ワイルド・ボーイのレビュー・感想・評価
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陽気なカントリーで偽装された『フランケンシュタイン』譚。南部の闇を描く驚愕のカルト作!
久方ぶりに、ヤバい映画を観た。
「奇想天外映画祭」の名に恥じぬ、正真正銘のカルト・ムーヴィー。
内容のヤバさだけではない。
この70年代リスペクトのトチ狂った映画が撮られたのが、1989年ってのにも驚いた。
89年っていったら、もう『バック・トゥー・ザ・フューチャー』(85)とか『リーサル・ウェポン』(87)みたいな「今でも通用するふつうの娯楽映画」がガンガン撮られてた時代であって、こんな殺伐とした南部が舞台のバイオレンス映画とか、時代感が思い切り逆行している(笑)。悪趣味きわまるペキンパー風味とでもいおうか。
要するにこの映画は、作られた年代から見てもかなり復古的な――それもかなり明後日の方向に復古的な「へんな映画」だったということだ。
それも、70年代に存在した「ある種の奇妙なテイストをもったカルト映画」を敢えて「狙って」作られた、きわめて意識的なカルト作と位置付けるべき映画である。
舞台は、1970年。ニューメキシコ州の小さな街「ハーモニー」。
赤いリンカーン・コンチネンタルでモーテルに乗り付けた若いカップルが、頭のおかしい三下「イタチ」に車ごと家財を奪われる。オフショットで銃声がしたから、もしかしたらカップルは殺されたのかもしれない(そういう武勇伝をそのあとイタチが酒場で披露する)。
奪われた車は、犯罪組織を牛耳るボスで故買屋のスリューのところに持ち込まれる。
しかし車の中にあったのは、家財や衣服だけではなかった。赤ん坊が乗っていたのだ。
スリューはそれを殺すか売るかしようとするが、デイヴィッド・キャラダイン演じる「妻」のパールは赤ん坊に執着し、放そうとしない。結局、ふたりは「サニー・ボーイ(Sonny Boy)」と名付けて、彼を自分たちの子供として育てることにする……。
ここまでだったら、まだ本作は「なぜかデイヴィッド・キャラダインが説明もなく女性役としてヤクザの妻を演じている」ヘンな映画というだけで済んでいる。
それだけでも十分狂っているが、まあそこまでだ。
だが、子供が庭に掘っ建てられた密閉された木箱で豚のように育てられ、6歳になったら「割礼」の儀式のように「舌」を切り取られ、12歳になったら車に鎖でつながれ裸で道を引きずり回され、14歳になったら「火あぶり」の儀式に処されるあたりから、この映画がそんじょそこらの狂った映画ではない、ガチで頭のおかしい虐待映画であることが判明する。
少年はそのまま野獣のように育てられ、犯罪者の両親と対立する相手や聖職者を粛清するためのヒットマンとして使役されるようになる。しかしある日、サニー・ボーイが父親の配下のチャーリーとイタチに私利私欲のために外に連れ出されてから、何かが大きくズレはじめる……。
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この映画は、一体全体なんなのか??
とにかく、狂った映画であることは間違いない。
ただ、この映画には祖型となる「古典」があるように、僕は思う。
それは『フランケンシュタイン』だ。
人工的に作られたモンスター。
とち狂った形で愛情をそそぐ親。
モンスターは人の愛を知らないから、
愛し方がわからない。
殺し方しかわからない。
衝動的に人を殺めてしまうモンスター。
彼はやがて「街の厄災」として、
「狩られる」側に回ることになる。
ね、とっても『フランケンシュタイン』でしょう?
