遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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美しさの中にある暗闇が見事な作品
あまりにも自分の好みすぎる要素が多すぎてびっくりした。
正直、作品の内容的には人を選びそう。
エンタメ性が高く、わかりやすい内容の映画が好きな人にとっては、よくわからずつまらないという感想をもってしまう可能性も高い。
しかし、この手の映画が好きな人には、かなりブッ刺さる作品だった。賛否両論あるのも納得。
私はめちゃくちゃブッ刺さってしまって、鑑賞後思わず「おもしろかったー」と声に出して呟いてしまったぐらいだ。
この作品は余白が多く、全てを語らずこちらに解釈を委ねるシーンが多い。
常に付きまとう不穏な空気と、どこか、何かがおかしいという不気味さがずっとスクリーン上にある。
真実はなんだ? これは本当の話なのか?
ずっと落ち着きなくソワソワした気持ちで見ているのに、魅力的で、美しくて、ずっと見ていたいと思わせられる。
これはとても不思議な感覚だった。そしてそう思わせてくれたのは、広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊という3人の女優の演技があまりにも素晴らしかったからだ。
戦後の長崎パートの広瀬すずと二階堂ふみは、当時の服装や長崎の方言、話し方や言葉選びなど、何もかもが品があり文学的で美しく、何度も見惚れてしまった。
現代のイギリスパートの吉田羊は、全て英語のセリフだったにも関わらず、難しい役を見事に演じ切っていた。
今年は主演男優の良作が多かっただけに、女優3人が光る良作に出会えて嬉しい。
戦後の長崎という時代背景から、被爆者に対しての偏見など、当時の女性たちの心情や環境に思いを馳せると、彼女の決断や行動は決して責められない。
全ての真実が分かった時、あーあのシーンはこういうことを表していたのか、とか、きっとこれはこういうことを伝えたかったのかと答え合わせしていけばいくほど、作品の理解が深まりじわじわと感動が自分に広がる作品だった。
分かろうとすることではなく、感じることが大切な映画
戦禍の長崎に生きた女性たちの姿を描くヒューマンミステリー。ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの長編デビュー作を原作に、日本・イギリス・ポーランドの合作で映画化されている。二階堂ふみ、広瀬すずの熱演が光り、彼女たちが抱えた傷や葛藤がスクリーンから強く伝わってくる。
鑑賞後の感覚は、正直スッキリとはしない。まるで遠い山なみの光のように、見る角度やタイミングによって光にも闇にも見える映画だ。はっきりした輪郭ではなく、かげろうのような影を伴った「生」の姿—生きているようで、生きていないような、覚えているようで覚えていないような—が当時の社会を生きる人々の姿に重なる。
この映画の価値は、「分かろうとしなくて良い、感じることが大切」という点にある。当時の人々が必死で生き抜いた事実を胸に、スクリーンから受け取るメッセージを自分なりに噛み砕き、心に落とし込むことができれば、鑑賞の意義は十分だろう。
戦後80年を経た今、当時の社会を生き抜いた人たちの存在に思いを馳せ、今を生きる私たちがここにいる意味を改めて考えさせられる。
【鑑賞ポイント】
・ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの原作(長崎が舞台)
・二階堂ふみ、広瀬すずの熱演に注目🤫
・戦後80年の今、歴史と命の尊さに向き合う作品
重なり合う女たち、すれ違う男たち
改めて、原作を読み返したくなった。うすめの文庫本で、それほどの分量はないものの、意外にたくさんの主要人物が登場し、多層的に絡み合う。行きつ戻りつ読み返しても、さらりと飲みこむには少々手ごわく、断片的な印象を拾っては味わうことに留まってしまった記憶がある。今回映画版に触れ、なるほどと腑に落ちるところがたくさんあった。さらには、別の物語の可能性さえも伸びやかに広がり、とても贅沢な体験ができた。
