「毒親の抑圧から解放されるための血塗られた道程。これは女性版『ボーはおそれている』だ。」ストップモーション じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
毒親の抑圧から解放されるための血塗られた道程。これは女性版『ボーはおそれている』だ。
個人的にはとても面白かった!
監督の好きなものが、すごく僕とかぶっている印象。
まずは、ヤン・シュヴァンクマイエル、
それから、デイヴィッド・リンチ、
あと、デイヴィッド・クローネンバーグ。
この三人が好きな人は、本作も結構すっきり受け入れられると思う。
「フランシス・ベーコンやクライヴ・バーカー作品を彷彿とさせる」という宣伝文句も、ちょっと思いがけない比喩ではあるが、なかなかいいところをついている。
それから、パンフとかではなぜかスルーされているが、三原色の使い方とか、ヒロインのジェシカ・ハーパーそっくりのたたずまいとか、ゴア描写の作法とか、この人絶対、ジャッロ(とくにダリオ・アルジェント)大好き。
イギリスの映画なのに、なんかすっげえ映像が「ジャッロ臭い」んだよね。
内容としては、シュヴァンクマイエルやフィル・ティペットの影響の強いストップモーションと、『裸のランチ』や『ブラック・スワン』風の、主人公が脳内汚染されて現実と幻想のあわいが不分明になっていくサイコロジカル・スリラーを「がっちゃんこ」したもの。
この「がっちゃんこ」だけで、十分観る価値はあると思う。
昔から「人形」と「ホラー」というのはとても相性の良い組み合わせだったし(『マジック』『チャイルド・プレイ』『アナベル』)、ホラーのなかでストップモーションで動かすクリーチャーが出てくるものも結構ある(『顔のない悪魔』『バスケットケース』)。
ただ、「ストップモーション製作の現場を舞台に、アニメーター本人の現実と妄想が混淆してゆくせいで、実写とストップモーションが入り混じっていく」というのは、さすがにいまだかつてなかったネタではないか。
「映画監督が制作中の映画に呑み込まれる」
「作家が書いている小説に呑み込まれる」
「演技者・舞踏家が出ている作品に呑み込まれる」
これらのネタなら、いままで皆さんも結構目にしてきたはず。
それをストップモーション・アニメに置き換えたら、ここまで気持ち悪いものになりました、ということだ。
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ヒロインのエラ・ブレイクは当初、関節症でうまく手を動かせなくなったストップモーションの巨匠である母親スザンヌ・ブレイクの「代わり」に、母にとって最後となるアニメ作品を制作している。
スザンヌは、娘を「パペット(あやつり人形)」と呼んで、奴隷のようにこき使う完全な毒親で、長い抑圧のなかでエラは「自分で作品を考えたりアイディアを出したり」することが難しくなっている。
そんなお母さんが卒中を起こして、口もきけない寝たきりになったら?
突然、長年の支配的状況から解放されて「クリエイティブ」に働くことを許されたとき、エラは何を撮ろうとするのか?
本作は、そんな状況下で「まずは母親の作品のつづき」を撮ろうとし、その後「自らの作品」を作ろうと尽力するエラの陥る地獄を描いてゆく。
スザンヌ・ブレイクがつくっているのが「サイクロプスの夫婦」の話というのは、いかにもレイ・ハリーハウゼンの『シンドバット七回目の航海」』に出てくるサイクロプスを想起させる。一方で、御伽噺めいた設定は、チェコの巨匠イジー・トルンカを思わせるところもあって、要するにそれだけお母さんは偉大な巨匠アニメーターだったということだろう。
新しいスタジオとして借りた廃マンションで、エラは一人の少女と出会う。
彼女は、スザンヌの巨人の話を「つまんない」と言い放ち、もっと面白い話があると持ち掛ける。それは、森で少女が謎の怪人「アッシュマン」に襲われる話だった。
観ていればすぐにピンとくるが、この少女はいわゆるエラの「アルターエゴ」というやつで、実際には実在しない「導き手」のようなものだ。
あるいは、彼女はエラ自身の少女時代――まだ全能感に満ち溢れ、自身の創作能力の可能性を信じていたころのエラ自身なのかもしれない。
ただ、少女がそそのかしてくる「作ってほしい」作品は、どこか病んでいて神経症的で、しかも「素材には生肉を使わないと」とか気持ちの悪いことを言ってくる。
こうして、エラは「そのままでいれば安穏と暮らせるかもしれない日常」から、すべりおちてゆく。
エラの抱えている問題は、長く抑圧されすぎたせいで
「自分ひとりでは良いアニメは作れない」
と思い込んで、自縄自縛に陥っている点だ。
そのせいで、彼女はせっかく「母親」という重しが取り除かれても、自分ではうまく自由にはばたくことができない。むしろ、新しい悪夢のなかで「自分に命令して仕切ってくれる誰か」を作り上げ、それに従うことでやっていこうとする。
しかし、その「誰か」も結局は、自分で作り出した内なる分身に過ぎないわけで、分身が命じてくるアニメーションもまた、自分の想像力の範疇から出るものではない。
しかも、その主題はある種の被害妄想だったり、父性による性的な加害に対する恐怖心の生々しい反映となっていて、必ずしも「面白いアニメ」とは言い難い。
作中で展開されるストップモーションは、
どこかレオン&コシーニャの『オオカミの家』に似ている。
あるいは、見里朝希の『マイリトルゴート』に。
森。少女。怪物。小屋。猫と鼠のゲーム。
『赤ずきんちゃん』『七匹の子ヤギ』『三匹の子豚』……
要するに、グリム童話的な「草食獣(被捕食者)と肉食獣(捕食者)」の物語だ。
