リアル・ペイン 心の旅のレビュー・感想・評価
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ユダヤ人関連の映画をまとめて
時期を同じく4作品のユダヤ人関連の映画が重なって上映されています。
この映画も、他の映画も発端は、ヒットラーのナチスドイツのユダヤ人迫害から派生した映画でしょう。
多くのユダヤ人がアメリカナチス渡ったことから発生したこの映画とブルータリスト。
イスラエル建国に絡むいざこざから起こった問題に向き合ったのが、ノーアザーカントリーとセプテンバー5。
ユダヤ人は、被害者か?加害者か?と考えてしまう映画でした。
ホロコーストの痛み
石を置こう。僕らが訪ねた印に。
現実社会では、人と人は本音と建前で交流し生きている。それが「大人」としての作法。正直に生きることは、窮屈で痛みを伴うものだ。正直に生きてきたベンジーが、これまでの人生でどれほど苦しんで生きてきたのか、彼の行動の端々ににじみ出ていて、胸が苦しくなった。救いは、ポーランドだけにショパンのメロディーが全編に流れ、そんな苦痛を癒してくれた。
アウシュビッツを訪れた人は、皆一様にあの重い空気を纏うのだろう。だけど、それは過去の歴史としてだ。ベンジーは、その縁者として、実際に迫害を受けた彼らに寄り添う。だから、一等車に乗ることに我慢ができない。正直自分も、ツアー同行者たちと同じような気分だった。これは昔の話じゃないか、今と比べてどうする?と。だけど、ベンジーはピュアなのだな。そのピュアな心を知った人は彼の行動や言葉の理解者となる。それでいて、それは全員ではないところ(別れ際ひとりだけ抱擁も握手もしない)に、「いい話」としてこじつけようとしないこの映画の誠実さが見えた。そして、そんな窮屈な世界を生きているベンジーを案じるデビッドの痛みさえも共感できた。
映画のはじめと終わりは空港のロビー。観始めた時の、ただの雑踏の風景でしかなかったその場所が、ラストには、そこにいるひとりひとりに人生の物語があるのだという視点でいる自分に気づいた。そしてベンジーは、同じように周りを観察している。彼は、なにも変わってはいない。変わったのは、こちらの見え方(言い換えれば偏見)だった。
本当の痛みは、当事者にしかわからない・・ということかしらん? そう...
本当の痛みは、当事者にしかわからない・・ということかしらん?
そういう意図があるのであれば・・ユダヤ人の受けた痛みは・・想像はできるけど・日本人の私にはわからないのかもしれない・・。
ユダヤ人の従兄弟同士、デビット(ダビデ)とベンジー(ベンジャミン)が・・ナチ支配下の時代には、ホロコーストの主要な舞台だったポーランドへ旅するお話・・。
ホロコーストといえば「アウシュビッツ」「ダッハウ」が頭に浮かぶが・・その他にも、破壊から免れ、生々しく残った施設もあるのですね・・・。
キーラン・カルキン(マコーレ・カルキンの弟)演じるベンジーの情緒の不安定さに、ハラハラしながら、保護者のようにフォローする優しく真面目なデビット・・・。
ベンジーの抱える痛みが、ユダヤ人由来のものなのか・・人種には関係ないものなのか・・はわからない・・。
旅によって癒されたのかも・・わからない・・。
彼、ベンジーの「リアル ペイン」はデビットにもわからなかったのかも・・・。
※キーラン・カルキンは、この映画で オスカー助演男優賞を受賞。
わかった気に、ならない
旅をしている気分に
ホロコーストの孫たち巡礼の旅
ユダヤ人としての自分、個としての自分、その二つのアイデンティのはざまで揺れ動く主人公。従兄弟のベンジーはもう一人の自分、ベンジーのように自由でいたいと思う反面、ユダヤ人として恥ずかしくない人生を送らねばならないと思う自分もいる。自由な人生、しかし堕落した人生、ユダヤ人として恥ずかしくない人生。どう生きるべきか主人公のその抱える心の葛藤そして心の変遷が描かれる。これは主人公がたどる心の旅。