主人公・悦子の丁寧な所作に、まずは心を奪われる。はたきで部屋の埃を払い、シャツにアイロンをかけ、手早くオムレツを焼く。つましくも丁寧に日々の暮らしを営み、被曝や戦争を乗り越えようとしている彼女の視線の先に、不穏な異物がある。なぜか彼女はそこから目を離せず、どんどんと深入りしていってしまう。はじめは危うさを感じた私たち(観客)もまた、いつしか彼女たちの関係に惹かれ、その先にある「何か」を、息を詰めて待ち受けてしまうのだ。
悦子と佐智子の関係はもちろんだが、悦子の夫と義父である元教師・誠二のすれ違い、そして誠二と彼の教え子である松田のぶつかり合いも印象的だった。時代に翻弄され、居場所を失っていく誠二のような人が、あの頃どれだけたくさんいたのだろう。時代のせいと片付けるには、人ひとりの人生はあまりにも重く、長い。
終盤、本作は彼女たちの重なりを示唆し、パラレルな物語を紐解く。描き割りのようで少し違和感があった風景が、人物と同化し、説得力を増していく。さらに私は、実は彼らは皆死んでいるのではないか、もしくは、死者と生者が入り混じっているのではないかという気さえした。明るく生気あふれる1940年代に比して、薄暗く陰鬱ささえ漂う1980年代は、特に前半、生の気配がない。けれども、ラストで示されるあらたな命の予感が、彼女たちや物語に、あたたかな光を注ぐ。あの遠い山なみの向こうには、イギリスの深い森が広がっているかもしれない。そんな奥行きと時間軸のクロスも、本作の愉しみだと感じた。
今年を代表する1本
人間は意図せず嘘をつく生き物だということを大変に力強い説得力を持って描いた作品だ。だましているつもりもない、しかし、架空の誰かに自分の思いを仮託せねば語れない苦しい過去がある時、自分でもなぜか設定を作ってしまう。本作で語られる物語は、そういう類のものだ。ポストトゥルースの時代にふさわしい作品と言える。
日本、イギリス、ポーランドの国際共同製作で作られた本作は、日本の50年代を舞台にしつつ、日本映画らしさの他にも様々な要素が含まれている、これまでにない雰囲気をまとった作品に仕上がっている。ルックの見事さは石川慶作品として相変わらずだし、セットの完成度も高い。そして、役者たちの芝居は素晴らしい。その役者を見つめる石川監督独特の不穏さもあいまって、心理ミステリーとしての完成度が非常に高い。
今年はクオリティの高い日本映画が多いが、これはその中でも今年を代表する1本と言っていいと思う。
記憶とは何かについて深く考えさせられる
記憶とは何だろうか。初老の女性の述懐がベースとなる物語だが、彼女が語るのは何十年も前の昔話であり、なおかつ場所も日本と英国とで随分と遠い。遠い山並みの光とはまるで、そうやって時間と空間を隔てたところから望む、おぼろげな追想の日々のよう。冒頭、長崎の劇的な復興を記録した写真が、まさかの楽曲に乗せて勢いよく駆け抜ける。この新鮮な風を感じつつ、ネオンや看板が放つ鮮やかな色彩に満ちた街並みにも心奪われるひととき。あらゆるものが変容する。そういった過程の中に浮かび上がる「二人の女性」は一体何を意味するのか。かくも記憶という題材は、長崎生まれで英国暮らしの長いイシグロ氏にとって、常に、そしていつまでもリアリティを放ち続けるものに違いない。私には小説と映画とではやや印象が違って見えたが、その印象の違いもまた本作の狙いのような気がする。女優たちの研ぎ澄まされた表現力、石川監督の人間描写が際立つ一作である。
記憶こそが“信頼できない語り手”
物語の叙述手法の一類型を指す“信頼できない語り手”という用語は、米評論家によって1960年代に提唱され、文学の研究者やマニアを中心に徐々に認知されていったと思われるが、この用語をより広い層へ浸透させるのに一役買ったのがカズオ・イシグロ原作の英映画「日の名残り」(1993)。イシグロは1982年の長編小説デビュー作「A Pale View of Hills」ですでに“信頼できない語り手”を用いており、訳書の邦題にあわせた今回の映画化作品「遠い山なみの光」でも、ミステリー要素に貢献するこの手法の妙味が効いている。
