あるいは、ユートピアのレビュー・感想・評価
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足りない要素を観客が想像で補う、舞台劇に近い体験
Prime Videoで鑑賞。ほぼ予備知識なしで観始め、序盤の引きで固定の構図に役者らが出入りする長めのショットと、カット割の少なさから、舞台劇用の戯曲の翻案かと思った。だが後で解説などを読み、東京国際映画祭でAmazon関連の賞を獲った新人、金允洙(キム・ユンス)監督のオリジナル脚本による長編監督デビュー作だと知った。とすると、あの序盤は舞台劇のように作った映画ですよという宣言なのかもしれない。
大量発生した謎の巨大生物に取り囲まれ、ホテルから出られなくなった宿泊客、ホテル関係者、自衛隊員の計12人。設定だけだとスティーヴン・キング原作の「ミスト」(2007)などのモンスターホラーっぽいが、恐怖やパニックは描かれない。むしろ逆で、かつての日常で居場所がなく絶望して死さえ求めていたような人々が、異変発生時の避難の機会にあえてとどまり、非日常の閉空間に救いと解放を見出していく。
人間を襲うらしい巨大生物は、「ナウシカの王蟲のような」と形容され、藤原季節が演じる主人公が目にする10cmほどのネッタイタマヤスデ(ダンゴムシのお化けみたいだが、ペットショップなどで販売もされている)で連想させるが、CGや特撮で本体が描かれることはない。外から時折聞こえてくる音も、鹿程度のサイズの動物の群れがザザッと走り抜ける感じで、膨大な質量を感じさせる轟音ではなく、ホテルの内部が振動するような映像エフェクトもない。
話は異変が起きた2024年と2年後の2026年を行ったり来たりするのだが、人物たちの髪型やひげの長さは変わらないし、体型ももちろん一緒。当番制で清掃するという説明はあるものの、食堂、客室、廊下など広大なホテル内をわずかな人数で掃除してきた割には経年の汚れや乱れが見られない。
さらに指摘するなら、人物らの以前の暮らしぶりなどもすべて台詞で説明されるのみで、ホテルに来る前の自宅や職場などでの様子を描く回想シーンもない。つまり、人物らの過去にせよ、異変後の巨大生物や市街の惨状にせよ、ホテル外部については一切描かない姿勢を貫いている。
演劇の場合は、演者と観客が劇場の中で同じ時間と空間を共有する、従ってリアルに別の場所や別の時代に移動することはできない前提がある。だからこそ台詞やナレーションの状況説明だけで目に見えない場所や時代、あり得ない存在などを想像で補い、演者と観客が想像で作り上げた作品世界を共有できるし、舞台劇とはそういうものだとの共通認識や慣れが確かにある。
一方で映像作品の場合、時間や空間の移動はカット編集で瞬時に実現するし、あり得ない存在も視覚効果で表現できるのに、本作のように外の世界で起きていることも過去の回想も一切描かないのは、窮屈で、物足りなく感じられる。
おそらくは製作費が少なく、撮影スケジュールがタイトで、2年のタイムラグで髪やひげに変化をつけることもできず、ホテル内に経年の汚れや乱れを加えたら原状回復にまた費用と手間ひまがかかるし、VFXにかける予算も足りなくて、などと大人の事情があったのだろう。映画で描き足りない、あるいは描写が割愛された要素を観客側が想像で補うのは、演劇の場合ほど当たり前ではないし、忍耐を強いられるようにも感じるだろう。
俳優陣はみな達者で熱演しているのだが、映像的には淡々としていて、うっとりするような美しさや圧倒的なインパクトの点で弱いのも、映画体験としての物足りなさの一因になっている。
難解なのか厄介なのか?
