ストップモーションのレビュー・感想・評価
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抑圧された才能の開花の先にあるものは…。
ストップモーション・アニメーションと実写映像を交錯させ、1人のストップモーション作家の現実と妄想の壁の崩壊、創作に対する狂気が加速していく様を描くイギリスのサイコホラー映画。アメリカの映画批評サイト「ロッテントマト」では91%の支持率、各国の映画祭に招待され絶賛された。監督は、短編映画やストップモーション・アニメでキャリアを積み、本作が長編映画デビューとなるロバート・モーガン。
ストップモーション・アニメーションの若きクリエイター、エラは、業界の大御所スザンヌを母に持ち、関節炎で手が動かせない母に代わって、母の最後の監督作の製作を手伝っていた。エラには自分もストップモーション・アニメを監督したいという夢があるが、偉大なキャリアを持ち、高圧的な態度を取る母親には中々自身の願望を言い出せず、いざ「アイデアがある」と切り出すも、「聞かせて」と母親に言われると何も言い出せない。実は、エラは確かな技術を持ちながらも、自らが表現したい物語がないのだ。
恋人のトムは、ビジネスマンの傍らミュージシャンへの夢を持ち、仕事と夢を両立させながら、エラを支えている。トムの姉でありストップモーション・アニメーションの監督であるポーリーは、自身の手掛けた作品を満足気に披露している。
ある日、映画の製作途中でスザンヌが脳卒中で倒れ、昏睡状態に陥ってしまう。トムの助けもあって、エラは母の作品を完成させようと、取り壊し前の荒れ果てた公営団地にスタジオを構え、製作に取り掛かる。しかし、自らの内に表現すべきものを見出せないエラにとって、誰の指示もない映画製作は上手くいかない。母親が彼女を「操り人形」と称するように、誰かの指示無しでは、エラは作品を創ることは出来ないのだ。
そんな時、エラは同じビルで出会った謎の少女をスタジオに招く。好奇心旺盛にスタジオ内を見て回り、エラに製作途中の映画を見せてもらった彼女は、その作品を「つまらない」と一蹴する。少女は、「アイデアがある」と、エラに自分の物語を話して聞かせるが、エラは母の作品を作る為に、彼女を帰す。しかし、翌朝スタジオでトムに起こされたエラは、スタジオ内のセットが少女のアイデアを元にしたものに作り変わっている事、既にファーストシーンの撮影が済んでいる状況を目の当たりにする。
やがて、少女の指示を受けながら映画製作を進めるエラは、次第に現実と想像の区別を失い、狂気の世界へ足を踏み入れていく。
パンフレットによると、元々ストップモーション・アニメーションはホラーやグロテスクな表現と親和性が高いそうだが、そうした特色を抜きにしても中々にグロテスクで悪趣味な世界観(褒め言葉)。故人に塗る用のワックス、冷蔵庫の生肉から始まり、狐の死骸、遂には人間の血肉すら用いて作品に使う人形を作り出して行く様は、正に狂気そのもの。日本での年齢制限はPG-12だが、クライマックスでエラが足の傷を自ら開く様を容赦なく描写する場面は、エラ役のアシュリン・フランチオージの熱演もありR-15指定でもおかしくない鬼気迫る迫力。
しかし、そうした視覚的インパクトやグロテスクながらどこか美しささえ感じさせる世界観の新鮮味は強烈だが、物語として描かれている内容は普遍的(監督が目指した所ではあるのだが)、悪く言えば凡庸な範囲に留まってしまっているのは勿体無いように感じた。特に、ラストの展開にはもう一捻り欲しかった感は否めない。
果たして、エラは何の「操り人形」だったのだろうか?観る人によって様々な解釈が可能な本作ではあるが、私が思うに、恐らくそれは「才能」、自身のクリエイターとして(そうありたいと願うあまり、強迫観念的に膨れ上がった)の「創作意欲」、何より、本作が扱う「ストップモーション・アニメーション」の操り人形だったのではないかと思う。
