「余白と抑制、おかしみ」ファーストキス 1ST KISS くさんの映画レビュー(感想・評価)
余白と抑制、おかしみ
日本の映画業界好みの「感動の純愛物語」的宣伝に反し、硯カンナの勢いに魅了され、駈との掛け合いに笑い、典型的なイケメン設定ではないのにこの上なく魅力的に大スクリーンに映し出された松村北斗 as 硯駈を堪能した至福の時間。
まずはとにかく松たか子さん演じるカンナのキュートで素敵だったこと!冒頭、お札で涎を拭く様に笑いながら人物像に引き込まれる。ぼろぼろでちょっとがさつにも見えるカンナでも真に上品な方が演じるから画面がもつ。リモコンを探しながら遺影を前に鼻をくすんとさせるのは感傷に浸っているのではなく餃子の焦げの匂いを感知しただけだったりするおかしさや舞台セット上空での勇敢さが痛快で、目的のために幾度もタイムリープするガッツな行動も納得が行く。もう一度タイムトラベルに行かんとハンドルを切る「ごめんなさーい」のやんちゃさが素敵で、きっと自分も三宅坂を通るたびわくわくしてしまうだろう。いちいち小声で「タカバタケ」と訂正しながら走り抜け、「ダサっ」と言いながら一番ダサい T シャツ選び、犬にまみれフリスビーを華麗に投げ分けて犬を蹴散らす様、そのスローモーション、大真面目にエレベーターホールに座って”駈待ち”する姿、「顔面直してきます」や”久しぶりの”キスをスウェイして避ける様、等々、かわいくておかしくて本当に魅力的で、年齢など関係なく駈が惹かれるのも納得。面白みだけでなく「諦めるの早いよ」と駈に言われて大量の写真を投げ出す気っ風、重なる失敗にも「甘党になってるの」とツッコミつつ、まだ未来は変えられると立ち直る強さ。そんなわかりやすいシーンも素敵だが、松さんの凄まじさを感じたのが、焦げ付いた餃子を目にして「死ぬ」と口にした一瞬後の虚無。「楽しかった…」とベッドの上で丸くなる姿の楽しさと寂しさの絶妙な混在。奮闘にもかかわらず結局何も変わらない状況のやるせなさ。書店で「餞別だ」と言われた時の目に宿る複雑な感情。白髪を抜くやさぐれた顔面。手紙を一瞬ぱっと見て目をそらす瞬間の万感の思い。「一生わからなくていいよ」と口にした時の風の音と目の色。どれも幾層にも重なり合い単純化できない人間の感情を一瞬の表情と佇まいで表していて、この人物造形の深みがあってこそ、配偶者の死という悲劇の中で笑いを誘われ、ゆるゆる設定のタイムリープが説得力を持つのではないか。凄まじいと思ったのは「ダメ?って聞くの、やめて」の後の口角を上げるだけ上げた作り笑いのまま振り返りつつ憤怒へと変わる様の阿修羅像の如き変化。対する駈の淡々とした「お帰りー」の何とも嫌な感じ、静かな抑揚の中にこもった毒、「エアコンついてた」の声色の苛立ち。以前から松村北斗の強みだと思っていた嫌味や不快感の表出の巧みさ自然さが存分に発揮されていて、二人の関係性が壊れていく様の如実なこと。松村北斗という人の、建前や紋切り型に語られること、人間のなんとなく嫌な感じに対する諧謔が坂元裕二脚本に相通じるものがあるようで、それが三点リーダーが2つ連なる脚本の余白を過不足なく表現につなげられる所以ではないかとも思うのだ。会話のない互いに無関心な二人の台所シーンのあまりに見事に交わらず妙に円滑な動線は、この動きに至るにどれだけシミュレーションを重ねたのだろうかと思いをはせたり、いや自然な動きの協調だったら驚異的だと思ったり。そんな関係の冷たさが明らかに示される程、カンナの奮闘のおかしみや2回目の15年の幸せがより強調されるのだろう。
