敵のレビュー・感想・評価
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老人は夢見る、もうひとつの人生を
長塚京三さん演じる主人公の日常を見ているだけで満たされる映画。皆さんも名前を挙げる映画、「PERFECT DAYS」を思わせる丁寧な暮らしだ。あの映画はあつらえた感じで好きでなかったが、こちらの長塚さんが包丁を握り、コーヒーミルを回す様子は知的で芯が通っていて、しかし高齢者のもろさをちゃんと感じさせる。
主人公は退職して10年以上の大学教授で、今でも講演をしたり美人の教え子が訪ねてきたり、「俺もまだまだやれるな」と思えるうらやましい老後だ。資金が尽きたら潔く死ぬと言いながら、教え子との情事を夢見たり、バーで出会ったフランス文学専攻の女子大生にときめいたりする。
甘い夢もあれば、病気、亡き妻をめぐる後悔などの苦い夢もある。そのたびに主人公は夢から覚め、ベッドに横たわる痩せた姿をさらす。このように、達観しているようで「もしも、こうだったら」を夢見てしまうのが老境ということだろうか。
映画の後半では、主人公の妄想が深刻化し、いよいよ夢か現実なのかわからないシーンが続く。認知症や、ネットの陰謀論と現実を混同するような描写。でも果たして必要だったのか。私は途中で冷めてしまった。
認知症を描くなら、周囲の反応の冷たさや生活スキルの破綻などの描写があればリアルだと思うのだが。長塚さん演じる主人公は、どうしても最後まで健全に見えてしまった。またネットの陰謀論は時代を描こうとして古くなってしまう要素だと思う。
個人的には、この映画はあくまで長塚さんの日常の連続で描いて欲しかった。あるいは、ホン・サンス監督の「WALK UP」のように、主人公の言動や人間関係がチャプターごとにしれっと変わってしまうような形も面白かったと思う。
3人の美しい女性が出てきて、河合優実さんにはもちろんドキドキしたが、亡き妻(黒沢あすかさん)と一緒にお風呂に入る夢のシーンが一番好きだった。「生きているときは恥ずかしくてできなかった」だって。
夫に先立たれた妻が主人公なら、タイトルは…。
最多の世帯形態は単身世帯で、3割を超える現在。
「敵」は、ひとり暮らしの元大学教授 儀助の生活を描く、白黒映画。
原作者の筒井康隆さんのSF作品が好きで、侵略モノかなと思って観に行ったら、思っていたのと全く違ったけれど、これはこれで面白かったー!
儀助は、妻 信子亡き後、美しいけれど高齢者には住みにくそうな日本家屋でひとり暮らしをしている。
儀助は日々丁寧に暮らし、元教え子 靖子などが仕事がらみながらも訪ねてくる。
若く美しい靖子のために、儀助がこじゃれたフランス料理を頑張って作る姿は、微笑ましかった。
やはり、手の込んだ料理は、誰かのためにでないと作らないよね。
冷静に考えれば、70代の男性は、バー夜間飛行のスタッフの女子大生 歩美のように、恋愛対象ではなく、ATMのようなもの。
けれど、その辺が分からないところが老い、なのだろうか。
信子と靖子が、儀助の妄想の中でケンカするシーンがあるが、それは彼の願望だろう。
私が信子なら、財産分与をきっちりして、喜んで靖子に譲るけれど。
儀助のかわいく愚かな面に、笑ってしまった。
儀助は、何も肩書のないひとりの高齢者である自分ときちんと向き合わない。
意識も環境も、今の自分に合う形にアップデートすることなく、遺産相続人に指定した甥にさえ、できるだけ現状を維持することを望む。
彼は、死ぬその時まで、人生の最盛期の残り香を手離したくないと思っていたのだろう。
だから、「敵」の幻想におびえていたのかもしれない。
もし、信子が儀助を見送り、この家にひとり残っていたなら、どんな話になっていただろう。
屋敷や蔵書を売り払って、そのお金で立地の良い50㎡くらいの新築マンションを購入し、日々快適に暮らしていたのではないだろうか。
友達と旅行に行ったり、チョコザップ行ったり、エステで若返ったり。
タイトルは何になるだろう…「味方」?