一見すると、70年代のポンコツ・ウェスタンや南部が舞台のクライム・アクションみたいなつくりをとっているのでちょっと気づきにくいが、これは明らかに、「人為的に生み出されたモンスターが、擬似親との歪んだ関係や社会との軋轢のなかで苦悩する」王道の「怪物の悲劇」映画なのだ。
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そして、もう一点、とても重要なポイントがある。
親がサニー・ボーイの小屋に、生きたままの鶏を放り込んで食べさせるシーンが出て来たと思うが、僕は全く同じこと(=生きた鶏を人間が食い殺すこと)をする映画を観たことがある。ご覧になった方のなかには、ご記憶になっている人も多いだろう。
そう、ギレルモ・デル・トロの『ナイトメア・アリー』だ。
あれは、「ギーク(野人)」と呼ばれるカーニバルの見世物小屋の芸で、「野生育ちの蛮人」という触れ込みで、実際はアル中の男を仕込んで鶏を食い殺させるというものだった。
要するに、「鶏を食い殺させる」というのは、誘拐した少年を「ギーク(野人)」として仕込むという意思表示であり、これは「まともな生まれの人間を人工的にフリークス化する実験」としてアメリカでは共有されているイメージ/ギミック(日本でいうところの花園神社の「へび女」みたいなもの)なのだ。
普通の少年・少女を誘拐したうえ、家畜として育てて野人化/怪物化させるというアイディアは、アメリカのホラー作家ジャック・ケッチャムの『オフシーズン』や『襲撃者の夜』『ザ・ウーマン』でも、繰り返し試されていたものだ。
そもそも野人(ワイルド・マン)という怪物は、教化される前のゲルマン民、すなわち反キリスト教的な存在として、長く中世ヨーロッパの祈禱書などのマージナルに描かれてきた画題であり、「文明世界の外から人類を脅かす存在」として広く認識された概念でもある(本作ではサニー・ボーイが牧師を●●してキリスト像を持ち出す瀆神的なシーンが出て来る)。
ここでの「ワイルド・ボーイ」は、まさにアメリカにおけるギーク、あるいはワイルド・マンとして、「社会の敵(Public Enemy)」に認定されることになるわけだ。
本人のせいではないのに「異形」化した存在が、社会から爪はじきにされて追い詰められてゆく過程は、少しデイヴィッド・クローネンバーグの哀しみ色のホラー群とも近しい部分がある。
また終盤におけるサニー・ボーイを「馴化」しようとするドクトルの登場は、フランソワ・トリュフォーの『野性の少年』を思わせる部分もあるだろう(そもそも酒場で酔いつぶれているダメ医者という設定は、『荒野の決闘』や『OK牧場の決斗』に出てくるドク・ホリデイのパロディだろうが)。きわめて唐突でブラック・ユーモアに満ちた最終盤の展開は、ブラッド・ドゥーリフ(イタチ、『チャイルド・プレイ』のチャッキーの声で名高い)とシドニー・ラシック(チャーリー)が出演者として被ることもあって、ちょっと『カッコーの巣の上で』を想起させるし、あるいはテリー・ギリアムっぽい感じもないではない。
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もう一点、この映画には本質的な要素がある。
それは、本作がまごうことなき「南部映画」でもあるということだ。
単に、南部を舞台とした映画、というだけではない。
「南部のえぐみ」や「南部のこわさ」「南部の闇」をどこかに刻印した映画。
文学ジャンルで言えば、ウィリアム・フォークナー、フラナリー・オコナー、コーマック・マッカーシーといった、「グロテスク」をテイストとして有する「サザン・ゴチック」あるいは「グリット・リット」と呼ばれる系統の小説群。最近であればテリー・クルーズ『ゴスペル・シンガー』がまさにその典型だった。
映画の南部ゴチックの作例をWikiなどで確認すると、『アラバマ物語』『ふるえて眠れ』『白い肌の異常な夜』『脱出』『エンゼルハート』『フレイルティー妄執』といったえぐみの強い映画が並ぶ。
個人的には、必ずしも原作者は南部出身者ではないかもしれないが、『夜の大捜査線』『イージー★ライダー』『ミシシッピー・バーニング』といった「南部の狭量さと病んだ空気」を描いた映画も、広義の南部映画だと考える。昨年劇場上映された『悪魔の追跡』や、今年公開の「宗教保守としてのプレスリー」を描いた『プリシラ』なんかも、同じ系統に属する。
