ブルータリストのレビュー・感想・評価
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遥かなる、到達地へ
天才が故に、できたこと。
天才が故に、遺せたもの。
天才が故に、苦しんだこと。それは…
最近、気付いたんですけど、映画の主人公って、こういうキャラだよねっていう型に嵌めて、映画を観ている私がいます。(その型から大きく逸脱したのが「ジョーカー フォリアドゥ」。結果、ラジー賞にノミネート。私は、その勇気を讃えます。)
せっかく足を運んだのだから、何か得るものがある。映画館を出る頃の私は、どこまでレベルアップしているのかしら、なんて期待しちゃうわけです。でも、それは、考えようによっては、他者に期待しているだけで、自分に全く期待していない。挙げ句、期待ハズレだと、思いっきりコキおろす。そうでもしないと、存在の堪えられない自分に、気付いてしまう。他者を攻撃することで、自我を保とうとする。そんな過去の私が、フラッシュバックしそうです。
個人的に好きかどうかは、別として、濃い映画ですね。全く隙がない。張詰めた人間関係が続く。マーティン・スコセッシ並みに、観ているだけで、疲れます。ラースローが、そうであるように、この映画のプロデューサーと監督さんも、ある意味、天才かも。今時、こんな長い映画、よほどブレない意思がないと、出来ないよね。
ブレない何かを、持ち続けること自体、天才なのかな。何かを創ることで、何かを伝える。その何かが、よく分からない私です。(因みに私、大槻ケンヂの「人として軸がブレている」と云う曲が、大好物です。)
ところで、この映画のお金持ちおじさん、どう思います?。最初、ガチ切れしていた書斎、他者が褒め称えると、態度急変。あれはあざけ嗤うべきヒトなのか、あるいは、世間の価値観なんて、あの程度でしかないと云う皮肉なのか、どっちだと思います?。
何かを創ること。
何かを遺すこと。
他者に評価(及び、批判)されること。
その重圧を表現するには、やはりこれだけの時間とエネルギーが、要るようです。おかげで私の感想文も、インターミッションが要るレベルの長さになりました。
以上、映画には興味あるけど、建築にまるで興味のない私の感想文でした。
登場人物みんな業が深い、巨大建築の3時間35分
モダニズムとは何か
2024年。ブラディ・コーベット監督。ナチスドイツの迫害を逃れてアメリカに渡った著名なユダヤ人建築家が、不幸な境遇から這い上がっていく姿を丁寧に描く。一流の腕とセンスを持ちながら、親友に裏切られ、パトロンに振り回され、やっとアメリカに呼び寄せることができた妻は病に侵されていて、、、。
権力の塊のようなパトロンに見出され、次第に自らもその似姿になっていく主人公の姿には痛々しいものがあるが、主人公が構想する建築物と主人公の魂のあり方がいまいち説明不足な感じ。なぜあのような建築物を作ったのかの説明が、ユダヤ人の出自や妻の強制収容所体験といった「外面的でわかりやすい」説明のもとに回収されている。モダニズム建築を求める何か、もっと荒々しい心の叫びのようななにかが、あのコンクリート打ちっ放しの巨大建築物にはみなぎっているような気がする。そこはあえて不問にしたのかもしれないが。
才能ある「アーティスト」と「現実の権力」(金や生活)との相克、人生の不如意の話であり、具体的なモダニズム建築のありように迫っているわけではない。
タイトルなし(ネタバレ)
最近の映画でインターミッションがあるのは珍しい。建築やデザインに興味がある身としては、会話や展開が面白く、長さがあまり感じられなかった。バウハウス出身のユダヤ人エリート建築家が、祖国を追いやられ辿り着いたアメリカ。そこで直面する屈辱的な生活、実業家との出会い、妻への愛と苦悩、成功と挫折。ブルータリズムで有名なマルセル・ブロイヤーがモデルらしいが、途中から安藤忠雄の光の教会や、ダニエル・リベスキンドのユダヤ博物館が思い出されていたので、ラストの姪による建築の解説にはあまり驚かなかった。リベスキンドも本作を称賛したらしい。終盤の展開には驚いたというか、呆気にとられた。アカデミー賞作品賞、監督賞(ブラディ・コーベット)、主演男優賞(エイドリアン・ブロディ)、助演男優賞(ガイ・ピアース)、助演女優賞(フェリシティ・ジョーンズ)、脚本賞、撮影賞、編集賞、作曲賞、美術賞の10部門ノミネート。ブロディは2度目ありそう。個人的には『プリシラ』から好きなピアースにそろそろ獲ってもらいたいが『リアル・ペイン』のカルキンかなぁ…。さて、いかに。*追記:主演男優賞、撮影賞、作曲賞の3部門受賞!
