クィア QUEERのレビュー・感想・評価
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欲望の果てを楽しそうに演じるクレイグに拍手
監督のルカ・グァダニーノは17歳の時にウィリアム・S・バロウズの原作と出会い、いつかそれを映画化したいと考えていたとか。バロウズは既存の常識や価値観を否定し、新たな視座を提案する作家集団、ビート・ジェネレーションに属していた。ビート世代は性的嗜好や性欲そのものに肯定的な立場だったので、世間の目を性的マイノリティに向けさせる役目も果たしたと言われる。つまり、グァダニーノの映画作家としての方向性を決定づけたのがバロウズで、原作者の自伝的要素が強いその名も『クィア QUEER』は、長い時を経て、作られるべくして作られた作品。いつも製作リストにない新作を突然送り出してきてびっくりさせるグァダニーノだが、今作は彼にとって一際重みのある1作のようだ。
湿度が高い夏のメキシコシティのゲイコミュニティから、一気に南米のジャングルへと舞台をチェンジさせていく物語は、バロウズと思しき中年のゲイが、美しい青年に一目惚れして、ドラッグの力も借りて辿るさながら道行きのよう。飛ぶ(翔ぶ)という意味ではWトリップのような道程は理屈抜きで感覚優先。人によって置いてけぼりの危険性が大だが、人間と欲望の関係について描いてきたグァダニーノ作品として紐づければ、自然と共感できるはず。
何しろ、15年間に及ぶボンド時代からようやく解放されたクレイグが、男の前で踊ったり、泣いたり、やりたい放題で実に楽しそうだ。その至福感だけでも見る価値はあると思った。
「黄色」と「藤色」
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印象的に「黄色」と「藤色」が使われるスクリーンですよね。 タイトルバックの文字も、ポスターも。
この色合いは、優しい花畠の色です。
でもそれは「やわらかい補色」でもあって、つまり「うらはらの色」であり、衝動性とクールさの対峙も示している気がします。
この二色は リーと、ユージーンの色・パーソナルカラーであるかも知れません。
求めた男と、去って行った男の物語です。
予告編で「この鮮やかな色使い」に真っ先に目が奪われたゆえ、僕はぜひともこれ、鑑賞したいと願いました。
ウィリアム・バローズが原作者である事も、本作への興味が強烈であった理由。
(バロウズの映画はざっと50本もあるのです)。
本人登場のインタビュー・ドキュメンタリー「ウィリアム・S・バロウズ 路上の司祭」には僕は心底痺れたものです。
加えて「シェルタリング・スカイ」の作家ボール・ボールズ氏とこのバロウズ氏は《彼らは一緒に暮らしていた事があるらしい》から。
うーん。はいはい、なるほどなぁという感じ。
バロウズの自伝的小説がこの映画の原作となっています。
中南米や中東の砂漠地帯など、西欧人にとっては”辺境“と呼ばれる未知の世界が、彼らの「人間観察小説の舞台」になるようです。
・・
【俳優 ダニエル・クレイグ】
惹かれ惹かれてグダグダになり、
我慢出来ずにユージーンに恋い焦がれてゆくリー(第一部)。
メキシコの黄色い光がすべての場面を満たすけれど、意外とライトな雰囲気で物語が進行するのは、軽快な音楽を画面に重ねたゆえ。(サントラについては後述)。
この俳優ダニエル・クレイグさんがねぇ、
またホント良いんですわ。
「007」の6代目ジェームス・ボンドを彼は務め上げて、あのシリーズはその後しばらく途絶えている。5年もの空白期間に入っている。それだけ彼のキャラクターは大きかったと云う事だと思いますね。
孤児院育ち。内に秘めた陰と憂い。誰にも立ち入らせない過去のある男=ダニエル・クレイグの、あの人となりです。
この人が先代のピアース・ブロスナンからバトンを引き継いでの「新しいジェームス・ボンド」に抜擢だと発表されたときには、それまでとの毛色の違いに世界中が至極戸惑ったはずです。懸念しかなかったです。
こんなにも「暗い顔の男!」だったからです・・。
「歴代の 007」は
初代 : ショーン・コネリー
2代目 : ジョージ・レーゼンビー
3代目 : ロジャー・ムーア
4代目 : ティモシー・ダルトン
5代目 : 華やかなピアース・ブロスナン 、
そして
6代目が このダニエル・クレイグ( 〜2021)。彼は最終作「ノー・タイム・トゥ・ダイ」で死亡している。
彼は、人物としての深みと、不可解さのオーラを合わせ持っている。
諜報部員として、シリーズに奥行きを与えた、群を抜いていい役者さんだったと思うのです。
で、映画ファンとしては、007そのものであった彼らが、シリーズ降板のあとで、それぞれどのような「転身」を遂げるのか ―?。それも我々の大きな関心事だった訳でね。
そして今作の「クィア」なのです。
「そうきたかーッ!」ww が正直な感想。
会心作です。アクションものでなくてもこの人はこれだけイケる。台詞無しでもこれだけの長いカットを鮮烈に演じられる人だった。
映画館での鑑賞を逸したので、ようやく配信での視聴となりました。
一番沁みたのは、ここかな?
