リアル・ペイン 心の旅のレビュー・感想・評価
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絶妙な横顔
ベンジーのあの寂しそうな表情が非常に印象的な映画。感情を素直に表現して時には波風を立てることもあるけれど、人の懐にスッと入り打ち解け合う人懐っこさがある。自分とおなじように寂しげな瞳を持つひとりのツアー仲間がいれば放っておけない。それによって一緒に来たデヴィットが孤独になるんだけど、悪気はないんだよね。一緒に来てくれたことには本当に感謝してるんだよ。
明るくて人生たのしそうに見えるベンジーの光と影が絶妙に映し出される旅。
随所に散りばめられたコメディ要素もクスリと笑えて良い。
ホロコーストの現場を歩いて凄惨な過去をめぐり、今がどれだけ恵まれた環境かは理解できるし有り難いとも思えるけれど、それでも今を生きているベンジーにもデヴィットにもそれぞれ固有の痛みがあって、それを抱えながら生きている。
ラストのシーンで、ベンジーは空港にとどまった。
まるで帰る場所がないかのようで、なんとも言えない不安を映し出す。
ロードムービー
亡くなった祖母のルーツを旅する 親戚同士の男二人のロードムービー。...
十人十色
アメリカ人の従兄弟同士が自分達のルーツであるポーランドを旅する話。頭が良く、いい職に就いて結婚もしているデビッドと、無職で独身のベンジー。世間的に評価されるのはデビッドだが、自由奔放で自分に正直な言動をするベンジーは、人を惹きつける魅力がある。全く性格が違う2人の掛け合いが面白く、笑える。
どちらも問題は抱えていて、生真面目でお堅いデビッドは理屈っぽく人付き合いが苦手。周りや常識を全く気にしないベンジーは感受性が高いゆえに、人一倍傷つきやすくストレスを感じやすい。
ツアーと他の参加者との交流を通じて、お互いの違いと友情を再認識していく過程で人間味のある生き方が何なのかと考えさせられる。温かみがあり、ほっこりさせてくれる映画。
主役のアイゼンバーグの体験にインスパイアされたストーリーらしく、ポーランドのツアーの内容が細かい。
デビッド役はどこかで観たことあると思ったら、ホームアローンのマコーレカルキンの弟なんですね。
演技上手い!!
本当の痛みはなかなか・・・
喜びとか悲しさとか、あるいは強い愛などは、それがどんな形であれ、見ていて結構気持ちがいいものだけれど、痛みというのは、どんなに強い表現や巧みな演出であっても、なかなか受け取ることが難しいなぁと─。それは、見ているこちらがすんなりと受け入れることができないからなのかもしれませんが・・・
みんな素晴らしい演技、素晴らしいスクリプトや演出で非常に感動できるのですが、痛い気持ちだけはどうも・・・もしそれをちゃんと受け止めたならば、多分見ていられないような気がするけど、この映画はずーっと心地良く観賞できたからなー。かといって、痛みが伝わってくるような作品なんて─と思うわけだし、なかなか難しいテーマを扱っている作品です、かなり面白くてよきかなとは思うのですけど─。
劣等感を乗り越える親愛の情
同級生で人たらしのやつがいる。俺が俺がという前に出るような性格ではないのに、いつの間にか場の中心にいる。一部の人間からは嫌われもするが、好かれる人間とは強い絆を結んだりする。そんな友人に影響を受けたり、憧れたり、ちょっと憎らしかったり。でも、離れることもなく今でも関係が続いている。彼に魅了された人間の一人だから、もう仕方がないと受け入れているが、本作のような映画を観ると、あの劣等感に近い感情を思い出す。本作に登場するベンジーはまさにそんな感じ(私の友人に似ているわけではないけど)。
亡くなった祖母が昔住んでいた家を訪ねようと、ポーランドのユダヤ人のルーツをめぐるツアーに参加した2人。強制収容所を訪問するシーンがツアーのクライマックス。民族関係なく、あれだけ迫害を受けた人たちに思いを馳せるとやはり涙がにじんでしまう。
でも本作のクライマックスはそこではない(はず!)。ツアーの参加者に、ベンジーへの思いを吐露するデビッドの独白だ。自分のあの友人を思い浮かべてしまった。憎しみみたいな感情はないが、デビッドのあのセリフたちに一々共感してしまった。じゃ、ベンジーにはどうだったのか?と考えると共感できないし理解もできない自分がいた。ベンジーの思いについて明かさない作りになっていたのは意図的だったのだろう。主人公デビッドの目線で考えたらそうなんだと思う。だから、ラストシーンのベンジーが何を考えているのか全くわからないのも仕方ない。
一人の人間が生まれるということ自体奇跡みたいなもので、ホロコーストを生き残った人間の子孫となるとさらに奇跡的な運命を感じることになる。だから、その子孫である人間は自分の命を大切に精一杯生きるべきと言う(思う)人は多いはずだ。間違っていない。その通りだと思う。でも、デビッドが語るこうした言葉に生きづらさを感じてしまった。ほんの少しだけど。もしかしたらジェシー・アイゼンバーグ自身がそんな思いを抱えていて、そんなことも意図して本作を作っていたりして。もしそうならジェシー・アイゼンバーグすごいな!