1976年に建てられた改革派シナゴーグはサラッとしているけど意味は大きい
2025.2.26 字幕 イオンシネマ久御山
2024年のアメリカ&イギリス&ハンガリー合作の映画(215分、R15+)
ホロコーストを生き延びたユダヤ人建築家の半生を描いたヒューマンドラマ
監督はブラディ・コーベット
脚本はブラディ・コーベット&モナ・ファストヴォールド
原題の『The Brutalist』は「荒々しい建築を行う建築家」という意味
物語は、とある国境地帯にて、尋問を受けるユダヤ人女性ジョーフィア(ラフィー・キャシディ、成人期:Ariane Lebed)が描かれて始まる
彼女は叔父の建築家ラースロー(エイドリアン・ブロディ)についての質問をされていたが、訳がわからないまま精神的な圧迫を受けることになった
ラースローは強制収容所を生き延びたユダヤ人で、いとこのアティラ(アレッサンドロ・ニボラ)を頼って海を渡った
彼はアティラの経営する家具店で働くことになり、クライアントの要望に応えるために部屋の改築などを行なっていた
依頼主は資産家ハリソン(ガイ・ピアーズ)の息子ハリー(ジョー・アルウィン)で、ラースローは「ブルータリズム式の図書室」を完成させた
だが、そのことを知らされていないハリソンは激怒し、ラースローとアティラを追い出してしまう
さらにハリーは金を払えないと言い出し、この件にて、アティラはラースローを追い出してしまうのである
その後ラースローは路上生活を強いられ、炊き出しにてゴードン(イザック・ド・バンゴレ)と出会う
彼の息子ウィリアム(Charile Esoko、少年期:Zephan Hanson Amissah)らと過ごす日々が続き、期間労働として土木工事に従事するようになった
だが、そこにハリソンが訪れ、これまでの無礼を許してほしいと言う
彼は、ラースローが手がけた部屋の価値を知り、そして数々の功績を知った
そこでハリソンは、彼に自分のアイデアを話し、そのプロジェクトを引き受けてくれないかと打診するのである
映画は200分+インターバル15分の構成で、「序曲」「第1章:到達の謎」「第2章:美の核芯」「エピローグ:第1回 建築ビエンナーレ」という流れになっている
そして、「序曲」にてどこかの国境警備隊に尋問されるジョーフィアは、ラストでも登場するのだが、あのラストショットの意味は「ジョーフィアの到達点における出発点の想起」ということになるのだろう
ラースローとエルジェーベトから伝えられた「旅路ではなく到達点が大事」という言葉の意味を捉えると、叔父や叔母に感謝できる人生を歩んだことことがジョーフィアにとっての到達点だった、ということになるのだろう
映画は、前半でプロジェクトを任されるまで、後半でプロジェクトのトラブルを描き、ハリソンから強姦されるラースローが描かれていく
それに激怒した妻のエルジェーベト(フェリシティ・ジョーンズ)がハリソンに夫から聞いたことを突きつけるのだが、その後ハリソンがどうなったのかは描かれない
だが、この事件を機に、施設の存在意義がハリソンの母のためのものから、エルジェーベトやユダヤ人たちのためのものに変わっていて、それを告白するのが回顧展(1980年)となっている
俯瞰すれば、アメリカ人に金を出させて、ユダヤ人が考案して、奴隷が建設するという構図を暴露しているので、なかなか風刺が効いているように思える
ある意味、アメリカに来たユダヤ人のためのエルサレムをあの場所に建てたというようにも思える
行き場を失ったユダヤ人が権利を主張できるという文言が前半にあり、それによってイスラエルが建国されたという背景があるので、それをアメリカでも行なったとことになるのだろうか
劇中でも、エルサレムに帰ることが正義のように語るジョーフィアと対立するラースローがいるのだが、それに対するアンサーのようにも思えた
いずれにせよ、宗教に対する知識が必要な作品で、ユダヤ教徒のラースローやエルジェーベト、カトリックに改宗したアッテラ、プロテスタントであるハリソンなどの立ち位置というものがベースにある
ユダヤ人の迫害の歴史があり、アメリカに来るしかなかったという戦中戦後の状況があり、イスラエルの建国にまつわる話も登場する
このあたりに興味がないと苦痛の200分なので、観る人を選ぶ映画のように思えた
ちゃんとインターバルがあって、15分間用意されているので、生理的な苦痛は緩和できると思うが、精神的な部分はどうしようもないので、そのあたりの覚悟を持って臨んだ方が良い案件なのかな、と感じた
感動的な再会のその後
