敵のレビュー・感想・評価
全95件中、21~40件目を表示
生と死を行きつ戻りつ
原作未読で映画だけ、感想を記載させていただきます。
長塚さん演じる元教授(今後は「先生」と書きます。)が送る、最後の一年ということが、物語の表面的な時間経過となっている本作ですが、そこに先生のたくましい妄想力が加わることにより、時間は意味を成さず、むしろ逆行することすたあるかのような状態になっていくのが、個人的にとても魅力的な作品であると感じ、たった一人の老人の、人生の最後をひっそりと描くだけにも関わらず、強烈なインパクトを残していると思いました。
恐らく、表題である「敵」とは、己のうちに潜むものであることが、予告編など様々な媒体で、ぼんやりとですが予想できていました。それでも、ここまでしっかりと描写するのは色々な意味で挑戦的で勇敢であり、素晴らしい試みであると考えます。
まず書いておきたいこととしては、冒頭も書かせていただいた「時間」や「夢か現実か」など、そういうものはまず取っ払って観た方が分かりやすい作品なのかな、と個人的には思いました。どの作品でも、感想は十人十色でありますが、その感想に物語上のギミックを混ぜすぎると、時として本当に思っていることが沈んで行ってしまうと思うからです。なので、わたしは、上記の「時間」や「夢と現実」、「空間」なども含めて、敢えて考えずに思ったことを書こうと思います。もちろん、「敵」について送られてくる正体不明のメールについても、夢か現実か分からない舞台装置に過ぎないと思っていますし、分かったところで個人的にあまり意味を持たないため、あまり考えないことにします。
この物語のほとんどは、先生が日々を淡々と生きる描写で構成されており、先生が朝起きて、コーヒーを豆をゴリゴリ潰すことから始めて、朝食を作り~というような流れを淡々と音楽なしで表現します。この淡々としていつつも「生命活動」をしっかり描くところも魅力的だな、と思っています。そんな先生は、その中で出会う友人や井戸を掘ってくれる元教え子に、自身の死を予期したかのような発言もします。そういう時の先生はとても理知的で、所謂「理想の老後」を悠々自適に送っているのようにも、わたしには見えました。つまり、人間は老いて死を待つだけになる、つまり「必要とされなくなる」存在であると言外に示しているのだと思います。先生も割と自虐的に「わたしの話に10万円の価値があるという根拠はない。」などと、達観したかのような発言をしていますので、多分、そういうことなのかな、と思いました。
そのような中で、先生は3人の女性と主に関わります。3人は様々なかたちで先生と出会いますし、年齢も境遇も、関わり方もそれぞれです。しかし、唯一同じであることは「必ず先生から離れていく」ということだと考えます。
率直に言って、わたしはこの物語における「女性」とは、「生命エネルギー」のメタファーのような存在なのかな、と思いました。そして、反対にこの物語における「男性」とは「死」を連想させるメタファーとなっているようにも思えたのでした。それが、タイトルにもある「生と死を行きつ戻りつ」にも繋がっています。
物語は先生の人生の終わりを分かりやすく表現しているのか、蝉の生命ほとばしる鳴き声で埋め尽くされる「夏」を始まりとして、段々と静寂が忍び寄って来る「秋」、そして遂に「敵」が襲い掛かる「冬」と経過していきます。その中で、先生の友人は検査入院のはずが危篤状態に陥るほどの大事を患ってしまい、先生が寄稿していた雑誌への連載は打ち切りとなるなど、ネガティブな事件が立て続けに起きます。その辺から、先生の所謂「夢」は急激に肥大化していくように思えます。わたしは、上記で「男性=死」という考えを書きましたが、もう一つ加えると、それは「現実」という要素だと思います。ちなみにもう一人、元教え子の編集者についてきた若手編集者も男性であり、ある場面で殺されてしまう描写があるのですが、ここでも先生の周囲にいる男性は「死」を想起させますし、元教え子が掘っている井戸は、やはり「下の世界=黄泉の国」を想起させるものとも思えてしまい、同様に「死」のメタファーのように感じられました。
つまりわたしが言いたいのは、この映画においては「男性=死=現実」という方程式が成り立っているのではないかということです。先生の世界において、男性の登場は現実世界との接触であるとともに、自分の死を連想させる装置になっているのではないかということですね。
