「「夢」か?「騙り」か? 匂わせか?」遠い山なみの光 Li'l Titanさんの映画レビュー(感想・評価)
「夢」か?「騙り」か? 匂わせか?
10月6日と公開から1ヶ月後の鑑賞です。間が合わず見逃していましたが、TAMA映画祭での主演女優賞に推されて劇場に行きました。
予備知識は、Kazuo Ishiguroが原作、長崎とイギリスが舞台といった程度で、原作未読のまま観ました。素直な初見の読後感は「混乱」です。最終盤の種明かしで、プロットのトリックこそ理解できるのですが、だとすると語られた半生の何処から何処まで信じていいのか直ぐには整理できず、混乱したままエンドロールも終わっていました。
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1. 夢か? 騙りか?
本作は渡英後のヒロイン悦子(吉田羊)が、次女⋅ニキ(カミラ⋅アイコ)の取材に重い口を開き、しぶしぶ長崎での半生を語るという構成ですが、最終盤に、都合の悪い? もしくは自身で自身を許せない部分は、他人⋅佐知子(二階堂ふみ)の出来事のように騙っていた事が明かされます。正直に語れなかった動機は、渡英を拒んでいた長女⋅景子が、渡英後に自死してしまった事や、長崎で長女を充分愛してやれなかったという贖罪に起因する事も明示される。
ただ、本作のズルいというか、敢えて説明不足なのは、描かれた長崎での半生の内、どの部分が「夢」でどの部分が覚醒時に騙ったものなのかが判然としない処。長崎での過去のパートの後に、渡英後の悦子が目覚めた描写があれば夢で、次女に語っている場面があれば覚醒時の騙りと判断できる。配信されたり、DVDを手にしたら、その部分をチェックしながら観てみたい。
同じ嘘でも「夢」の中なら、自己防衛の為の無意識な自分自身に対する無意識な嘘だろう。一方、覚醒時の騙りは、長女に対する贖罪を次女に隠す為の自覚的な嘘であり、意味が大分変わってくる。母⋅悦子は若き自分が、夫(松下洸平)にも従順で、義父(三浦友和)にも優しく、友達の娘(鈴木碧桜)さえ気遣う大和撫子だったと思わせたかったのか? 離婚後解放された女として、長女を蔑ろにしていたかもしれない過去を、次女には隠しておきたかったのか? 長女の部屋にあれだけ物証が残っていたら、バレない方がおかしい気もするが、それでもありのままを証言する勇気がもてない程、悦子にはトラウマだったという事か?
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2. 貞淑な団地妻であり、解放された女であり、喪服の女でもあった?
種が明かされると、冒頭から悦子は、離婚前に団地にすむ裕福な妊婦(広瀬すず)としても、離婚して川岸の小屋に住まざる得ないシングル⋅マザーの「パンパン」(二階堂ふみ)としても同時に登場していたと分かる。
ここまでの解釈に異論はなさそうだが、問題は乳児を溺死させた「喪服の女」でもあり、川岸の子供の前でロープを手にする絞殺魔(誘拐犯)でもあったのか?という解釈。仮に本当に悦子が絞殺魔だったとしても、川岸の子供に近づく場面で、何故かロープが自分の周りにある事を、次女に意識的に騙る必要性がない。なので、ロープを手にする場面は夢と考えるのが自然。それでも、解釈は2つできてしまう。1つは、大方の解説記事通り、猫を溺死させてまで長女を渡英させて、自死に追い込んでしまった事への自己批判が、夢に現れた形。つまり、悦子が絞殺魔でもあったなんてbad endじゃない。ただ逆に、実際に絞殺魔であった過去を必死で忘れ去ろうとしていても、夢の中で繰り返し自身が自死を告発し続けているという解釈も完全には否定できない。未読なので原作のニュアンスは不明だが、本映画はそう匂わすように脚色されていた。
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3.神秘性を評価するか?
英語版のwikiによると、原作出版直後、The New York Times は "infinitely ... mysterious"と神秘性を評価している。映画版も長崎の風景や広瀬すずと二階堂ふみの表情は神秘性を秘めていた。ただ、個人的にはヒロインが絞殺魔だった可能性までありえてしまう終わり方にはあまり賛同できない。「私が原爆症だったら結婚しなかったか?」との問いに向き合わない昭和男からの解放という観方もできなくないが、解放後の自分を他人だと騙ってしまう程恥じていて、貞淑な団地妻が結局理想だったと思っている節もあり、もうちと明確なメッセージが欲しかった。
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