「部屋に戻り、モルヒネを打って、紫煙を深く吸い込みながらユージーンを想っている」「あの長回し」。
これ、計ってみたら2:40秒のワンカットだった。
ダニエル・グレイグ、ちょっとこの人は凄いのではないか。
⇒バックにはニュー・オーダー(New Order英)の「Leave Me Alone」がBGMに流れる。
ここまでの「第1部」だけで映画が終わってしまっても構わないほどの、その画面の充実感と完成度があった。
・・
映画はその後「短い旅路の第二部」を経て〜そして「第三部からは麻薬性の植物『ヤへ』による幻覚の世界」へと急展開。
密林のサスペンスの様相。
CGを駆使してのあの二人の融合は「アンダー・ザ・スキン」を求め合うトランス状態かも知れない。
でも実感としては一瞬のサブリミナルで良かったのに、この第三部のジャングルのパートは長すぎて少々飽きた気が。
つまり、かつての007を匂わせるようなミステリーな第三部は ”無くても良かった蛇足のパート“ だったと僕は思うのだが、皆さんの感想はいかに?
・・
【映画のコンセプト】としては
・他作=お利口さんなハリー・ポッターのダニエル・ラドクリフくんに「スイスアーミーナイフ」の死体役をやらせちまったあれとか、
・クリストファー・プラマーに意表を突いてゲイ・カミングアウトをさせた「人生はビギナーズ」とかに通じるスタイル。
つまり、《まさかの役どころ》に登用と云う意味で。
笑えたのは
しつこくじゃれつくリーを「おやじ、おめーウザったいんだよ💢」と突き飛ばすユージーン。
で、床に無様に転がる中年の酔っ払いのリーなのだが
つい、昔とった杵柄ですかね。受け身のダニエル・グレイグは007 のそれだったこと。
・・
【癖が強い監督】
「君の名前で僕を呼んで」のルカ・グァダニーノ監督は、
その作風は、アカデミックさとプラトニックな愛をフルコースの”前菜“に供しながらも、
(しかし今作でも同様なのだが)、
後半では直截な性愛行為をぶち込んでくる作家だから、特異な作風ではあるが、
このセオリーに縛られず、いずれはもっと違う映画にもチャレンジしてもらいたい人だ。
つまりツギハギ感が否めない。
二作続けての同じレールなので。
ぜひダニエル・クレイグに習って監督も殻を破ってほしい。
・・
【総評】
無敵の英国諜報部員にメロメロの「クィア」を演らせた今回のアイデアは良かったけれど。僕としては大幅カットで第一部のプロローグと 巻末のエピローグだけでも十分だった。
原作味読ではあるが、ジャングルは要らない。レスリー・マンヴィルも要らなかった。
あとパンフレットやポスターに使われた「黄色いショールを肩に掛けた二人の笑い顔」が劇中には登場しなかったのは、とっても残念だったかな。
でも「薬草ヤヘを探し当てて、肉体だけでなくテレパシーでもステディの存在と繋がりたい」と無邪気に願うのは、ギャグではなくて
リーの、ユージーンに対するモノホンの愛だったのかも・・と
ここまで書いてみて
ようやく思った。
(了)
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付記、
【サントラについて】
検索オススメ
⇒[『クィア/QUEER』の挿入曲とサントラ ] 。
ご機嫌なラインナップでしたね。
ニルヴァーナ、プリンス、ニュー・オーダー、ベニー・グッドマンやコール・ポーターまで、
場面ごとに当てられた楽曲が、解説と動画付きで全曲紹介されています♪
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そして長くなったけれども、
そして書き落とすところだったけれど、
【自分の中の 《クィア》発見について】 ―こんな特別な体験があったのでメモを2点 ―
① 平日の昼間に、僕はスーパー銭湯に行ったところ、ほぼ貸し切りでした。脱衣室から広い浴室に入ったら、何となくあちらからずっとこちらを見ている気がするお兄さんがいて。
ん?知り合いかな? いや違うだろう。
で、目を閉じてゆっくり露天風呂に浸かっていたら 太ももに=誰かの太ももがそっと触れてきてびっくり。いつの間にか「あの彼」がピッタリ横にいるし!