では、反対にわたしが上記で生命エネルギーのメタファーとして考えていると書いた「女性」はどうかを書かせていただきます。その前に、この「女性」にも、もう一つ「男性」と対となる言葉があると思いますので、先に書くと、それは「夢」です。これは「幻想」とも言えるように思います。これは物語のギミックとして先生が彷徨う「妄想」ではなく、あくまで象徴としての「夢」だと思っていただけると幸いです。
そんな女性の中で、一番象徴的なのは、瀧内さん演じる元教え子であり、先生が最も性的に見ている女性でもあると思います。この元教え子が実在するのか否かは置いておいて、少なくとも過去に自分が教えた生徒であったことは確かなのだと思います。その教え子が「来てくれる」ことで、先生は分かりやすく明るくなり、教え子が「誘ってくれる」からセックスに及ぼうとする、という夢を観ます。つまり、先生にとってこの教え子は、自分の男性性を優越してくれる、とても都合の良い存在のようにも思えるのです。
次に、「夜間飛行」(フランス人作家で飛行機乗りだったサンテグジュペリの作品ですね。)というバーで出会う河合さん演じる女学生ですが、この女性にも先生は知的マウントから男性的な優越を図ろうとします。しかしその実、女学生の言葉にすっかり舞い上がっていることには気づいていない様子です。
結果、この二人の女性は先生から離れていきます。女学生は、先生から300万円をだまし取るようなかたちで消え失せ、教え子はかつての自分への対応をコンプライアンスに抵触すると非難し、気持ち悪いものを見るような目で蔑みます(恐らく幻想だったのですが。)。何かを期待していた女性たちからの手痛いしっぺ返し(というか、これも先生が勝手に舞い上がっていただけなのですが。)を受けた先生は、上記友人の入院や連載ストップなども重なり徐々に死へと向かっていきます。周囲から「女性」――つまり生命エネルギーがなくなっていき、代わりに残るのは死を待つ自分だけだからです。
しかし、ここで注目すべきなのは、「生」の象徴でありながら「死」そのものでもある存在としての奥様です。奥様は、ある場面からふと先生の前に至極当然のように現れ、先生の心をかき乱します。ある種のクライマックスである鍋を囲んだ食事シーンでは、先生の性生活を暴露し、教え子の性根の悪さも暴露するなど、物語を動かしていく役割を担っているのですが、これは端的に先生にとって奥様が「罪悪感」そのものだからかな、と思いました。フランス旅行にも行かせてやらなかった奥様、マンションに住まわせてやらなかった奥様、早くに死なせてしまった奥様、そんな奥様の愛を裏切るように若い女性に現を抜かす先生。そういった様々な後ろめたさが、常に奥様に対しては言い訳がましい先生の台詞によって感じ取れました。なので、この奥様が出て来るシーンは少し複雑で、奥様を追い掛ける先生と冷たくあしらう奥様というような「死」を連想させるものと、一方で一緒にお風呂に向かい合って入り、笑顔で話す「生(性)」を連想させるものとが同居しているように思えます。ただ、ここで注意しなければならないのは、この先生にとっての奥様は「生」であるとともに「死=現実」の象徴でもあるので、他の女性(つまり「夢」)と食い合わせが悪い様子で、だからこそ上記の鍋シーンのような修羅場が描かれることになるのではないでしょうか。夢ばかり見ている先生が、フッと現実に引き戻される象徴として奥様が現れる。こうしてみると、先生が如何にして夢と現実を行っては戻っているのか――もっと言えば、生と死の境界を行きつ戻りつしているのかが分かりやすいと考えました。
あまり関係はありませんが、夢の一つとして、病院の女性医師(?)に下半身を露出させられる夢を見たり、奥様と一緒にお風呂に入りたかったりと、先生は本当のところでは女性に自分の恥部を曝け出したい人だったのではないかと思いました。一方で、夢の中の教え子は自分にセックスを誘っておきながら時間制限を持ち出してある種の管理をしようとしたり、「服は着たまま」と命令したりと徹底しています。服を「理性」や「壁」とメタファーを考えると、反対に裸や恥部の露出は「欲求」や「解放」とも考えられ、最も性的に見ていたであろう教え子の夢が理性によって固くガードされているところは、興味深いところかな、と個人的には思いました。
と、ここまで書いてみて、わたしが思うのは、やはりというべきか先生は本当は全然死を受け入れてはいないのだろうな、ということでした。教え子や友人には見栄を張って達観している風情を出していますが、その実、いつやってきてもおかしくない死を恐れ、それが先生の妄想力によって肥大化し、最終的には「敵」という茫漠だったはずの存在として顕現した。そういうことなのかな、と思いました。
