敵のレビュー・感想・評価
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期待度◎鑑賞後の満足度◎ 身につまされました。“それ(敵)”は突然やって来る⇐人生の真理です。
①序盤は、引退した(実はクビになったことが終盤で分かる)大学教授の隠居生活を淡々と描いていく(白黒ということもあって)のかな、と思いきや、中盤からは夢とも妄想とも幻覚ともとれる映像が次々と差し挟まれて主人公の内面が暴露されていく。
映像で語る映画という媒体はこういう表現方法にやはり適しているなあ、と思う。
②成熟した立派な大人、終活バッチリ、俗世を超越している、嘗ての生徒達に慕われる優れた教授という表面(これも本人の願望、プライドなのかも知れない…)の下に、実は切れ痔に悩まされ、様々な煩悩(亡き妻への慕情、後悔、捨てきれない嘗ての教え子への欲望、性欲、劣等感、体臭-これよく分かるわァ、未練、不安、恐れ、虚栄心)が渦巻いているのがあからさまになっていく。
でも、自分も60過ぎて分かるけれど、残された時間も指折り数えられる段階に入ったし、世の中のことも少しは分かってきたと思うし、ちょっとしたことには驚かなくなっては来ていても、なかなか悟りの境地には程遠い。
でも、それが人間だし人生だと思う(開き直っております)。
そういう点ではとても人間臭い映画だ。
主人公が見ているのが夢なのか(夢精したから夢とも思えるし)、妄想なのか、そろそろ認知が入ってきたせいの幻覚なのか、死ぬ前に走馬灯のよう見る映像なのか、の解釈は観る次第だろう。
③「朝ごはん食べてから歯を磨く人なんだ」
というのが何故か印象的。
④長塚京三は、生徒達から慕われる教授だったのが納得できる懐の深さと、教え子から慕われる色気、そして少々世間に疎いピュアさもそこはかと漂わせて流石。
⑤時間軸が歪んでいるようなところや、古い家につきまとう幽霊譚ぽい味付けも、なんとなく筒井康隆らしい。
長塚京三さんの演技が妙に心地良い、観終わっても直ぐまた観たくなる摩訶不思議な傑作
主人公は老い先が短いとはいえ、いつまで続くのか分からない人生の終わりを予測し毎日淡々と過ごす元大学教授の老人
でも歳をとっても瀧内公美さん演じる元教え子に「私としたいの?」と言われ欲情したり、河合優実さん演じるBARでバイトするミニスカ女子大生に会いに“自分なり”にオシャレして出かけたり、と現役男性の様に振る舞うが、やがて“敵”の存在によってシームレスな世界に身を投じていく、というメチャクチャ難しそうな役を長塚さんが演じ素晴らしく見ごたえがあります
主人公が毎日ひたすら作り続ける食事が毎回メチャクチャ美味しそうだった
確認したらいろんな映画やドラマを手掛けてきたフードスタイリスト飯島奈美さんのデザインとのこと、モノクロなのに焼き鮭や串焼きなどが匂いまで伝わってきそうに撮られていて流石だなあと感心しました
そして、もちろん料理だけでなく日本家屋など全編においてもモノクロ映像がすごく綺麗、作品に引き込まれて直ぐに忘れてしまうぐらい違和感がないのが不思議でした
最後に
自分の中で強烈に印象に残ったのが、瀧内公美さん、今まで全然そんな風に見えた事はなかったけど、本作ではモノクロのレトロな雰囲気が似合っていて、とても綺麗ですごく色っぽく素敵でした
河合優実さんはいつもと一緒の安定感で良かったです
中高年向き、高尚かつ下世話な深み
単に「面白い」という表現では表せない、深みのある、多面的な印象を持つ映画でした。
観る人の年齢によっては、面白いどころか、身につまされる怖さを感じる映画でもあるでしょう。
何人かの方が書いておられるように、61歳の私も「PERFECT DAYS」を想起しながら観ていました。独身男性の、日々の生活を丁寧に描写するところが共通点。ただ、あちらは現役ブルーカラー労働者で、こちらは余生を過ごす高齢の元大学教授なので、生活のベースはかなり異なる。あちらは自然の木漏れ日を美しく描写し、こちらはモノクロで四季の移り変わりを定点観測のように日本家屋の中で描いている。どちらも、派手さはないけど中高年者が観て、人生の何たるかを感じる描写が多い。
この映画の原作は未読ですが、筒井康孝の小説、特にナンセンスもの(というべきか)は若い時にハマッてかなり読んだことがあります。映画の後半、どんどん不条理な描写が増えていき、現実と妄想の境がわからなくなり、夕食の鍋をひとりで全部食べて、殺されて井戸に投げ込まれる編集者のくだりや、犬のフン騒ぎ、内視鏡検査、夢精などなど「これは確かに筒井康孝の世界やん」と、昔読んだ小説を思い出しながら、笑いをかみ殺して観ていました。
高尚さを感じる場面と、バカっぽい場面、また「敵」が階段の下から集団で上がって来る、強烈に怖いシーン等が、作品の中に違和感なく同居していて、ちょっと他にない味わいを感じました。この監督の作品は初めて観ましたが、少なくとも筒井康孝作品を相当読んでおられると思いますし、演出レベルの高さに圧倒されました。
もともとは洋画・韓国映画好きで、あまり邦画は観ない方だったのですが、昨年は「夜明けのすべて」「アイミタガイ」「侍タイムスリッパー」等、良い作品をたくさん観たので、今回の「敵」も含めて、邦画に対する印象も良い方に変わってきました。
主演の長塚さんが素晴らしかった!