驚いている僕の様子に、彼は静かにお湯の中を離れていきました。
「ハッテン場」だったらしいのです。
へぇ~、こんな事があるのかよ!と初めての、とっても不思議な体験でした。
だから、
リーがユージーンを見つめたカフェ「シップ・アホイ」での、あのシーンがね、なるほどなぁと思うのです。
(この映画を観たあとの今ならば、僕からも、せっかくの機会ですから何か話をしてみたかも知れない)。
② もう一つ。仕事場で起こった突然の心の動きについて。
いつも一緒に仕事をしている小柄な男の子を、なんだか突然抱きしめたい衝動に襲われて、自分自身の心の動きに驚愕。胸が堪らなくギュッと締め付けられたのです。
後から冷静に自己分析をすれば「ホモ・セクシャル」と「ヘテロ・セクシュアル」は、同じ僕という人間の中にもグラデーションのように、シームレスに備わっていて、
たとえば光の陰影や、風に流れる雲の様相のように、感情も本能も元々混在して、黄色や藤色の補色のように、
そのようにふと現れてくるのだと知ったし、
「父性愛」も「母性愛」も僕たちは普通に両方を所有していて、ちっちゃい子に対しては抑えようのない「保護衝動」が湧き上がるのだと理解した。
これは知っておいて良かった稀有な体験であった。
この①と②があったからこそ、映画「クィア」が僕にとっては、より既視感もある、実のある物語、になっていたのだと思われる。
ダニエル・グレイグの演技は見事。
配信(アマゾンレンタル)で視聴。
この監督の作品は昨年公開のチャレンジャーズ以来だが、まさか同性愛のストーリーとは思わなかった。作品全体はそこまでささらなかったが、ダニエル・グレイグの演技は素晴らしかった。まだ、観ていないが、ダニエル・グレイグは007シリーズの主演俳優。彼の作品も観てみたい。
ぞっこんメガネ
妻殺し、ジャンキー、ゲイ、SF小説家…様々な肩書きをもつウィリアム・S・バロウズによる未完の半自伝小説を、同じくオープンゲイの映画監督ルカグアが自由に翻案した映画である。ダニエル・クレイグが演じている主人公作家リーが一応バロウズという位置付けになっているが、お相手のユージン・アラートンを演じたドリュー・スターキーが若きバロウズにクリソツなことにお気づきだろうか。手前勝手な推測で大変申し訳ないのだが、ルカグアのオルターエゴであるリーが内に抱えた葛藤を、生前のバロウズに相談する架空ストーリーに翻案化しようとした作品だったのではないだろうか。
「バロウズの小説を読んだとき、この作品は私自身について語っていると感じました。小説としての形式が私の理想に近かったこと、そして他者との深いコミュニケーションを求めるというコンセプトが、私に強く訴えかけてきたのです。形式主義者として、ひとりの人間として、そして成長途中のアーティストとして、これこそが映画で語りたい自分自身の真実だと思えました」(インタビューより抜粋)
街で見かけたアラートンがクィアか否かを確かめたくてしょうがないリーが、イラついてテキーラをがぶ飲みするシーンが至極滑稽だ。ゲイバレを恐れずひたすら前進あるのみのリーは、“ムカデ”なみの欲望ギラギラオジサンである。若いアラートンが旨そうな料理にパクついていても、このリーなぜか一切食事に手をつけない。その欲望は100%“(アラートンの)男根?”に向けられ、観客の私たちもついつい、2本のタバコや支柱、二匹の闘鶏までもがそのメタファーに見えて来てしまうのである。酔っ払った勢いでついに「言葉の無い会話をしよう」とアラートンを自宅に誘い出すことに成功するリー。