インターミッションがあって助かった。
もしなかったら座席が悲惨なことになっていたと思う。
「絨毯の方がまし」と怒られそう。
タイトルクレジットがオシャレ。
見たことない感じ。
芸術がテーマなだけある。
冒頭から「子供には見せられません」な場面から始まって、「この映画は大人向け」と宣言してくる作り。
重厚な人間ドラマで、大衆向けではないけど、こういうのが好きな映画ファンは多そう。
前半は「どんなに建築家としての才能があっても仕事がもらえなければホームレスと同じ」というシビアな話。
ただ、才能はあるので、一度才能を認めてもらえた後は順風満帆で、前半は可もなく不可もなく。
インターミッション後、数年が経過したところから再開。
ここから一気に面白みを感じた。
前半の会話中に出てきた人物が後半から登場するが、「なんか思ってた人と違う」感が凄い。
勝手に理想化していたこっちが悪い。
悲劇的な運命で引き裂かれた恋人が苦難の末に念願の再会、なんてしたらその後はハッピーエンドになるのが普通の映画だと思うが、この映画はその後がリアルに描かれていくのが興味深かった。
よくよく考えたら、ホロコーストを生き延びてアメリカへ渡ってまず最初に風俗に直行するような夫なわけで、年老いた妻と感動的な再会を果たしたとしても、恋愛感情が昔のままではない場合があっても不思議ではない。
人生がうまくいくかどうかは金持ちの機嫌次第という展開は、トランプ大統領再選後のアメリカと通じるものがあり、憂鬱な気分になった。
1950年代当時には早すぎたかも知れないブルータリズム建築様式の第...
1950年代当時には早すぎたかも知れないブルータリズム建築様式の第一人者のユダヤ人が、あたかもアメリカに実在してたかの様な不思議な映画。
「何んで こんなシーン入れたんだろう?」と何回か思った。バスタブに◯◯する、忍び足で後ろから近づくとか。後、不思議な音楽の使い方も特徴的。
そして奇抜なオープニング、奇抜なエンディング。
撮影も特徴的で上下逆さまの自由の女神像が直ぐに横向きに写される、歩く主人公の背中をひたすら追うカメラ、走る自動車や列車の目線、長い尺の映画なのに "省略" して観客に「どうして そうなった?」と想像させる。
私が観た回(12:10 - 15:50)は結構観客が多かった 珍しいビスタビジョンのフィルム撮影映画。
映画館で集中して見るべき作品。
※100分 → インターミッション15分 → 100分 (休憩中の15分の画面は撮影がOKで家族写真とカウントダウンがある)
※休憩中に読む冊子がもらえる
※ブルータリズム:コンクリートやレンガなどの素材をそのまま使用し、装飾を極力排除した建築様式
壮大などんでん返し
毎度お馴染みのナチス物。今年は「リアル・ペイン 心の旅」に続いて早くも2本目でした。
そんな本作の特徴は、何と言っても3時間35分というインド映画ばりの上映時間の長さ。近年劇場で観た映画の最長は「アイリッシュマン」の2時間29分、続いて「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」の2時間26分だったので、恐らく自己最長記録と思われます。ただそれら2作は休憩なしのぶっ通し上映だったのに対して、本作は途中15分の中入りがあり、トイレの心配もなく観られたのは幸いでした。
肝心の内容ですが、ハンガリー出身の実在のユダヤ人建築家であるラースロー・トート(エイドリアン・ブロディ)が、ナチスの迫害を逃れてアメリカに渡り、そこでも辛酸を舐めながら自分を貫き通して建築家として名を残すまでの半生を描いたものでした。
ペンシルバニアに辿り着いたトートは、最初従兄弟を頼って本職の建築の仕事を始めたものの、客からのクレームというか契約違反が原因で金を支払って貰えないという理不尽の結果、従兄弟とも決別。その後は日雇い仕事で糊口を凌いでいたところ、以前クレームを付けて来た大富豪ハリソン・ヴァン・ビューレン(ガイ・ピアース)に建築の才能を見出されてビッグプロジェクトを任される。でも芸術家気質の主人公は周りと調和が取れず、大富豪とも最終的に決裂。
また、後半になってヨーロッパに取り残されていた妻エルジェーベト・トート(フェリシティ・ジョーンズ)が姪っ子とともにようやく再会を果たすものの、夫婦仲はしっくりしなくなっていく悲劇。それでも妻は最後まで夫の側に立ち、寄り添っていたのがせめてもの救いでした。最終的に建築物が完成し、ラストは一応ハッピーエンドでした。