大切な人を大切にしたくなる
ユダヤ人関連の映画をまとめて
時期を同じく4作品のユダヤ人関連の映画が重なって上映されています。
この映画も、他の映画も発端は、ヒットラーのナチスドイツのユダヤ人迫害から派生した映画でしょう。
多くのユダヤ人がアメリカナチス渡ったことから発生したこの映画とブルータリスト。
イスラエル建国に絡むいざこざから起こった問題に向き合ったのが、ノーアザーカントリーとセプテンバー5。
ユダヤ人は、被害者か?加害者か?と考えてしまう映画でした。
ホロコーストの痛み
石を置こう。僕らが訪ねた印に。
現実社会では、人と人は本音と建前で交流し生きている。それが「大人」としての作法。正直に生きることは、窮屈で痛みを伴うものだ。正直に生きてきたベンジーが、これまでの人生でどれほど苦しんで生きてきたのか、彼の行動の端々ににじみ出ていて、胸が苦しくなった。救いは、ポーランドだけにショパンのメロディーが全編に流れ、そんな苦痛を癒してくれた。
アウシュビッツを訪れた人は、皆一様にあの重い空気を纏うのだろう。だけど、それは過去の歴史としてだ。ベンジーは、その縁者として、実際に迫害を受けた彼らに寄り添う。だから、一等車に乗ることに我慢ができない。正直自分も、ツアー同行者たちと同じような気分だった。これは昔の話じゃないか、今と比べてどうする?と。だけど、ベンジーはピュアなのだな。そのピュアな心を知った人は彼の行動や言葉の理解者となる。それでいて、それは全員ではないところ(別れ際ひとりだけ抱擁も握手もしない)に、「いい話」としてこじつけようとしないこの映画の誠実さが見えた。そして、そんな窮屈な世界を生きているベンジーを案じるデビッドの痛みさえも共感できた。
映画のはじめと終わりは空港のロビー。観始めた時の、ただの雑踏の風景でしかなかったその場所が、ラストには、そこにいるひとりひとりに人生の物語があるのだという視点でいる自分に気づいた。そしてベンジーは、同じように周りを観察している。彼は、なにも変わってはいない。変わったのは、こちらの見え方(言い換えれば偏見)だった。
本当の痛みは、当事者にしかわからない・・ということかしらん? そう...
本当の痛みは、当事者にしかわからない・・ということかしらん?
そういう意図があるのであれば・・ユダヤ人の受けた痛みは・・想像はできるけど・日本人の私にはわからないのかもしれない・・。
ユダヤ人の従兄弟同士、デビット(ダビデ)とベンジー(ベンジャミン)が・・ナチ支配下の時代には、ホロコーストの主要な舞台だったポーランドへ旅するお話・・。
ホロコーストといえば「アウシュビッツ」「ダッハウ」が頭に浮かぶが・・その他にも、破壊から免れ、生々しく残った施設もあるのですね・・・。
キーラン・カルキン(マコーレ・カルキンの弟)演じるベンジーの情緒の不安定さに、ハラハラしながら、保護者のようにフォローする優しく真面目なデビット・・・。
ベンジーの抱える痛みが、ユダヤ人由来のものなのか・・人種には関係ないものなのか・・はわからない・・。
旅によって癒されたのかも・・わからない・・。
彼、ベンジーの「リアル ペイン」はデビットにもわからなかったのかも・・・。
※キーラン・カルキンは、この映画で オスカー助演男優賞を受賞。
わかった気に、ならない
旅をしている気分に
ホロコーストの孫たち巡礼の旅
ユダヤ人としての自分、個としての自分、その二つのアイデンティのはざまで揺れ動く主人公。従兄弟のベンジーはもう一人の自分、ベンジーのように自由でいたいと思う反面、ユダヤ人として恥ずかしくない人生を送らねばならないと思う自分もいる。自由な人生、しかし堕落した人生、ユダヤ人として恥ずかしくない人生。どう生きるべきか主人公のその抱える心の葛藤そして心の変遷が描かれる。これは主人公がたどる心の旅。
作品冒頭、空港で待ち合わせをするベンジーに頻繫に留守電を入れまくるデヴィッドの姿は明らかに常軌を逸してる。彼は強迫性障害を患っている、でもなんとか病気と折り合いをつけながらちゃんと職を持ち家庭も築いている。