物語のラストになると、突如として「敵」は先生に襲い掛かります。先生は必死に逃げて庭の納屋に逃げ込むのですが、これは恐らく「母親の胎内で大空襲を経験した」と語っていた先生の胎内回帰願望が見せる妄想なのだろうと思います。それでも、ふと棒を持って納屋から出て来て「敵」に立ち向かう先生の姿は、母親の中から生まれた赤ん坊とも取れると思いました。結局は撃たれてしまうのは、「敵」が先生にとっての「死=現実」だからなのでしょうか。母親は女性の象徴ともいえるので、この時ようやく先生は「女性=夢」から飛び出して「敵=現実」と向かい合ったとも取れる、とてもテクニカルなクライマックスだと思います。
その後は、とても切なく、夢から覚めた先生は縁側で春の前ぶりともいえる雨を眺めながら「春になればみんなに会える。」と、ようやく本当の願いを言葉にするのでした。要するに、これまでのすべては、忘れられて不必要だと言われていく自分の存在を少しでも世界につなぎ留めたいと願う一人の孤独な老人の話であった、というように思える構造なのですね。
ただ、最後の最後にとても個人的なわたしの「妄想」を書かせていただくと、これらすべては最後にやってきた「春」の章までの「夢」だったのではないかと考えてしまいました。春という季節は、生命が再び活気を取り戻す訳ですが、そこで思い浮かんだ生き物に「蝶」がいます。「蝶」と「夢」で思い浮かぶのは「胡蝶の夢」という、それだけの話なのですが、最後に(恐らく)甥っ子(先生のおじい様(お父様?)にソックリ)と思われる方が納屋にあった望遠鏡を覗きこむと、家の二階に先生の姿を捉えるのですが、そこでふと甥っ子は消えてしまいます。わたしは何となく、これまでのすべては「胡蝶」(あるいは「敵」という名の「何か」)が先生に見せていた夢に過ぎず、甥っ子は先生を「見て」しまったことにより「胡蝶」の夢に取り込まれてしまったのではないか。
そんなことまで、考えてしまいました。そういえば、映画の途中で夜に何者かが庭をうろつき、先生が追い掛けるとそれは自分のお爺様(それかお父様)だったと奥様に嬉しそうに報告(という名の言い訳)をする場面がありましたが、あれは単純に夢と現実が曖昧になっていたことを表していたのかな、とも思いました。「パプリカ」を書いた筒井先生だし、それをやってもおかしくないな、などと。
上記のように、色々と自分なりに考えて楽しむ余地の非常に多い作品ではありますし、男性という存在の脆弱さを心身ともに表してみせた表現力はものすごいのですが、もう少し明瞭でも良いのかな、と個人的には思ったので、☆を一つ覗かせていただきました。
一人暮らし男の淡々とした日常
休日にいつもの映画館で
会員価格1,500円と駐車場代200円ナリ
チラシを見て気になっていた一作
長塚京三は好きな俳優だ
なんか学園ドラマとかお仕事ドラマで
嫌味な教頭とか上司を演じていたような記憶
色の付いた眼鏡をかけていた
そのうちいい役が増えて
恋は何とかの花火ではないとかサントリーのCMに出ていた
あとNHKで頼朝役をやったと思う
この後改めて確認したい
この監督も一筋縄でいかない人
原作は読んでいないのだが
きっと独自の解釈をしているのだと思う
霧島…もおそらくそうでは
白黒にした意図は何なんだろう
トイレとか犬の排泄物の描写もあったからなぁ
出だしは去年観たPERFECT DAYS的
一人暮らし男の淡々とした日常が進む
オラははこういうのが好物なのだ
でも後半かなり動く
虚実ないまぜ
どれが虚でどれが実なのかよくわからなかった
全てが忌の際で観た幻という解釈もあると思うし
友だちが入院したり女の子に騙されたり
あと井戸の中に若手の編集者が放り込まれたのも事実なのかも
そのあたりをあえて整理していない
ラストシーンもよくわからない
はっきり言って嫌いなタイプなのだけど
まぁこういうのもありと思えるようになって嬉しい
妻役の黒沢あすかは30年くらい前に六月の蛇という映画の主役だと思う
当時なぜか観た 塚本晋也だったかな 当時も妖艶だった
内容は覚えていない
教え子役も似た雰囲気の女優だと思った
最初は長塚京三に惹かれて
原作読んでませんがテーマとしては2001年のニコールキッドマン主演『Others』に近しいかなと。
但し『敵』は相当コミカルに描いた分、身近な問題提起作と捉えました。
上映後の監督のトークセッションでは、ラストカットの尺に対する質問に悩んでた様子。
確かに尺を延ばすと『Others』と同じになってしまう。泣かせる作品では無いから現状が最適解かと。白黒映像なので人が風景に溶け込んでしまった(特に止め絵)のは設計の問題ですね!