特に長塚さんの前半の演技にrealityがあった。日常の繰り返しだが、routine(同じ動作)ではなく、食事の準備をして、それを食べ、食器を片付け、洗うところまで、しっかりこなす。朝食には、ハムエッグや鮭の焼いたの、昼食には、蕎麦を湯掻いて冷水にさらし、ネギと共に、あるいは卵を茹で、スーパーの韓国系店員と相談して求めたキムチと、冷麺に載せて食べる。夕食には、レバーを牛乳につけて血抜きし、切って串に刺し、炭の上で焼いて食す。フレンチのレシピに挑むこともあり、ワインも時として食卓に載り、弟子たちとの会食も。77歳にして、あの食欲。身体が強くないと出来ない相談。朝と夜の歯磨き。夜は、少し前によく見た「糸ようじ」。
ただ、彼自身は、教授を退職してから、原稿を書いたり、講演を依頼されたりすることもあるが、退職後の境遇に決して満足していない。訪ねてくるのは教え子のみで、周りの人たちから尊敬を受けているわけでもなく、親から引き継いだ大きいが古びた二階屋の日本家屋に住み、食事に丹精を凝らすのも贅沢に見られているとこぼす。貯金の目減りにいつも気を配り、生きるために生きるだけの生活には満足できず、今の生活レベルが維持できなくなったら、一生を終えることも覚悟しており、遺書も準備している。
やがて彼は、老化からくる強い不安を背景として、夢とうつつの間を彷徨う。願望、妄想、不条理の三段階があったようだ。一番、現実に近い願望としては、よく訪ねてきて食事を共にすることもある教え子との性的な交わり。妄想としては、20年前に亡くなった妻が出没するようになり、教え子たちと同席したり、言葉を交わしたりする。亡妻が出てきたら、全部、夢の中と思ってよいのだろう。面倒なのは、非現実的かつ原作者の発想に基づく不条理。愛用のMacに「北からの脅威」がウイルス・メールとして現れて後、現実感を以って、暴力的に襲ってくる。これがタイトルにある「敵」の正体だし、内的な「不安」に呼応する外的な「不穏」、原作者の主題なのだろう。いくら想像の産物とはいえ、現実感ありすぎ。個人的には、この不条理だけは何とかして欲しかった。ただ、この映画にある種の活気をもたらしたことも事実か。
年齢を重ねることによる、認知症とは異なる、内的な不安との戦いをよく描いた映画だ。
北から来るものThat Which Comes from the North
原作は未読。
権威になる、と
どうなるか?
権力を持つ、と
どうなるか?
歳をとる、と
どうなるか?
多くは、良くも悪くも、
権威=自分
権力=自分
になってくる、なってしまう。
歳上というだけで・・・以下同文。
でも、その最中、自ら気がつくことが
難しかったりする。
その間、イコール自分が日常を侵食する。
主人公は【フランス近代演劇史の権威だった】人。
悪気はなくても、
権威=自分、権力=自分になるだろう。
いわゆる【偉そうな】人に描かれていないし、
そんな人ではないように見えた。
むしろ権威から遠く見えた。
それでも、知らず知らずのうちに
彼は妻との約束を果たさず、
教え子との関係性にも問題が
あった【かも】しれなかった。
そうやって
気づかず
取りこぼした
数々の事どもが、
気がつかないふりをしてきた事が
一人になった刹那、
北からやって来る。
そんな風に観てて思いました。
I haven’t read the original work.