映画の序盤、英国郊外で暮らす悦子(吉田羊)は作家志望の次女ニキから、長崎で第二次世界大戦期から1950年代まで過ごした頃の思い出を聞かせてと頼まれる。気が乗らない悦子だったが、深夜に「長崎にいた頃に知り合った女性とその幼い娘のことを夢に見ていた」と語り出す。悦子によるこの前置きが、回想パートをめぐる謎の重要なヒントになる。
夢には過去の実体験の断片が現れることも多いが、事実が奇妙に歪められていたり、非現実的な要素が紛れ込むこともある。悦子の長崎時代の記憶は、30年もの時を経て曖昧になっている部分も当然あるだろう。さらに悦子は渡英後に長女を自死で失うというつらい経験もした。そうした諸々の状況から、悦子がニキに(そして映画の観客に)語る回想には、理想や願望、後悔や現実逃避といった複雑な精神状態が図らずも影響を与えている可能性があることを、夢というワードでほのめかしたと解釈できる。
石川慶監督はあるインタビューでネタバレを避けつつ、長崎時代の悦子(広瀬すず)と佐知子(二階堂ふみ)という2人のキャラクターを理想の女性像の多面性を表すもの、つまり異なる視点から見た別々の面を表すものと言える、といった趣旨のコメントをしていた。回想パートに理想や憧憬が込められているとすれば、長崎の景観が不自然なほど彩度の高い映像で描写されたシーンが多いのも納得がいく。
石川監督は平野啓一郎の小説を映画化した「ある男」でも、ストーリーの中で語られるキャラクターとアイデンティティーの関係を追求していた。同作と「遠い山なみの光」のテーマが深いところで呼応している印象を受けるのも感慨深い。また、長崎への原爆投下と敗戦後の日本を扱った映画でありながら反戦を前面に出さなかった点は、日本・イギリス・ポーランド合作として妥当な判断であり、分断が深刻化する今の時代に国際市場で売り込む戦略的な狙いもあるはず。国や組織の大きな歴史ではなく、個人の生き方や他者との関わり方に重点を置く物語だからこそ、さまざまな壁を越えて伝わるものがきっとあると信じたい。
戦争ってのは、全ての人生を狂わせる
戦後の長崎の当時最先端の団地でのお話と
その数十年後のイギリスの静かな地方の閑静な住宅でのお話。
最初は昔を懐かしむお話かと思ったら
観ているとだんだんに
あら?それって??どう言うこと???
真剣に観れば観るほど迷路に落ちてゆく映画(笑)
でも、観た後に、戦闘シーンも無い、空襲シーンも無い、
飢餓や大きな怪我も無い、一見平和な市民の話だけど、
戦争の無惨さ、原爆の非常さ、
戦争ってのは、全ての人の人生を狂わせる
その本質が、静かに立ち昇ってくる映画でした。
ぜひ映画館で集中しての鑑賞がお勧めです。
で、月に8回程映画館で映画を観る中途半端な映画好きとしては
いろんな方が感想を書かれてる通り
なかなかにトリッキーな流れの作品。
豪華キャストでカズオ・イシグロの原作なので
映画好きは期待大で観に行かれた方も多いでしょう。
前半にも書きましがこの映画も「リアル・ペイン」と同じで
当事者でなけれな分からない戦争の傷痕の苦しさ、重さ。
戦争に直接触れていなくても、その惨禍は
深く人の思いを捻じ曲げ、捻じ曲がった状態で起きてしまった事実に
後年になってさらに傷つけられてしまう。
「戦争」に限らず、人生の一時期には
後で消せるものなら消してしまいたい出来事なんて
誰にも何かしらあるとは思うが
「戦争」と言う惨禍はあまりにも大規模で深すぎて容赦無い。
この作品はカズオ・イシグロ氏による反戦メッセージなのかな〜と
私は受け取りました。
覚書
2025年は人生最初で最後の大イベント「万博」に全集中してたので
映画鑑賞が極端に減ってしまった。
今年もあと2ヶ月半、何とか残りは映画鑑賞頑張りたい!