だからこそ、謎の少女の正体は、エラの内面の表出に他ならないのだろう。髪型や雰囲気が似ている点も分かりやすい。彼女は他の登場人物の前には決して姿を現さず、エラの前にのみ姿を現して、自身のアイデアを披露する。少女の姿をしているのは、彼女がエラの中に眠る純粋で剥き出しな才能、高圧的な母親の下で育てられたが故に、押さえつけられ磨かれていない未熟な状態だからではないだろうか。これがもし、高圧的でない母親の下でキャリアを積み、しかし母親のような才能はないと苦悩していたのなら、少女ではなく同年代の女性として姿を現していたかもしれない。
少女は、エラが練り消しのように捏ねていたワックスを人形に使うように促し、次第に「リアリティ」を追求して、森で見つけた狐の死骸、「もっと血みどろのやつ」と最後は人間の死体すら要求する。そして、最後に人形に使った人間の血肉は、自らの恋人であるトムと彼の姉であり、自らのアイデアを盗んだポーリーという敵対者だ。トムは、献身的にエラを支え続けこそしたが、その奥底には常に憐憫があり(ケネス・ブラナー監督、『ベルファスト』(2021)に登場する「愛の奥底には憐憫がある」という台詞を思えば、トムの中には間違いなく愛はある)、彼女の映画製作を中断させようとした時点で、彼女にとっては自らの剥き出しの才能の発芽を妨げる敵になってしまったのだ。
しかし、事態は少女すら予想だにしなかった方向へと向かっていく。死体を用いて製作した灰男が、エラに襲いかかったのだから。だが、それはエラの「現在」の才能が、少女という抑圧されてきた「過去」の積み重ねによる才能を上回り、自らの殻を打ち破った(だからこそ、ラストで謎の卵が孵った)とも言える。実際には、足の傷口からの多量の出血による失血死でも、エラの中ではこれまで何もないと思っていた才能が花開いたのだ。
ラスト、自らの死体すら作品の一部とし、役目を終えて満足気に人形箱に収まっていくエラと、そんな彼女に「最高だよ」と告げる少女。処女作にして遺作。剥き出しの才能は、自らの命すらも燃やして鮮烈な輝きを放ってみせた。しかし、その作品が世に出るとは限らない。事態の深刻さを思えば、エラの作品は「お蔵入り」まっしぐらだが、自身が満足の行く作品を遺せた事こそが、彼女にとっての救済だったのかもしれない。“たった一度の輝き”というラストは、デイミアン・チャゼル監督の『セッション』(2014)を彷彿とさせる。
そんなエラを演じたアシュリン・フランチオージの熱演の素晴らしさは言わずもがなだが、個人的にはエラを導く少女を演じたケイリン・スプリンゴールの演技も評価したい。間違いなく、彼女こそ本作のMVPだろう。好奇心旺盛で、歯に衣着せぬ物言い、残酷であればあるほど高揚感を見せる姿は、単に「おませ」と表現するには憚られる、蠱惑的な魅力を放っていた。それにしても、あれだけ血みどろでグロテスクなセットでの撮影、彼女は怖くなかったのだろうか?(笑)
短い出番ながら、強烈なインパクトを残したステラ・ゴネットの演技も素晴らしかった。ストップモーション界の大御所にして、エラの母親であるスザンヌの毒親っぷりは中々に強烈。いくら親子とはいえ、娘の事を「操り人形」「人形ちゃん」(台詞ではパペット“puppet”)と呼ぶ姿は普通ではない。恐らく、これはエラの妄想の中での出来事だろうが、病室で昏睡状態の自分の手をストップモーションの手順でスマホのカメラで撮影している際、「最高の素材だろ?」と、病人すら作品創りの素材に使えと言わんばかりの狂人っぷり。そして、本作の結末を告げるが如く、「操り人形は、演し物が終われば箱に片付けられる」と、エラの役割を告げる。
妄想(夢)の世界で、エラは自らがワックス人形として灰男に追われる様を想像する。穴の奥に逃げ込んだ先は、金色の布地が敷き詰められた箱の中。それが人形箱の中である事はラストに判明するが、その時点でのエラは、まだ役割を終えていないので、箱に収まって眠りにつく事は許されない。あるいは、あの人形箱は、エラにとっての棺桶だったのかもしれない。