「人は話をするとき、実際にはありとあらゆる方法で話しているものだと思います。言葉だけでなく、肉体や精神、魂、あるいは手足──それらすべてを使って。ただし、本当にすべてを使うかどうかには抑圧の問題があります。“ひとつの方法でしか話さない”と決めることは大きな抑圧ですから。リーとアラートンは、ありとあらゆる方法で話そうとしますが、しかしその激しさに耐えられなくなり、翻弄されることになります」(インタビューより抜粋)
どうにもこうにもアラートンへの肉欲が抑えられないリー。ひたすら“魚”を求めてメキシコシティを徘徊する白スーツ姿のリーは『ベニスに死す』のアッシェンバッハだし、劇中2人が見る白黒映画はゲイばれを隠さなかったジャン・コクトー監督の『オルフェ』である。アラートンと別れてからの奇妙奇天烈な展開は、誰がどう見ても映画作りに一切の妥協を許さなかったキューブリック監督『2001年宇宙の旅』へのオマージュであろう。自分の芸術作品に異常なまでの執着を見せる支配人レモントフのモデルもまたゲイであることを知るルカグアは『赤い靴』への言及を告白している。スーパーヒーローで唯一カミングアウトしている“グリーンランタン”はともかく、(オリジナリティの強い)映画監督のデヴィッド・ロウリーやリサンドロ・アロンソがちょい役でカメオ出演していることからしても、本作はもしかしたら“映画についての映画”だったのではないだろうか。
「私は、『クィア』というこの映画のタイトルも美しいと思っています。なぜならこの映画は、ある意味で昔からある既存の映画の言語に従うことを望んでいないから。つまり、この映画自体が形式的にクィアなのです。映画というものは形式がすべてであり、それ以外の何物でもありません。1本の映画が“異なること、奇妙なこと”という名誉のバッジを大胆にも掲げ、同時に古典主義や映画言語をまといながら、今日のありふれた映画の陳腐さに対抗する――それは大いなる抵抗であり、クィアネスの行為だと思います」
(インタビューより抜粋)
(バロウズの妻殺しを想起させる)夢の中で足のない裸の女と交わっているリーや、ヤヘを飲んで扉が開いたものの“オフィーリア”のごとくリーの前から姿を消したアラートンの幽体が語っていた「私はクィアでは無い」とはどういうことだったのか。ゲイバレへの恐怖をネタにした昔の映画や、“多様性”テンプレートに組みこまれつつあるゲイムービーを、ルカグアは“(実態の無い)幽体離脱”に例えたのではないだろうか。(映画のテーマを)盗まれても盗まれても若い男を自分の部屋に呼び続けるギンズバーク似のジェイソン・シュワルツマンのごとく、あるいは死と再生を繰り返すウロボロスのごとく、宇宙で唯一無二の純粋クィア映画を作ること、多分それがルカグアの夢なのだろう。ちょっと分かりにくかったけどね。
007がカッコ悪かった