原作未読で不安しかなかったが問題なし!
りんご取り放題
原作はかなり昔に読んだが、あまり覚えていない。川のあたりが暗く、不穏な雰囲気だったことだけ、うっすら記憶している。カズオ・イシグロの小説は一貫して、影のような暗さと、痛みや悲しみなどが感じられ、異国で育つ上で体験したことが反映されているのでは、と想像する。
イギリスの家や庭などはすごく素敵で、この背景で撮影されると、ほんと映画に没入できる。庭に生ってるリンゴをもぎ放題。いいなー。ジャムにコンポートにパイ、うわー最高じゃん。母と娘で食事しているところも、お料理がおいしそうで、映画の中に入って一緒に食べたくなった。室内の設えも素敵で、花瓶に花をさすシーンなど、さりげなくおしゃれだった。吉田羊さんがこの家の中で、ものすごく自然で、30年住んでるかのように溶け込んでいた。滑らかな英語も素晴らしい!
終戦後8年の長崎は、こんなにキレイだったのかな。復興はみんなでがんばっただろうが、ずいぶん小綺麗。若い悦子も、いい色でいい布地の服を、とっかえひっかえ着る、素敵な若奥様。なんでこんないい暮らしができてるんだ。まぼろし〜? 河原で暮らす佐知子も、建物はボロいが、けっこういい服を着てる。それに、茶器や花瓶などが高級そうで、ほんとこの人どうやって金稼いでるの、と思った。長崎の話は、なんだか現実感が薄めだった。あと、夜の河原で、あんなに早く走れないんじゃないかな。暗くて転ぶよね。昼間に撮影して、色を整えたんだろうな。
原作に謎が多いのだろうが、映画で解説しているように思えた。でも、謎はそのままでもいいんじゃないかな。わかりやすくするのが良いとも限らない。それに、別にイシグロの小説じゃなくてもいいのではないだろうか。なんでか自分でもよくわからないが、鑑賞後なんとなくモヤモヤしている。
回想の部分に、そのままの真実はない
老人の域に達するまで、明瞭に夢とか想像と表示・暗示されていない限り、映像はそのままの事実として受け入れることが、観客のマナーだと信じて生きてきた。生まれて初めて、監督の意図として、観客に明示せずに、主人公の回想として虚偽、事実の改変を突き付けた映画に遭遇したのが本作であった。60年以上も馬鹿で純朴な観客だったんですね。
戦後の女性たちの生きるための醜い現実は知っている。戦前から社交界にいたわけでもない日本女性が、真っ当な(世間から祝福される)形で嫁いでアメリカに移住することを強く願うとか、昭和27年にイギリスに行くという前提は、通常あり得ない。身を売るとかそれに近い商売でないと、英米人と関係を結ぶことはまず不可能だったはず。また戦後もずっと軍国主義信奉者から脱却できなかった元校長が、原爆で焼け出された元部下の女性教員を終戦から長らく支援し続けることも、息子とめあわせて幸福な家庭を用意することも信じがたい。伝統的映画と同様に時制や事実関係を重視するなら、映像化された、悦子がニキに語る多くのエピソードは、語れないグロテスクな事実を変形したものとしか思えない。特に暗い画像になった部分は、明るい映像の部分と打って変わって、おぞましい現実の羅列をしまい込んだものだった。明敏なニキは母に同情はしても、語られた内容は信じなかった。だが自身、不義の子供を妊娠した立場で母を顧みれば、子供(景子)を抱え苦難の人生を歩み、自分を育てた母の踏んできたであろう過去に深い敬意を持つしかなかった。私の中では一応そういう整理をしている。
「人」ってどの目線からで変わるんだなぁ
【81.9】遠い山なみの光 映画レビュー
映画『遠い山なみの光』(2025)専門家批評
作品の完成度
ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの処女小説を、国際的な評価を受ける石川慶監督が映画化という高いハードルを超えた、文学性と映画的技巧が見事に融合した作品。戦後間もない長崎と1980年代のイギリスという二つの時代・場所を舞台に、主人公・悦子の記憶の曖昧さ、そして隠された真実を巡るミステリーとして構築されている。信頼できない語り手による回想という原作の構造を、映像の「違和感」として観客に提示する手法は、映画ならではの成功例。特に、長崎パートで積み重ねられる不穏な空気や、現実と虚構の境界を揺るがす演出は、見る者に深い考察を促す。母娘の断絶、戦争の傷跡、そして人間の記憶の不確かさという普遍的なテーマを扱いながら、単なる文芸作品に終わらせないサスペンスフルな語り口が秀逸。物語の結末で明らかになる真実の衝撃度は高いが、それまでの緻密な伏線と俳優陣の好演によって、単なる「種明かし」ではなく、重層的な余韻を残す傑作となっている。第78回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門への出品は、その完成度の高さを裏付けるもの。
監督・演出・編集
石川慶監督は、『ある男』に続き、ミステリーの枠組みを用いながら人間の内面に迫る手腕を遺憾なく発揮。静謐でありながら緊張感を孕んだ独特のトーンを確立。1950年代の長崎の空気を写実的に捉えつつも、どこか幻想的で不安を誘う演出が巧み。回想と現在のパートを交錯させながら、徐々に真実へと迫る編集のリズムは計算され尽くしており、観客の集中力を途切れさせない。特に、悦子と佐知子が同一人物である可能性を示唆する終盤の演出は、言葉ではなく映像で衝撃的な真実を表現し、鳥肌が立つほどのカタルシスを生む。全編を通じて、感情の過剰な表出を抑え、俳優の佇まいや微細な表情、そして美術・照明を駆使して物語を語る抑制された美学が貫かれている。
キャスティング・役者の演技
広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊という三人の実力派女優を配したキャスティングは、本作の成功の大きな要因。三者三様の「悦子」の側面を担い、それぞれが極めて高いレベルで役柄を体現。
• 広瀬すず(緒方悦子) 1950年代の若き悦子を演じる。戦後の混乱期を生きる凛とした強さと、秘めた孤独、そして次第に見え隠れする異常性を複雑に表現。朝ドラのヒロインのような朗らかさの裏にある翳り、佐知子との交流を通じて生まれる感情の揺れを、繊細かつ大胆に演じきり、観客に「信頼できない語り手」としての違和感を植え付けるその演技は、キャリアの中でも屈指の完成度。その存在感と説得力は主演として申し分なし。
• 二階堂ふみ(佐知子) 悦子の回想に登場する謎めいた女性。退廃的で自暴自棄な雰囲気を持ちながら、娘・万里子に対する歪んだ愛情を見せる難役。広瀬すず演じる悦子と対照的な人物像でありながら、その深層で繋がっていることを予感させる佇まいは圧巻。わずかな表情の変化や台詞回しに、戦後のトラウマと必死に生きる女性の業を感じさせ、作品のミステリー性を高めることに大きく貢献。
• 吉田羊(1980年代の悦子) イギリスで暮らす老年の悦子。過去の記憶を娘に語る「現在の悦子」として、冷静沈着でありながら、過去の出来事に対する後悔や諦念を滲ませる。流暢な英語での演技や、過去の記憶を語る際の微妙な間の取り方、表情に宿る諦観は、物語に奥行きと切実さをもたらす。広瀬すずの悦子との内面的な連続性を感じさせる演技も見事。
• 松下洸平(緒方二郎) 悦子の夫で、傷痍軍人。戦争によるトラウマと家族への責任感の間で葛藤する姿を、静かな熱量をもって演じる。悦子との夫婦関係における緊張感や、父・誠二との不和を表現し、戦後日本の家族の姿を象徴的に示す。