時に、強烈な才能は周囲の人々の生活すら一変させながら、恐ろしい程の輝きを放つものなのだろう。しかし、我々は自らの才能に「操り人形」にされる事も、自らの命すら燃やす事もせず、上手く折り合いを付けてコントロールして生きて行かなければならないのかもしれない。でないと、遺せる物はあまりにも少なくなってしまうのだから。それでも構わないと思えるのならば話は別であるが。
Hole
ストップモーションアニメの面白さに近年ようやく気づき出した人間なのですが、ここまでホラー極振りになるとストップモーションアニメの良さが活きまくっていたなと思いました。
ただお話自体はそこまで盛り上がるようなものではなく、ストップモーションアニメの作り手の母が倒れてしまい、それを受け継ぎながらも自分の作りたいものも一緒に作り始めるけれどうまくいかず、そんな中目の前に少女が現れ…といった感じでトントン拍子で話は進んでいくんですが、基本はその少女(おそらく主人公の自我)との対峙からのパニックの繰り返しなので、精神がボロボロになっていく割には同じような映像が続くので前半は物足りなかったです。
ストップモーションアニメの人形たちが徐々に現実を蝕んでいくところはホラー味あふれていたのでそっちをもっと観たかったなぁと思いました。
ワンショットワンショット動かしては撮ってとか難しすぎるだろとストップモーションアニメを作ってる方々には頭が上がりません。
グロいシーンはグッチャグチャなシーンよりは視覚的に痛い映像が満遍なく映されるので、誰もいなかったらキャー!と悲鳴をあげたくなるくらいには縫った部分を引きちぎったりするのでブルブル震えました。
そこから他の人に牙が向いていく展開になるのは視覚的な痛さがどこか行ってしまい、急にバイオレンスじゃないですかってなるのは惜しかったです。
前半の展開が後半になって活きてくるのは面白かったです。
終わりは不穏な雰囲気を払拭せずスパッと終わってくれるのでそこは良かったです。
現実と妄想の入り乱れでメチャクチャになっていくのは良かったですが、映像面や物語にもうワンパンチ欲しかったところです。
鑑賞日 1/22
鑑賞時間 13:15〜14:55
座席 A-5
Puppet
個人的にはまったく理解できなかった。
実母から「操り人形」と呼ばれこき使われる主人公。
そのストレスが臨界に達しようというタイミングで、突然の停電からの母の昏睡。
ここを不思議要素にする意図がよく分からないが、これもエラが何かしたということ?
その後は謎の少女と出会い、何故か言いなりに。
自分で創作出来ないというから物語を取り入れるのは分かるが、あまりに隷属的過ぎないか。
髪型や雰囲気がどことなく似ているし、エラの深層心理?
その後はエラが反発する→少女が機嫌を損ねる→やっぱり従うの繰り返し。
徐々に悪夢や幻覚を見るようになるが、途中でクスリ出したらそのせいになってしまうじゃないか。
…と思ったらやってない?え、どっち??
作品パクられたり母が亡くなったりとかもあるけど、あんまり効いてないような。
不敵な存在のままでいればいいのに、クライマックスで少女が急に「こんなハズじゃない」とか言い出す。
しかし最終的にはまた何事もなかったのように“作品”を気に入ったとか言ってくるが…
なんで一瞬だけキャラブレさせたんだ。
ストップモーションを取り入れたというだけで、内容的にはよくある感じでしかない。
それでいて脚本に面白味も整合性もないのだから、終始退屈でした。
せっかくの美人さんなのに、濡れ場もひたすら背中のアップだけなので、本当に見所が分からない…
冒頭の光の明滅で豹変する顔の表現はよかった。
毒親の抑圧から解放されるための血塗られた道程。これは女性版『ボーはおそれている』だ。
個人的にはとても面白かった!