以上、祖国でもアメリカでもぶっ叩かれて半ば精神的におかしくなってしまった主人公・トートの物語でしたが、とにかく音楽や映像が特に素晴らしく、筋や役者の演技を際立たせていました。トートが作ったマーガレット・ヴァン・ビューレン・コミュニティーセンターの造形美は、画面を通してすら荘厳さが伝わってくるほどで、また大理石の採石場の場面なども、まるで異界に行ってしまったような浮遊感があって素敵でした。主演のエイドリアン・ブロディの演技も真に迫っていたし、彼を称賛し、嫉妬し、蹂躙した大富豪ハリソンを演じたガイ・ピアースの”アメリカらしさ”を地で行く演技も良かったです。
前述の通り、途中15分程の休憩を挟んでくれたことや、物語の展開が非常にテンポが良かったこともあり、3時間35分の長丁場も案外あっという間でした。
で、最後までトートが実在の人物だと信じて疑わなかった私ですが、鑑賞後に入場時に配られた「建築家ラースロー・トートの創造」という冊子を読んだら、なんと「本書の内容は一部を除きすべて架空の内容です」とのこと。まんまとブラディ・コーベット監督に騙されてしまうという壮大などんでん返しに、非常に驚いた次第です。
そんな訳で、本作の評価は★4.6とします。
215分は長く感じなかった
アメリカ映画は生きていた
空白の時間
ユダヤ人以外はどうみればいいのか?
数あるユダヤ人映画でも、これはホロコースト後の移民建築家を描くものであるが、架空の人物であるし長すぎる。観客にフレンドリーな語り手とはいえない。インターミッションを挟む映画体験は珍しいし、秀逸で斬新なカットや役に命を吹き込む俳優陣は讃えたいものの、脚本は頭が堅くて私の心にはなにも届かなかった。
移民の数々の苦難としてみてもどれも味があるようなないような演出で多くの場合であまり情も理も感じない。それどころかおそらく意図から離れるだろうが、それって民族差別だから、移民だからと言えるものなの?ってすら感じてしまうくらい描写が弱い。
が、ここは一旦折れて、彼らの苦しみを正面から受け止めてみる。彼らの希望までの苦難は狭く長い道のりなのだろう。建築物の哲学が自身の存在を物語るためには、あらゆる工程にこだわりを強くするのは理解できるし、妻や石工との衝突もわからなくない。しかし、ユダヤでないアメリカ人や日本人にとってその閉じた空想的構造物の物語から何を見出せばよいのか?我々の民族が同じ受難に見舞われることがあれば、きっと映画の外でも同じ気持ちになれるのかもしれないが。
詳しい解説はほかのレビューを参考にして気がつかないポイントを発見すれば評価も変わるかもしれない。しかし、この物語のいう「時代を定義した上で時を超えるもの」に普遍性を見出すまで縁もゆかりも感じない人々にとってはこの映画はどう扱えばいいのか戸惑いを隠せない。これが賞候補に上るのはなぜだろう。
そればかりか、多少厳しい言い方をするなら、この映画を体験してこの物語の構造を見抜いたり、思いを馳せたりしても畢竟、架空の人物物語で成り立っているのだし、下手に同情をするような観客にもユダヤ人は無だとしてるとメッセージを投げつけるようでは、非ユダヤ観客のユダヤについての映画を体験することを否定につながることにならないか。だったらこの映画を見ることもナンセンスになる。戦争や世界の悲劇を描いた作品が観客にそう言う映画ばかりならもうあまり関心を持つのも諦めたくなる。
さらに忌憚なく言うなら今のところアンチ反ユダヤの目線を多分に含んだスノビズムの民族高揚映画だと受け取っています。
全編に流れる薄明るい映像、彼の半生、彼の作品、タイトル、エンドロール・・・ 一貫したデザインが美しくも冷たい
第二次世界大戦後のアメリカを舞台に、ハンガリー系ユダヤ人の建築家ラースロー・トートの30年にわたる数奇な運命を描く。
来場者特典として配られたリーフレットから実在の人物かと思いきや架空の存在だったラースロー・トートは、同様の運命をたどったであろう人々の象徴として創造される。
15分のインターミッションを挟んだ前半・後半ともに100分という構成もまた建築の対称物のようだ。
さらにこの長さも、ラースローの半生を感じさせるために必要だった十分な長さである様に感じる。
彼がデザインしたとする家具から建造物、スタイリッシュなタイトルやエンドロールのタイポ・グラフィ、逆さまな自由の女神までもが彼の作品の美しさを表して、映画で描かれる、歓びが少なく常に苦悩に満ちて冷たい半生もまた彼の作品を思わせる。
統一された印象が薄明るく美しい。
大事なのは到達点であって旅路ではない
やっぱり長い
新しい映画!長さを感じさせない!