筒井康隆は学生の頃はまった時期があり
白黒の世界に襲われたのは
原作未読。
モノクロの映像は先入観でどうしても古きもの、と感じてしまう。そこで使われる家電は現代の物だ。一方でやかん、ホウキの登場。私の頭の中で時間軸が混乱する。
この時点で映画の作り手達に囚われてしまったのではないか、と思う。
公式サイトには渡辺(長塚京三)の生活の説明があるが、どこからが現実でどこからが夢なのか分からなくなってくる。身も蓋もない言い方だが全てが渡辺の夢か、もしかしたら認知症が渡辺に見せる世界なのかとすら考えてしまった。
でもここまでが現実、ここからは虚構とはっきりさせず交互が自然に、難なく繰り広げられる感覚。やはり私は術中にはまってしまったようだ。
敵。その正体は分からない。私にとってはこの白黒の世界が敵になって襲ってきたのかもしれない。
これって…
集団自◯なんて、あっかんべーだ
現実と妄想が判然としない世界にひとり古老の元大学教授が生を紡ぐ物語
ここには忖度する者もいないし、裸の老醜を晒したくないプライドがあるので、無限地獄のようだろう
街を歩くと一様に枯れた老人の孤独な姿を見ることが多くなった少子高齢化日本の今の姿
初老になる私にとって、痛い場面も続くが、真っ直ぐ前を向いて歩きを続けようと思った
彼の収支の現実も気になったが、原作にははっきりと書かれている その額からみればなんとでも再生しようと思えば出来る額である
ここは敵は自分にあるという踏ん張りは出来なかったものだろうか?切にそれを思った
「敵」が来る
老い 孤独 尽きる 危害 時間 狂気 過去 敵!!!!!!!!!!
だいぶ静かめな映画。
劇場で観に行った際はけっこう席が埋まっており、ときどきイビキも聞こえてきた。鑑賞層は主役と同じくらいの方々が見受けられた。
主人公の爺さんは独り身でありながら立派な屋敷、立派な経歴、立派な人脈と立派に毎日料理洗濯家事掃除もこなすし種も枯れてない強さを持った魅力的な人物。
しかし彼にも社会的・生物的に人間として避けられない悩みがあり、その恐怖や困惑から幻覚・悪夢、「敵」として彼を苛む様子が描かれる。
最初はクスっとくる悪夢がだんだん冗談じゃないような内容にエスカレートしていく様に彼の焦りや混乱が乗っかってこちらにリアルに伝わってくる。幻覚と悪夢で混沌とする精神に脳が酔う感覚を味わう作品。
白黒映画で画面の情報量がだいぶ削減されているが、セットがバッチリしており、物が多いけど綺麗に整っている部屋部屋がリアルで没入感があり、会話の内容に集中できる分、より幻覚・悪夢の混沌としている感じが強調されていた。
見ていて気分が明るくなる作品ではないが、とても完成度の高い作品だった。
その後に上映されていたトワイライト・ウォリアーズを見たおかげでまるでサウナの過激な寒暖差を味わえたので、前座としてとても良い映画だった。
「敵」とは「老いの恐怖」のメタファー??
うだつ
原作は未読です。
敵は体の衰えや病気なのかなと推測しながらの鑑賞でしたが、前半で混乱したのに後半で更に混乱する大変な作りでこれは自分には早かったのかな〜と思ってしまいました。
自分の貯金残高に見合った死に方をしたいという、将来的にそういうことを考えるのかなと思ってしまうシーンがあったり、生活へのこだわりだったり、徹底したマイルールが良い意味で居心地の悪さを体現していたのが良かったです。
日常生活での変化に一喜一憂している主人公が人間臭くて良いところだなと思いました。
後半は登場人物のテンションも映像も激しいものになっていき、死ぬ前ってこんくらい目まぐるしくなるのかなと思いつつも完全に振り落とされてしまいました。
単純に自分の健康周りだけでなく、過去の経験なんかも敵となって襲ってくるというところにはいたく心揺さぶられましたが、映像がどうにもホラーチックになってしまったせいで集中力が削がれてしまいました。
終盤の展開で潔く終わっていくところと中島歩さんの表情でゾワっとさせられましたがもう少し早く欲しかった〜となりました。
モノクロでしたが飯の美味そうさは抜群に伝わってきました。
シンプルな料理だけど一手間加えるだけで美味しさが爆増しましたし、先生の料理食ってみたいなーとなるのも良かったです。