従兄弟同士のベンジーと祖母が亡くなったのを機に彼らのルーツの地であるポーランドへの慰霊の旅へ。しかしそこはホロコーストが行われた地でもあった。
ベンジーもデヴィッド同様やたら落ち着きがなく、空港で再開した二人は終始のべつまくなしにしゃべり続けていて見ている方が落ち着かなくなるほど。この冒頭で彼らがどういう人間かがよくわかる。まるで正反対の性格のようで似た者同士でもある二人。
物語は祖母の慰霊の旅であるとともに先祖たちユダヤ民族がたどった受難の地の巡礼の旅でもあった。それはホロコーストの旅、と言ってもそんな仰々しいものではなくいわゆる歴史見学ツアーだ。その参加者たちはツアーガイドを除けばみながユダヤ人、ルワンダ難民の青年も虐殺を乗り越えて改宗したユダヤ人だった。
旅は最初でこそあくまでもゆかりの地を巡る気楽なツアーでみながモニュメントの前で各々ポーズをとって楽しんだり、地元の料理を楽しんだりと和気あいあいと進行する。参加者同士で次第に会話も弾み互いの関係を深めていく。
だがツアーが進みホロコーストの深奥に迫るにつれて空気は重たくなる。情緒不安定なベンジーへの影響は特に顕著だ。列車の特等席にいることに違和感を抱くベンジー。この列者が今向かうのは収容所への道だと考えると居ても立っても居られない、皆なぜ平然としていられるんだと。過去の我々の先祖が同じ道を貨物車にぎゅうぎゅう詰めにされた光景が彼には浮かんだという。彼の破天荒な行動に巻き込まれるデヴィッド。旅は何が起きるかわからない、そんな旅の醍醐味を味わいつつもベンジーの行動に振り回されてる自分がいた。
今回の旅はお互いのことに向き合う旅でもあった。睡眠薬を多量摂取したベンジーになぜだと問いかけるデヴィッド。幼いころから兄弟のように育った彼の現在の変わりように落胆を隠せない。定職にもつかず家族も持たない、これからの人生の展望もない。自分は強迫性障害を患いながらも人並みの生活を築いているというのに。
ベンジーが好き放題でやたらとツアーの雰囲気を台無しにする、そんな同じツアー客たちにデヴィッドは謝罪も込めてベンジーのことを語り始める。
とても自分本位で周りを乱す奴だが、同時に周りの雰囲気を和ませてくれる愛すべき存在でもあり彼のようになりたいと思う反面、時にはこの世から消し去りたい存在でもあるという。
憧れの存在でもあり時には殺したいと思う存在、自分にとってかけがえのない存在、それは彼の中に住むもう一人の自分なのではないか。このアンビバレントなベンジーの存在はデヴィッドの内面をそのまま反映しているのかもしれない。そしてそれはそのままユダヤ人としての彼のルーツと関係しているのかもしれない。ユダヤ人という悲しい歴史を持つ民族、その十字架を背負って生きていかねばならない宿命、その宿命を受け入れつつ逆にその宿命から解放されたい二つの相反する気持ちを具現化した存在がベンジーであり、彼との旅は自分自身を見つめなおす旅でもある。
自分の思うことを遠慮なく言いたい、自分の思うがまま自由に生きたい、でもユダヤ人として生まれてきた自分。自分は受難を乗り越えてかろうじて生き延びてきた先人たちの子孫としてふさわしい生き方をできているのだろうか、いつも自問自答する、常にその考えが頭から離れない。ユダヤ人として生まれてこなければこんな考えに支配されずに済んだはず。ありのままの自分でいたい、ユダヤ人とは関係なく生きていきたい。ユダヤ教にもあまり興味がない、ルワンダ難民の彼の熱い言葉も一歩引いて聞いていた。時にはユダヤ人としての自分を消し去りたいとも思う。
思えばベンジーが旅の中でとった行動はすべてデヴィッドの願望を代弁していたのかもしれない。モニュメントの前ではしゃぎたいと思いながら自分は平静を装う、ほんとは自分もポーズをとりたかった。でも先祖の過去の受難を思えばどこかで不謹慎だとの考えもあった。歴史ツアーだが現地ポーランドの人々との交流もないことに注文を無遠慮にぶつけたかった、特等席で自分も感じた違和感、そして収容所見学の後の精神的な落ち込み。これはすべてデヴィッド自身の感情をその分身のベンジーを通して描いてるのではないか。ベンジーの自殺未遂の話もデヴィッドの中にある自殺願望を表してるのかもしれない。