作品冒頭、空港で待ち合わせをするベンジーに頻繫に留守電を入れまくるデヴィッドの姿は明らかに常軌を逸してる。彼は強迫性障害を患っている、でもなんとか病気と折り合いをつけながらちゃんと職を持ち家庭も築いている。
従兄弟同士のベンジーと祖母が亡くなったのを機に彼らのルーツの地であるポーランドへの慰霊の旅へ。しかしそこはホロコーストが行われた地でもあった。
ベンジーもデヴィッド同様やたら落ち着きがなく、空港で再開した二人は終始のべつまくなしにしゃべり続けていて見ている方が落ち着かなくなるほど。この冒頭で彼らがどういう人間かがよくわかる。まるで正反対の性格のようで似た者同士でもある二人。
物語は祖母の慰霊の旅であるとともに先祖たちユダヤ民族がたどった受難の地の巡礼の旅でもあった。それはホロコーストの旅、と言ってもそんな仰々しいものではなくいわゆる歴史見学ツアーだ。その参加者たちはツアーガイドを除けばみながユダヤ人、ルワンダ難民の青年も虐殺を乗り越えて改宗したユダヤ人だった。
旅は最初でこそあくまでもゆかりの地を巡る気楽なツアーでみながモニュメントの前で各々ポーズをとって楽しんだり、地元の料理を楽しんだりと和気あいあいと進行する。参加者同士で次第に会話も弾み互いの関係を深めていく。
だがツアーが進みホロコーストの深奥に迫るにつれて空気は重たくなる。情緒不安定なベンジーへの影響は特に顕著だ。列車の特等席にいることに違和感を抱くベンジー。この列者が今向かうのは収容所への道だと考えると居ても立っても居られない、皆なぜ平然としていられるんだと。過去の我々の先祖が同じ道を貨物車にぎゅうぎゅう詰めにされた光景が彼には浮かんだという。彼の破天荒な行動に巻き込まれるデヴィッド。旅は何が起きるかわからない、そんな旅の醍醐味を味わいつつもベンジーの行動に振り回されてる自分がいた。
今回の旅はお互いのことに向き合う旅でもあった。睡眠薬を多量摂取したベンジーになぜだと問いかけるデヴィッド。幼いころから兄弟のように育った彼の現在の変わりように落胆を隠せない。定職にもつかず家族も持たない、これからの人生の展望もない。自分は強迫性障害を患いながらも人並みの生活を築いているというのに。
ベンジーが好き放題でやたらとツアーの雰囲気を台無しにする、そんな同じツアー客たちにデヴィッドは謝罪も込めてベンジーのことを語り始める。
とても自分本位で周りを乱す奴だが、同時に周りの雰囲気を和ませてくれる愛すべき存在でもあり彼のようになりたいと思う反面、時にはこの世から消し去りたい存在でもあるという。
憧れの存在でもあり時には殺したいと思う存在、自分にとってかけがえのない存在、それは彼の中に住むもう一人の自分なのではないか。このアンビバレントなベンジーの存在はデヴィッドの内面をそのまま反映しているのかもしれない。そしてそれはそのままユダヤ人としての彼のルーツと関係しているのかもしれない。ユダヤ人という悲しい歴史を持つ民族、その十字架を背負って生きていかねばならない宿命、その宿命を受け入れつつ逆にその宿命から解放されたい二つの相反する気持ちを具現化した存在がベンジーであり、彼との旅は自分自身を見つめなおす旅でもある。
自分の思うことを遠慮なく言いたい、自分の思うがまま自由に生きたい、でもユダヤ人として生まれてきた自分。自分は受難を乗り越えてかろうじて生き延びてきた先人たちの子孫としてふさわしい生き方をできているのだろうか、いつも自問自答する、常にその考えが頭から離れない。ユダヤ人として生まれてこなければこんな考えに支配されずに済んだはず。ありのままの自分でいたい、ユダヤ人とは関係なく生きていきたい。ユダヤ教にもあまり興味がない、ルワンダ難民の彼の熱い言葉も一歩引いて聞いていた。時にはユダヤ人としての自分を消し去りたいとも思う。