ついでにいえば、血みどろ映画の帝王ハーシェル・ゴードン・スミスの『2000人の狂人』なんかも、サザン・ホスピタリティの気持ち悪さを最大限に戯画化した、立派な南部映画だと僕は思っている。
『ワイルド・ボーイ』は、そんな「南部白人が支配する街のおぞましさ」を描いた一連の作品群の一角を形成するカルト作だ。
きわめて父権的な家庭。父親の横暴に従属する母親。結果的に隷属させられる子供。
犯罪で結び付いた主従関係。見て見ぬふりの村社会。悪の温床としての酒場。
部外者に対する極端な排他意識。いったん暴徒と化したら止まらない群衆の狂気。
ここで描かれる「南部」もまた、本当の「南部」なのだ。
この映画でもっとも恐ろしいのは、どれだけ児童を家畜のように虐待しようが、どれだけ無駄な命が奪われようが、人が人の親指を嚙みちぎってペンダントにしようが、常に背後ではハーモニカのメロウなカントリー・ミュージックが流れていて、ゴキゲンきわまる陽気でコミカルなノリが一向に喪われないという点だ。
悪夢も、狂気も、暴力も、全部ひっくるめて、「愉快な南部の空気感」が充満している。
ちょうどそれは、『2000人の狂人』の殺人鬼の村人集団がみんな常に哄笑していたり、『悪魔の追跡』の悪魔教徒たちがプール・パーティで揃って呵々大笑していたのとよく似ている。
その意味で『ワイルド・ボーイ』は、「病んだ南部」をカントリー・ウェスタン調の快活さに載せてシニカルに描いた、「戯画」であり「寓話」であるともいえる。
サニー・ボーイが野に放たれてからのマンハント展開や、そこでクズ親たちが見せる意外な動きなども含めて、ここには過剰にカリカチュアライズされた南部の闇が凝縮されている。
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「フランケンシュタイン」「野人」「南部」。
この三つのキーワードを通して眺めたとき、『ワイルド・ボーイ』は、単なるバッド・テイストで出来の悪いカルト・ムーヴィーとしての外見以上の、なんだか意外に深遠な内実を感じさせてくれる。
例に挙げると怒られるかもしれないが、たとえばアレハンドロ・ホドロフスキーのきわめて露悪的で、奇妙にツイストされてはいても、何かしらの意図を秘めて作られていた作品群のように。
最後に、デイヴィッド・キャラダインについて触れておかないと。
とにかく、ここでのキャラダインは本当に愉しそうに「悪女」を演じている。
この映画のなかで、パールがトランスジェンダーであるとの言及は成されない。もちろん「男だから絶対に子供ができない、だから子供を持つことに異常に執着する」というロジックは容易に成立するが、少なくとも映画のなかでパールが元は男であるというほのめかしは一切出て来ない。
むしろ、デイヴィッド・キャラダインがあくまで「女性」に成り切って、パール役に全力を傾注することで、作品には猛烈な「違和」が生まれ、そのシュルレアリスティックな違和こそが、本作のすべての悪徳と下劣と瀆神を中和して、エンターテインメントへと昇華している点に留意したい。
それだけではない。
デイヴィッド・キャラダインは主題歌として、自ら1973 年に作詞した含蓄あるカントリー・ソング「Paint」を提供し、自分で歌っている。この曲は冒頭で流れるだけでなく、パール(=キャラダイン)が劇中でピアノを弾きながら歌うシーンも出て来る。
彼は余程気に入っていたのか、あの奇妙でビザールな縊死を遂げたあとに入ることになった墓の墓碑銘に、まさに「Paint」の冒頭を引用している。
「I'm lookin’ for a place where the dogs don' t bite. Children don't cry and everything always goes just right. And brothers don't fight.(俺は犬に噛まれたり、子どもが泣いたりしない、すべてがうまくいく場所をさがしてる。兄弟がけんかなんかしないね)」
ちなみに、これに続く一節は、
「Maybe it's just over that hill, maybe it ain't. (それはあの丘の向こうかもしれないし、そうじゃないかもしれない)」
まさに、デイヴィッド・キャラダインの生涯を、そしてサニー・ボーイの未来を歌ったような曲ではないか。
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