1950年代のメキシコシティで、酒、タバコ、薬で日々を過ごしていたアメリカ人駐在員ウィリアム・リーは、美しい青年ユージーン・アラートンと出会い、ひと目惚れした。リーはユージーンを求め、彼も応えていたが、彼を求めるほどリーの孤独は深くなっていった。やがてリーはユージーンと一緒に人生を変える体験をしようと、彼を南米の旅に誘い、テレパシーを得られると噂のヤヘを求め・・・さてどうなる、という話。
ゲイで良いんじゃないかと思って観ていたが、クィアなのはユージーンがバイだからかな。
自分を保てないほど一途にユージーンを求めるリーのカッコ悪さが印象に残った。演じてたのが007のダニエル・クレイグだから余計に落ちぶれ薬物中毒になったゲイの熟年男、という感じは出てた。
南米へ旅行に行ってからはそこそこ面白かったが、それまでは好きでもないゲイの絡みが多くて冗長で面白くなかった。
ユージーン役のドリュー・スターキーはスタイル抜群でイケメンでカッコよかった。ダニエル・グレイグが身長低く顔が大きくスタイル悪いのと対象的だった。
南米のジャングルで研究していたドクターのオバさんは良かった。
Queer
ボンドからバロウズへ
6月の映画サービスデー1本目。
ジェイムス・ボンドではないダニエル・クレイグは、ジェイムス・ジョイスではなくウィリアム・バロウズとなって再び我々の前に現れてくれたわけで。
齢57歳でこの身体とルックならさぞモテそうと思ってはみても、フケ専でもオケ専でもない多分ノンケのゲイフォーペイの若者をなんとか心まで自分のものにしたいと願う演技は痛々しくも甲斐甲斐しくて、我が身に置き換えて反省するなどした。
結局、相手の心まで自分のものにしようとするな!お互い会ってる時だけ楽しければ良いだろう!ずっと一緒にいて楽しいのはどちらも大好きで始まった恋愛の最初の3ヶ月だけだよ!あとは惰性だよ!みたいなことを伝えたいのかなと(違う)。
これ、設定が1950年代なんだけど出てくる人の顔つきがあまりにもスタイリッシュ過ぎてクラシックカーの出てくる現代の話に見えてしまったのはメキシコの強すぎる光のせいかもしれない。
確かにメキシコシティは標高が高すぎて普通に日本人観光客ぶっ倒れたりしてたしな。あと窓から見える富士山みたいな綺麗なお山はメキシコのポポカテペトル火山5426メートルで富士山よりうんと高いです。メキシコ人(マヤ人の方ね)と日本人(縄文人ね)の精神的な共通性はこんなところからも来てるのかもね。
ということで。
一夫一妻も男女のノーマルな性愛も文明が発達して宗教的タブーが生まれて始まったことだから、人間の原始的な本能として幾つになっても多様な恋愛にときめいていたいですよね。
あとニルバーナのカート・コバーンはバロウズの大ファン。
come as you are, as you were, as I want you to be.
この歌詞に主人公の気持ちの全てが入ってるのかもしれない。
もう一個。バロウズが当時24歳だった妻を射殺したのは頭上にグラスを載せて「ウィリアム・テルみたいに打ってみな!」っ煽られたからって説もある。
この2つを知ってると理解度少し深まるかな?
ちなみにバロウズの原作「Queer」は、「おかま」って邦題で
かの山形浩生訳で1989年にペヨトル工房から発売されてるよ。
それではハバナイスムービー!
