばれている。
ああ、いかにも、こういう村にいそうな男ではないか。
(ちょっとエストニアの幻想映画『ノベンバー』(2017)の村民たちを想起させる。そういえば、あれもまさに「悪魔」が「動物に乗って」結界を破って村に侵入してくる話だった。時系列的に、本作の監督が『ノベンバー』を観て参考にしていてもちっともおかしくないように思う。)
それどころか、出てくる人間はアホばっかりだ。
わざわざ「元凶」の死体を移動し、撃つなと言われてる動物を撃つ農場主。
触るなと言われてる「腐乱者」を触りまくり、汁をまき散らして回る三バカトリオ。
挙句に、兄弟は感染した体で街まで出張ってパンデミックを暴発させる。
奥さんは奥さんでろくに話を聞かないただのヒステリー女だし、主人公は主人公でろくに説明をしない。
おばあちゃんは正常化バイアスにとらわれ、弟は事態の深刻さをイマイチ理解できていない。ちょっと月影先生みたいなたたずまいの「処理人」の女性だけがまともだが、こういう指導的立場の人間が容赦なくやられるのも、『エクソシスト』(73)の神父や『ジョーズ』(75)の船長でも見られた、古くからのギミックだ。
その後も、主人公は判断を間違いつづけ、処理人のおばちゃんまで見殺しに。
あれだけ悪魔憑きだと警告されていた長男と、自分の母親を家に置き去りにして悪魔退治にでかけたのには、さすがに呆れた。
だが、彼らの行動は、ある意味とてもリアルだ。
人は実際に追いつめられたとき、
ちゃんとした行動など、とれるわけがないのだから。
超常現象の在り方も、実にリアルだと思う。
この映画における融通無碍な「悪魔」顕現のヴァリエーションに違和感を覚えるのは、むしろアメリカ的な「ルール」と「法則」重視の、型にはまったホラーに身体が馴染みすぎているからではないか。
この映画の悪魔は、とにかく、ありようが茫洋としている。
肉体変容と腫瘍状の腐乱という、糖尿病や癌を思わせる身体破壊恐怖の形を取ることもあれば、動物を介して乗り移ることもある(そのまんまコロナのアナロジーとなっている)。さくっと殺してくることもあれば、精神を乗っ取って操ってくることもある。犠牲者は殺されたままの姿で徘徊することもあれば(母親)、なぜか無傷で悪魔の僕として戻って来ることもある(娘)。
起きる現象が一貫しない。現実的なロジックで組み立てられていない。悪魔憑きが出た時の「7つのルール」というのも、あやふやでとらえどころがない。
(悪魔の立ち現れ方の幅が広いというのは、ちょっと『オーメン』(76)に近いかも)
むしろ「本人が怖いと思っていること」「起きるとイヤだと考えていること」の心理的反射として、「いちばん悪いこと」があらゆるシチュエーションで起きる仕組みになっている。
いわゆる「悪夢のロジック」を用いて「悪魔の絶対的恐怖」が描かれているわけだ。
この教会すら廃れ果てた「神なき国」では、因習と、言い伝えと、被害者本人の恐怖によって、現象は「後追い」で生成され、最悪の形であらゆる人々を汚染し、侵蝕していく。
なにが現実で、なにが幻想か、
なにが原因で、なにが結果かは、
もはやどうでもいい。
「恐怖の澱み」のなかでは、
あらゆる怪奇体験が発生し、
人の心をへし折り、諦めさせ、
悪魔へと隷従させていくのだ。
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この映画では、「犠牲者のルール」もなければ、「起きる現象のルール」もあやふやだ。
したがってジャンル感もあやふやで、ゾンビも出てくれば、『クージョ』(81)みたいな犬も出てくるし、悪魔憑きによる肉体変容も出てくる。
家族を食べちゃうゾンビネタは『ブレインデッド』(92)でも似たネタがあった。
メンチを切ってくるヤギなんかは『LAMB/ラム』(2021)を想起させるし、先述したとおり、動物に乗って悪魔が村の結界を越えるのは、『ノベンバー』と共通する。
そもそも、今回の「悪魔憑き」の設定は、強くコロナ禍のパンデミック恐怖と結びついている。
後半には、『ザ・チャイルド』(76)みたいな「おそるべき子供たち」も登場する。
あるいは、マリオ・バーヴァの『呪いの館』(66)の影響もあるかも。
悪魔に取り憑かれた少女が言葉巧みに騙してくるあたりは、しっかり『エクソシスト』の系譜の作品群からネタを持ってきているし、急な交通事故などは『オーメン』を想起させる部分もある。
ラストにおける反キリスト(アンチ・キリスト)誕生は、『エクソシスト』や『オーメン』『ローズマリーの赤ちゃん』でも展開された、まさに悪魔たちの「本願」である。
主人公の額につけられた悪魔の紋章は、まるでその愚かさゆえに自らの復活に「おおいに役に立ってくれた」下僕へのご褒美であるかのようだ。
こういった、「あらゆるホラーからいただいてきた」ネタの雑駁な詰め込みように加えて、土着的な幻想や伝承が現実世界と混淆しているようなボルヘス的な魔術性や、幻想シーンと現実シーンがシームレスに同居するブニュエル的なモンタージュからは、「南米」らしいテイストが強烈に感じられる。しれっと「教会の廃れた世界」といった宗教的なSF要素をかませてくるあたりも、いかにも南米の映画っぽい。
映画としての出来が、相応にきちんとして見えるのもポイントが高い。
おそらく低予算映画だとは思うのだが、そのわりに映像感覚としてチープな印象があまりなく、一貫した美意識と冷え冷えとした鈍色の色彩感覚で貫かれている。
いわゆる「爆弾理論」(時間制限で爆発することのわかってるものを交互に映すことでサスペンスを高める手法)のモンタージュを多用しているのも見どころで、犬の周囲をぐるぐる回りながら撫でる幼女とか、悪魔の名前をつぶやき続ける自閉症児とか、「あああ、気を付けてえええ!」みたいなシーンが頻出する。羊と斧の出てくる例の意想外な殺戮連鎖シーンと、いきなり自閉症児がぺらぺらしゃべりだすシーンの怖さは、本作の白眉といえる。
一方で、いわゆるジャンプスケアは極力抑えて使用していて、観客の目をそらさせることなく、じっくりと「ひどい」シーンをガン見させる方向で演出しているかのようだ。
つくづく優秀な監督さんだな、と思う。
観のがしていたデミアン・ルグナ監督の前作『テリファイド』も、ぜひ観てみたくなった。