思えばベンジーが旅の中でとった行動はすべてデヴィッドの願望を代弁していたのかもしれない。モニュメントの前ではしゃぎたいと思いながら自分は平静を装う、ほんとは自分もポーズをとりたかった。でも先祖の過去の受難を思えばどこかで不謹慎だとの考えもあった。歴史ツアーだが現地ポーランドの人々との交流もないことに注文を無遠慮にぶつけたかった、特等席で自分も感じた違和感、そして収容所見学の後の精神的な落ち込み。これはすべてデヴィッド自身の感情をその分身のベンジーを通して描いてるのではないか。ベンジーの自殺未遂の話もデヴィッドの中にある自殺願望を表してるのかもしれない。
なぜにここまでデヴィッドがユダヤ人としての重荷を背負わされるのか。ホロコーストから辛うじて生き延びた人々が元の故郷に戻ってみれば自分たちの家にはすでに知らない誰かが住んでいる、知り合いに預けていた財産もすべて売りさばかれていた。身分証も何もかも奪われ職や住居を探すのも一筋縄ではいかない。生活を何とか取り戻してもつねにまた誰かが押し入ってきてすべてを奪われ自分たちはどこかへ収容されてしまうという不安にさいなまれ続ける。そんなホロコースト一世たちの記憶は子孫にも受け継がれる。自分たちは常に今いる社会から排斥される存在、だから誰よりも力を身につけねば、誰よりもお金を儲けて豊かにならなければ、そうした考えが自然とユダヤ人の間に芽吹く。
デヴィッドも普段は普通に生活するうえでは自分がユダヤ人であることを特段意識せず暮らしている、しかし時折そのような不安が頭をよぎるはず。だからこそ自分たちは常にそれに備えなければならない、生き延びた人達の子孫として常に恥ずかしくない人生を送らねばならない、そんな強迫観念のようなものが心の奥底に潜んでいるのかもしれない。だからこそベンジーのような体たらくに憎悪を感じもし、逆にそんな自分のように縛られないような彼の人生をうらやましくも思う。
監督のアイゼンバーグ自身が強迫性障害を患う。本作は彼が妻と行った歴史ツアーの体験から着想を得て脚本を書いたいわば自伝的物語。
ベンジーは架空の人物であり、アイゼンバーグが自分の内面と向き合うために自分を映す鏡として創り出したのではないだろうか。
これは彼の巡礼の旅であると同時に自分自身を見つめなおす旅でもある。ユダヤ民族の家系に生まれたために生まれながらにして持たされた宿命、歴史的なジェノサイドを経験した不幸な民族、彼の親世代すなわちホロコーストの子供たちはその親たち大半が絶滅収容所で亡くなるか、かろうじて生き延びた人々。
生き延びた人々も生還を果たしたもののそのトラウマから逃れられず苦悩の日々を送った。その苦悩する親の姿を間近に見て育った子供達にもその親の影響が少なからずあり、中には神経症を患う人も多いという。
彼らのつらく生々しい記憶を歴史として冷静に見つめるにはまだまだいくつもの世代を重ねる必要があり、そしてそれがようやく歴史になりつつある世代がアイゼンバーグたちの世代。しかし歴史になればなったでその歴史を背負わなければならないという宿命。
彼の強迫性障害が彼個人のものなのかユダヤ人として生まれ先祖の苦しみから受け継がれたものからくるものなのかはわからないが、しかし彼個人の悩みとは別にユダヤ民族としての歴史の重圧も彼の体には重くのしかかる。それだけホロコーストが与えた影響は根深いものがあった。原爆による放射線被害が孫子の代まで引き継がれるようにそのトラウマは数世代を経ても残留し続ける。彼らのその痛みの記憶が歴史となるにはまだまだ時間が必要かもしれない。