長塚京三さんの仕草が満喫できる日常芝居が見られます。
長塚京三の代表作になった
老いと死という敵は、誰にでも必ずやってくる。制御出来ない敵。また、食べることは生きること。敵に抗うこと。儀助が今までの人生を振り返るとき、亡くなった妻への悔恨の念や元教え子や若い女性への性的欲望が、現実か妄想かわからない映像となって観客に提示される。観ていて、とても苦しくなりました。
儀助(長塚京三)の顔の皺の印影から現在までの人生の積み重ねの時間を感じ、モノクロの画面に美しくもあり恐怖でもありました。
『春になれば花も咲いてみんなに会える』
夢と現実が激しく混線する、しかしそれこそが極めてリアリティ
ひとりの人生の終末をここまでの高解像度で表現したことに強く感銘を受けた。
自身に確実に迫ってくる「終わり」にしっかりと向かい合っているように見える、いわゆるしっかりとした立派な大人でも、ちょっとしたことでバランスを崩すと見事に崩れ落ちていく。ということを見せつけられ、人生の終わりの残酷さを感じさせられた。
夢と現実が混線する作品であるが、極めて現実を映している作品であると感じた。
反面教師ならぬ反面教授?
原作未読ですが、【由宇子の天秤】の瀧内公美さんと河合優実さんの再共演ということで公開日に早速観てきました。
引退後の人生の過ごし方という逃げられない未来を、自分はどう生きるべきかと色々考えさせられる作品でした。鑑賞後も自らへの問いがしばらく頭の中を巡りました。
主人公は、一般的に立派な方と言われるのかも知れませんが、私はこういう方にはならないように気をつけたいと思う部分がありました。欲が自制できずうたた寝中に果てるとか、教え子を片付けに駆り出すとか、お金の使い方とか。
飯テロ映画でもあります。朝からご飯を炊いて魚を焼いて等、よくある献立でも白黒映像な所が逆に美味しそうに見えました。
何食かでてきてどれも美味しそうなのですが、汁物が全然ないのが気になったのは、劇映画孤独のグルメを観た後だからでしょうか。
主人公の偏屈な性格を描写したもの、とも思いました。
老いへの恐怖
妻を亡くし毎日を平々凡々と生きる元フランス文学大学教授の日常を描く。日常を侵食する妄想、老いという悪夢、それこそが敵なのか。
長塚京三好きで吉田大八監督の作品か好きなので飽きずに観られたが楽しいかどうかと言われたら…。
自分も50歳半ばで無理の効かない年になり、恐怖を強く感じた。
第三種石鹸遭遇
筒井康隆の大ファンだ(った)が、この原作は未読。特に初期の短編(「トラブル」「マグロマル」など)が好きだった。この作品は著者64歳の時の作品だが、既に“老い”への恐怖というテーマが色濃い。
いたって普通の日常生活も、モノクロだと枯淡の風情を帯びてくる。主人公はひとり暮らしなのに随分手間ひまかけて料理をする。後半に入るとカップ麺にお湯を注ぐだけになったりするのが悲しすぎる。夢落ちの連鎖という構造が見えてしまうと、途中からもう話がどうでもよくなってくる。
長塚京三はかつての「ザ・中学教師」の印象が強烈だった。久々に見るとすっかり枯れてしまっていて驚いたけれど、傘寿真近と知ればいたしかたないところ。
私はあんなにわんさか石鹸をもらったことはないなあ。
単細胞的に考えました。
はい、長塚京三の日常が淡々と描かれます。
ご多分に漏れず「PERFECT DAYS」を連想
「PERFECT DAYS」同様、最後まで淡々としていて欲しいなあ・・・と思わせてくれます。
役所広司とか長塚京三は眺めてるだけで楽しいので
ひたすらボーッと眺めるのも至福のときでした。
しかし、ネジは外れ出します。
この「敵」
様々な解釈が出ていますが
僕は単細胞的に「夢」と捉えました。
つまりね
異常事態の後に「目覚める」シーンが多用
気分は「特急シリーズ」のフランキー堺です。
が、起きたあとも異常事態やん
となりますが
ここから僕の実体験の話をします。
一時期、悪夢ばかり見ている時期があり
「夢」の中で「夢」見ていて、それがまた「夢」という多重構造だったり(「ドクラマグラ」みたいね)
「夢」の中で「夢」と気づいて起きようとするんだけど、また「夢」中に引っ張り込まれる
とか怖くて疲れる日々をおくってました。
人に話したら
「エルム街の悪夢」の見過ぎなんですよ
と言われたりしましたが
これ順番が逆で
僕のような恐怖体験をしている人が世界中に沢山いたから「エルム街の悪夢(1作目)は大ヒットしたんだと思ってます。
で、本気で怖かった。
2作目以降に関して言うと、僕は「ホラーキャラのアイドル化」推進派なので、楽しく見守らせて貰いました。
(したがって「貞子」シリーズも楽しく見守ってます)
親しくしている女性から「セクハラ」を指摘されて、ありていで説得力のない弁解をするなんて京三には本気で悪夢でしょう。
また「夢精する京三すげえなあ」と思いましたが、それもまた夢かもしれません。
もしエンドロールの後で、夢から目覚めて起きるシーンがあったら
僕はスッキリだけど
皆さん嫌な気持ちになったでしょう。
観る人によって合うか合わないか(もしくは好きか嫌いか)がはっきり分かれそうな作品です。白黒作品である理由は何となくですが理解できた気がします。
出演者の中に気になる人が複数名おりチェックしてました。
長塚京三さん、瀧内公美さん、河合優実さん等々です。・_・
白黒映像にもどんな理由があっての事なのか気になります。
そんな訳で、さあ鑑賞。
した訳なのですが…。
この作品の感想をどう表現したら良いものか困ってます。*_*ン
鑑賞後1週間経過しても感想がまとまりません。
# 楽しかったですかというと いいえです(すいません)
# つまらなかったかというと 前半寝てしまいそうでした
# 気持ち悪かったかというと 否定できません (すいません)
# 観どころは無いかというと そうとばかりも言えない気も
うーん。
もしかすると、この作品をそんじょそこらの作品(どんなだ)と
思って鑑賞してしまったのが間違いだったかも。うん、きっとそう。
良くみれば、原作が筒井康隆の小説 だし。 @_@;;
というわけで…
以下、この作品が自分に合うか事前チェック~
…って 観てからやってもなぁ…と自分に突っ込みつつ
【設問その1】
筒井康隆を読んだことかありますか?
