「ホロコーストの孫たち巡礼の旅」リアル・ペイン 心の旅 レントさんの映画レビュー(感想・評価)
ホロコーストの孫たち巡礼の旅
ユダヤ人としての自分、個としての自分、その二つのアイデンティのはざまで揺れ動く主人公。従兄弟のベンジーはもう一人の自分、ベンジーのように自由でいたいと思う反面、ユダヤ人として恥ずかしくない人生を送らねばならないと思う自分もいる。自由な人生、しかし堕落した人生、ユダヤ人として恥ずかしくない人生。どう生きるべきか主人公のその抱える心の葛藤そして心の変遷が描かれる。これは主人公がたどる心の旅。
作品冒頭、空港で待ち合わせをするベンジーに頻繫に留守電を入れまくるデヴィッドの姿は明らかに常軌を逸してる。彼は強迫性障害を患っている、でもなんとか病気と折り合いをつけながらちゃんと職を持ち家庭も築いている。
従兄弟同士のベンジーと祖母が亡くなったのを機に彼らのルーツの地であるポーランドへの慰霊の旅へ。しかしそこはホロコーストが行われた地でもあった。
ベンジーもデヴィッド同様やたら落ち着きがなく、空港で再開した二人は終始のべつまくなしにしゃべり続けていて見ている方が落ち着かなくなるほど。この冒頭で彼らがどういう人間かがよくわかる。まるで正反対の性格のようで似た者同士でもある二人。
物語は祖母の慰霊の旅であるとともに先祖たちユダヤ民族がたどった受難の地の巡礼の旅でもあった。それはホロコーストの旅、と言ってもそんな仰々しいものではなくいわゆる歴史見学ツアーだ。その参加者たちはツアーガイドを除けばみながユダヤ人、ルワンダ難民の青年も虐殺を乗り越えて改宗したユダヤ人だった。
旅は最初でこそあくまでもゆかりの地を巡る気楽なツアーでみながモニュメントの前で各々ポーズをとって楽しんだり、地元の料理を楽しんだりと和気あいあいと進行する。参加者同士で次第に会話も弾み互いの関係を深めていく。
だがツアーが進みホロコーストの深奥に迫るにつれて空気は重たくなる。情緒不安定なベンジーへの影響は特に顕著だ。列車の特等席にいることに違和感を抱くベンジー。この列者が今向かうのは収容所への道だと考えると居ても立っても居られない、皆なぜ平然としていられるんだと。過去の我々の先祖が同じ道を貨物車にぎゅうぎゅう詰めにされた光景が彼には浮かんだという。彼の破天荒な行動に巻き込まれるデヴィッド。旅は何が起きるかわからない、そんな旅の醍醐味を味わいつつもベンジーの行動に振り回されてる自分がいた。
今回の旅はお互いのことに向き合う旅でもあった。睡眠薬を多量摂取したベンジーになぜだと問いかけるデヴィッド。幼いころから兄弟のように育った彼の現在の変わりように落胆を隠せない。定職にもつかず家族も持たない、これからの人生の展望もない。自分は強迫性障害を患いながらも人並みの生活を築いているというのに。
ベンジーが好き放題でやたらとツアーの雰囲気を台無しにする、そんな同じツアー客たちにデヴィッドは謝罪も込めてベンジーのことを語り始める。
とても自分本位で周りを乱す奴だが、同時に周りの雰囲気を和ませてくれる愛すべき存在でもあり彼のようになりたいと思う反面、時にはこの世から消し去りたい存在でもあるという。
憧れの存在でもあり時には殺したいと思う存在、自分にとってかけがえのない存在、それは彼の中に住むもう一人の自分なのではないか。このアンビバレントなベンジーの存在はデヴィッドの内面をそのまま反映しているのかもしれない。そしてそれはそのままユダヤ人としての彼のルーツと関係しているのかもしれない。ユダヤ人という悲しい歴史を持つ民族、その十字架を背負って生きていかねばならない宿命、その宿命を受け入れつつ逆にその宿命から解放されたい二つの相反する気持ちを具現化した存在がベンジーであり、彼との旅は自分自身を見つめなおす旅でもある。
自分の思うことを遠慮なく言いたい、自分の思うがまま自由に生きたい、でもユダヤ人として生まれてきた自分。自分は受難を乗り越えてかろうじて生き延びてきた先人たちの子孫としてふさわしい生き方をできているのだろうか、いつも自問自答する、常にその考えが頭から離れない。ユダヤ人として生まれてこなければこんな考えに支配されずに済んだはず。ありのままの自分でいたい、ユダヤ人とは関係なく生きていきたい。ユダヤ教にもあまり興味がない、ルワンダ難民の彼の熱い言葉も一歩引いて聞いていた。時にはユダヤ人としての自分を消し去りたいとも思う。
思えばベンジーが旅の中でとった行動はすべてデヴィッドの願望を代弁していたのかもしれない。モニュメントの前ではしゃぎたいと思いながら自分は平静を装う、ほんとは自分もポーズをとりたかった。でも先祖の過去の受難を思えばどこかで不謹慎だとの考えもあった。歴史ツアーだが現地ポーランドの人々との交流もないことに注文を無遠慮にぶつけたかった、特等席で自分も感じた違和感、そして収容所見学の後の精神的な落ち込み。これはすべてデヴィッド自身の感情をその分身のベンジーを通して描いてるのではないか。ベンジーの自殺未遂の話もデヴィッドの中にある自殺願望を表してるのかもしれない。
