「構成の巧みさと本筋の深さに驚愕も‥今年外せない邦画の代表作に」ファーストキス 1ST KISS komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
構成の巧みさと本筋の深さに驚愕も‥今年外せない邦画の代表作に
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
(レビューが遅くなりました、スミマセン‥)
(正直に言うと、坂元裕二さん脚本の連続ドラマはメタファーの過剰さと本筋になかなかいかないまどろっこしさで最近は私的は苦手な作品の方が多かったのですが)
今作の映画『ファーストキス 1ST KISS』は、構成の巧みさと本筋の深さにとにかく驚かされました。
今年外せない作品で今年を代表する邦画になることは間違いないのではと早くも思われています。
今作はどこを切り取っても凄さが垣間見えるのですが、例えば、舞台美術スタッフの世木杏里(森七菜さん)が、<過去と現在と未来のミルフィーユ>の話をする場面がその1つに当たると思われます。
もちろん、世木杏里が話した<過去と現在と未来のミルフィーユ>の話は、この映画そのものの構成の話であり、主人公・硯カンナ(松たか子さん)が15年前の過去に戻った時に、硯駈(松村北斗さん)とかき氷屋の前で話す内容の伏線になっています。
ところが一方で、世木杏里が中学生の時に<過去と現在と未来のミルフィーユ>のSF小説を書いたというエピソードは、世木杏里が後に、違和感なく演劇のスタッフになったと思わせ、そこに至る世木杏里の人生の道筋を観客に想像させる表現場面にもなっているのです。
この1つのエピソードから、人物背景や他の人物や場面に様々繋がって行く物語構成の重層性は、今作のあらゆる場面にちりばめられていたと思われます。
例えば、テレビ局プロデューサー・田端由香里(YOUさん)らが、主人公・硯カンナのマンションの前で、硯カンナの夫・硯駈が駅のホームで自らの命を顧みず赤ん坊を救出した件に関するドキュメンタリー番組の許諾を、主人公・硯カンナから取ろうとしてる場面にもそれが当たると思われます。
もちろん、テレビ局プロデューサー・田端由香里が番組の許諾を取ろうとして話している”夫婦の愛”の美談のコンセプトは、現実は主人公・硯カンナと夫・硯駈は既に夫婦関係が破綻していたので全くズレ切っていて、(昨今言われている)浅いTV局などのメディアへの皮肉として伝わるのが、この場面の趣旨だと思われます。
しかしながら、ズレ切った主張でも、マンション入り口前で足止めされながらでも、必死にストーリーボードを見せながらドキュメンタリー番組の趣旨を説明しているテレビ局プロデューサー・田端由香里の背後に、この時までに田端由香里がやってきただろうテレビ局内での会議や準備の積み重ねの労苦が垣間見えるのです。
つまり今作の映画『ファーストキス 1ST KISS』は、些細なちょっとした場面でも、そこに出て来る登場人物を主要人物を引き立たせるための道具のように蔑ろに扱っていないのです。
そして、出て来る登場人物はほぼ全て、背景を想像させる生きた人物として存在し登場しているのです。
例えば、硯カンナの夫・硯駈がホームでの救出劇で亡くなった後に、天馬里津(吉岡里帆さん)が主人公・硯カンナを訪ねて来る現在の場面があります。
天馬里津は、かつての硯駈の恩師である天馬市郎教授(リリー・フランキーさん)の娘であり、本当ならば硯駈と結婚したのは自分(天馬里津)の方だった、自分なら硯駈を死なせなかったのにと、最近すれ違った時に硯駈の襟が黄ばんでいた話をしながら、硯カンナに対して批判的に話をします。
そして主人公・硯カンナも、そうかもしれない、自分と結婚していなければ硯駈は死なずに済んでいたのではないかと、天馬里津の話を受け止め、その後の過去に戻った展開もあった場面です。
しかし、硯駈が恩師の天馬市郎教授の娘である天馬里津と結婚しなかったのは、硯駈が主人公・硯カンナと出会ったからだけが理由ではありませんでした。
硯駈の恩師であった天馬市郎教授は、一見人当たりが良さそうで知識も深く、当然、硯駈が引き続き恩師として従っても良さそうな人物として描かれています。
しかし、学会の準備での細かい天馬市郎教授による硯駈への苦言は、天馬市郎教授と硯駈との関係性のほころびを現わしていたように思われます。
硯駈はちょっと変わった感覚の持ち主で、そのことは15年前の過去の場面でも垣間見せていたと思われます。
そしてこのまま行けば、(学会準備で示されたような)常識的な考えを無意識にでも強く促す天馬市郎教授との硯駈の関係は、破綻していただろうとも想像がされるのです。
