ザ・ルーム・ネクスト・ドアのレビュー・感想・評価
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母と娘と友人の濃密な物語
「死の棘」の島尾敏夫とミホをなぜか想いながら最後まで瞬きも惜しく見てしまった。
マーサは、娘ミッチェルとの関係に悩みながら、そして、友人のイングリッドにその悩みを打ち明けた上で、死を選ぶ。マーサは、ミッチェルが父の不在を恨み、マーサとの関係が壊れたとイングリッドに説明しつつ、実は、戦場ジャーナリストのマーサの強さが、ミッチェルには母ではなくむしろ父的な存在であり、従いミッチェルが求めていたのは、会うこともかなわぬままに死んだ父ではなく、実は母親としてのマーサその人であったことが、マーサの言葉から徐々にわかってくる。
イングリッドは、マーサの死に立ち会うことを恐れながらも、どこかでこの友人の安楽死をともに迎える稀有な体験を、作家魂で書ける機会と捉えている節がある。それは、マーサの戦場日記を図らずも垣間見たときに強く自覚したことを、マーサにイングリッドが「あなたのことを書いていいか」と問うた時、我々はそれに気づく。
マーサの死後、マーサの貸し別荘にやってきたミッチェルは、映画としては脇役だが、マーサに恐ろしく似ていることなど、母娘の長年の誤解と確執から和解の時に移行したことを感じさせる。ミッシェルとイングリッドが並んで横たわる長椅子に(ーマーサはその長椅子で安楽死の薬を飲み自死したー)、マーサの愛したジョイスの小説の一説である雪片が静かに、そして、深く降り注ぐ。映画を彩った芸術的な色彩も、この白い雪にはかなわない。白い雪の中に、ミッシェル=マーサとイングリッドは、引いていくキャメラの俯瞰の中に溶けていく。さながらマーサもイングリッドもそして若いミッシェルも、雪の中で息絶えていくかの様だ。美しい映画である。
冒頭に「死の棘」と言ったのは、「死の棘」のテーマはこの映画とは何の関係もないが、小説家(島尾敏夫とイングリッド)が、故意であれ偶然であれ日記(島尾敏夫自身が不倫の相手のことを書いた日記とマーサの戦場日記)を読ませた、あるいは、読んだことで、物語(小説と映画)が生まれるということが双方に通底するテーマと感じたというたわいもないことである。
好きなものに囲まれる最期には、その物語を語る存在が必要なのではないだろうか
2025.2.4 字幕 MOVIX京都
2024年のスペイン&アメリカ合作の映画(107分、G)
原作はシーグリッド・ヌーネスの小説『La habitación de al lado』
安楽死を望む旧友に寄り添う作家を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本はペドロ・アルモドバル
原題は『La habitación de al lado』、英題は『The Room Next Door』で、ともに「隣の部屋」という意味
物語の舞台は、アメリカ・ニューヨークのマンハッタン
オートフィクションの作家として活躍しているイングリッド(ジュリアン・ムーア)は、書店でサイン会を開くなど、積極的な活動をしていた
そんなサイン会に友人のステラ(サラ・でミスター)が訪れ、かつて同僚だった旧友・マーサ(ティルダ・スウィントン、若年期:エスター・マクグレゴール)が末期癌で闘病中であると告げる
早速マーサの元を訪れたイングリッドは、新しい治療法にチャレンジしていると聞き、少しばかり安堵の心持ちになった
だが、その治療法は効果がなく、マーサは徒に時間を浪費しただけだと荒ぶれた
それから数日後、イングリッドはある決意を胸にイングリッドと対峙することになった
それは、ダークウェブにて入手した薬で死ぬというもので、安息を求めて、郊外の貸別荘に移り住むというもので、イングリッドに隣の部屋に待機してもらって、死の瞬間まで連れ添ってもらう、というものだった
そして、彼女の寝室のドアが閉まっていたら実行している合図で、あとは「何も知らなかった」で通してほしい、という
数人の友人に断られた末にイングリッドに連絡が入ったのだが、熟考の末、彼女はマーサの願いに寄り添うと決めた