だからその現れとしての駈のベルトの上の腹の肉や白髪、頬たるんだ渋面の遺影に違和感があってはならない。その点で、悔いと懺悔の日々を重ねた不精髭の夏彦(『キリエのうた』)、エリートの片鱗を覗かせながらも思うに任せぬ日常を生きる山添君(『夜明けのすべて』)を演じきった松村北斗に、オタクで奥手で気弱で妙なところで筋の通った、嫌味もいうし不快感も露わにする、まさにこれぞ人間、という硯駈役を与えて下さった坂元脚本、キャスティングの慧眼、塚原監督の手腕に感動する。坂元さんは松村北斗の老けメイクがファンの怒りを買うのではないかと危惧していらしたようだが、キャリア初期こそ澤山梢平(『ぴんとこな』)や堂城一馬(『TAKE FIVE』)のような癖のある役を演じていたものの、訳ありでも“イケメン”の役続きであったから、イケメン忖度(こんな姿見せときゃファンは喜ぶだろう的サービスショット的なものの需要はわかるが)のない、必ずしも美しい存在ではない人物を演じる松村北斗を映した作品が広く高評価を得たことが自分には本当に嬉しかった。
しかしながらこの作品では「硯駈にもう一度恋をしてしまう」ことに説得力がないといけない。そしてまんまと術中に嵌った自分は観ていて「なぜ硯駈=松村北斗は自分のものでないのか」としばしば歯噛みした(笑)。そんな硯駈の魅力は、素朴さ、健全さ、おかしみ、かわいさ(それは松村北斗そのままご自身の個性でもあるようで)、カンナの勢いに巻き込まれうろたえる関係性の面白さ。硯駈のかわいさ、やばさは、登場早々に既に炸裂している。目の前に転落してきた女性にハンカチを差し出す親切さがありながら「あなたの汚らしい顔」と口にしてしまう理系男子らしい素朴な失礼さ(笑)。逃亡するカンナの背景で盛大に転ぶ鈍くささ…数分でその人物像がほぼ理解できる秀逸な、そして転落すると偶然クッションの山の上で無事という映画的な嘘の面白さも加わった、愛してやまぬ登場シーン。プロポーズに「硯カンナ」と口にしてみている時点でOKなのは明白なのに、改めて返事を聞いて「え?」と一瞬みせる上目遣いとはにかみ笑い(2度目の人生の時は流石に勝ち確感があるが(笑))、カンナの「顔直してきます」に対する小さなガッツポーズ、拒絶され涙をためた顔…この愛おしさよ。そんな朴訥さがカンナの勢いに振り回される駈という極上の関係を創り出すに最適。これまでも例えば藤沢さんの放つ「髪切ろっか」「北極星ではなくて飛行機」に対する山添君の「え~」(『夜明けのすべて』)、希に迫られた夏彦の優柔不断でずるさの滲む「えー...」(『キリエのうた』)、純と柊麿(『恋なんて、本気でやってどうするの?』)、夏代と鉄平(『一億円のさようなら』)…女性に翻弄される様は松村北斗の名人芸だと思っていたが今回のカンナ vs 駈も最高。「おばさんのこと好きなんだよ」と聞いて狼狽する「え」、気合いをいれて駈を誘うカンナへの応答の間あい。「ドライアイなんですか?」の絶妙さ…。中でも犬まみれ後のトイレ前の、気まずさと興味と好意との入り混じった機微に満ちた空気感、氷屋さんに同行するまでのやり取りの絶妙さ。かけひきできない奥手が異性を誘うに迷いに迷う様の秀逸なこと。そして、みんな大好き「ごめん、それもう一回ちょうだい」のカンナが最高にキュートで、対する駈の「これ以上僕をドキドキさせないでください」の素朴さ。そんな駈の実直さと共存する理系らしいやや頓珍漢なところも魅力を倍増させる。さらに人物像に深みをもたせ、物語を単なるメロドラマや荒唐無稽なSFにせずリアルな説得力を持たせたのはのでは彼の科学者らしい客観的理性と俯瞰であったのではないか。その側面も(わかった様なことを言って恐縮だが)優れた感受性、唐突に発する狂気に理詰めで現実的なところが共存する松村北斗という人間性が根底にあればこそではないだろうか。プロポーズにそぐわぬ「生物学的多様性」という言葉や、かき氷店の列での「はい、ご質問でしょうか」という学会の質疑応答のような返事に笑いつつ、「未来が決まっているって素敵ではないですか」という後の運命を受け入れる態度の伏線的台詞が混じる脚本の妙。悲劇的な運命でも客観的な興味を持ってしまうことに説得力が生じるのだ。その冷静さが顕著だったのが付箋を見つけた後に何気ない風でかき氷の話をしている、その間の目の落とし方や疑念こもるまなざし。静かに「2024年に僕は死ぬの?君は誰」と問う抑揚。着席を促す手の動きと「はい」の決然とした響き。