今年がちょうどアウシュヴィッツ解放から80年の年で六つの収容所が建てられたポーランドでは式典が行われた。ポーランドの大統領はスピーチで自分たちは記憶の守護者だと述べた。忌まわしい記憶が込められた収容所を人類が犯した過ちの象徴として守っていくのだと。当事者のユダヤ人たちにとっては痛みの記憶を和らげるためにもその記憶が歴史になることが望ましいが、我々は歴史ではなく記憶としてとどめるべきだという。犠牲者である人々の痛みを完全に理解することはできない、しかしそばで寄り添うことはできる、悲しみの記憶を後世に受け継いでいくことで。
本作はユダヤ人としてのアイデンティと個としてのアイデンティとの間で揺れ動くアイゼンバーグ自身の心の変遷をたどる物語。
ベンジーのお前のきれいな足先が好きだという言葉、自分の足先をじっと見つめるデヴィッド、これは僕の足先、それは唯一無二のもの。ユダヤ人でもなく誰のものでもない。
この旅を通して自分のこれからの人生をどう切り開いていくのか何かを確かに自分のものとしたデヴィッド。
アイゼンバーグがポーランドの市民権を取ったという記事を読んだ。ポーランドは絶滅収容所が建設されそこで少なからずホロコーストへの加担もなされた、また戦後の3月事件によるユダヤ人排斥運動などユダヤ人との確執がある。彼はそんな確執を埋めたいという。自分の親族はみなポーランドにゆかりがあるし、この地に愛着があるからだという。
過去のわだかまりを捨ててポーランド市民となったアイゼンバーグにはもはや迷いはなくなったのだろう。本作のデヴィッドのように。
彼はきっとデヴィッドたちがこの旅を通して自分を見つめなおすことでこの先の人生の道を切り開いたように心の旅を経て今に至りこの映画を撮影したんだろう。
題名のリアルペインが表すように主人公達の実にリアルな心情が伝わってくる人間ドラマだった。
映画はベンジーとの空港での待ち合わせに始まり空港での別れで終わる。あくまでもベンジーは旅の同伴者であり、彼のプライベートは一切描かれない。まるで今回の旅のためだけに存在した旅のお守りのような。それは監督の創作による人物だから旅の始まりで生まれ旅の終わりで姿を消すのは当然かもしれない。ベンジーは旅でデヴィッドを振り回したかのようで実は彼の中に住むもう一人の旅の道連れ、モーセがエジプトから逃れるときに海を切り開いてくれたアロンの杖のようにデヴィッドの旅を常に支えてくれた存在、そして彼のこの先の人生を切り開いてくれた存在でもあった。
彼は今も一人で膝を抱えている
おばあちゃんの遺言通りにポーランドのホロコースト現場を訪れる二人のアメリカ人男性のロード・ムービーを縦糸に、それぞれが抱える人生の息苦しさを横糸に描いた小さな物語です。何と言っても心惹かれるのはベンジー役のキーラ・カルキンでした。言ってる事は心の虚を衝く様な真実なのですが、その空気の読めなさに周囲から眉をしかめられ、それでも何故か人々に一目置かれます。しかし、彼自身はとんでもない孤独の中に佇んでいるのでした。複雑な心の表裏が入れ替わるベンジーの思いが切なく迫ります。そして、「旅を経て小さな一歩を進める事が出来ました」と言った安易な成長ロードムービーに終わらせなかったのも心に染みました。彼は結局一人ぼっちで膝を抱えているのではないのだろうか。
他者の営みの先に生きている
ハートフルいとこ旅的な気持ちで見に来たけれど、想像以上に重くてずっしりした。
繊細で表情豊かで人に好かれるも定職に就かずフラフラとマリファナを吸う陽キャと、美人嫁と可愛い息子がいるも他者の目が気になって仕方なくて社会に馴染むのに必死や陰キャ。
わたしは後者にめちゃくちゃな親近感を覚えて、共感性羞恥を味わった。