はい (次の設問へ) ★
いいえ (考え直すなら今のうちですよ)
【設問その2】
「時をかける少女」くらいでしょうか?
はい (引き返すなら今のうちですよ)
いいえ (次の設問へ) ★
【設問その3】
筒井康隆の作風を何となくでも理解していますか?
はい (この作品をお楽しみ下さい)
いいえ (選び直すなら今のうちですよ)
たぶん (何があっても自己責任ですよ) ★
★は私の選択です。
筒井康隆の小説で読んだことがあるのは、
「時をかける少女」
「家族八景」
「七瀬ふたたび」
「エディプスの恋人」 (←もしかしたら読んでないかも)
正直に書くとこの程度しかありません。@-@ ; ウン
そして、いわゆる七瀬三部作(の中のどれだったか)を読んだ
際に、トラウマになりそうなキツイ場面があった事も思い出し
てしまいました。・-・;; オッ
※「火葬場」「蘇生」「テレパス」このキーワードで ” あれか ”
と分かって頂ける方もいらっしゃるかも。
要するに、安心して鑑賞できる作品と思って鑑賞した自分が
悪かったのです。という事をお伝えしたいだけテス…。@_@;;;
そんな訳で、以下レビュー本文です。
◇
作品の概要を挙げてみると…
年老いた一人の老教授(長塚京三)が主役。仏文学の先生。
彼の日常生活のシーンが淡々と続く。
人生の残り時間を、収入見込みから逆算しているヘンなヒト。
その自説を、尋ねてくる人(多くは無い)に説き聴かせている。
住んでいる自宅は庭付きの、年季の入った屋敷。
奥様を無くして以来、一人で暮らしている。
家の手入れも大変だろうが、売って身軽になろうとかの考えは
全く持ち合わせていないようだ。
そんな彼を尋ねてくる内の一人が、過去の教え子(瀧内久美)。
教授と女子大生だった頃、カンケイがあったのかどうか不明。
自分を尋ねてくれるこの元教え子に対して抱く感情は…。
たまには、仏文学の評論記事の依頼がやってくる。
仏文学の研究は格調高い世界と思われているようだが、卒業後に
それで食べていくのが困難な分野でもある。
元教授が良く利用しているパブ(?)がある。
そこに行けば、新しいアルバイトの女子大生(河合優実)。
どうやらこの娘も仏文学をやっているらしく、久しぶりに文学の話
を交わすことで、精神が若返った気分を味わっている。
庭では使われなくなった古井戸を堀り直そうという話になり、
知り合いから紹介された業者が作業に来ている。
と、こんな感じに
淡白で静かな出だしから始まり、とても静かな展開を見せているの
ですが、ある時点を境に話の内容に変化が見られるようになっていき
ます。どちらかというと、不穏な変化が…。
◇
ある夜。トイレの水面を見て呆然とする教授。
白黒作品なので色が分かりませんが、恐らくは真っ赤な出血。きゃー。
辛いキムチを買って夕食に食べたのだが、食べすぎたせいか…。
医者に行く。ベッドの上に四つんばい。
手首も縛られ身動き出来ないように拘束され、下着を下ろされて尻に
検査器具をズブズブと。…うおぅ
その器具のホースが暴れ出し、悶絶する教授…。
という所で場面が変わり、…夢?