What happens when someone becomes an authority?
What happens when someone gains power?
What happens when someone grows older?
In many cases, for better or worse,
authority becomes oneself.
Power becomes oneself.
And simply being older… well, the same applies.
But in the midst of all this,
it can be difficult to notice it oneself.
During that time, the equation “I = authority”
slowly infiltrates one’s everyday life.
The protagonist is a man who used to be
an authority on modern French theater history.
Even without ill intent,
it’s likely that authority and power
became synonymous with who he was.
He wasn’t portrayed as the stereotypical “arrogant” type,
and he didn’t seem to be that kind of person either.
In fact, he appeared far removed from authority.
Even so, unknowingly,
he failed to keep promises to his wife,
and there might have been issues
in his relationships with his students as well.
And so,
the countless things he neglected,
the countless things he pretended not to notice,
all come rushing at him the moment he is left alone—
from the North.
That’s what I thought as I watched.
敵
考えても分からないと観終えて実感
大昔、ワタシが高校生だった時分、一時期筒井康隆作品にはまり読み漁ったことがありまして、その後も何冊かは読んでいるのですが、当時から「何だか分らん」世界なのに、なぜだか読んでしまっていたのを思い出しました。
スクリーンに映し出される映像はワタシにとって筒井ワールドそのもので、クスクス笑いながら観ていました。
この原作は未読で、吉田監督はどのようにご自身の脳内で嚙み砕き、何を表現したかったのか、そして筒井康隆は言葉だけでどのように数々のシーンを紡いだのか、とても興味が湧き、是非とも原作を読んでみたい!そしてその後再び映像を確認してみたい、そう思える作品でした。
まあ、万人受けする内容ではないのだと思いますが、はまる人は結構いるんじゃないかと思います。
そして、モノクロ映像は陰影が濃くてとても良いですね。
敵がやって来る
静かなモノクロの世界。物腰の軟らかい元大学教授の独居老人。フランス文学を専門とし、その権威としての自負もある。身の回りのことは自分でこなし、凝った料理もお手のもの。自分の身の処し方に手も打ち終えた。どこを切り取っても、元大学教授的『PERFECT DAYS』。ところが、もう人生の終末を穏やかに迎えるものと思っていた矢先、様々な出来事が舞い込んでくる。ささやかな、それでいて逃げきれない。いや、本当は心の奥底にまだそれを期待していたのだろう。興味がないふりしていながら、実は欲していたのだ。いろいろと。