• 三浦友和(緒方誠二) 悦子の義父であり、元校長。戦後の価値観の変化に戸惑い、苦悩する旧世代の知識人を重厚に演じる。悦子や元教え子・松田との衝突のシーンでは、戦争の傷と時代の軋轢を体現。その燻銀の演技は、作品に確かなリアリティと重みを与えている。
脚本・ストーリー
カズオ・イシグロの原作の持つ「信頼できない語り手」という骨子を忠実に抽出し、映画脚本として再構築。原作の持つ文学的なニュアンスを保ちつつ、ミステリーとしてのフックを明確に打ち出し、現代の観客にも受け入れやすい構成とした。戦後の長崎という舞台設定が持つ、原爆や戦争の影という重いテーマを、直接的な描写ではなく、人々の心と生活に宿る「暗闇」として描いた点が評価できる。悦子の語りの中に潜む矛盾や不自然さが、終盤の真実の提示へと繋がる構造は、脚本家としての高度な技術を感じさせる。
映像・美術衣装
1950年代の長崎の再現度が高く、生活感あふれる長屋や、バラック小屋のセット、路面電車の光景など、細部にわたるこだわりが強い。全体的に光と影のコントラストが印象的で、特に回想シーンのやや黄ばんだような色調は、記憶の曖昧さを視覚的に表現。美術は、戦後の復興途上にある街の生々しさと、悦子の家庭が持つある種の「体裁」との対比が際立つ。衣装は、登場人物の社会的地位や心理状態を反映しており、広瀬すずの和服姿の美しさと、佐知子のどこか奔放な洋装との対比も効果的。映像美が、物語の持つ重層的なテーマ性を深める役割を果たしている。
音楽
オリジナルスコアは、物語の持つ静けさと不穏さを増幅させる役割を担う。主題歌は設定されておらず、劇中のムードを重視した音楽設計。劇中、ニュー・オーダーの楽曲(曲名記載なし)の使用は、現代的な視点と戦後日本の光景との意図的な「違和感」を生み出し、観客を現実と虚構の境界に引き戻す効果を持つ。メロディよりもテクスチャーや音響で感情を表現するアプローチ。
作品
監督 石川慶 114.5×0.715 81.9
編集
主演 広瀬すずA9×3
助演 二階堂ふみ A9
脚本・ストーリー 原作
カズオ・イシグロ
脚本
石川慶 B+7.5×7
撮影・映像 ピオトル・ニエミイスキ A9
美術・衣装 美術
我妻弘之
アダム・マーシャル
A9
音楽 パベウ・ミキェティン B8
秘密を守ってあげたくなる心に残る名作
二階堂ふみさんをスクリーンで初めて観ることができて氣分最高というのは置いておき、鑑賞前から、ある程度ストーリーを知っていたため驚きはありませんでしたが、時代の再現度、神秘的な演出、斬新な音楽、秘密を明かしたがらない年配女性の心理、母の真実を知りたがる若い娘、終盤の黄色い牛乳瓶ケースのエピソード、赤ちゃんを川に沈める話の伏線回収、知的でありながら感覚に訴える要素が強めで心に残る名作でした。
タイトルの意味は、なんとなくアレのことかな、と思っていますが考察したり詮索するのが失礼な氣がしてしまうという、主人公の秘密だけでなく作品の上品さを守りたくなりました。
女性視点の戦前戦中戦後の作品に滅法弱いため、減点なしで満点評価です。
戦後の日本人の営みが今に通ずる
この時代の空気感を知る原作者が伝えたかったことが描かれているのだろう。
戦後まもなくしてイギリスに移った作者と同様に、この物語は進んでいく。
原爆が投下された長崎の戦後の復興もまた、力強さを感じられる。
戦後80年の節目に、この時代を色んな表現で描かれるが、悲惨な部分だけでなく豊かになりつつある人々の暮らしも見ることができて救われる気がする。
私は30年程前に10年間、長崎に住んでいたが、町や店がそのままの名前で映っていて、懐かしく感じた。
私の親世代は幼少期に戦争を経験している。健在のうちに色んなことを聞いてみたくなった。
謎多き女性・佐知子さんはアメリカにひとりで渡航したのか?