面白かった!3時間超えの映画なのに、観終わった後に、すぐまた観たい!と思った映画は始めてです。
まず、映像・音楽が、ものすごく良かった。それぞれの役者も、ものすごく良かった。私は、美術館とか好きなんですが、好きな絵って、ぼーっと長い間見てても飽きないですよね。そんな感じの映画でした。
映画は、ラースロー・トートというヨーロッパで将来を期待されていた建築家が、ホロコーストを生き延び、アメリカに渡って建築家として再出発するという話しなのですが、これがこのあらすじからは想像出来ないような映画になってて、良い意味で裏切られました。
まずは、ラースロー・トートという建築家は、実在しない建築家ですが、『この映画は、実話を元に…』的な感じを観る者にイメージさせているところが、凄いなと思いました。まぁ、まず最近のこういうあらすじの映画って、観る前とか観た後に、『この映画は…』ってテロップ出がちなので、勝手にイメージしちゃいます。きっと主人公は、「ホロコーストを生き延び、何かのメッセージを込めた作品を創った偉大な建築家」なんだろうと。
劇中に出てくる、ラースローの作品は、どれも素晴しいし、良いやん!と思うのですが、これからアメリカで偉大な建築家になっていく人が、作ったと思うから、良いやん!と思うのか、本当に良いのか、分からなくなってきます。
序盤で、ハリソンが、自分の書斎を勝手に改装したのが、実はヨーロッパで名の売れていた建築家と知って、掌返しするシーンがありますが、最初は「こういう奴いるよな〜」と思って観てたのに、映画を観終わった後、「良いやん!」と思ってたラースロー作品も、ラースローを偉大な建築家やと勝手に思って観てたからなだけで、本当はそれっぽく似せて作られてるだけのものを良いと思ってたのか?それなら、ハリソンと変わらんやん、建築とか家具とか絵とか、そういう物の芸術的価値への評価って、結局なんなんやろ?と考えさせられました。
これがもし、本当に実在した偉大な建築家なら、「おー!凄い!」で、観る側は終われてたのに。でも、そう思ってしまうぐらい、ラースローの作ったものは良くて、それをちゃんと鑑賞させてくれる映像のつくりも、凄く良かったんですよね。
次に、『ホロコーストを生き延びたユダヤ人の描き方』。ラースローが、アメリカで直面するのは、ハンガリーでナチスから受けて来た、分かりやすい差別や迫害では無くて、なんか薄い膜に包まれたような差別。
黒人には、「出ていけ!ニグロ!」みたいな分かりやすい差別をするけど、ラースロー達には訛ってるから英語を習った方が良いとか、表面上は紳士的に振る舞って取り繕ってるけど、明らかに下に見ているみたいなところで、結局差別してるなと、感じます。
最たるシーンは、ラースローがハリソンにレイプされるところ。たぶん、天井の高さは、映画の中でラースローにとって自由を表していて、天井の高い洞窟?でパーティーを、自由に楽しむラースローを見て、なんでもコレクションしたいハリソンは、言葉もわからない異国で自分を放置して自由にしてるのが許せなかったのかな?と思いました。私は、その支配欲が、レイプに繋がったと解釈しています。
とにかく、ハリソンは性的に興奮してレイプしたのでは無いと思います。支配したくてレイプしてると感じさせるところに、WASPの表面的ではない、膜に包まれたような差別を感じ、これはむしろ今の世界に蔓延している差別なんだろなと思いました。
最後は、エピローグ。姪っ子のジョーフィアが式典で、ラースローの作品をシオニズムと絡めて語っています。
長い間に、ラースローの考えが変わったのならそうなのかもしれませんが、劇中でラースローはそんな事は一言も言ってません。締めのエピローグで、大団円風にしながら、スピーチがちぐはぐなところが非常に面白かったです。
それっぽく素晴しい作品を登場させ、ラースロー・トートという実在しない人間を描いたように、ジョーフィアの中で勝手に新しいラースローが出来上がっていたのかもしれません。もしかしたら、シオニストのアピールのために、そう語ったのかも。
長くなりましたが、ラースローを通して何かを学ばせるようで学ばせない。受け手にこの映画を含めた、全ての芸術的な美の解釈を放り投げたまま、放置してしまうという、めちゃくちゃ面白い映画だったと思います。
よく、圧倒的な没入感とか映画の予告で良いますが、そういう意味で、この映画の没入感は凄かった!