いくらでも劇的にできるところに抑制を効かせてくれて、松村北斗が演じてくれていてよかったと思った。この部分、脚本では「死ぬんですか?」になっていたのが「死ぬの?」になっていたのが自分はお気に入りなのだが、ここで攻勢に転じた駈はその後の高原ホテルのシーンではカンナと対等に言葉の応酬をしている。一方で全てが明かされて行く中では人間的な弱さも露わにする。その落ち着きと弱々しさのふり幅の自然さ。見上げる目と掠れ声もか細き「ごめんなさい」「離婚する?」 「離婚したくないよ」。そして再び「確かにちょっと短いね でも何回やっても同じ結末になるんでしょ」 「悪くないね、なかなかかっこいい死に方だ」「あと、十五年か……それは確かにちょっと短いね」の他人事のような冷静さ。松村北斗の持つ、ある感情だけに浸る“べたさ”や人間の胡散臭さに対する感覚の繊細さの賜物だと思う。
物語冒頭の死を、生物史の大きな時間の流れと人間の一生とを自ら対比した「ちゅん」という間の抜けた音で表してしまう脚本の軽みを表現しきることができるのも稀有で素敵な個性。シナリオに45回も「死」という語が出てくるこの作品におかしみを湛えさせ、悲劇と憐憫に浸るだけの話に陥ることから救っているのはそんな松村北斗の持ち味だと思うのだ。贖罪の日を送る『キリエのうた』の夏彦も登場シーンは何ともいえぬおかしみがあったし、悲痛なシーンが過剰にならなかったのは、人間の感情の一面的ではない複雑さに対する想像力あればこそ。『夜明けのすべて』で『山添君の人間性や物語の性質を踏まえ、観る人の感情を誘い出そうとするようなあざとさが出たら気持ち悪く感じてしまうであろうし、原作からも外れてしまう』と語られていたことに演じ手としての誠実さとそれを叶える技量が感じられるし、お陰で観る側としては100%悲劇的な状況などないという微かな希望に救われる。感動を誘うよう意図すればいくらでも出来る状況で抑制の効いた表現に留めることで真実味を出すには、映像に自分の爪痕を残したいという欲や思惑の透けて見えない謙虚さと、ある人物を映像で表現することに対する誠実さが必要で、それが本作で初めて松村北斗を観た方にも魅力が伝わった所以だと思うのだ。
そしてすべてが明かされるホテルのシーンで聞こえるのが二人の会話とヒグラシの声だけなのに状況の切なさを十分に感じとらせてくれる演出も上品。その蝉の声も2度目の駈の死の後はアブラゼミで、淡々と役所に届を済ませ、新しいトースターでいつも通りにパンを焼くカンナの内心のやるせなさ、欠落感が伝わってくる(虫の声を聴き分けるのは日本人だけで外国人には雑音にしか聞こえないと聞く。本作が世界に出た時、蝉の声がもたらす 感情の機微は伝わるのであろうか。これは今や杞憂であろうが「すずめの戸締まり」で、ある年齢以上の日本人が東日本大震災という事象に惹起される感情を海外の人が理解し得るのかという懸念にも通じる)。突然の死を告げる電話、「帰ってきたら(ゲームの)続きね」に返事しない駈の後姿、そこに感傷的な音楽や効果音をつけず観る者の感じ方を信頼してくれる演出のありがたさ。そして本作は光も美しい。真夏なのに紗のかかった輝度の低い台所の光、ロープウェイで手をかざす駈に差す陽光、やり直しの15年では硯家の照度と明度がやや高いこと、光の微かな含意が素晴らしく奏効している。光と音が過剰な劇判や饒舌な台詞に頼らぬ余白ある感情表現を可能にしていて、塚原あゆ子監督の演じ手と観る者に任せられるだけの信念を感じ、それは松村北斗の「素敵な作品の一部としてありたい」願いの表れでもあるのだろうと思うのだ。
最後に「君は今日も面白いです」を最高の愛情表現にしたのは、明治の文豪の「月がきれいですね」に匹敵する坂元脚本の令和の大発明。こんなに愛に溢れたまなざしがあるだろうか。自分はそこで泣き、深く頷いた。「寂しさの正体」の一節にも深く共感した感動の手紙。でも、感動の手紙ではなく「ありがと、へへっ」で締めてくれた脚本にも拍手。