当時身ごもっていた娘が、自殺した姉だったのか?それとも?
私の理解力不足だと思うが、ちゃんと描かれていたんだろうけど疑問に残る点があった。
>>>
とここまで自分なりにレビューを書いたが、他者のレビューを見て疑問が解けました。ネタバレで皆さんにわかりやすく解説してくれて助かります。
原作と映画
原作、既読。
カズオイシグロ原作、石川慶脚本監督。
監督の映像化の力量が光る。
製作プロダクションに分福(是枝裕和監督)の名前も。
原作は読み易い文学作品。日本語訳も良く、巧みな会話が良い。
大胆な脚本の再構成も見事!
映画はミステリアスに、時にホラーチックに。
悦子の記憶が多層的である事を、原作よりもハッキリと描いている。
背景に戦後の貧しさと混沌、被曝の後ろめたさが流れている。
皆が、ナガサキから立ち直って行こうと希望を持って歩み始める清々しさ。繰り返し観る度に味わい深くなってくる。
映画のプログラムの最後の方にある。広瀬すずの白、吉田羊の黄、二階堂ふみの赤、それぞれが持つ花も象徴的。
広瀬すずの嗚咽、涙が弾ける。逆光の中で。
何とも美しい。映画史に残る名場面では。
「宝島」での慟哭と忍び泣きも見事だった。
異なる涙もそれぞれ良かった。
難しい…
過去の自分に「エール」。
これは心の再生の物語であると思った。過去を肯定することによって心の傷を癒す物語である。母悦子は娘景子の死について自分に責任があったのではないかとひそかに悩んでいる。娘ニキは一人で生きる困難さを抱えながら、姉景子との疎遠だった関係を悔いている。ニキが悦子の長崎時代の話を聞いていく中で、原爆投下からの困難な時代の姿が明らかになっていく。前へ進もうと必死だったあの頃は、失敗があったとしても責められるものではない。むしろ尊く大切な記憶になっている。原作よりも母娘の関係が濃密に描かれているのがとても良かったと思う。悦子だけではなくニキとの母娘の物語になった。長崎時代を肯定することで心の整理がつき、距離ができていた二人の関係も修復されたようである。
景子の死が二人の心に大きな負担となっていたのは理解できるが、彼女が死を選んだ理由はほとんど触れられていない。幼い頃にいじめられて対人不信になっていたり、イギリスに行きたくないのを母親の都合で無理に連れて行ったりしたのが原因になっているのかと想像するだけである。原爆投下後の悲惨な状況は、大人が考えるよりも深くこどもの心を傷つけていたのかもしれない。悦子は景子に対する負い目のようなものを抱いているから自分の本心を隠し、長崎時代を佐知子と万里子という人物に託して語ったと思われる。また、イギリスに渡った理由にもほとんど触れられていない。二郎と別れたと思われるが、悦子は緒方さんが好きであって、緒方さんをないがしろにする二郎の態度には違和感を持っていたのかもしれない。イギリスに行ってもうまくいくとは限らない。その気持ちも佐知子に託している。長崎時代の路面電車に乗る悦子と景子を見送る現在の悦子が出てくるが、過去の自分に「あなたの選択は間違っていなかったよ」とエールを送っているように感じた。
戦後の復興が時代背景としてあるが、長崎は既に都市として相当に発展し、人々は新しい理想を抱いて明るく生きている。大きな時代の転換を経て逞しく生きる人を応援する作品でした。
品のある戦争のお話でした
目が喜んでいます
全262件中、1~20件目を表示
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