このあたりから後次第に、不安な現実と不穏な妄想の入り混じった展開に
なっていく訳で…。うーん。
鑑賞後に残ったのは、
” もやもや”
” 不条理 ”
” 不快感 ”
ほぼ、そういったプラスの感情ではないものが殆どでした。
最後の方では、やはり筒井康隆の世界だったと思うしかないのかと、
半分悟りを開いたかのような心境の中、更に悶々とすること数日。。
◇
突然、頭の中に閃いたものがありました。☆△☆
” 訳の分からないストーリーに変わっていくのは 主人公の ”
” 脳内の認知能力低下の進行を表現しているからではないか? ”
奥さんを亡くし、単調な一人暮らしの毎日の連続。
それによる、認知症の悪化。ワケ分からなくなった認識の表現。
と、アンソニー・ホプキンスの「ファーザー」を思い出しました。
徐々に認知機能が壊れていく老人の世界を、老人の側から描いた強烈な
作品でした。
この作品をそうなのかも、と考えていったら
「理解は出来なくとも納得はできる」 ようになりました。
理由のわからない不条理な展開も納得できます。
※ 本当は違うのかもしれませんが…、そう思うコトにしました。。
◇あれこれ
■長塚京三さん
ひきしまった肉体でしたねー。すごい。
何か特別な運動でもされているものやら。弛みが全く無いです。
とても80歳間近とは思えません。
■河合優実さん
色々な役を演じられる役者さんだなぁ と感心するばかりなのです
が、この作品では「水商売のお手伝いをする女子大生」でした。
一歩引いた感じの「目立たない存在感(ん?)」で好演。
■遺産相続
この作品に出てくるような、庭付きの一戸建て。
なるべくこのままの状態を保全してね との条件で譲られたら…。
うーん。相当の思い入れが無いと、かなりお荷物に感じるかも。
■相続したヒト
” 従兄弟の息子 ” に、その財産が相続されて終わったようですが
あのラストシーンって…。
あの家そのものにも、何かがある(いる)のでしょうか…。こわ。
◇最後に
この原作を書いた時、筒井康隆さんは60代半ば。
これから先の人生に立ちはだかると思われる「老」の世界に
色々な想いを込めて書いた小説なのかなぁ と、
勝手に思っています。(違ってたらすいません)
☆映画の感想は人さまざまかとは思いますが、このように感じた映画ファンもいるということで。
虚しい
原作知らないです。読んでいないです。
正直楽しい映画では無かった。
文学としてはいい作品なのかもしれない。
敵って何?何が来るのか?と楽しみに見ていたが
結局まもなく来る自分の終わりじゃん。
現実と過去と妄想がごちゃ混ぜになりながら
人生を終わる、そんな現実を見せられただけ・・・。
むなしくなった・・・。
原作読まずに観るべきかも
原作有り映画の場合、読んでから観ると未読で観る場合とは違う印象を受けるが今回は原作読破しての鑑賞。批判的な視点から検討すると、いくつかの問題点が浮かび上がります。まず、物語の展開において、主人公が「敵」の存在に怯える過程が描かれますが、その恐怖の根拠や「敵」の正体が曖昧なまま進行するため、観客にとって理解しづらい部分があります。この曖昧さは、観客の共感や感情移入を妨げ、物語への没入感を損なう要因となっています。
さらに、主人公の心理描写に焦点を当てるあまり、周囲のキャラクターの描写が浅く、彼らの行動や動機が十分に掘り下げられていません。特に、大学の教え子やバーで出会う大学生など、主人公と関わる人物たちの背景や内面が描かれないため、物語全体の厚みやリアリティが欠けていると感じられます。
演出面においても、吉田監督の独特なスタイルが際立っていますが、一部のシーンでは過剰な演出や象徴的な映像表現が観客にとって理解しづらく、物語の流れを妨げる要因となっています。これらの演出は、作品のテーマやメッセージを伝える上で効果的である一方、過度に抽象的であるため、一部の観客には難解に映る可能性があります。原作では性的描写が肝であるがこの点も表現が物足りない。今映画やドラマの現場でインティマシーコーディネーターの導入が進み表現が難しいのは理解するが女性の肌の露出が少なすぎるしエロティックさも感じない。意味のない裸は必要ないが演出で工夫出来た筈。
また、原作小説の持つ独特の文体やユーモアが映画化の過程で十分に再現されておらず、原作ファンにとっては物足りなさを感じる部分があります。特に、筒井康隆の作品特有の風刺や皮肉が薄まり、物語の深みや多層性が損なわれている気がした。
総じて、『敵』は高い評価を受ける一方で、物語の曖昧さやキャラクター描写の浅さ、過剰な演出などの課題が見受けられた。
小津を意識したらしいが敢えてモノクロにした必然性も感じなかった。
余談ですが原作読んで思ったのは主人公は幻覚、幻聴、悪夢などの症状からレビー小体型認知症だと思う。私の死んだ父親がそうでした。生きている間は異常な行動言動に随分悩まされました。
タイトルなし(ネタバレ)
評判通りモノクロ版孤独のグルメだったが、自炊してる分より孤独感が増してるのですが端正な分、後半のカップうどんやあんパンで錯綜してる感じがより強く感じられた。
これはネタバレになるかも↓
筒井康隆原作のイメージより屋敷(家)に取り憑かれた『シャイニング』のような話だと思った。(最後双眼鏡でみたものとか)
恐るもの
白黒映画なのに
だから?なのか
食べ物が美味しそう✨
焼き鳥が一番食べたくなりました
最初みていて、パーフェクトデイズ的な感じかと思っていたら
平山さん役所さん的な?