なんの話だったのか
期待度◎鑑賞後の満足度◎ 人を好きになった時の立ち尽くす様なあの感覚・気持ちを上手く表していると思う。言葉無しに気持ち・感情を伝える/読み取るという意味で「映画」もテレパシーと同じかも。
①「立ち尽くす」とよく似た日本語に「立ち竦む」という言葉がある。辞書を引いてみるとどちらも呆然としたり体が固まって動けない佇まいを表現する言葉だが、前者が感動・(良い意味での)驚きによるというポジティブなニュアンスが有るのに対し、後者は恐れや不安、(悪い意味での)驚きによるというネガティブなニュアンスがあるとのこと。
恋に落ちると胸の中に幸福感・多幸感が沸き上がるのと同時に、切ないような泣きたいような気持ちにもなる。
だからどちらにしようかと思ったが取り敢えず前者にしました(字数も足りなくなるし)。
②人前では諧謔的にならざるを得ない習い性の小説家を好演するダニエル・クレイグだが、アル中でジャンキーにしては良い身体をしているのが玉に瑕。
第一章はクィアネスだった
期待してたものが得られたものの……
「ルカ・グァダニーノらしい映画だな」「バロウズって確かにこんなだったんだろうな」など、実際に見る前に期待したものは、確かにスクリーンに映されていました。
金はあるがどこか情けない中年と見目麗しい若者。付かず離れずの微妙な関係からの冒険譚、そして究極のドラッグ体験。
ところどころでハッとさせる映像や展開もありながら、あまりノレず、頭の片隅ではずっと良くない意味で「何見せられてるんだろう……」という気持ちも。
2章と3章が物足りなく感じたものの、全体的には冗長な印象もあり、今ひとつ高く評価できませんでした。
面白い文学を映画にするのは難しい
前作『チャレンジャーズ』が思いの外面白かったので期待していた一作。バロウズ原作、トレント・レズナー音楽ということで先にサントラ聴いていたくらい。おまけに予告編は良さげでお金も掛かってそうだし。しかし評判が聞こえてこない。で、観てなるほど、と。
ファンタジーに寄せて外堀はミニチュアルックに作り込まれた南米パラダイス。いろんなものの中毒おっさんが不意に現れた男に惚れてからの一緒になりたい願望の果ての彷徨。全編ドラッグに彩られて、、とかと思うとそんなにドラッグ臭はしない。綺麗なのだ。
第2章の旅はまるごとドラッグネタなのだけど、ここらも面白いルックや表現もあるのだけれど、その辺はクロネンバーグを欲してしまう感じ。クロネンバーグやホドロフスキーやらの本物の変態に変態負けしてるというか。チャゼルの映画もそうだけど、やはりクレバーな監督は本物のヤバい奴らには敵わない。
で、この映画はとてもオシャレには出来ている。出会い、接近、接触、結合、旅、願望へのトリップ、章ごとの進み方はわかるにしても各章が盛り上がらない。かつて同じ映画館で観たキュアロンの『天国の口、楽園の終わり』にあるロードムービーの牽引力のかけらもないというか、おそらく原作をまとめていくとこうなるのかもしれないが、やっぱり原作などに依っていると映画なんか面白くならないよね、と思う。おまけに時代ものの箱庭感で進めているのでもちろん旅にでても開放感あるわけでもなく別の箱庭になり、恋の対立関係は薄くもなっている。
ドラッグ文学はおそらく文章そのものや文体の飛び方などそれは個人の頭の中の面白さなのでドラマにするのは別のロジックで作らないと面白くなりようがない。
グァダニーノ、原作好きなればこそのミスをおかしてるような気がする
相当クセの強い作品
「恋人」とのテレパシー交信を夢見た 情熱的で孤独な初老ゲイの奇妙で切ない恋物語
本篇が終わり、エンドロールを眺めながら、転調してインディ•ジョーンズごっこみたいな場面も出てきたとは言え、なんだか切なさのオンパレードみたいなストーリーだったなあと余韻に浸っておりました。
せつない(切ない)《形容詞》悲しさ•寂しさなどで胸が締めつけられるような気持ちだ。(岩波国語辞典より)
ということなのですが、ダニエル•クレイグが演じる主人公、初老の域にさしかかろうとしている同性愛者のリーは存在そのものが切ないという感じでした。まあ白い麻(と思われる)のスーツなんか着ちゃってそれなりにかっこいいんですけどね(そのスーツも物語が進むにつれてうす汚れてヨレてきますが)。あと、帽子。なぜか、夏モノではなく、ちょっとだけ厚手の秋モノ風のものをかぶっていてオシャレでした。