映画は、最期の時を過ごすマーサに寄り添うイングリッドが描かれていて、そこに辿り着くまでに多くの友人たちに依頼をしてきたと告げられる
その一人であるステラがマーサの今を伝えることになっていて、彼女の証言がマーサを不利に運ぶ材料になりかけていた
だが、自殺願望がある人と一緒に時を過ごしたというだけでは罪に問えるはずもなく、サラ曰く「宗教的盲信者」と断罪されても無理はないと思う
マーサが実行に移したのは、イングリッドが嘘をついてデイミアン(ジョー・タトゥーロ)と会った時なのだが、おそらくマーサはイングリッドがデイミアンと会っていることに気づいていると思う
彼女は、デイミアンが講演に来る街の別荘を借り、書店でわざわざ彼がここに来ていることを伝えているし、元カノ同士の赤裸々トークも彼女から話題を振っていた
おそらくは、計画通りに事が運んでも、マーサが問い詰められることは明白なので、その助け舟を用意していたようにも思えた
ちなみに、書店に寄った際には、イングリッドはマーサが気にした本『エロティックな流浪』『地上からの眺め』を購入していて、マーサ自身は『How To Look At A Bird』という本を購入していた
エリザベス・テイラーとリチャード・バートンの伝記である『エロティックな流浪』と、ヨーロッパの激動を記した『地上からの眺め』は、おそらくはマーサの恋愛観と人生観を示すもので、その2冊はとても分厚い本だった
これは、私が死んでもその本を読み終えるまでは死なないでという意味に思え、マーサ自身が購入したのは簡単に読める『How To Look At A Bird』で、初心者向けのバードウォッチングの絵本だったのも印象的である
この本を読み終えたらという意味もあると思うが、それよりも「イングリッドが夜中に起きて隣に寄り添った」という行為がマーサを決意させたのだと思う
この日、イングリッドはスポーツジムに通い、そこでトレーナーのジョナ(アルヴィーゼ・リゴ)と体の丈夫さの話をしていた
その際にジョナは、「ハグしてあげたいが」という趣旨の発言をし、そのアドバイスに対して「ハグしてもらった気分よ」という言葉を返していた
この言葉があったからこそ、夜中のイングリッドの行為があり、それにマーサは気づいて、満足そうに眠りについていた
思えば、この一連の日々は、マーサが寄り添う相手を選ぶ日々でもあり、イングリッドがそれに相応しいのかを試しているようにも思える
だが、実際にところ、イングリッドの死生観とか人生観というものにマーサは感化されていて、そこに自分の死の物語を残そうと考えていたように思う
多くの引用を用いて、映画や小説などの話をし、彼女が愛した書籍に囲まれて過ごす日々というのは、その後そこを訪れた娘ミシェル(ティルダ・スウィントン)への遺言のように思う
娘との誤解を解くためにはマーサ自身を理解してもらう必要があるし、話せなかった物語を語る時間も必要だった
それゆえに、あのタイミングになったのかな、と感じた
いずれにせよ、この物語は「疎遠の娘と母親を再会させるための死」を描いていて、マーサ自身が綺麗に死にたいというものとはかけ離れているようにも思える
実際には、化粧をして、お気に入りの服でお気に入りの場所で亡くなるのだが、それも踏まえた上で、娘に残したいメッセージだったのだろう
唯一の心残りだったものは自分では成し得ない和解であり、それを友人に託すことは残酷なことだと思うのだが、同じ時代を生きて、同じ人を好きになった間柄ならば、少しぐらいは伝わるかもしれない
どこまでがマーサの意図的な部分かはわからないが、隣の部屋にはそう言ったものが満ちてほしいと考えていて、その部屋にふさわしいのがイングリッドだったのかな、と感じた
いつまでもこの映画の世界にいたい
最期はスイスで安楽死するのが長いこと人生の夢だったので参考になるかと思って鑑賞しました。それから、予告編のアートと、この映画の落ち着いたシックな雰囲気が好きだったから。
観ましたがやっぱりアートワークは思った通り最高、、お部屋、インテリア、調度品、ファッション、メイクなど、原色と、アクセントカラー、配色、そして、ヴォッテガのバッグを含めて、格子模様の使い方が上手い!