女性陣は皆々様それぞれのオーラが放たれており、瀧内さんの色気は凄まじかったです。
劇場内には年配の方が多く、自分の心境に重ねる部分も多いのかなと思いました。
30年後くらいにこれを見たらどうなるのか、だいぶ先の自分にぶん投げておきます。
鑑賞日 1/20
鑑賞時間 15:50〜17:45
座席 D-12
名優「長塚京三」という罠
まず先に言っておきたいことは、「バルザック」はずるい。
なんというネーミングセンス。
思わず吹き出してしまったじゃないか。
難解映画の部類に属すると思う。
個人的にそういう映画はあまり好みではない。
「どういうこと?」な場面は多くあった。
でも、そういう難解な部分を抜きにしても、この映画は凄く面白いと感じた。
日本の暮らしをモノクロ画面で描かれると、最初はどうしても昭和とかの一昔前の日常を描いたものという錯覚に陥ってしまう(主演が長塚京三なことも影響していると思う)。
「この映画は今の日本が舞台なんだ」と自分に言い聞かせて納得させるのに少し時間がかかってしまった。
現代日本の生活をモノクロで描いた作品って珍しいと思う。
この映画、とにかく「…なんだ、夢か」な展開が多い。
後半は特に頻発。
それを常時モノクロで描かれるせいで、どこまでが現実でどこまでが夢なのか、マジでわからなくなった。
こんな映画体験は初めてかもしれない。
映画が終わる頃には、自分が生きているこの現実も実は夢なのでは?とチラッと思ってしまった。
そんなことを思ったのは自分だけかもしれないが…
非現実なことが起きて、そこで長塚京三演じる儀助が目を覚まして「…なんだ、夢か」となるわけだが、夢として描かれていた場面は全て架空の話ということにしてしまっていいのだろうか?
それにしては、非現実なことが起こる直前までの出来事がやけにリアルに感じた。
夢として描かれた場面は実は現実世界で本当に起きた出来事であり、その現実を受け止めるのがあまりにも辛すぎるため、儀助が夢の世界の話ということにしてしまったのではないだろうか。
個人的にそう考えるとしっくりくる。
見当違いかもしれないけど…
見方によっては「陰謀論に囚われた男」にも見えるし、「認知症を患った男」にも見えるのは面白い。
前半は2023年12月公開の『PERFECT DAYS』っぽいと思った。
ダンディな独身男性の丁寧な暮らしが淡々と描かれていく作り。
『PERFECT DAYS』では、役所広司が仕事終わりにいつも居酒屋に行って食事する日々が綴られ多幸感に包まれていたが、儀助は自炊派。
調理して食べるシーンがやたら出てくるが、どの料理もプロ級の腕前でどれも美味しそう。
観ながら頭の中に『孤独のグルメ』というワードが出てきた。
一方、『PERFECT DAYS』と最も大きく違う点は、主人公の女性への執着(特に若い女性への)。
『PERFECT DAYS』の役所広司は女性に振り回されるだけの男だったが、本作は真逆。
話が進むにつれ、初老の男が若い女性に浮かれる話になっていくが、これが観ててきつかった。
二回り以上歳が離れた女子大生を家に招くことになり、儀助が家のPCで様々な料理を検索しながら何の料理を振る舞うかを思案する場面が、痛々しくて居た堪れない気持ちになった。
男の、他人には勘付かれたくない卑しい面を第三者がこっそり覗き見しているような作りになっていて、同じ男として、映画を観ながら何度も「ひえー」となってしまった。
この映画は他にもいろいろな今現在の社会問題が内包されているように感じた。
まず、高齢者の「老後の資金」問題。
儀助が、社会に迷惑がかかるから長生きを望まない考えを語る場面で、2022年公開の映画『PLAN 75』のことを思い出し、悲しい気持ちになった。
また、近年は大学の学費が右肩上がりに値上がりしていて、学生が学費を払えず学業を犠牲にしてバイトに励む場面が本作には出てくるが、これを高齢者のお金に関する問題と一緒に描いてしまうと、まるで高齢者のせいで若者が犠牲になっているような構造に見えてしまい、その作りには疑問を感じた。
この映画で個人的に一番凄いと思ったところは、終盤、井戸の前で滝内公美が言い放つ言葉。