だから、癖になるというか、また観たいと思ったのかもしれません。
小冊子「建築家ラースロー・トートの創造」
第97回アカデミー賞において10部門にノミネートされている本作。以前はスカラ座だったTOHOシネマズ日比谷のSCREEN12(東京宝塚ビル地下)は同劇場最多座席数の大きな箱ながら、平日の割にそこそこの客入りで作品に対する注目度の高さが判ります。
本作の監督、ブラディ・コーベット。今作で初めて「アカデミー賞監督賞」にノミネートされたわけですが、彼のフィルモグラフィーでを過去の監督作品を確認すると『シークレット・オブ・モンスター(16)』『ポップスター(20)』となかなか個性を感じさせる2作品。そして本作でも裏切らず「いろいろと戸惑わせてくれる作品」に仕上がっています。
まず入場時に配られた小冊子「建築家ラースロー・トートの創造」。鑑賞前にあまり情報を入れないようにしている私は、それを見るともなしにサッと目を通してバッグに仕舞い込み、これから始まる長丁場に備えます。なんせ、本作の上映時間は215分。ただ、本作は大きく2部構成となっており、開始から1時間40分ほどで1部が終って15分のインターミッション(途中休憩)が入ります。その間は客電も点き、スクリーンにはカウントダウンも表示されるため落ち着いてトイレ休憩も可能。高揚感たっぷりで終わった1部のことを考えつつ、本作の主人公ラースロー・トート(エイドリアン・ブロディ)に興味が湧き始めた私。そういえばと思い出し、改めて例の小冊子に目を通します。そうこうしているうちにカウントダウンは1分を切り、再び小冊子を仕舞って2部に控えます。実は「劇場でのインターミッション初経験」の私、再開後の2部にすぐ集中できるか若干の不安もあったのですが、、2部の冒頭で早速、1部で出演のなかった「あの人」の登場シーンに、流石の存在感と演技力にすっかり涙腺を刺激された私。そこからは、1部以上に波乱万丈が続き「果たして、ラースロー・トートはこの偉業を成し遂げるのか?」心配がやまない展開。で、全て観終われば幾つか冗長に感じるシーンもなくはないのですが、215分の上映時間はインターミッションの効果もあって案外長くは感じませんでした。
そしてすっかりお昼のピークタイムが過ぎ、いつもは行列のできるラーメン屋に待ちなしで入店。この時点で本作を「建築家ラースロー・トートの伝記映画」と勘違いしている私、配膳を待つカウンター席にてWikipediaを検索、、ん?該当がない??。。何でだ?と思いながら改めて「小冊子」を出し、今度は注意深く目を通してようやく気付く小さな級数の注記に目を凝らすと…「本書の内容は一部を除き全て架空の内容です。」何と、全て創作だったとは。。。まぁそれを知ると、本作(特にエピローグ)に強く感じるシオニズムに対し、どうしても「今起きていること」が引っかからずにはいられないのですが、唯一無二の作品性と役者達の素晴らしい演技に対する高い評価は納得の一言。騙されたことも含め、すっかり楽しみました。いやはや参りました。
絶誘惑。
第二次世界大戦下のホロコーストを生き延びた建築家でヤクがやめられないラースロー・トートの話。
ハリソン家の息子に頼まれた1室、読書部屋(図書館)の改装を頼まれ…、改装当時は文句をつけられるが後に評価され、ハリソン家父から新たな依頼が…。
転機が訪れるも思った様に事は運ばず…、急なデザイン変更、事故、そこを経ての少し人に対してピリついちゃったり…。
唯一、主人公に共感出来たのは設計した天井を3メートル低くされ怒る、ここは色々計算されてのその高さでしょうしね。
上映時間215分ビビってましたがちゃんと15分休憩があるのは親切、…ごめんなさいどの作品でも賛否あるけど全然私には合いませんでした!時間の長さはそこまで感じないけどストーリーに全く面白さを感じず、始まって早々眠いし、数年ぶりに途中退席しようかなって思ったくらい…、ただこういった話も楽しめる様になれればとも思う。