監督の好きなものが、すごく僕とかぶっている印象。
まずは、ヤン・シュヴァンクマイエル、
それから、デイヴィッド・リンチ、
あと、デイヴィッド・クローネンバーグ。
この三人が好きな人は、本作も結構すっきり受け入れられると思う。
「フランシス・ベーコンやクライヴ・バーカー作品を彷彿とさせる」という宣伝文句も、ちょっと思いがけない比喩ではあるが、なかなかいいところをついている。
それから、パンフとかではなぜかスルーされているが、三原色の使い方とか、ヒロインのジェシカ・ハーパーそっくりのたたずまいとか、ゴア描写の作法とか、この人絶対、ジャッロ(とくにダリオ・アルジェント)大好き。
イギリスの映画なのに、なんかすっげえ映像が「ジャッロ臭い」んだよね。
内容としては、シュヴァンクマイエルやフィル・ティペットの影響の強いストップモーションと、『裸のランチ』や『ブラック・スワン』風の、主人公が脳内汚染されて現実と幻想のあわいが不分明になっていくサイコロジカル・スリラーを「がっちゃんこ」したもの。
この「がっちゃんこ」だけで、十分観る価値はあると思う。
昔から「人形」と「ホラー」というのはとても相性の良い組み合わせだったし(『マジック』『チャイルド・プレイ』『アナベル』)、ホラーのなかでストップモーションで動かすクリーチャーが出てくるものも結構ある(『顔のない悪魔』『バスケットケース』)。
ただ、「ストップモーション製作の現場を舞台に、アニメーター本人の現実と妄想が混淆してゆくせいで、実写とストップモーションが入り混じっていく」というのは、さすがにいまだかつてなかったネタではないか。
「映画監督が制作中の映画に呑み込まれる」
「作家が書いている小説に呑み込まれる」
「演技者・舞踏家が出ている作品に呑み込まれる」
これらのネタなら、いままで皆さんも結構目にしてきたはず。
それをストップモーション・アニメに置き換えたら、ここまで気持ち悪いものになりました、ということだ。
― ― ― ―
ヒロインのエラ・ブレイクは当初、関節症でうまく手を動かせなくなったストップモーションの巨匠である母親スザンヌ・ブレイクの「代わり」に、母にとって最後となるアニメ作品を制作している。
スザンヌは、娘を「パペット(あやつり人形)」と呼んで、奴隷のようにこき使う完全な毒親で、長い抑圧のなかでエラは「自分で作品を考えたりアイディアを出したり」することが難しくなっている。
そんなお母さんが卒中を起こして、口もきけない寝たきりになったら?
突然、長年の支配的状況から解放されて「クリエイティブ」に働くことを許されたとき、エラは何を撮ろうとするのか?
本作は、そんな状況下で「まずは母親の作品のつづき」を撮ろうとし、その後「自らの作品」を作ろうと尽力するエラの陥る地獄を描いてゆく。
スザンヌ・ブレイクがつくっているのが「サイクロプスの夫婦」の話というのは、いかにもレイ・ハリーハウゼンの『シンドバット七回目の航海」』に出てくるサイクロプスを想起させる。一方で、御伽噺めいた設定は、チェコの巨匠イジー・トルンカを思わせるところもあって、要するにそれだけお母さんは偉大な巨匠アニメーターだったということだろう。
新しいスタジオとして借りた廃マンションで、エラは一人の少女と出会う。
彼女は、スザンヌの巨人の話を「つまんない」と言い放ち、もっと面白い話があると持ち掛ける。それは、森で少女が謎の怪人「アッシュマン」に襲われる話だった。
観ていればすぐにピンとくるが、この少女はいわゆるエラの「アルターエゴ」というやつで、実際には実在しない「導き手」のようなものだ。
あるいは、彼女はエラ自身の少女時代――まだ全能感に満ち溢れ、自身の創作能力の可能性を信じていたころのエラ自身なのかもしれない。
ただ、少女がそそのかしてくる「作ってほしい」作品は、どこか病んでいて神経症的で、しかも「素材には生肉を使わないと」とか気持ちの悪いことを言ってくる。
こうして、エラは「そのままでいれば安穏と暮らせるかもしれない日常」から、すべりおちてゆく。
エラの抱えている問題は、長く抑圧されすぎたせいで
「自分ひとりでは良いアニメは作れない」
と思い込んで、自縄自縛に陥っている点だ。