それはおそらく、エラ自身の抑圧を表わした物語なのだろう。
彼女は、これまで何重にも支配されてきた。
母親からの支配だけではない。
一見やさしそうで、このうえなく出来の良い彼氏にしても、「守ってやりたい」「助けてやりたい」という善意で束縛してくる男は、自立できない女性を縛る枷でもある。
何年か前に『ドント・ウォーリー・ダーリン』という映画があったが、アレに出てきた旦那のようなものだ。しかも本人が良かれと思って庇護してくるからタチが悪い。
彼の姉もまた、基本的にはエラに優しくしてくれるし、職業をあっせんしてくれようともするが、それはエラを下に見て、見くびっているからだ。
さらには、物語には父親の影すら出てこない。
彼女の家庭で何があったかは、われわれにはわからない。
でもつくっているアニメを見れば、ただならぬ男性恐怖を抱いているらしいことは、なんとなく伝わってくる。
これは、そんな内なるエマが「望んで」現出した、抑圧からの解放を目指して地獄へと続く、血塗られた道程の物語だ。
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●ヒロイン役のアシュリン・フランチオージは、最初にいったとおり『サスペリア』の主演女優ジェシカ・ハーパーと、目鼻立ちや腺病質な雰囲気がよく似ているし、『テシス 次に私が殺される』のアナ・トレントにもよく似ている。あのへんの雰囲気は、やっぱり意識していると思うなあ。
●冒頭すぐに出てくる、三原色のヒロインが明滅し続ける印象的なアヴァンタイトル。これって、よく見たら、どの色のエラも表情が違うんだな(たぶん)。
ということは、これもある種の「こま撮りアニメーション」ということになる。
色違いの静止画を並べていくことで作られたアニメーション、というわけだ。
ちなみに、ここの「三原色+ヒロイン」の導入部は、『サスぺリア』の冒頭のタクシーにスージー(ジェシカ・ハーパー)が乗っているシーンと呼応している。
●ドアの穴から覗き込んでくる血走った目というのも、いかにもダリオ・アルジェントっぽい描写に思える。終盤出てくる真っ赤な部屋は、ギレルモ・デル・トロの『パンズ・ラビリンス』をちょっと想起させる。あれも本作と似たような、幻想への逃避がやがて現実を侵食してゆく物語だった。
●自分をそそのかしてくる、若き姿の分身としてのアルターエゴでぱっと思い出すのが、『いけないマコちゃん MAKO・セクシーシンフォニー』という僕は人間失格でしょうか。
●狐の死体を前に座り込む少女の取り合わせは、『サスペリアPART2』におけるトカゲを殺す少女を想起させる。この子単体の主演でなにか観てみたくなるくらいの美少女。
少女が人形づくりに「生の肉」を素材として要求するのは、ストップモーションと現実のあわいを不確かにしてゆくための魔術的な暗示でもある。少女はエラに「自らの血肉を用いて分身をつくれ」「自らの身体でアニメの世界に入れ」とけしかけているのだ。
●自分の肉を割って、インナースペースに分け入ろうとする感覚は、まさにデイヴィッド・クローネンバーグの『裸のランチ』や『ビデオドローム』の延長上にある。
結局のところ、作品中で描かれる廃アパートも、衰微した町並みも、らせん階段も、すべてがエラ自身の心象風景であり、辿る話の展開も大半は妄想率90%で、最終的な結論が「母の死によって混乱をきたしたマザコンの克服と自壊」ということを考えると、本作は「女性版」の『ボーはおそれている』という言い方もできそうだ。
●ヒロインが現実の作業で「眼」を作って以降、妄想要素の強いストップモーションパートの人形にも「眼」がはめ込まれるというのは、よく考えられた展開。
●寝たきりの母親の手とスマホを使って、こま撮りアニメーションを撮ろうとするエラのシーンは、なかなか面白い。動いている間は抑圧してくる毒親に過ぎなかった母親。だが、いったん動かなくなると、命令の主体がなくなってエラはそれはそれで困るのだ。生ける屍と化した母親に、自らストップモーションの魔法で「命を吹き込もうとする」エラ。それは善意か、それとも復讐か。
●ソファにちまちまとストップモーション用の人形が這い登って、ちょこんと座っている愛らしい光景は、僕に『トイ・ストーリー』ではなく、トッド・ブラウニングの『悪魔の人形』を思い出させる(笑)。
●全編で、虫の鳴き声のような人形ボイスや、生肉の音、変な環境音、ノイズっぽい音楽、神経を逆なでするような金属音など、ありとあらゆる「気持ちの悪い音」が鳴っている。
結構、この音楽と音響の不気味な効果が、作品全体に影響しているように思う。
●「邪悪なマグリット」みたいなポスターアートは出色の出来。これを見て僕は「何がなんでも観に行かないと」と思わされたし、観終わったあとは、内容をそのまま象徴的に表しているとわかって、さらに感心した。
●パンフの土居伸彰さんのコラムがとにかくすばらしい。
ロバート・モーガン監督のつくる人形のことを「一ヶ月以上掃除されていない風呂の排水溝に詰まった髪の毛や脂で作られたような姿」と呼び、彼の短篇を観終わった感想を「絶対に手の届かない体の奥深いところを蚊に刺されたかのようなもどかしい気持ち悪さ」と評する。なんて美しい言語感覚!
●春日武彦先生のコラムも、大変興味深い示唆に満ちている。なるほどここまでがすべて完全な●●で、ここから新しい何かが始まると。全く考えもしなかった解釈だ。
●結局のところ、たとえ人間は抑圧から自由になれたとしても、自分で動かせるのは(あるいは動かして良いのは)1回に数㎜。人生そのものが、ストップモーション・アニメーションのようなものなんだろうね。