BROTHER : 特集
キタノ流、日本の美学
(金原由佳)
最新作「BROTHER」で世界に飛び出した北野組。「ラスト・エンペラー」などで知られるジェレミー・トーマスを共同プロデューサーに迎え、ロケのほとんどをロサンゼルスで敢行。そして、世界に向けての完成披露はベネチア映画祭で実施されるという徹底ぶり。しかしそこに描かれているのは、日本の伝統と美学に他ならない。監督の話を交え、この話題作を分析する。
「BROTHER」で自らに諸刃の剣を突き付けた北野武
人が暴力を行使するとき、そこには何らかの理由がある。はずだ。大抵は。積もり積もった恨みや、満たされない欲望の果ての爆発。生命の危機に際した時のとっさの一撃等々。ところが、北野武の世界では、何もここで一撃を与えなくてもいいではないか、と観ているこちらが呆気に取られるほど、まだまだ追い込まれていない状況で、暴力がいとも簡単に行使される。言葉による説得が可能な段階なのに、逃げられる状況にあるのに、他の選択肢など一切拒否して暴力が行使されるのだ。
しかも、新作「BROTHER」は以前の作品にも増して、登場人物たちが唐突的に、しかし明らかに意図的に暴力を武器とする。特にビートたけし演じる主人公の山本と、彼が所属していた日本のヤクザの男たちは。彼らは親分のために、自分のメンツのために、瞬時に腹を掻き切り、指をつめる。組の抗争に負けた山本はロスへ飛び、そこで黒人たちと共に新興マフィアを形成する。彼はあるとき、落とし前をつけさせるために黒人の組員に指をつめさせようとし、当事者から激しい拒絶にあう。この描写の対比は興味深い。
「指をつめるはずの役者がね、作り物のダミーの指を切り落とすんだよと言っても、おれ、そんな怖いの嫌だって帰っちゃったんだ。刃物に対する痛さ、感覚が、日本人と違うんだね。向こうはマシンガンとか、拳銃はぶっ放すくせに、ナイフでぶすっとやるのは、すごいショックみたいだな。文化の違いだね」
とその際のエピソードを北野武はこう語る。「BROTHER」で彼が描くのは一対一の、もしくは顔をつき合わせて繰り広げられるバイオレンスであり、西部劇の決闘を思わせる。
「基本的に俺の描くやくざの世界というのは、武士道があって、自己犠牲、死の美学がある。『BROTHER』では古きよき時代のやくざのルールみたいなものを描いたというか、まあ、デフォルメをしたわけですね。寺島進の演じた親分のために頭を撃ち抜いた舎弟の人はやくざの鏡として言い伝えられているんだろうけど、そういうエピソードは漫才で全国、営業で回っているときに山のように聞いていてね。そこから、わりかしいいところを映画に入れ込もうかなと思ってね」
「BROTHER」に魅力を感じる観客がいるとしたら、もはや失われようとしている日本の武士道を未だに抱き続ける者たちの躊躇のなさであり、暴力を選択する際の死をも恐れない責任の取り方だろう。それは責任など鼻から念頭になく、行き当たりばったりに人を殺す者たちとは明らかに違う姿勢である。
逆に「BROTHER」に激しい嫌悪感を抱くとしたら、すべての責任を死に直結する暴力でしか精算しない短絡性への嫌悪感であるだろう。北野武は日英合作にして、世界進出第1弾映画である「BROTHER」で、「日本人のカッコいいところを見せたかった」といい、異国の地のルールに決して屈しない男を描いてみせた。しかし、この手の美学は行き過ぎれば極右的なファシズムの美学に転換しがちなことも私たちは知っている。「BROTHER」で北野武は自らに諸刃の剣を突き付けた、そんな印象がいつまでも払拭できない。