さあそこでだ、突然の警告、「敵がやって来る」。もしかしたら、このメールを見つけた時ぐらいから、儀助はボケがはじまったんじゃないだろうか。たまにいるでしょう、強迫観念に支配されて暴れる老人が。儀助はそれだ。その視点で彼を見ると、すべてが納得できる。彼に迫る敵とは、達観していそうでいて本当はあった「不安」、若いものへの「嫉妬」、教え子への「欲情」、そんな隠れていた妄想のことだ。それが、ボケ始めることでタガが外れて顕在化したのだ。抑制も効かずに。それを傍から見れば、とうとうこの爺さんボケ始めた、となる。"あの裏窓の主人公はゲスだね。いたく共感するよ″とか、″フランス語は、愛を語るための言葉だからね″とか、つい少し前まで気取っていた姿はどこへやら、見るに堪えない妄想老人へと変わり果てる。いまそれに気づいている自分でさえも、あるとき、敵がやって来るかもと思ったら、戦慄が走った。長塚京三、絶妙。
老いと向き合う
元大学教授で仏文学研究の権威となればプライドもあるし弱みも見せられない。悟ったように教え子に語りながらも,内面は押し込められた煩悩が渦巻いていた。こんな矛盾を抱えて老後を生きるって辛すぎると言うのが最初の思いだ。最初はリアルな夢から始まり、その後はどんどん夢と妄想の境目がなくなっていく。
老いて自分がどうなるかはわからないし、想像するのも怖い気持ちがあるが、自分の気持ちに正直に生きたいなぁと思う。少なくとも,彼が日々の食事をきちんと作り,丁寧にコーヒーを入れて飲む姿は理想の老後に見えた。
原作は未読ですが筒井康隆ぎこの本を書いたのが63歳と観終わった後に知った。その年齢でこれを書く筒井康隆もすごいし、この本をこのような形の映像にする吉田大八もすごい。モノクロなのに色彩を感じる映画だった。
モノクロながら、鮮やかな色彩を感じさせる一個人の老後生活
『時をかける少女』『パプリカ』の日本文学界の巨匠・筒井康隆による同名小説を『桐島、部活やめるってよ』の吉田大八監督が映像化。生い先短い老人の慎ましやかな生活と、自制していた欲望が次第に表出していく様を、モノクロの映像で鮮やかに描き出す。
主人公の元大学教授・渡辺儀助を、ベテラン俳優であり儀助と同じくフランスと強い縁のある長塚京三が演じる。
妻に先立たれ、余生を都内の山の手にある古い日本家屋で過ごしている元大学教授・渡辺儀助は、年金と講演や執筆の仕事で得た預貯金を切り崩しながら、“来るXデイ”に向けて過ごしていた。それは、「毎月の支出からいつ預貯金がゼロになるかを割り出し、ゼロになった時に自殺する」というものだった。
日々の食事を全て手作りし、僅かな友人やかつての教え子、行きつけのバーで出会ったフランス文学を専攻する女子大生と過ごす。時に自らの加齢臭を気にしたり、身体の不調に悩まされながらも、季節は過ぎて行った。
そんな中、突如自宅のパソコンに送られてきた「敵が来る」というメッセージを皮切りに、次第に儀助は現実と妄想の狭間に飲み込まれてゆくー。
タイトルにある「敵」についての意味を探る時、ともすれば我々は、現在の世界情勢と結び付けて考えてしまうかもしれない。しかし、原作が発行されたのは1998年。本作で描かれる「敵」とは、全て儀助の中、それを見守る我々観客一人一人の中にある問題である。その事にアテンションするように、作中ではカトウシンスケ演じる新米編集者の犬丸が「ロシア問題か…」と呟いた際、すかさず靖子が「先生はメタファーの話をされているのよ」と訂正する。
現在31歳である私が思うに、本作で描かれている「敵」の正体とは、月並みだが“死”であり、“孤独”であり、何より“自分自身”に他ならなかったのではないかと思う。
預貯金から割り出した「あとどのくらい生きられるか」という計算に裏打ちされた“死”に対する覚悟も、ラストでは脆くも瓦解する。
外見では常に余裕を持ち、穏やかな姿勢で元教え子の鷹司靖子(瀧内公美)や女子大生の菅井歩美(河合優実)と接しながらも、密かに靖子への劣情を抱き、亡き妻である信子(黒沢あすか)の幻影を追って遺品のコートをクローゼットから引っ張り出して書斎のハンガーに掛ける。歩美の大学の授業料を負担すると申し出て、まんまと預貯金から300万円も失ってしまう。知人の湯島に語った「不思議と腹が立たない」という台詞にも、僅かな見栄があったのかもしれない。
トランクケースに溜まり行く、独りでは使い切れない程の量の石鹸は、儀助が妻を亡くしてから積み上げてきた“孤独”なのではないか。妄想の中で難民に向けて「好きなだけお持ち下さい」と自宅の塀の前にそれを置く様は、妻に先立たれ、友を失い、若い女に騙されて預貯金を無くした事で、自らの理性と自制心が限界を迎えてしまった儀助の「誰かこの孤独を消し去ってくれ!」という静かな叫びだったようにも思えるのだ。