物語は1950年代のメキシコシティから始まります。リーはアメリカ人で故国を離れて故国から見たら辺境ともいうべきところで暮らしています。まずは辺境で暮らす切なさです。彼は同性愛者で現在の言葉でいうところの性的マイノリティです。ということで、少数者であることの切なさもあります。彼は情熱的で常に愛を求めていますが、それ故に孤独を感じることも多いです。孤独であることの切なさ。そんな切なさを抱えて彼は薬物依存症にもなります。
このお話のメインはそんな彼が街で見そめた若い男ユージーン(演: ドリュー•スターキー 美麗です)にどう恋焦がれてゆくかを描いていくことにあります。相手が若いですから、リーの老いが見えてくることになります(老いてゆくことの切なさ)。肉体関係にはなるのですが、ユージーンはリーに対して心を開いてはいない感じがします。リーはテレパシーとか言い出します。心と心の触れ合いを求めるのです。何と愛に飢えた孤独な魂なのでしょう。切なさ、ここに極まれりといった感じでした。
そんなストーリーがルカ•グァダニーノ監督の洗練されたスタイリッシュな映像センスのもとで展開されてゆきます(あと、忘れちゃいけない音楽の選曲センスも)。最初に出てくるタイトルバックなんぞ、ただ単に皺を寄せた布切れの上に古びたタイプライター等のレトロなアイテムを並べたショットが続くだけなのですが、それがなんとかっこいいことよ。一気に’50年代の世界に引き込まれました。主人公の吞む酒もテキーラだのマティーニだのいろいろ出てきて場合によって使い分けていてお洒落な感じ。街の風景や部屋の窓からの景色も見ていて楽しかったです。センスがよくて手数も多い監督だなと思いました(それが技巧に走り過ぎていて嫌だという人も一定数いそうですが)。
《ちょっとした蛇足ーー帽子の件》
先述したようにリーは外出時には帽子をかぶっているのですが、若いユージーンのほうは常に無帽でした。’50年代を舞台にした映画では街行く男性すべてが帽子をかぶっていたような記憶がありますが、若いユージーンは例外なのかな。飛んで’70年代になると無帽が支配的な感じ。007シリーズの初代ジェームズ•ボンドのショーン•コネリーは’60年代の映画ではかぶっていました。事務所の部屋に入るなり帽子を脱いで部屋の奥に置いてある帽子掛け目がけてバスケット•ボールのミドル•シュートよろしく帽子を投げるシーンを憶えています。ということで、’50〜’60あたりの映画では男性の帽子に注目かな。「細かいことが気になるのが僕の悪い癖」(杉下右京の口調で)
もがき苦しむ男の孤独
米作家ウィリアム・バロウズの自伝的小説を映画化。バロウズについてはビートジェネレーションの代表的作家でジャンキー、妻を射殺した、といった知識はあるものの作品は読んだことがない。主人公はほぼバロウズ本人を置き換えたものなので観る前にウィキペディアなどで簡単に調べておいた方がいい。さもないと、働かないゲイでジャンキーなエロ中年親父の映画は一体何?という印象になりかねない。
1950年代のメキシコシティ。暇を持て余す米国人駐在員のリー(ダニエル・クレイブ)は行きつけのバーで美形青年のユージーン(ドリュー・スターキー)に一目惚れ。勇気を出して話しかけ、体の関係に発展するが、時によそよそしい態度を取ったりと気まぐれなユージーンに渇望を募らせていく。
前半はこうした恋の駆け引きに終始するため正直退屈だ。
リーは関係を深めたいのと、ある媚薬をもとめてユージーンを南米の旅に誘う。
ここからの後半は一転、南米が舞台の幻想的なタッチに変わり、冒険映画のようだ。
薬物中毒のリーが見る幻覚とジャングルを舞台とした展開は夢と現実の境界線を曖昧にし、官能的ですらある。
リーはユージーンと体だけではなく心の一体感を求めるが、確信がもてず心は満たされない。その不安や苦悩をドラッグで散らしているようで、その姿は痛々しくもある。
チネチッタで撮影したというメキシコシティのノスタルジックな街並みや南米の幻想的なジャングル、VFXを使ったイメージなど映画的創造に満ちている。
ニルヴァーナやニューオーダー、プリンスなど映画の時代背景とは異なる挿入歌の選曲もセンスが光り、ルカ・グァダニーノ監督の映像作品としての完成度は高い。
個人的にゲイのラブシーンが生理的に苦手なので点数は若干低め。
センティピードの見る夢
ゆるくぼんやり目眩系の作品
涙を流しながら続ける、ウロボロス。
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