全然違くて
自死を決めて生活をする
元大学教授
お金にゆとりがある時の生活から
行きつけBARオーナーの姪
健気な哀れな彼女にほぼ全財産をあげてしまう
これは現実出来事と私は捉えた
困窮しはじめてから、現実なのか
夢なのか
わからない展開
生きているのか、死んでいるのか
わからない展開が続く
敵は死だったのかなと解釈
主役は長塚さんじゃないとだめだと思いました。というか長塚さんだからとてもよい
夢じゃ、夢じゃ、夢でござる。いや、夢ではない。
1月31日(金)
1月にインフルエンザと虚血性腸炎で2度入退院を繰り返した高齢の母を見舞う。元気になって良かった。帰りにユナイテッドシネマ浦和で「敵」を。
祖父の代からの一軒家に住むフランス文学の教授だった渡辺儀助(長塚京三)は、20年程前に妻を亡くし、一人暮らしで買い物、料理、掃除、洗濯をこなし、コーヒー豆を挽いてコーヒーをいれて、仏文学に関する講演や原稿を書いて生活している。
昔の教え子(瀧内公美)が訪ねて来たり、友人とバーに飲みに行ったりもする。
貯金の残高からあと何年こんな生活が出来るかを計算して、その日を目指して生きている。
そんな中、あなたに500万円当選しましたとかスパムメールが来る中に、「敵がやってくる」というのがある。
そこから生活のリズムが狂い初める。
バーのオーナーの娘(河合優実)に金を騙し取られたり、亡くなった妻と一緒に入浴したり、昔の教え子とあわやの関係になったりと虚々実々の世界が展開される。
不条理なのは筒井康隆ワールド。
どこまでが真実で、どこまでが虚構なのか夢なのか。
夏、秋、冬とストーリーは進み、
「春になればまたみんなと会える」と言うのが儀助の最後の台詞だった。
「なれば?」冬には誰とも会っていないのか。するとあれは全てが幻覚、幻想、妄想か。春の儀助の葬式、本作のそれまでの登場人物は誰一人出席していない。
そもそも本作は、最初から全てが儀助の幻想だったのではないか。
「ファーザー」のレビューにも書いたが、認知症になると料理が出来なくなる。昔出来ていた事が出来なくなるのだ。
あれだけ手際良く調理していた儀助が冬には料理をせずパンをかじっていた。
しかし、美しいモノクロームの世界の瀧内公美の艶めかしさはどうだ。
儀助でなくても性欲を刺激されるのは間違いない。
いや、私が70過ぎたエロジジイだから言うのではなく、人間は70歳になっても性欲は衰えない。少なくとも精神的には。肉体が付いてくるかは別の問題だ。
辛いキムチを食べ過ぎて大腸炎で下血し、内視鏡検査を受けた儀助は医師に言われる。腸の機能は加齢で落ちているのだと。
(先週、母が虚血性腸炎で入院し大腸の内視鏡の画像を見せられたばかりなのだ)
やって来る本当の「敵」は、老いか、孤独か、死か。
老境に至りても、ひとは醜くて面白い。
筒井康隆は関西圏のテレビで鷹揚としゃべるおじいちゃんという印象しかない。
小説は読んだことない。時をかける少女とかの原作者だってことは知ってる。
吉田大八の脚本・監督ってことに惹かれて観た。
多分、ある種の認知のズレが始まった老人の、混乱から死への季節の描写なんだろなー。
かっこよく死に時を探しているけど、40くらいの教え子に欲望を抱き(瀧内公美さんがすごくいろっぽくてよい)夢精するし、20そこそこの小娘に鼻の下を伸ばしてお金を取られ、20年前に死んだ妻のコートに面影を求め、隣人の加齢臭に自分も臭くないかめっちゃ気にして石鹸をこすりつけ、金はとられるし絶望して自死しようとするのに、訳のわからんものに襲われたら抗ってしまうし、みっともなくて性も生もどっちも全然達観できてないやんってところが、生々しくて面白かった。
長塚京三さんの演じた、老境に至りてなおみみっちいプライドや欲望に拘泥する、普遍的でチャーミングな人物像がとてもよかった。だいぶ年とらはったなー、説得力ある画だけど演じるのに勇気いるよななど思った。
辛いレーメンでおなか壊して、大腸のカメラ検査の2回目で、女性医師に四つん這いにされて、下着おろされてはずかしいのに恥ずかしいと言えず、黒いホース状の何かが尻から吸い込まれる描写がおっかしくて、がんばって無音で爆笑した。