なぜにここまでデヴィッドがユダヤ人としての重荷を背負わされるのか。ホロコーストから辛うじて生き延びた人々が元の故郷に戻ってみれば自分たちの家にはすでに知らない誰かが住んでいる、知り合いに預けていた財産もすべて売りさばかれていた。身分証も何もかも奪われ職や住居を探すのも一筋縄ではいかない。生活を何とか取り戻してもつねにまた誰かが押し入ってきてすべてを奪われ自分たちはどこかへ収容されてしまうという不安にさいなまれ続ける。そんなホロコースト一世たちの記憶は子孫にも受け継がれる。自分たちは常に今いる社会から排斥される存在、だから誰よりも力を身につけねば、誰よりもお金を儲けて豊かにならなければ、そうした考えが自然とユダヤ人の間に芽吹く。
デヴィッドも普段は普通に生活するうえでは自分がユダヤ人であることを特段意識せず暮らしている、しかし時折そのような不安が頭をよぎるはず。だからこそ自分たちは常にそれに備えなければならない、生き延びた人達の子孫として常に恥ずかしくない人生を送らねばならない、そんな強迫観念のようなものが心の奥底に潜んでいるのかもしれない。だからこそベンジーのような体たらくに憎悪を感じもし、逆にそんな自分のように縛られないような彼の人生をうらやましくも思う。
監督のアイゼンバーグ自身が強迫性障害を患う。本作は彼が妻と行った歴史ツアーの体験から着想を得て脚本を書いたいわば自伝的物語。
ベンジーは架空の人物であり、アイゼンバーグが自分の内面と向き合うために自分を映す鏡として創り出したのではないだろうか。
これは彼の巡礼の旅であると同時に自分自身を見つめなおす旅でもある。ユダヤ民族の家系に生まれたために生まれながらにして持たされた宿命、歴史的なジェノサイドを経験した不幸な民族、彼の親世代すなわちホロコーストの子供たちはその親たち大半が絶滅収容所で亡くなるか、かろうじて生き延びた人々。
生き延びた人々も生還を果たしたもののそのトラウマから逃れられず苦悩の日々を送った。その苦悩する親の姿を間近に見て育った子供達にもその親の影響が少なからずあり、中には神経症を患う人も多いという。
彼らのつらく生々しい記憶を歴史として冷静に見つめるにはまだまだいくつもの世代を重ねる必要があり、そしてそれがようやく歴史になりつつある世代がアイゼンバーグたちの世代。しかし歴史になればなったでその歴史を背負わなければならないという宿命。
彼の強迫性障害が彼個人のものなのかユダヤ人として生まれ先祖の苦しみから受け継がれたものからくるものなのかはわからないが、しかし彼個人の悩みとは別にユダヤ民族としての歴史の重圧も彼の体には重くのしかかる。それだけホロコーストが与えた影響は根深いものがあった。原爆による放射線被害が孫子の代まで引き継がれるようにそのトラウマは数世代を経ても残留し続ける。彼らのその痛みの記憶が歴史となるにはまだまだ時間が必要かもしれない。
今年がちょうどアウシュヴィッツ解放から80年の年で六つの収容所が建てられたポーランドでは式典が行われた。ポーランドの大統領はスピーチで自分たちは記憶の守護者だと述べた。忌まわしい記憶が込められた収容所を人類が犯した過ちの象徴として守っていくのだと。当事者のユダヤ人たちにとっては痛みの記憶を和らげるためにもその記憶が歴史になることが望ましいが、我々は歴史ではなく記憶としてとどめるべきだという。犠牲者である人々の痛みを完全に理解することはできない、しかしそばで寄り添うことはできる、悲しみの記憶を後世に受け継いでいくことで。
本作はユダヤ人としてのアイデンティと個としてのアイデンティとの間で揺れ動くアイゼンバーグ自身の心の変遷をたどる物語。
ベンジーのお前のきれいな足先が好きだという言葉、自分の足先をじっと見つめるデヴィッド、これは僕の足先、それは唯一無二のもの。ユダヤ人でもなく誰のものでもない。
この旅を通して自分のこれからの人生をどう切り開いていくのか何かを確かに自分のものとしたデヴィッド。
アイゼンバーグがポーランドの市民権を取ったという記事を読んだ。ポーランドは絶滅収容所が建設されそこで少なからずホロコーストへの加担もなされた、また戦後の3月事件によるユダヤ人排斥運動などユダヤ人との確執がある。彼はそんな確執を埋めたいという。自分の親族はみなポーランドにゆかりがあるし、この地に愛着があるからだという。
過去のわだかまりを捨ててポーランド市民となったアイゼンバーグにはもはや迷いはなくなったのだろう。本作のデヴィッドのように。
彼はきっとデヴィッドたちがこの旅を通して自分を見つめなおすことでこの先の人生の道を切り開いたように心の旅を経て今に至りこの映画を撮影したんだろう。
題名のリアルペインが表すように主人公達の実にリアルな心情が伝わってくる人間ドラマだった。
映画はベンジーとの空港での待ち合わせに始まり空港での別れで終わる。あくまでもベンジーは旅の同伴者であり、彼のプライベートは一切描かれない。まるで今回の旅のためだけに存在した旅のお守りのような。それは監督の創作による人物だから旅の始まりで生まれ旅の終わりで姿を消すのは当然かもしれない。ベンジーは旅でデヴィッドを振り回したかのようで実は彼の中に住むもう一人の旅の道連れ、モーセがエジプトから逃れるときに海を切り開いてくれたアロンの杖のようにデヴィッドの旅を常に支えてくれた存在、そして彼のこの先の人生を切り開いてくれた存在でもあった。