今世間を賑わしているフジテレビ問題にも通じるような、現代日本(日本に限らないけど)の深刻な社会問題にぶっ刺さる一言になっていて、震えた。
1998年に発表された筒井康隆の小説を、わざわざ2025年に映画化したのはこのためだったのか。
儀助を紳士的な長塚京三が演じていることで何も問題ないように見えてしまっているが、独身男性が年の離れた元教え子の女性を家に招いている時点で、違和感を覚えるべきだった。
振りと回収のお手本
トランクケース一杯の石鹸等、老人が使える数などそれ程多くないのにという前段での、家の前でプレゼントとか、高等なジョークが続く本作 それにしても年齢を感じさせない長塚京三の俳優魂を改めて噛みしめた演技力である
老いは子羊のようにやって来てライオンのように去って行いく
〔PERFECT DAYS(2023年)〕での『平山』の暮らしぶりを「知足」とするなら、
本作の主人公『渡辺儀助(長塚京三)』は「高等遊民」とでもすれば良いか。
決まった時間に起き、用を足し、等の基本ルーチンは共通も、
料理は手ずから、
朝食後にはミルで挽いた粉でコーヒーを淹れる。
祖父の代からの古民家に住み、
食材は高級スーパーで調達、
調理器具も凝ったもの、
こだわりの食器を使い、
ディレッタントと表現したい暮らしぶり。
妻は二十年も前に無くし、
大学教授の職も随分と前に辞してはいても、
当時の教え子たちが
折にふれ訪ってくれるので
無聊を託つことなない。
年金に加え、泰斗であった仏文、
とりわけ演劇についての稿料で
当座の生活は賄える。
葬式代をのぞいた全ての預金が尽きた時は、
自分が死ぬ時と知己には嘯く。
あと数年先までは何の憂いも無い日常に思えた。
しかし、そんな彼にも「老い」はひたひたと迫って来る。
仕事で使うパソコンに表示されるスパムメールは
「またか」と余裕を以って即刻削除。
にもかかわらず、リアルな人間関係では
学究の徒にありがちな初心な側面を見せ、
あっさりカモにされてしまう。
夢とも現とも付かぬ幻視を体験し、
悪夢に目を覚ますことも度々。
目を掛けていた女性の教え子との関係性も、
自身の中での葛藤が顕わに。
ついには亡くしたハズの妻の姿まで見えるように。
そこで改めて自覚するのは、
傍に居て当然として扱って来た彼女への慚愧の念。
そんな折「敵について」と題されたメールが配信され、
何の気なしに開封したことから、
『儀助』の意識は更に混濁して行く。
「食」は暮らしの基本と言われるが、
日々の食事が変化することで、
体力や頭脳が衰えていく様を目の当たりにし、
近しい年齢の自分には他人事とは思えない。
後半の描写は
不条理滝な要素は強いものの、
当事者にとってはリアルな体験なのかもしれぬと気づいた時に、
自分の中で怖気をふるってしまう。
『筒井康隆』の原作は既読も、
映像化された時に、これほどの衝撃を感受けたのは、
偏に御年七十九歳の『長塚京三』が、
筋肉の落ちた体を画面にさらけ出しての熱演したことの賜物と感服。
自分の老いた体躯を多くの目に晒す役者魂にも賛辞を贈りつつ、
プロフィールを確認すれば
猶更、彼が本編に適役だったかを再認識する。
「敵」をある昭和人から見る
私は72歳男性です。「敵」映画を見て。昭和の中高生の頃、星新一や筒井康隆などを読んでいた。SFショートショート風でいうと[夢が現実を食った話]とも見えました?映画の最後で、現実に小屋に敵に反撃するため包丁や双眼鏡が出てくるところあり。夢に焦点を当てると、最初現実で教え子の訪問や下血して医者に行ったり、と1回の出来事から話が夢のほうへ話として膨らんでいく。亡くなった妻や教え子の女子、無礼な出版社の新人が都合よく一緒に食事するシーンがある。それらが主人公を非難、追い詰めていく。夢は後悔や非難される悔しさ、何かに追いかけられる事が多い。寝るごとに話が繋がっていく。老人になれば、人との関係はなくなっていき、誰にも必要とされないので、妄想が現実となっていく。ただ、老人のくせに性欲があったりして、こんな事考えているのかと思われるので、人にはお勧めしない映画である。
敵はそんな近くにいたかゴルァ!!!