そのせいで、彼女はせっかく「母親」という重しが取り除かれても、自分ではうまく自由にはばたくことができない。むしろ、新しい悪夢のなかで「自分に命令して仕切ってくれる誰か」を作り上げ、それに従うことでやっていこうとする。
しかし、その「誰か」も結局は、自分で作り出した内なる分身に過ぎないわけで、分身が命じてくるアニメーションもまた、自分の想像力の範疇から出るものではない。
しかも、その主題はある種の被害妄想だったり、父性による性的な加害に対する恐怖心の生々しい反映となっていて、必ずしも「面白いアニメ」とは言い難い。
作中で展開されるストップモーションは、
どこかレオン&コシーニャの『オオカミの家』に似ている。
あるいは、見里朝希の『マイリトルゴート』に。
森。少女。怪物。小屋。猫と鼠のゲーム。
『赤ずきんちゃん』『七匹の子ヤギ』『三匹の子豚』……
要するに、グリム童話的な「草食獣(被捕食者)と肉食獣(捕食者)」の物語だ。
それはおそらく、エラ自身の抑圧を表わした物語なのだろう。
彼女は、これまで何重にも支配されてきた。
母親からの支配だけではない。
一見やさしそうで、このうえなく出来の良い彼氏にしても、「守ってやりたい」「助けてやりたい」という善意で束縛してくる男は、自立できない女性を縛る枷でもある。
何年か前に『ドント・ウォーリー・ダーリン』という映画があったが、アレに出てきた旦那のようなものだ。しかも本人が良かれと思って庇護してくるからタチが悪い。
彼の姉もまた、基本的にはエラに優しくしてくれるし、職業をあっせんしてくれようともするが、それはエラを下に見て、見くびっているからだ。
さらには、物語には父親の影すら出てこない。
彼女の家庭で何があったかは、われわれにはわからない。
でもつくっているアニメを見れば、ただならぬ男性恐怖を抱いているらしいことは、なんとなく伝わってくる。
これは、そんな内なるエラが「望んで」現出した、抑圧からの解放を目指して地獄へと続く、血塗られた道程の物語だ。
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●ヒロイン役のアシュリン・フランチオージは、最初にいったとおり『サスペリア』の主演女優ジェシカ・ハーパーと、目鼻立ちや腺病質な雰囲気がよく似ているし、『テシス 次に私が殺される』のアナ・トレントにもよく似ている。あのへんの雰囲気は、やっぱり意識していると思うなあ。
●冒頭すぐに出てくる、三原色のヒロインが明滅し続ける印象的なアヴァンタイトル。これって、よく見たら、どの色のエラも表情が違うんだな(たぶん)。
ということは、これもある種の「こま撮りアニメーション」ということになる。
色違いの静止画を並べていくことで作られたアニメーション、というわけだ。
ちなみに、ここの「三原色+ヒロイン」の導入部は、『サスぺリア』の冒頭のタクシーにスージー(ジェシカ・ハーパー)が乗っているシーンと呼応している。
●ドアの穴から覗き込んでくる血走った目というのも、いかにもダリオ・アルジェントっぽい描写に思える。終盤出てくる真っ赤な部屋は、ギレルモ・デル・トロの『パンズ・ラビリンス』をちょっと想起させる。あれも本作と似たような、幻想への逃避がやがて現実を侵食してゆく物語だった。
●自分をそそのかしてくる、若き姿の分身としてのアルターエゴでぱっと思い出すのが、『いけないマコちゃん MAKO・セクシーシンフォニー』という僕は人間失格でしょうか。
●狐の死体を前に座り込む少女の取り合わせは、『サスペリアPART2』におけるトカゲを殺す少女を想起させる。この子単体の主演でなにか観てみたくなるくらいの美少女。
少女が人形づくりに「生の肉」を素材として要求するのは、ストップモーションと現実のあわいを不確かにしてゆくための魔術的な暗示でもある。少女はエラに「自らの血肉を用いて分身をつくれ」「自らの身体でアニメの世界に入れ」とけしかけているのだ。
●自分の肉を割って、インナースペースに分け入ろうとする感覚は、まさにデイヴィッド・クローネンバーグの『裸のランチ』や『ビデオドローム』の延長上にある。
結局のところ、作品中で描かれる廃アパートも、衰微した町並みも、らせん階段も、すべてがエラ自身の心象風景であり、辿る話の展開も大半は妄想率90%で、最終的な結論が「母の死によって混乱をきたしたマザコンの克服と自壊」ということを考えると、本作は「女性版」の『ボーはおそれている』という言い方もできそうだ。