記念写真ではしゃぐの、無理だもんな。
なんというか、当たり前なんだけれども、私が今住んでいる家に住んで私という歴史を紡いでいるのと同じように、歴史の上に生きた人々もその人の歴史を毎日毎時間毎秒紡いでいたんだよな、と改めて思った。
そりゃそうだろと言われたらそりゃ、そうなんだけどさ。
例えばこう、徳川家康が豊臣家を滅ぼしました!と聞いても、ふーん、としかならないけれど、そこには徳川家康という人間と、豊臣秀吉、茶々、秀次、秀頼、……みたいな人間が当たり前だけど存在していて、それを刺して、頭を切り落とした人がいるわけで、もっといえば、兵糧攻めで苦しんだ人だっているわけで…みたいな気持ちになった…………
歴史って授業で習うものだし、年号なんて覚えてもどうせ何か新事実が発覚する度に変わってゆくのだから、と思っているけれど、そこには当たり前だけど、当たり前に人の営みがあって、その先で私は生きているのよな、と思った。
ただ、これをずっと考えながら生きるのはあまりにも重いから、難しいけれど。
それから、万人に好かれていてコミュ強だったとしても、幸せな家庭に身を置いていたとしても、どんな人だって、どんな過去があってどんな事を後ろに抱えて、生きてるなんて、言わなきゃ伝わらないし、聞かねばわからん。その抱えているものが、どのくらい大きいかなんてのも人によって感じる重さは違う。
とかなんかそういうことをいっぱい考えた。
いや、ずっと、考えてるとこ。
それぞれ痛みを抱えて生きている
気にするな
立ち上がって歩き出す
ちょっと苦手かも。
場の空気みたいなものを壊さないように生きているので、ベンジーのような人は苦手なんだけど、じゃあデイヴに共感して観られるかというと、彼でさえちょっと無理って感じがする。
というか、純日本人である自分にとって、アメリカ人の突然怒鳴り散らしたかと思うと、急に冷静になってさっきのことを謝るみたいな状況が理解できないんで、この二人の濃いやり取りを観ているのが苦痛。
兄弟のように育ったとしても、いとこ同士であんなに寄り添うってことも感覚としてわからない。
ホロコースト映画は山ほどあるけど、「ポーランド」も景色ってのは珍しいから、その素晴らしい風景にプラス1。
会話が面白くて、何度か噴き出したのでプラス1。
全体としていい映画なんだろうとは思うけど。
誰でも、困った自分を抱えて生きてる
主人公2人の其々のキャラクターに少しづつ自分にもあんな面ある、デイヴィット8.5対1.5ベンジー。人生に馴染めてるようで馴染めない、困った自分がチョイチョイ顔を出す。2人のロードムービーの設定だけど、アイゼンバーグは人間の【心の穴】を表現したかったの?だとしたら表現うまいな、才能あるんだ、今後の作品に期待します。ベンジーが収容所の帰りのバスで泣いた場面、帰りの空港で2人キツく抱き合う場面、泣けてしまいました。
人付き合いあるある
タイトルなし(ネタバレ)
デヴィッド(ジェシー・アイゼンバーグ)とベンジー(キーラン・カルキン)はニューヨークに暮らすユダヤ人のいとこ同士。
ふたりは、先ごろ亡くなった祖母の遺言資金で、彼女の故郷・ポーランドの歴史ツアー旅行に参加することになった。
WEB広告制作で安定した家庭も持つデヴィッドに対して、他人を魅了するがエキセントリックで危うさを抱えたベンジー。
ツアーでの行動は、そんなふたりを物語っていた。
特に、ユダヤ人虐殺にからむ地への訪問では、ベンジーの行動は常軌を逸しているすれすれだった。
かれらはツアーを離れて祖母が暮らしていたポーランドの家を訪問する。
別の住人が住んでいるその部屋のドアの前に、訪れた印に石を置こうした・・・
といった物語。