あと、犬の糞を放置するなとキレる隣人が、敵?に打たれて糞を尻でつぶしてしんじゃう描写と、犬の糞放置の犯人にされる女性の飼っている犬の名前がバルザックで、そんなところにまでフランス文学風味を…なども面白かった。
フードコーディネーターは飯島奈美さんだったよう。
社会の勝者であった人に
モノクロ画面については、モノクロ作品をたくさん観ているし(なんなら映画はモノクロの方が多い)、先に知っていたのもあり、そういう手法なんだな、程度だった。
画面に映る家電等が最先端なので、モノクロと映っているものとの間の軋みも味わいとなる。
そもそも妻を大分前に亡くしているのに家電が新しい、ということは自分で選別して購入する能力がある男性であることを表している。
庭掃除、料理、洗濯、廊下掃除(掃除機でははなく箒)の場面はあったが、しばしば登場する調理にまつわる台所の掃除はどうしたんだ、と思っていたら夜中にやっていた。
そのように主人公となる渡辺儀助は「丁寧なくらし」をしている。
フランス文学の教授職を退官して、貯蓄と年金、講演料や原稿料で生活している。
(ちなみにネット情報によると長塚京三氏はパリ大学に在籍していたことがあるそうな)
貯蓄があることも、退職したあとに小遣いというには十分すぎる(と思われる)収入があることも、社会の勝者であった彼を描き出している。
そういった下敷きの上に、老いによる孤独、隔絶感、閉塞感から芽生えた現実と妄想が降り積もってゆく。
最初は、雪が黒い地面に落ちて静かに溶けてゆくように、儀助という人間の中に吸い込まれて消えてゆくが、次第に、彼を浸食し、凌駕してゆく。
一応、女性として年金受給年齢まで日本で生きてきたものとしては、教え子の女性も夜間飛行というバーの女子学生もあざとさが目立つが、こういう罠に嵌ることにすら潜在的な願望を抱く男性は少なくないのかもしれない。
認知症になったらどうしよう、と悩む高齢者は多いが、病気と名付けられずとも、生命を授けられたものはすべからく老いて死んで行く。(どの程度の老いかはばらばらだが)
そういった事実を覚悟する意味で、社会の勝者として生きてきた方に観ていただきたい、と思った次第である。
まあ、それでも「オレ(だけ)は大丈夫」という人はいるけれど。
儀助の最後の姿から亡くなるまでの数ヶ月は描かれていない。
それは救いなのか恐怖なのか。
全く関係ないけれど、「猫と庄造と二人のをんな」を観てみようかな、と思った。
久々の筒井康隆ワールドを堪能
原作は読んでいないので、初めから『敵』とは何かを考えながら観ていた。ま、死だったり老いだったりだろうなと単純に想像していた。
同居している91歳の私の母親は認知症ではないが、ここのところ睡眠時間がやたら長く、何かに対して怒鳴っているような叫んでいる様な大声の寝言が多くなった。物忘れも酷くなってきて、そんな事聞いてない、私がいい忘れたからって人のせいにするななど理不尽な事を言ったりする頻度も増えて来た。
この映画で私の母の頭の中を垣間見た気がする。きっと母も、過去の記憶や、長い人生の経験からくる理想、恐怖などの妄想と現実の混乱の中で日々の生活を送っているに違いない。何度も出て行こうと思ったが、雨の日に縁側に一人ぽつんと座っているシーンを観て、最後の日まで一緒に居てあげようと改めて思った。
敵とYシャツと私
2025年2本目は、敵。
序盤は憧れるほど丁寧な生活が描かれる。
焼き鳥を串打ちし、すぐ混ぜる冷麺もきっちりと盛り付ける。
何気ない日常描写でありながら、退屈はしない。
敵が現れてからは生活が一変し、パジャマで過ごし、菓子パンやインスタント麺のズボラ生活。
この対比が素晴らしいと思いました。
どこからどこまでが現実なのか、だんだん境界線が曖昧になっていく感じがとても良かったです。
画面がモノクロなこともこの映画にとってプラスに働いていると思います。
全95件中、21~40件目を表示