だからこそ、儀助は自宅の庭に振り続ける冬の雨を前にして、「この雨があがれば春になる。春になればきっと、また皆に逢える」と、心の中で呟く。静謐で厳かな雰囲気を漂わせていた儀助の生活の下には、孤独と虚栄心に塗れたごく普通の老人、どうしようもない「人間」、「男」という性別の生き物の本質があったのではないか。
しかし、パンフレットを読むと、主演の長塚京三氏は更に深い領域まで渡辺儀助という人物を捉えている事が分かる。それは、フランス演劇・文学という高尚でインテリジェンスな分野に人生を費やして来た事から来る傲慢さ。妻の信子に注ぎ切れなかった愛情と侮り(「夫婦揃って貧乏暮らしをするなんて、君は耐えられなかったはずだから、先に逝ってくれて良かった」と口にする様や、フランス文学・演劇を専門としながら、一度たりともフランス旅行に行かなかった事)。性欲を自制心と虚栄心によって律する中で密かに、しかし確かに抱いていた下心。儀助が向き合う「敵」の正体とは、つまり彼がこれまでの人生で蔑ろにしてきたもの、それらからの“復讐”なのだと。
この事を受けて、私の中では心理学者のユングが遺した【向き合わなかった問題は、いずれ運命として出会うことになる。】という言葉が思い起こされた。
他にも、“老い”や“恐怖”といった様々な「敵」を、観客一人一人が想像するだろう。その正体が何であるかが明確に語られない以上、それぞれがそれぞれの「敵」を想定して鑑賞し、考察して行く他ないのだから。
しかし、こうした内容やポスタービジュアルが与えるシリアスな印象とは裏腹に、本作は意外にも儀助の人間的・男性的な滑稽さをコミカルな表現で描き出す様も目立ち、それが魅力の一つとなっていた。
靖子を想って無精し、翌朝無様に下着を洗う姿や、痔の検査で内視鏡を挿れられる際、まるで掃除機のコードのように内視鏡が勢いよく入って行く様などは、場内からクスクスと笑い声が漏れていた。
また、信子が儀助に「この人(靖子)の事を考えて。勃起して。一人でしてたんでしょ?」と問い詰めるシーンでは、「…した。でも、想像の中だけだ!」と返す儀助に「想像するのが1番悪いのよ!」と激昂する姿が面白かった。
モノクロながら、その彩りの豊かさを感じさせてきた数々の料理シーン・食事シーンは、本作の最大の魅力だろう。本作は一個人の老後の私生活を描くと同時に、優れた飯テロ作品でもあったと思う。
物語冒頭から、起床した儀助は米を研ぎ、電気コンロで鮭を焼く。自ら豆を挽いて食後のコーヒーを嗜むのがルーティン。
湯島からの土産の手造りハムは、ハムエッグにして手際よく蒸し焼きにする。
たまの晩酌では、焼酎のお供に焼き鳥を自作する。レバーは血抜きし、葱間を作って焼き上げる。
朝食の白米を少し余らせて、塩昆布でサッとお茶漬けにする手際が美しかった。
好物の麺類は、素麺や冷麺を楽しむ。この冷麺の為に、拘りを持って買ってきた辛口のキムチが、翌朝痔を発症する原因となってしまうのだが。茹で卵を四つ切りにし、白胡麻を挽く手際の鮮やかさからは何とも悲惨な末路。
しかし、そんな食材や栄養に気を遣った食生活も、「敵」を前にして次第に現実と妄想の区別が付かなくなってからは、最終的には簡単なカップ蕎麦になってしまう。こうした食に対する姿勢の落差にも、抗いようのない“老い”を感じさせる。
渡辺儀助役の長塚京三氏の演技力には、今更賞賛を贈るまでもないだろうが、監督がキャストを想定して脚本の初稿を書き上げたと語るだけあって、儀助という人物のリアリティのある説得力は素晴らしい。時に滑稽な姿さえ晒してしまう振り幅の豊かさも、長塚氏が積み上げてきたキャリアの賜物だろう。
鷹司靖子役の瀧内公美の美しさは、モノクロの世界に於いて抜群の存在感を放っていた。本人も「モノクロ映えする」と言われた事があるというだけあって、妖艶さと成熟した大人の女性さを兼ね備えた靖子役はハマり役だったと思う。
老いるの怖い
今はYouTubeで年配女性のおひとり様暮らし動画なんかけっこうあって、老後も何とかなんじゃね?って思えてたのに…本作見ると「老いるの怖い」がぶり返してきた。キムチ食って血便出んのかよ!怖いよ〜!