●ヒロインが現実の作業で「眼」を作って以降、妄想要素の強いストップモーションパートの人形にも「眼」がはめ込まれるというのは、よく考えられた展開。
●寝たきりの母親の手とスマホを使って、こま撮りアニメーションを撮ろうとするエラのシーンは、なかなか面白い。動いている間は抑圧してくる毒親に過ぎなかった母親。だが、いったん動かなくなると、命令の主体がなくなってエラはそれはそれで困るのだ。生ける屍と化した母親に、自らストップモーションの魔法で「命を吹き込もうとする」エラ。それは善意か、それとも復讐か。
●ソファにちまちまとストップモーション用の人形が這い登って、ちょこんと座っている愛らしい光景は、僕に『トイ・ストーリー』ではなく、トッド・ブラウニングの『悪魔の人形』を思い出させる(笑)。
●全編で、虫の鳴き声のような人形ボイスや、生肉の音、変な環境音、ノイズっぽい音楽、神経を逆なでするような金属音など、ありとあらゆる「気持ちの悪い音」が鳴っている。
結構、この音楽と音響の不気味な効果が、作品全体に影響しているように思う。
●「邪悪なマグリット」みたいなポスターアートは出色の出来。これを見て僕は「何がなんでも観に行かないと」と思わされたし、観終わったあとは、内容をそのまま象徴的に表しているとわかって、さらに感心した。
●パンフの土居伸彰さんのコラムがとにかくすばらしい。
ロバート・モーガン監督のつくる人形のことを「一ヶ月以上掃除されていない風呂の排水溝に詰まった髪の毛や脂で作られたような姿」と呼び、彼の短篇を観終わった感想を「絶対に手の届かない体の奥深いところを蚊に刺されたかのようなもどかしい気持ち悪さ」と評する。なんて美しい言語感覚!
●春日武彦先生のコラムも、大変興味深い示唆に満ちている。なるほどここまでがすべて完全な●●で、ここから新しい何かが始まると。全く考えもしなかった解釈だ。
●結局のところ、たとえ人間は抑圧から自由になれたとしても、自分で動かせるのは(あるいは動かして良いのは)1回に数㎜。人生そのものが、ストップモーション・アニメーションのようなものなんだろうね。
その執拗さ。
伝説のストップモーションアニメ作家の娘がある出来事により母の軛から逃れられたが、その結果狂気に堕ちてしまう様子を凝った映像で描写した映画でした。
映画の前半は主人公の妄想を幻想的に表現したホラーテイストの良くある映画でしたが、後半でいきなり残酷な血みどろ映画へとシフトチェンジして少し驚かされました。前半の感じで全編通すより面白かったかな。
故デビッド・リンチ風のスパッとしたラストシーンは好みでした。誰か映画評論家が言ってた事だけど「終われ!」って思った瞬間にエンドロールが流れ出すと気持ち良いデスね。
期待はずれ
本日初日鑑賞してきました。ただ後半グロすぎて見てられなくなりました笑
そしてイマイチ何を伝えたかったかもわからなかった。
映画を自分で考えて作れないから段々おかしくなって幻覚や謎の女の子の指示に従う、、、、
あの女の子は誰だったかも全然ヒントないから最後までわからなかった。
私はもっとコマドリを生かした作品にして欲しかった。
もっとコマちゃん達を現実世界にも登場させて襲う設定の方がまだ面白かったんじゃないかなと思う。
ストーリーが色々勿体無い。
お母さんの言う事を聞くのが嫌になってその感情が人形に宿って襲うとかの方が面白かったんじゃないかなぁ。
なんかよくわからないただただ長いグロい映画だった。
みんなはどう思ってたのかな。
恐怖の表現は色々と... 悪夢まで見るのは一つだけ?
ストップモーションアニメーションと実写映像を合体させた先人であり伝説的かつ巨匠がいる。数々の映画賞の最高峰を獲得したヤン・シュヴァンクマイエルという人。何と御年90才。本作『ストップモーション』でもアーマチュアに使わていた生肉... その生肉がダンスをするモノフィラメントが見えてしまっていた彼の作品の1分程度の映画『Meat Love』。 その映像が彼の長編作品『Little Otik』に CM として登場している。
本作はというと...