タイトルと最後のシーンは、この作品そのものを表現している。
しかし、これはかなり厄介な作品かもしれない。
そもそも難解なのかそうでないのかの判断が難しく、仮に難解でない場合、この作品は作品としての価値を著しく失うように思う。
物語の描写がそれそのものである場合でも表面には何らかのモチーフがある。
特殊なモチーフは見る人の興味を誘うのにもってこいだ。
特殊なモチーフには歴代順位の様なものがあって、似たモチーフの登場で比較対象にされる。
しかしテーマを変えることで作品は全く別の表現となる。
この作品から想像するモチーフは「ミスト」に似ているが、「アレ」と表現される巨大生物の様態は、主人公マキの不思議な幻想の中に出てくるダイオウグソクムシのようなものだけしかいない。それそのものは登場しない。
そしてすべてが、ホテルの中で完結される。
隔離された状況
さて、
冒頭から人々は二分される。
「出来事」が発生したために逃げる人と、そうではない人
この「そうではない人」の理由がクローズアップされる。
それは、死にたいわけではないが、生きたいとも思わないこと。
この作品のテーマの一つだ。
この一般的ではない人々が12人いた。
彼らにはそれぞれ特徴があり、
ホテルの会長と支配人
作家
女優とマネージャー
不倫
家族に捨てられた男
自殺サークルの3名
自衛官
それぞれにそれぞれ事情がある。
この中で最も心の闇が深いのは、不倫の女性ヤナギ 「赦し」で怪演した松浦りょうさんだ。
彼女の人生の逃亡がどこから始まったのかは不明だが、物語から鑑み「流される」自身に対する減滅感があるのだろう。
彼女もまた、人間というものの一側面を表現している。
しかし不倫相手の執拗な脱出劇を最後は拒み、逃げ帰ってカギをした。
その事がミヨシを殺してしまうことになる。
自己憐憫のループにハマった彼女は自殺場で自殺しようとするが、山本に止められてしまう。
彼女はこれで山本とカップルになってしまう。
流されつつも、自分を心配してくれる山本に寄り添うことで自分を保つことができていた。
最後のシーンはどう見ても「最後の晩餐」だ。
この読み解きは難しい。
イエスを含めた13人の絵画
それに呼応する10人
そもそも作中にイエスは存在しない。
2名は死んだ。
最後だから単に構図をそうしたかっただけなのだろうか? それ以外何もわからない。
救助と同時に起きる笑いは、ここがユートピアでも構わなかったのに、現実に戻されるというジョーク、またはブラックジョークに対する笑い。
これ以上耐え切れなくなったヤナギが自殺した。
マキは自衛隊に向かって拳銃の引き金を引くが、弾欠。
マキユウイチロウ
最後に自分の正体がバレてしまう人物。
彼は作家になりたかっただけの人物
「何かになりたくて、何にもなれなくて」
これは多くの人の言葉を代弁しているセリフだと思う。
平山の自殺と遺書「意味はない。亡骸は喰わせろ」
プロットでは平山はマキの正体を知ったことでそうした事になっているが、この世界のすべてに「意味はない」と言いたかったのかなと思う。
つまり、人間が勝手に意味付けしているに過ぎないことが、実は「理」なのではないかと問題定義したのかもしれない。
仮にそうであれば、これこそが監督が言いたかったことなのだろう。
ここを掘ると奥が深くなり、つまり何でもよくて、何でもそれで説明できてしまう。
このマキ、彼が提案した三原則の一つである非暴力
あの感情の剥き出しはユートピアを脅かす存在に向けた行為だろう。
彼はなりたかった作家に、この場所ではなれたと思っていた。
それを破壊されたことに対する怒り。
さて、
この作品で最も不可解なこと。
なぜ、マネージャーの交換した枕の中に「本」など入っていたのだろう?
この不可思議な話からマキの正体がバレていく。
当然マキの自作自演ではないし、誰一人マキの正体を知っていた者はいない。
会長だけがそれを知っていたと思われる。
会長が自殺前にリネン室に仕込んだ可能性はあるだろう。
でも死ぬのにこの勿体ぶったやり方は必要だったのか?
この時の皆のセリフが取って付けた感があるので、単に物語を進めるためでしかなかったと考えられるが、そうであればこの作品を深掘りする価値も半減する。
最後に皆強制退去させられるところでエンドロール。
自分たちで作ったユートピア
それにはかつて日常だった常識とは少し違うものの考え方があった。
自分たちが住みやすいように作った三原則
その均衡を破った自殺
その真意を巡って起きた疑心暗鬼
しかし誤解が解けて調和を取り戻す。
だが結局は外部からの侵攻を受け、他人の価値観というディストピアを受け入れるしかなくなる。
この他人と生じる価値観の相違問題は、少数であれば解決可能だが、大人数ではほぼ不可能だろう。
そこで折り合いをつけるしかないのが、現代社会だということを、監督は言いたかったのかな???