自分が儀助くらいの年になる頃には、もっとライトな死に方が許される世界になっててほしい。歯医者行くくらいの感じで安楽死させてほしいし、死後のもろもろもネットでポチッと決めさせてほしい。
あとは、教え子の女性が色っぽかったですね。モノクロだと色彩がない代わりに陰影が強調されて、身体の凹凸がより目立つ感じがしました。
虚の中のリアリティ
夢なのか妄想なのか現実なのか不確かな事象がスクリーンで起きる事自体を楽しむ映画なのかと思うが、終盤は全てが夢か妄想にしか見えなくて(実際そうなんだろうけど)割とどうでも良くなってしまった。
ギリ現実なのかもと思わせる描写があれば感じ方は違ったのかもしれないが。
映画や小説が全て虚なのは当然だが、虚の中のリアルのバランスとして自分はこの作品は上手く受け止められないと感じた。
丁寧な日常を丁寧に描写している序盤や、心の状態が日常の行動に波及している終盤の描写とかは好きです。
彼の様に地位も名誉も手にした人間でさえ、その地位と名誉の源泉から離れてしまった後の姿の描写として身につまされるリアリティがある。人間は一定以上自己のアイデンティティを外部に依存せざるを得ないが、依存の程度や強い場合や依存先が少ない場合の危うさについては老後に限らず意識しなくてはならない。
原作未読なので映画単体としての評価です。
良い映画、でも楽しい気持ちにはならなかった
この映画の“敵”とは
・大学教授としてのプライド
・プライドゆえに素直に振る舞えないストレス
・ちゃんとした生活を送らなきゃという自分へのプレッシャー
・本当はどう思ってるか分からない他者の気持ち
・出来なかった事への罪悪感(妻とパリに行く)
・管理が難しかったり手に負えない家
・若い女たちへの下心、教え子が尋ねてくる妄想への罪悪感、
それを隠したいけど隠すのは苦しい気持ち
・老いへの不安と、それに重なる連載打ち切り、新しい編集者(若者)への恐怖心
・詐欺メールが来る屈辱感
・健康への不安
・世の中からの孤立、寂しさ
などなど
妻の死後20年かけてジワジワと主人公のなかに溜め込まれた“敵”に
最後は自らが潰されてしまったように見えた。
ただ主人公が“敵”と思っているものは実際に悪い事をする者でなく、
主人公の内面の中で“敵”と認識してしまっているだけに見える所が気になった。
人間は、考え方や向き合い方次第で、敵でないものも敵と認識して心をすり減らして肉体的にもダメージを負ってしまう。
それはとても怖い事だけど、考え方次第ではその逆もあり得るというのは救いでもある。
舞台となる家に主人公が閉じ込められている感じも、主人公が“自分の認識”から身動きが取れなくなっているのを象徴している様にも感じた。
最後の主人公の幽霊のようなものはよく分からなかったけど、
最後まであの家=自分の頭の中に閉じ込められたままだった主人公の様になるなよ、
というこれからあの家に住む者と、観客へのへの警告の様にも感じた。
この映画から学ぶなら
気楽さやテキトーさも大事!という事なのかな。
一人の俗物を襲う「老醜」と「死」
仏教で説く「四苦八苦」の四苦は生・老・病・死を指す。老と死は一続きではない。老いることは苦しみであり、そして死は別に存在する。この映画は老と死を峻別して別々にみせているところに際立った個性がある。
主人公渡辺儀助は大学教授だったがすでに引退し妻にも先立たれた。古い日本家屋で暮らし、身の回りのことはキチンとこなす。食べることにこだわりがあり、凝ったものはつくらないが飯を炊き、肉や魚を焼くなどして菜をつくり食事を楽しんでいる。講演の謝礼は10万円と決めており(安売りはしない)貯金が尽きたときは自裁すると公言している。
要するに自律的、スタイルスティックな生活をおくっているわけだが、翻っていうとこれは老醜を恐れているからに他ならない。ありのままの自分を受け入れられないという意味で俗物であろう。
だが年月は人を老いさせていく。顔の張りはなくなり、身体はたるみ、加齢臭が漂うようになる。
そして儀助を取り巻く女たち。教え子の旅行雑誌編集者は時として儀助を訪れ心をかき乱す。彼女の狙いはよく分からないが、恐らくは学生時代の楽しかった記憶を思い起こしたいというような気持ちなのだろう。バーで出会った女子大生は金目当て、そして儀助の夢うつつに現れる亡妻は儀助の言うことを聞かず恨みごとを申し立てる。つまり、自分勝手な彼女たちと自分自身の欲望に振りまわさせることによって儀助の老醜が隠しようがなく晒されていくのである。
そして「敵」。恐らくこれは死を指している。死は老いとは別のところから現れ、容赦なく人を打ち倒していく。青森から上陸し、黒く汚く這いずる者たちというのは儀助の持つ「敵」=死のイメージなのであろう。
「敵」=死は突然やってくる。これは映画の中でフランス語の引用でも示されるし、儀助の友人であるデザイナー(松尾貴史)が敵を見た後、突然死ぬシーンでも説明される。
老醜から逃れられなかった儀助は「敵」=死からも逃げられない。
残酷な映画であるとしか言いようがない。
映画の最後は、儀助の残した遺書によって家を相続した遠縁の槙男と思われる人物が家を見て回るシーンで終わる。槙男がのぞき込んた遺品の双眼鏡に、儀助の姿が一瞬映る。人は死に、その記憶はかすかに亡霊のように残るが、やがて跡形もなく消え去っていく。その無常を改めて感じた作品でもあった。
敵とは…
女性たちが上品
敵とは
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