なぜにここまでデヴィッドがユダヤ人としての重荷を背負わされるのか。ホロコーストから辛うじて生き延びた人々が元の故郷に戻ってみれば自分たちの家にはすでに知らない誰かが住んでいる、知り合いに預けていた財産もすべて売りさばかれていた。身分証も何もかも奪われ職や住居を探すのも一筋縄ではいかない。生活を何とか取り戻してもつねにまた誰かが押し入ってきてすべてを奪われ自分たちはどこかへ収容されてしまうという不安にさいなまれ続ける。そんなホロコースト一世たちの記憶は子孫にも受け継がれる。自分たちは常に今いる社会から排斥される存在、だから誰よりも力を身につけねば、誰よりもお金を儲けて豊かにならなければ、そうした考えが自然とユダヤ人の間に芽吹く。
デヴィッドも普段は普通に生活するうえでは自分がユダヤ人であることを特段意識せず暮らしている、しかし時折そのような不安が頭をよぎるはず。だからこそ自分たちは常にそれに備えなければならない、生き延びた人達の子孫として常に恥ずかしくない人生を送らねばならない、そんな強迫観念のようなものが心の奥底に潜んでいるのかもしれない。だからこそベンジーのような体たらくに憎悪を感じもし、逆にそんな自分のように縛られないような彼の人生をうらやましくも思う。
監督のアイゼンバーグ自身が強迫性障害を患う。本作は彼が妻と行った歴史ツアーの体験から着想を得て脚本を書いたいわば自伝的物語。
ベンジーは架空の人物であり、アイゼンバーグが自分の内面と向き合うために自分を映す鏡として創り出したのではないだろうか。
これは彼の巡礼の旅であると同時に自分自身を見つめなおす旅でもある。ユダヤ民族の家系に生まれたために生まれながらにして持たされた宿命、歴史的なジェノサイドを経験した不幸な民族、彼の親世代すなわちホロコーストの子供たちはその親たち大半が絶滅収容所で亡くなるか、かろうじて生き延びた人々。
生き延びた人々も生還を果たしたもののそのトラウマから逃れられず苦悩の日々を送った。その苦悩する親の姿を間近に見て育った子供達にもその親の影響が少なからずあり、中には神経症を患う人も多いという。
彼らのつらく生々しい記憶を歴史として冷静に見つめるにはまだまだいくつもの世代を重ねる必要があり、そしてそれがようやく歴史になりつつある世代がアイゼンバーグたちの世代。しかし歴史になればなったでその歴史を背負わなければならないという宿命。
彼の強迫性障害が彼個人のものなのかユダヤ人として生まれ先祖の苦しみから受け継がれたものからくるものなのかはわからないが、しかし彼個人の悩みとは別にユダヤ民族としての歴史の重圧も彼の体には重くのしかかる。それだけホロコーストが与えた影響は根深いものがあった。原爆による放射線被害が孫子の代まで引き継がれるようにそのトラウマは数世代を経ても残留し続ける。彼らのその痛みの記憶が歴史となるにはまだまだ時間が必要かもしれない。
今年がちょうどアウシュヴィッツ解放から80年の年で六つの収容所が建てられたポーランドでは式典が行われた。ポーランドの大統領はスピーチで自分たちは記憶の守護者だと述べた。忌まわしい記憶が込められた収容所を人類が犯した過ちの象徴として守っていくのだと。当事者のユダヤ人たちにとっては痛みの記憶を和らげるためにもその記憶が歴史になることが望ましいが、我々は歴史ではなく記憶としてとどめるべきだという。犠牲者である人々の痛みを完全に理解することはできない、しかしそばで寄り添うことはできる、悲しみの記憶を後世に受け継いでいくことで。
本作はユダヤ人としてのアイデンティと個としてのアイデンティとの間で揺れ動くアイゼンバーグ自身の心の変遷をたどる物語。
ベンジーのお前のきれいな足先が好きだという言葉、自分の足先をじっと見つめるデヴィッド、これは僕の足先、それは唯一無二のもの。ユダヤ人でもなく誰のものでもない。
この旅を通して自分のこれからの人生をどう切り開いていくのか何かを確かに自分のものとしたデヴィッド。