つまり、硯駈が亡くなった後の、現在での主人公・硯カンナと天馬市郎教授の娘・天馬里津との対峙の場面は、硯駈と天馬市郎教授とのもしかしたらあったかもしれない並行世界での(結局は破綻していただろう)対峙を想像させる場面に、実はなっていたのです。
ここに上げた場面に限らず、今作の映画『ファーストキス 1ST KISS』は、あらゆる場面でそこから様々な人物や場面につながって立ち上がる、複雑な構成がそこかしこになされていたと思われました。
この作品の脚本構成は、考える限り最高点で見事な構築だったと言わざるを得ないと思われました。
その上で、本筋である、主人公・硯カンナと夫・硯駈との、過去と現在の描写の深さも素晴らしさがあったと思われました。
主人公・硯カンナは、実はちょっとクセある人物として造形されています。
硯カンナは現在、舞台の美術スタッフとして働いているのですが、舞台出演者に対して裏で割とあけすけに辛辣な事を言っていたりします。
舞台の出演者のペットの現場への持ち込みに批判的で、硯カンナ自身も犬が苦手で、15年前の過去に戻った時には大型犬に囲まれて大変な目に合ったりしています。
この主人公・硯カンナの少し人とは違うクセある性格は、こちらもまた周りとは少し変わった感覚の持ち主の硯駈にとって実は勇気づけになっていたと思われるのです。
主人公・硯カンナのクセあるあけすけな言動は、人とは少し違う硯駈の存在を肯定し、硯駈が主人公・硯カンナに好意を寄せ結婚に至るのは、全く持って必然だったとも思えるのです。
硯カンナの方もまた、クセある自分がそのまま肯定され、少し変わったところはあっても誠実さある硯駈に惹かれたのも必然だったと思われるのです。
そして一方で、主人公・硯カンナのクセあるあけすけな言動はまた、コインの裏表の反転のように、あけすけだからこそ硯駈を傷つけ追い詰めて行く要因にも、その後なって行ったと考えられるのです。
この主人公・硯カンナと硯駈とが互いに惹かれ合う理由と、互いに溝が出来て断然して行く理由とが、コインの裏表で同じだというのも、この作品の深さと凄さがあったと思われます。
そしてこの事は、夫婦の(本当は修復可能かもしれない)ちょっとしたことでの亀裂が、深さを持って普遍的に表現されていたとも思われるのです。
なので事情を理解した15年前の硯駈は、逆にちょっとしたことでの夫婦関係の修復にその後挑戦することになります。
その後、結局は大きな運命の結論は変わることなく映画は終わりを迎えます。
しかしながら、主人公・硯カンナと夫・硯駈の2人にとっては、重要な修復がそこでは実現していました。
1観客としては、本筋の主人公・硯カンナと夫・硯駈の主要な2人の関係性の描写においても、深さを獲得している素晴らしい作品だと思わされました。
映画作品において、脚本物語構成の厚みがある優れた作品も少なくても存在しますし、一方で、本筋の主要人物の関係性の深さがきちんと表現されている優れた作品も存在していると思われます。
しかしながら、脚本物語構成が分厚いままで、かつ本筋の主要人物の深さが同時に表現されている作品は、めったにお目にかかれないのではないかと思われるのです。
しかも今作は、実話ベースでないほぼ全くのフィクションの映画であり、それでいてこのレベルの構築の厚みと人物描写の深さある作品は奇跡に近いのではないかと、僭越思わされました。
よって私的には今回の点数となりました。
おそらく今年の邦画の代表作になるのではないかと予感がしていてます。
今作の映画『ファーストキス 1ST KISS』は、その上で、クセある主人公・硯カンナや人とは少し感覚が違う夫・硯駈だけでなく、少し普通とは違う人物の存在をそれぞれで肯定しようという根底が流れているようにも感じました。
それは、一見すると否定的に描いてるように思える天馬市郎教授やテレビ局プロデューサー・田端由香里も、(演じているリリー・フランキーさんやYOUさんの表現と相まって)実にある一面ではチャーミングに肯定されて描かれていたと思われました。
ところで映画のタイトルにもなっている『ファーストキス 1ST KISS』ですが、映画の最後に15年前の過去で、主人公・硯カンナと硯駈が交わすキスは、2人にとって硯駈のファーストキスでありながら、硯カンナにとってはラストキスでした。
この重層性も、今作の最後の感動をその後の2人の歩みを象徴した場面として高めていたと思われます。
この運命の厳しさを踏まえた上の人間賛歌とも思える今作が、普段ウェット気味とも思える坂元裕二 脚本に、さばけたドライ感もある塚原あゆ子 監督の演出により、間口の広さと構成の厚みと主要人物描写の深さを併せ持った作品として、世に公開された事は、素晴らしさ以外になかったと、僭越思われました。