劇場公開日 2003年1月25日

「対抗文化としての学園」ボウリング・フォー・コロンバイン 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0対抗文化としての学園

2020年7月11日
PCから投稿

サウスパークの作者であるマットストーンのインタヴューが出てくる。
それを聞いて、ハリウッド映画で見てきたアメリカの学校が氷解したような気になった。

クルーレス、ヘザース、ミーンガールズ、イージーA、ウォールフラワー、僕とアール、スウィート17モンスター、ジョンヒューズの映画群・・・わたしたちは、さんざん「アメリカの学校」に魅せられてきた──と思う。

机と一体型のイス、ロッカーが並ぶ幅広な廊下、騒々しい学食。
もはや世界じゅうの人が見慣れた「アメリカの学校」にどんな日常があるのか。
映画はそれを見せてくれるし、リアルなときもあるけれど、どうしたって映画は映画である。皮相に過ぎない。

ブレックファストクラブ風に言うなら学校には、BrainとAthleteとBasketCaseとPrincessとCriminalの5人種がいる。
似た性質も見いだせるし、共感もできる。
ただやはり、どうしたって映画なのだ。

そもそも映画ではない現実において「アメリカの学校」が映し出される──とすれば、定期的におきる銃撃事件のニュース映像の一隅でおびえる人々だけである。

そのことが、この映画、ボウリングフォーコロンバインをカウンターにしている。
この映画は、数ある学園もののこっち側、謂わば裏側なのである。あれらの映画群、総ての外伝といってさしつかえない──と思う。

マイケルムーアを一躍時の人にした、コロンバイン高校銃乱射事件(1999年4月20日)のドキュメンタリー。
マットストーンは事件の近くで育ったことからインタヴューを受けている。
彼はインタビューにこう答えた。

『ダサい町の真ん中にあるダサい学校だった。──町全体も学校も苦痛なほど恐ろしく平均的だったよ。──6年生の時、7年生の数学科に入るテストを受けたんだ。先生に「失敗すると数学科には入れない、今ダメなら8年生でも入れない、9年生でもダメ。結局一生ダメ人間だ」と言われたね。万事がそんな感じだった。生徒間のトラブルにしたって先生もカウンセラーも校長も助けてくれない。模範的な生徒の型にはめようとするだけ、何につけ「いま失敗すると一生負け犬だ」って感じだったよ。──エリックとディラン(事件の犯人)も、イジめられて一生イジめられるんだと思ってたんだろうね。──誰かが(卒業すれば違う現実があることを)教えてやればよかったんだ。落ちこぼれが成功し、優等生が故郷に戻って保険の外交員──そんな逆の現実がすぐ目の前に待っていることを。そういうことは人から教わらないとわかんないもんね』

発言の骨子は、学校生活では往往にして自分の置かれている状態がすべてになってしまう──ことの切なさである。
卒業した先に、いろんな未来が開けていても、その渦中にいる者にとっては学校が全世界になってしまう。
ただでさえ思春期、コンプレックスや疎外感に過敏なのに。
ストーンは、それは、ぜんぜんなんでもないことなんだよ──と言っているのだ。

もしわたしが児相だったらエイスグレード(2018)とこれを生徒に薦めると思う。
われわれは、やくたいもない学校教育をへて、世へ散って行くが、その只中で、こういう内懐を聞けることができたら、どんなに心が晴れただろう。

──が、やり口に強引はある。
ヘストンだって生粋のタカ派だとは判るが、老兵の晩節を辱めた感じはあった。猪突な突撃取材は、見ている方はいいが、じっさいムーアが来たら恐々とせざるを得ない。すなわち二度三度となれば、摩耗する方法論なのである。だから初期作のこれがいちばんいい。

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津次郎