アイゼンバーグがポーランドの市民権を取ったという記事を読んだ。ポーランドは絶滅収容所が建設されそこで少なからずホロコーストへの加担もなされた、また戦後の3月事件によるユダヤ人排斥運動などユダヤ人との確執がある。彼はそんな確執を埋めたいという。自分の親族はみなポーランドにゆかりがあるし、この地に愛着があるからだという。
過去のわだかまりを捨ててポーランド市民となったアイゼンバーグにはもはや迷いはなくなったのだろう。本作のデヴィッドのように。
彼はきっとデヴィッドたちがこの旅を通して自分を見つめなおすことでこの先の人生の道を切り開いたように心の旅を経て今に至りこの映画を撮影したんだろう。
題名のリアルペインが表すように主人公達の実にリアルな心情が伝わってくる人間ドラマだった。
映画はベンジーとの空港での待ち合わせに始まり空港での別れで終わる。あくまでもベンジーは旅の同伴者であり、彼のプライベートは一切描かれない。まるで今回の旅のためだけに存在した旅のお守りのような。それは監督の創作による人物だから旅の始まりで生まれ旅の終わりで姿を消すのは当然かもしれない。ベンジーは旅でデヴィッドを振り回したかのようで実は彼の中に住むもう一人の旅の道連れ、モーセがエジプトから逃れるときに海を切り開いてくれたアロンの杖のようにデヴィッドの旅を常に支えてくれた存在、そして彼のこの先の人生を切り開いてくれた存在でもあった。
彼は今も一人で膝を抱えている
おばあちゃんの遺言通りにポーランドのホロコースト現場を訪れる二人のアメリカ人男性のロード・ムービーを縦糸に、それぞれが抱える人生の息苦しさを横糸に描いた小さな物語です。何と言っても心惹かれるのはベンジー役のキーラ・カルキンでした。言ってる事は心の虚を衝く様な真実なのですが、その空気の読めなさに周囲から眉をしかめられ、それでも何故か人々に一目置かれます。しかし、彼自身はとんでもない孤独の中に佇んでいるのでした。複雑な心の表裏が入れ替わるベンジーの思いが切なく迫ります。そして、「旅を経て小さな一歩を進める事が出来ました」と言った安易な成長ロードムービーに終わらせなかったのも心に染みました。彼は結局一人ぼっちで膝を抱えているのではないのだろうか。
他者の営みの先に生きている
ハートフルいとこ旅的な気持ちで見に来たけれど、想像以上に重くてずっしりした。
繊細で表情豊かで人に好かれるも定職に就かずフラフラとマリファナを吸う陽キャと、美人嫁と可愛い息子がいるも他者の目が気になって仕方なくて社会に馴染むのに必死や陰キャ。
わたしは後者にめちゃくちゃな親近感を覚えて、共感性羞恥を味わった。
記念写真ではしゃぐの、無理だもんな。
なんというか、当たり前なんだけれども、私が今住んでいる家に住んで私という歴史を紡いでいるのと同じように、歴史の上に生きた人々もその人の歴史を毎日毎時間毎秒紡いでいたんだよな、と改めて思った。
そりゃそうだろと言われたらそりゃ、そうなんだけどさ。
例えばこう、徳川家康が豊臣家を滅ぼしました!と聞いても、ふーん、としかならないけれど、そこには徳川家康という人間と、豊臣秀吉、茶々、秀次、秀頼、……みたいな人間が当たり前だけど存在していて、それを刺して、頭を切り落とした人がいるわけで、もっといえば、兵糧攻めで苦しんだ人だっているわけで…みたいな気持ちになった…………
歴史って授業で習うものだし、年号なんて覚えてもどうせ何か新事実が発覚する度に変わってゆくのだから、と思っているけれど、そこには当たり前だけど、当たり前に人の営みがあって、その先で私は生きているのよな、と思った。
ただ、これをずっと考えながら生きるのはあまりにも重いから、難しいけれど。
それから、万人に好かれていてコミュ強だったとしても、幸せな家庭に身を置いていたとしても、どんな人だって、どんな過去があってどんな事を後ろに抱えて、生きてるなんて、言わなきゃ伝わらないし、聞かねばわからん。その抱えているものが、どのくらい大きいかなんてのも人によって感じる重さは違う。
とかなんかそういうことをいっぱい考えた。
いや、ずっと、考えてるとこ。
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