「遠ざかる記憶と消えない後悔」遠い山なみの光 ニコさんの映画レビュー(感想・評価)
遠ざかる記憶と消えない後悔
原作小説ではラストの種明かしや、映画と同じ表現での伏線はない。
ただ終盤にひとつだけ、それまで語られた悦子の物語の信憑性を疑わせる彼女の短い台詞があり、そこで初めて「万里子のエピソードは景子のものなのでは?」というもやっとした疑念が湧く(読解力がある人はもっと早くそう思うのかも)。だが、それに対する答えはない。
そういった表現は読者の想像力を刺激するが、時にわかりづらくもある。
本作の場合は謎の伏線と答えを明示することが、小説を映画に変換するにあたっては必要な演出だったように思う。
物語における佐知子が実は悦子自身のことであったなら、広瀬すずが演じた52年の悦子はどういう存在なのか。以下は完全に私の個人的な推測だが、彼女も全くの虚像ではなく、悦子の内面の一部である気がする。
81年の悦子(以下「現在の悦子」とする)は記憶の断片を時系列ごとシャッフルし、52年の悦子と佐知子という2人の人物像に組み直して語っているのではないだろうか。
蜘蛛を口に入れようとする万里子、イギリスの家の壁を這う蜘蛛。過去の悦子の足に絡みつくロープ、イギリスで縊死した景子。そういった描写にシャッフルの形跡を感じた。
実際の悦子の人生は、次のようではなかったか。
二郎と結婚し、それに伴い仕事を辞めた(教師と言っていた気がするが、英語の教師だったのかもしれない)。
景子を産んだが、男性に従属する当時の日本では一般的な女性の生き方に嫌気がさし、何らかのきっかけで娘を連れて家を出て、イギリス人男性と知り合った(序盤、ロープウェイの看板の前で案内嬢のような格好をして米兵と向き合う悦子(演・広瀬すず)のモノクロ写真が一瞬映る。英語を使った仕事をすれば海外の男性とも知り合えるだろう)。
彼女は嫌がる景子を連れて渡英したが、景子は現地に馴染めず自死してしまう。
では、悦子は何故過去についてそのような語り方をしたのかといえばひとつにはやはり、罪悪感なのだと思う。
「この暗い回想の底には、自分のアイデンティティを守ろうとした選択が景子を犠牲にしたという悦子の自責の念が一貫して流れている。」原作の訳者あとがきにある小野寺健氏のこの言葉の通りなのだろう。
ニキは最後に「母さんは悪くない」と悦子を慰めたが、個人的には景子がかわいそうだ、彼女への接し方だけはもう少しどうにかならなかったのかと思ってしまった。
猫殺しはさすがにちょっと……あの箱をイギリスに持ってきていたから猫水没も作り話かも(であってほしい)と思ったが、川を箱が流れる悪夢を見ていたから多分事実なのだろう。
もうひとつは、悦子の中で30年前の記憶が曖昧になりつつあることの表れではないだろうか。
「こういう記憶もいずれはあいまいになって、いま思い出せることは事実と違っていたということになる時が来るかもしれない。」小説の悦子の語りには、このような言葉が数回出てくる。
必死で生きていた当時の感情は忘れがたくとも、細部は曖昧になってゆく。現在の悦子にとって、過去の風景はまさに本作の原題「A Pale View of Hills」、遠くに霞んで見える丘陵のような眺めになりつつあったのだろう。
罪悪感と細部の忘却、それらを抱えた悦子がニキに過去を語る時、最終的に景子を追い込むことになった(と悦子自身が認識している)自身の性質や行動については佐知子という「自分ではない第三者」のこととして語った。自分の過去として語るには、いまだに自責の念に耐えられないということか。
そして、当時の出来事のように装いながら、実はその後の人生で感じた悔いを物語の中で晴らしていたのではないだろうか。
過去の中の悦子は、万里子に優しかった。それはその後景子を失った悦子の、あの時こうしてあげればよかった、という後悔が生んだ想像のように思えてならない。
電車の車窓の向こうに佇んで過去の悦子たちを見つめる現在の悦子、その視線を佐知子も感知していたという場面はファンタジックだが、これも彼女の後悔を表すイメージなのかもしれない。
悦子が渡英を決意する一因になったと思われる結婚生活だが、昭和の男の(女性から見て)駄目な部分が笑ってしまうほど見事に二郎に集約されていた。妊婦の横で煙草を吸うわ、予告なく職場の人間を家に連れ込むわ。そりゃ悦子も渡英したくなるわ、と思わされるという意味ではよくできた人物造形だ。
緒方と、息子の二郎や元教え子の重夫との価値観の衝突も興味深かった。緒方はおそらく戦時中には教師として愛国心を大いに煽ったのだろう。万歳三唱で息子を戦地に送り出すが、年齢的に自分は出征しない。
対して二郎や重夫はその教えを信じ、戦地に行かされた世代だ。敗戦で時代の空気が変われば軋轢が生じるのは当然のこと。重夫は緒方に悪意がないことは理解しつつも、その無責任さが許せなかったのだろう。渡辺大知の演技が、出演時間は短いのに印象的だ。
時の流れでうつろう記憶と残り続ける感情、変わってゆく価値観と変化に取り残される哀しさ、そういったことを考えさせられ、あの表現はこういうことかも、という想像も膨らむ良作だった。
悦子は保守的なイギリスではなく、アメリカに行きたかったのではないですかね。
娘の死に罪悪感を抱いてはいるが、日本を捨てたことに後悔はしていないと思います。後悔していない自分に、さらなる罪悪感があるかもしれないけれど。
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