主人公エラの母親のスザンヌはストップモーションアニメーション界のレジェンドであり、人形の動きの0.5ミリの微細までもこだわる完璧主義者でもある。その彼女の体が思うように動かなくなり、始めエラはスザンヌの映画を完成させる手助けをしたい望みと自分のスキルのレベルアップの願望があったが、スザンヌは母親というよりもプロの製作者の立場としてエラと接していた。体の動かない苛立ちからエラとの関係が微妙にギクシャクし食い違ってくる... その様子はエラがこのように語っている。
Her hands are getting worse. I promised I'd help her
finish this last film. So, she's the brains, and
I'm the hands.
・・・・・・・(略)
I don't have my own voice. (※意味深?)このセリフは本作のラストまで続くバックボーン的存在となっている。
その事は...
本作を見続けていくうちに彼女は自分自身の想像力や創造力の欠如から何も作れないことで最初は、母親の、そして母親が倒れてからは、同じアパートに住む謎の少女(Jane Doe)の言いなりとなるパペットでしかなくなる。その決定的な母親の言葉...
You can't control anything.
You're a puppet... caught in your own strings. And if it
isn't me pulling them, it's somebody else.
しかし、「想像力や創造力の欠如から何も作れない」とエラの事をそのように例えたようにあまりにも平々凡々とした関心を持てない気味の悪い映画と思っていると映画は最後まで見てみないと分からないという教訓なのかもしれない。
気管切開をしているのに何故か?ハッキリと話す母親や謎の少女の存在が、すべては虚構を構築した彼女の創造力からであると知った途端に、エラの不快な人形たちの深く不安な深淵の闇を生み出していると分かり始める。ただの暗い気色の悪いホラーと思っていたのが、人形の目が単純な穴から丸めた粘土のボールへ、そしてリアルな目に進化したのと同じようにエラが自分が人形なのか人間なのかを錯誤し始め、入れ替わり始める。ラスト近くになると端正な顔立ちの彼女が人が変わったように髪を振り乱し錯乱し彼女の様相が豹変した。それにパワーアップしたゴア表現にグロテスクさがミックスされ、それまでは並みの気色の悪さだったものが、次元を超えてしまい恐ろしさが突き抜けてしまっている。だからその反動で大ラスは、とても言えない程の虚無感が襲い掛かってしまう。
Lynch himself often stating that the factor of sound is
50 percent of each of his films. (エフェクトに関するドキュメンタリーより)
個人的にはあまり好きではないデイヴィッド・リンチ監督。その監督がドキュメンタリーで語っていたことが、唯一と言っていいほど共感できる。サウンドの影響力の重要性を挙げていたけどその事は本作のフィルム・スコアにも当てはまり、大げさで派手ではない上に映像を邪魔しないことが反って恐怖心を倍増させていた。それに加えてアシュリン・フランシオーシという女優さんが以前に鑑賞した映画『ナイチンゲール』では、ギリシャ神話の復讐の女神エリニュエスのような強い女性を演じていた、その彼女が本作での感情失禁をするシーンでは、これまた凄いとしか言いようがない。それよりも最も感心させられたのは、フィルム・スコアと同じように主演女優を邪魔をしない謎の少女役のケイリン・スプリンゴールのある時は無邪気にそしてある時は大人びた冷めたような演技はピカイチでこの映画が冷淡であることの象徴にもなっていた。
Great artists always put themselves into their work.(謎の少女のお言葉)
気付かずにエラ自身が作り上げた虚構の想像上の世界と自分自身のアイデンティティを辛うじて保つ事の出来ていた現実世界との垣根をなくしたことで映像を映画という総合的な媒体で表現を試みた本作。今度は、我々の想像力が試される。難解なのに何故か?肌で感じる事の出来た本作の締めくくり方とはどのようなものなのか...!? その映像を目撃するチャンスを視聴者は与えられた。
The Ash Man comes three nights.
実写の部分とストップモーションの部分、それにエラがドールとなって没入してしまう虚構のドールの世界... それらを組み合わせるために撮影後、監督は編集のためにロンドンにあるスタジオから自宅まで時間をかけて帰り、編集を続けたと... その工程において並々ならない時間をかけたと聞く。
最後に彼女の居場所は...
やっと眠ることのできる安住の地なのか?それとも誰にも邪魔をされない為に部外をシャットアウトしたやりきれない程の悲劇的孤立した住み家なのか? ご覧あれ!?
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