ときおり常軌を逸するすれすれの行動をとるベンジーは少し前に自死をしようとしたことが中盤で明らかになる。
四十目前にして抱える生きづらさ。
センシティヴという言葉だけで片付けられないものがあるのかもしれないが、多くは描かれない。
映画全編を通じて、背景などそれほど多くは語られない。
が、多くは語られない中で、ちょっとしたこと(旅行で同じとか、飲み屋で隣り合わせとか)で知り合って事情を知ることは、日常の生活でも多い。
つまり、本作の観客は、そういう日常の隣人の立場でいることが求められている。
最終盤、自死を選ぼうとしたベンジーの左頬をデヴィッドは平手打ちで殴る。
ホロコーストの地の訪問や祖母の生家の訪問でベンジーは心に痛みを感じただろうが、お前が死のうとしたことで俺はもっと痛みを感じたのだというデヴィッドの主張。
頬の痛みのリアルな痛みは、俺の心の痛みだと伝えるデヴィッド。
ベンジー、お前を喪う方がどれだけ痛いか、わかってくれ。
そのリアルな痛みでベンジーは救われる。
演出的には、巻頭と巻末でタイトルが表示されるが、巻頭のそれはベンジーの右頬横(向かって左)に出るが、巻末では打たれた左頬横(向かって右)に出る。
簡潔な演出ですばらしい。
なお、のべつショパンのピアノ曲が劇伴以上に主張して鳴り響くのだが、ショパンがポーランド出身ということだけでなく、うるさいともいえる音楽はベンジーの心の不安定さを表しているのだろう。
ま、それにしてもうるさいことには変わりはないのだけれども。
ジェシー・アイゼンバーグ、かなり計算した演出力ですね。
大嫌いで大好きな、愛すべき相棒
設定が「今」のアウシュビッツテーマものという珍しさ、ダブル主演の二人のロードムービー的要素、ポーランドの美しい景色を映画に写し込んだロケハンと撮影、これらのすべてがうまく合わさった、質の高い作品だと思いました。
全編に流れるショパンのピアノ曲も映画の雰囲気を盛り上げる良い仕立て役になっていたと思います。
ジェシー・アイゼンバーグ演じるデイヴの苦しさや痛みとキーラン・カルキン演じるベンジーの苦しみや痛みは少し異なるものだけれど、そういうものはみんなの中に必ずある。
それらは、映画の中での、印象的な主役二人のそれぞれのカットで語られる。
奔放で人を惹きつけるかに見えて、空港で、寂しそうな何とも言えぬ表情でそこにいる人々を見つめるベンジーを切り取ったラスト、ベンジーの持つ、自分にないものに嫉妬や羨ましさを感じ、ディナーの席でそういう気持ちを全部吐き出してしまうデイヴ。二人とも「大嫌いで大好きな、愛すべき相棒」のことをずっと思ってる。
でも、それは心の底にあるだけで表にはなかなか出てこない。だから、別れは何だかとても寂しい。
先述したラストの(でも冒頭とも繋がっている)ベンジーの顔は本当に心に残ります。
今を生きている人々にも、歴史の中の人々にも、それぞれに「リアル・ペイン」がある。でも、ただ「痛み」であるだけではない。
そういうものとどう付き合うか、自分に問うことのできる、とても余韻の残る映画でした。
おそらく、アカデミー脚本賞に本作でノミネートされた、ジェシー・アイゼンバーグの才能によるところも大きいんだと、映画の余韻を感じながらあらためて噛みしめています。
隔世の感
「ソーシャルネットワーク」でザッカーバーグを演じてから15年。当時はベンジー側だったアイゼンバーグのまとも人間ぶりに戸惑いつつ、ポーランドの旅を楽しみました。上手いなぁと思うのが、誰しもデーブに共感しているであろうシチュエーションでベンジーが全てを持っていくという残酷なまでの反復。「変人を観察する」と言って空港に残った彼の表情が印象的でした。
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