作品全般がモノクロの映像を採用していた。
昨今では、色彩カラフルな日常で生きる現代人にとって、白黒の濃淡だけの世界は、
グレースケール効果として、スマホアプリへの依存度軽減などを、
期待するものとして利用される。
つまり、現代人にとってモノクロ映像は、
辛い世界、つまらない世界と受け取られかねないもの。
そのモノクロ映像で、序盤の儀助先生の日常生活を数十分にわたり、
淡々と描写するシーンが続き、冒頭から一瞬、脱落しそうになったが、
丁寧に丹念に儀助先生の日常ルーティンを描写してたので、意外と見入ることができた。
モノクロの、視聴継続にマイナス効果をもたらす要素を、
繰り返すルーティン動画の覗き見という、
Youtubeで不思議と再生回数が回るプラス要素により、
マイナスを相殺してくる。昨年の「PERFECT DAYS」を想起するような、
手法選択に感心した。
フランス文学のインテリ学者が主人公。長塚京三のイメージにピッタリな配役。
中盤から、幻覚と現実の境界があやふやになっていき、
主人公も観客も、不安と動揺が大きくなっていく。
主人公の仏文学者は、おそらく70過ぎのおじいさんだが、
「体の老い」と共に「経済面の不安」も、
幻覚を見る要因になっていると推測できる。
このじいさんの半分、いや、6割程度の私ですら、
この2つの要素は、少なからず毎日感じている。
ウォーキング1つするにしても、路地を数十分歩く事すら不安を抱くため、
路地ではなく、公園や競技場の周回に留めるほどに。
小さい方も、大きい方も、途中で用を足したくなる心配があるからである。
これは、実際に年老いてみないと、意外と実感できない感覚である。
映画1本見ることですら不安を抱く。開場直前まで待って催すかどうか判断する。
2時間映画ならまだしも、2.5時間だと、膀胱の具合が平静を保てるか、
自信が無いのである。
老いとは、病気を患ったりというものではなく、
体を、自分の意のままにコントロールできなくなる事。
もう四十半ばでコントロールできない。ああ不安だ。
ちなみに、同年代のオードリーのANNラジオの話題を少し。
映画の膀胱耐久の話。
特番収録時の膀胱耐久の話。
M-1審査員時に装着した尿漏れパットの話。
ラジオ体操に参加しラジオ体操第二はジャンプが多すぎて膝がもたない話。
体を張るロケで念入りにストレッチしないと危険な話。
肉が食えなくなってきた話。
脂っこいものが食えなくなった話。
稼いだ金は墓場に全部詰め込んでもらいたい話。
嫁のラーメン煮卵トッピングは命を削られるのと同じな話。
買いたいものが何もない話。
相方が浮気したら「敵はそんな近くにいたかゴルァ」と叫んでしまった話。
老いるって嫌だね。
11時40分、このままで!
“ゆきさん”にくすぐられて頓挫した感想を書くことに…
主人公のようなインテリは瀧内久美の眼差し対して、ついカッコをつけてしまう。“寂しからずや道を説く君”である。能書きなんかいいから私を抱いてと歌った与謝野晶子である。送ってくる秋波にドギマギするばかりだから、妄想で“イってしまった”後は下着のウエット感が虚しい、哀しい。
さて、本題の“敵”だが、インテリらしい最期を目論むも、容赦なく迫ってくる死には抗えず、妄想を肥大させるだけで、“北”からなんていうのも、暗示などではない。つまり、穿った見方をせずに敵=死なのだと私は解釈する。
だが、早々に、論客を自負する諸氏が、真顔で、それは老いである、孤独である、痴呆である、漠たる不安の総体である云々と、哲学的考察をかざしてマウントを取ってくるのだろうが、浅薄だと揶揄されても 自説はまげない。
晩年の岡本太郎のエピソードで、夜中にがばっと起きあがり、ブルブルと死の恐怖に戦慄するというくだりがあったが、なんびとたりとも、その恐怖をまぬかれぬ。キレイには死ねない。敵は容赦ない。
むしろ、生真面目な生活態度を送りながら時々みせる主人公の間抜けな行為でクスリと笑わせてくれるほうが、面白かったし、老境を深刻ぶって考え過ぎるのも如何なものか。
江国滋の句にこうある。『おい癌め酌み交わさうぜ秋の酒』自らの病を嗤うヤケクソのブラックユーモアなのだが、アルコールが末期癌にしみわたるだろうなー。
映画の主人公の対極いる自分のような自堕落な人間は、諧謔をもって死に際にじたばたしたいと思ったりするのです。
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