「夜半に嵐の吹かぬものかは」敵 いたりきたりさんの映画レビュー(感想・評価)
夜半に嵐の吹かぬものかは
監督とプロデューサーのティーチイン付き試写会にて鑑賞。なお筒井康隆の原作は未読。
とにかく主演の長塚京三が圧倒的にいい。とくに、映画冒頭から続く生活描写の中でくり返し映し出される、彼の顔を右側から捉えたショットが実にいい。鼻筋から口、あごにかけてのラインがウォンバットかコアラのようだ(?!)。また目の下や喉元辺りが緩やかにたるみ、角度によってはあごが消えかかってみえる。そんな加齢の刻まれた表情に思わず引き込まれる。長塚京三はどうも個人的にニガテな役者だったが、本作における老いた佇まい、凡庸なプチブルで「上から目線」が自然と滲みでてくる感じは見事のひとこと。さらに映画後半に出てくる顔のドアップなど、どこかミヒャエル・ハネケ作品に通ずる冷たさすら漂う。このキャスティングによって本作の勝利は半ば約束されたも同然、と確信した。
ちなみに上映後の吉田監督いわく「主人公はフランス演劇が専門の元教授という設定だが、長塚さんにオファーを出したあとで、実際に彼がフランス語堪能と知った」のだとか。さすが、そんな安直な配役理由ではなかったのだと感心し、★0.5オマケ。
主人公は大学退官後、妻に先立たれた高齢者。彼は老醜を晒すことを潔しとせず、マイ・ルールに従って自らを律しつつ古い日本家屋に独り暮らしている。映画は冒頭から、そんな彼の「質素だが心は贅沢」風なこだわりの日々を、細かいカットの積み重ねによってミニマルに描いてゆく。
ここらの一連の描写は、いやおうなしに『PERFECT DAYS』を連想してしまう(…あとから思えば、風呂場で老いた主人公のたるんだ胸元が映り込むショットだとか、近所のスナックで女性相手に酒を嗜むシーンとかも『PERFECT DAYS』だ)が、本作の場合、各ショットの“体感時間”が短めなので、やや「説明描写」寄りのきらいが感じとれる。
こうした印象は、中盤以降で主人公の夢オチのショットが何度も挿入されるあたりにも窺えて、どこか「丁寧に解読いたします」的な思惑が透けてみえてしまう。
そんな本作全編を通して思い浮かぶのが、アンソニー・ホプキンス主演の『ファーザー』とベルイマン監督の『野いちご』の2本。いずれも現実と幻想を行き交う老人を描いた作品だ(とくに前者では、幻覚に浸食されてこわれゆく主人公が描かれる)。くわえて、認知症という厳しい現実に直面する老夫婦を描いたハネケ監督の『愛、アムール』なども。
また、庭の井戸や納屋に纏いつく不穏な気配、ジャパニーズ・ホラー味漂うあのエンディング(歩くん早く逃げて!キミの体に憑依するかも…んなわけないやろ!)などは『シャイニング』みたいだと思ってみたり…(最後、納屋にあったアルバムの中に、主人公と祖父の年寄り2人が並んで写り込んだ古写真が挟まっていた…というオチ予想が鑑賞中、脳裡をよぎったが見事にハズレた)。
さらに女性がとっかえひっかえ主人公の前に現れるたびに、ヘンな期待がムラムラ膨らむという、いかにも「筒井康隆ワールド」的(!)な場面の数々は、中年女性の性的妄想を描いた『ロバート・アルトマンのイメージズ』も思い出させる。
ちなみに、セリフにでてくる仏文学がらみのネタ(たとえば小説タイトルとか)がいかにもといった感じだったり、モノクロ画面がアートフィルム狙いのように思えるのも、見方を変えると「筒井ワールド」的だなぁと。あくまでも私感だが。
それにしても「高齢者男性と性欲」の問題ってなかなか厄介そうだ。本作では、かたや、“いやらしい”キャメラ目線を向けられる女性たちに対し、終電時刻を連呼する主人公のみじめさ情けなさ、物干し竿に干された白ブリーフのわびしさといったら。主人公みたいに外見は凛とした後期高齢者ですら、下半身の問題はかくも御しがたく情けないものなのか。男ってダメねぇ、という声がどこからか聞こえてきそうだ。
劇中、病院のベッドに横たわった松尾貴史が突如ひき攣り、目を剥いて何か叫ぶような表情をするショットがでてくるが、ここで実年齢64歳の松尾は、61歳の吉田監督に成り代わって「この先こんな老後はイヤだ!」って心の叫びを上げていたのでは、と邪推さえしたくなる。
なんだか話がヘンな方向へいってしまった。とにかく、送る/送られる、いずれの側に立つにせよ、普段から心の中で「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」とつぶやき続けることが大事、と。何事もかっちり頭で思い描いたとおりには進まないのだ。