しかし、もしかしたら、
これこそがマキの書いた小説そのものだったのかもしれない。
時折挿入される暗いシーンは、彼の心の中の蠢きを描いているのかもしれない。
人は皆訳アリで、誰にでも「私=マキ」と同じ部分がある。
本人が主人公になる彼の小説
彼は自分の正体がバレることを想定している。
また設定のいくつかは不可解で、それが追及されることもない。
自衛官の設定は特に変だ。
なぜ彼はホテルに残ったのか?
隠れた理由 いじめとトラウマ 暇なときに起きること それが答えでも変
無線での救助 あれは自衛隊の無線ではなく防災無線
それを知らないはずはない自衛官の山本
最後に来た自衛隊員の中にいた白人 アメリカ軍が来たのかと思ったら自衛隊だった。
しかしなぜか山本の表情がクローズアップされず、ヤナギの自殺が起きる。
同時に起きている風景の描写ができない。
売れない小説 下手な設定
これこそがこの作品が表現した物語なのかもしれない。
ナウシカじゃなくてペジテの兵士
2024年王蟲の様な生物が襲来し人々が避難する中、ホテルに留まった12人の話。
自衛隊の救助で全員が逃げたかと思ったが、なぜかホテルに残った支配人と自衛官を含む12.人の人達が、シェルター代わりになったホテルで暮らし始めるストーリー。
始まって早々2026年に場面が移り、ワンエピソードだけみせて、また2024年に戻ってという、ちょっと捻った展開の中、それぞれの経歴や残った理由やそこからの変化をみせていくけれど、シチュエーションの変化があまりないし、大きな機微の波もないしで、一つ一つエピソードは悪くないけれど非常に長く感じる。
終盤の誕生日の展開からは、舞台劇でもみているかの様な感じだし、翌日は準備の段階で明らかにそれを意識した構図だけれど、そのタイトルからの連想だけで、内容は全然関係ないというね…。
話しとしては嫌いな感じじゃないけれど、面白みも深みも足りなかったかな。
それにしても頻繁に足音が鳴っていたけれど、ぐるぐる同じところ回っていたんですかね…。
まさに!あるいはユートピア
東京国際映画祭2024の上映1作品目!
上映後は監督、俳優の登壇もありでした。
内容は見応えがあり、シチュエーション的に誰かが何をしでかすかもしれない緊張感がやんわりと漂っていた気がする。
また本来ならほぼほぼハッピーエンドと言える終わりを迎えてるのに本作においては胸糞に近い終わり方するのが、皮肉っぽいけど面白い。がなんか嫌なものが胸に残るような作品でもあった。
「ミスト(2008)っぽさある」
ホテルの周り(世界中?)が巨大不明生物(王蟲っぽいらしい)に囲まれて、取り残された(自ら残った)人たちの群像劇。
ある空間に閉じ込められ、外には謎のクリーチャー、出ていきたいやつは出て行け、外がどうなってるかは知らんって感じが胸糞映画としても有名な「ミスト(2008)」を思い出させられた。
ミストは少しだけそのクリーチャーの姿が見えたりがあったので、本作もその姿形が作品の本質とは関係ないとはわかりつつ、少しその片鱗を見せて欲しかったなぁ、王蟲みたいなのとは言及されてるし、劇中大きめの海外のダンゴムシ的な虫が心理描写的に出てくるけど…
心理描写っぽい部分がなんだかよく分からなかったなぁ…
「最後の晩餐」
みんな揃っての朝食、席の配置からパンやワインの食べ物などどう見ても最後の晩餐。
その後の展開は是非鑑賞してもらいたい。
「総括」
ある環境においては、なりたい自分でいられたり、現実逃避かもしれないが外の世界、元の生活という地獄から解放される感じは「逆転のトライアングル(2023)」の無人島のヒエラルキーの逆転も思い出したりした。
「ミスト」もそうだけどどちらの作品も終わり方はハッピーエンドとは言い難い感じ、本作も残る嫌な感じは似たものがあった。
ある意味井の中の蛙かも知れないが、井の中で幸せでいられるなら外なんて知らないでいたい気もする。まして外が地獄なら尚更。
本作の「あるいはユートピア」まさにタイトル通りでかなり秀逸なタイトルだなぁと
映画祭鑑賞1作目!
爽やかな気持ちで劇場出る系ではないけど良い作品から始まった気がする!
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