商業映画としては実に含みをもたせた展開。安易な解釈を許さない。
世に難解な映画はたくさんあるがこの作品は別に難しくはない。観るのが苦痛になるといったところもない。でもこれほど異様な展開で進行する映画もあまりなくて全く先が読めなかったし観たあとでも腹落ちがなかなかしない。
入場時に「建築家ラースロー・トートの創造」と名打ったリーフレットをもらえる。映画のサービス品であるのだが美術展で配られるリーフレットと同じ体裁で、トートが設計したマーガレット・ヴァン・ビューレンコミュニティセンターの概要やその美術的位置づけを写真入りで解説してある。でもこれは全く架空のものなのである。そうこの作品は実在もしくはモデルがある人物の評伝ではなく完全なオリジナル脚本によるフィクションである。科学者なり芸術家の「業(ごう)」みたいなものを描いているという点では「オッペンハイマー」に似ているんだけどね。アイデアの素みたいなものはあったんだろうけどまさかこれがオリジナルだとは、と原作本、漫画があって当たり前の邦画を見慣れている日本人観客としては思うのです。
ところで、パンフレットには書いてあるかもしれないけど「Brutalist」の語源の話です。意味としては1950年代に英国のAlisonとPeterのSmithon夫妻が提唱したコンクリート打ち放しでそのテクスチャーを活用した建築家のことです。だからフランス語の「beton brut」〜生(き)のコンクリート〜からbrutを取り、同じような傾向の建築家をbrutalistと呼んだようです。建築様式としては割とすぐにモダン建築(ほらル・コルビジェや丹下健三なんかの)に吸収されたようだけどね。英語のbrutal(野蛮な)とは語源が一緒なのかもしれないけれど多分そちらではない。
ところでトートは自分は「Brutalist」だとは一言も言ってないし、まわりからそのように言われている場面もない。バウハウス出身だから流れとしてはそちらではあるんだけどね。ただこのbrutというのはトートの性格を表しているんだと理解することもできる。つまり純粋だとか、世間知らずだとかそういう意味で。
そうこの映画が予想できない展開になるのはトート自身の考え方や行動の傾向が全く予想できないから。周りのハリソン・フォンビューレンや妻のエルジューベトのような個性の強い人に引っ張られ右往左往しているだけのようにみえる。そして脚本上の仕掛けとしては、建築家だけに建築物に彼の思想は凝縮されているということで映画の最後にヴェネツィアで開かれる建築ビエンナーレでもはや身体がいうことのきかない彼に代わり姪のジョーフィアが種明かしをする。ここでホロコーストの記憶を残すこと、希望への足がかり、妻への愛などが建築の思想として披露されるが彼自身の発言でないから本当のところは分からない。私には彼が造ったたものは、彼自身を(そしてハリソンも妻も)永遠に閉じ込めておく牢獄に見えたけど。ホロコーストの傷跡というものは人の心の中で再生産されていくんだということなのかもしれないね。
最後に「Brutalism」のことだけど、建築様式としては過去のものにはなったがデザインの世界では生き残っているようです。例えばネットサイトのデザインなんかに。この場合は、非対称であるとか、文字だけ、写真だけといった素材の少なさ、バックを黒白一色にするとかが特徴になるようです。つまりこの映画のタイトルバックやエンドクレジットは「Brutalism」のデザインということです。凝ってるよね。
アカデミー賞大本命の理由が分からん
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