主人公のバッグは病院訪問~看取りまで、全てヴォッテガでした。三色ぐらい見ました。
森の家のガーデニングセンスも最高に好きな感じでした。
ずっとこの映画の世界にいたいと思うほど美術が良かった。
ラストに近づくにつれて配色が地味になっていくのですが、マーサの部屋の真っ赤なドアと、そして死に際しての衣装は南国の鳥みたいな、まさかの黄色!靴も黄色。
安楽死というアートだ、とさえ感じた。人は自分の死を芸術に出来る。
最後は作品で何度か言及されたジョイスの小説の名シーン
「全ての生者と死者の上に降り続ける雪」で、どんどん、画面は単色に近づいていきますが、針葉樹が美しく、墨絵のようにも見えました。
素晴らしい~~~
映画館を出てから、日本の街並みがあまりにも汚いので絶望しました。
きたない灰色や、黄ばんだコンクリートや、踏み散らかされたみぞれ雪の濁った茶色ばかりです。そこはかとなく汚らしく、みすぼらしく、悲惨に感じられます。
やはり日本の不幸の一つは街がビジュアル的に汚いことでしょうね。
日本の美術は陰影礼賛と言われるように。「かげ」、光が遮られて出来るかたちを味わい深く活かすのが真骨頂だと個人的に思ってるのですが
コンクリートとか、セメントとか、昔はそんな素材、無かったよ?というものが、日本でどんどん建設に使用されてます。現代の人工的な建築素材と日本の伝統的な美があまり合わないので、汚いのでしょう。町を陰鬱に見せるだけです。
ケア施設はそれはそれで、使い古された校舎のような、疲れ切ったパステルカラーの組み合わせなので、高齢者や病人のための施設がそんなんでは、見ているだけで停滞と絶望を感じます。もうちょっと綺麗で、活力の湧いてくる配色にして欲しいです。
それから。。マーサにも共感できた。抗がん剤治療によるケモブレインで以前読んでいた本も楽しめず、人生から楽しいことが一つずつなくなっていく。癌患者支援団体の「癌はギフト」「精神的成長(スピリチュアルグロウス)の機会」という言葉なんてクソくらえだと思う気持ちも。命のバトンだの最後まで生き抜けだのきれいにサラリと言いすぎなんだよ、当事者の苦しみから目を背けてるのと同じでしょ?!と常々思っていたので
自分で幕を引きたい。最後ぐらい好きにさせて。と。
安楽死の薬って探せば手に入るのかな?
日本は、自殺は罪だとか、自殺ほう助するなとか、うるさくてたまらないが、この映画には善悪の価値判断判断が入ってなくて、マーサは「うんざりだ。だから自分で死ぬ。私がそうしたいと思ったらそうする。」という人だった。また、類を見ない鮮やかなアートワークも、この映画独自の世界を作り上げていて、そこにも、周囲が何と言おうと私はこういうスタンスでいたい。というマーサの気質と同じものを感じた。
「みんながダメだといってるし、祖国の法律はダメだといってるけど、自分は決してそうは思わないこと」って世の中にたくさんあると思う。日本での安楽死もそうだし。
LGBTが法的に犯罪とされてる国は今でもある。昔は、夫が先だって火葬されれば、いっしょに、未亡人の女性が燃え盛る火の中に飛び込まないと「犯罪だ」とされる文化もあった。米がないのに闇米を食べたら犯罪だといわれた時代があった。…とか、、「現代日本ではけっしてダメなことではないが、時代と文化の違いにより、ダメだとされていたときがあった」ことは挙げたらキリがないぐらいある。
今、叩かれている安楽死も反出生主義もその一つだと思う。日本の法制度が追いついてないだけだ。
決してダメな事ではない。
黙れよ、自殺はダメだとか言ってるスピリチュアル野郎。お前の為に生きてるんじゃない!
世界中の皆から批判されたって、「それでも自分はこうありたい」というのは、大事な精神の一つだと思う。
なにからなにまで、みんなに言われたからって、譲歩する必要はない。
ある日突然死なねばならないのは怖い。
この映画のように薬を手に入れて、自ら、安楽な「臨終の瞬間」を迎えたい。
最高の死に方だと思う。
たくさんの引用が出てきますが、文学的で美しい映画でした。
まさにアート作品
「安楽死」≠(ノットイコール)「尊厳死」
ベネチアで金獅子賞受賞の本作。前日の降雪予報もあり、積雪の心配がなくなった昨日の午後まで待ってオンライン購入したのですが、その時点ではまだガラガラ。しかし実際に劇場へ訪れた本日、10時40分からの回は平日の割になかなかの客入りです。
今回も予告やあらすじを見ず、前情報なしに鑑賞です。全般会話劇でありつつも全ては語らず、やや謎めいた雰囲気と心配事の多い設定に、ティルダ・スウィントン×ジュリアン・ムーアと言う実力派俳優の「抑えのきいた演技」でミステリーの要素も感じるヒューマンドラマ。
あることがきっかけでマーサ(ティルダ)と再会することとなったイングリッド(ジュリアン)。闘病中のマーサは戦争ジャーナリストであり、その経験も踏まえ自身の死生観に対して確固たる考えを持っています。がん告知を受けたものの元々は治療する意思がなかったことや、娘との関係、そして娘の父親に関する過去について語るマーサに熱心に付き合うイングリッド。久々に会う友人との語らいに生き続けることへ前向きになりかけた矢先、治療への期待を裏切る「転移」という結果に、マーサは以前から考えていたある計画をイングリッドへ打ち明けます。
闘病中の友人に対する同情という気持ちに収まらず、背負いこむ覚悟をするイングリッド。恐らくは、マーサの死生観に対して「深く理解したい」という(イングリッドの)物書きならではの心理と、同業者ならではにそのことをすかさずに見込んだマーサの「思惑の一致」が生んだ期間限定の共同生活。未経験の緊張感や恐怖心にお互い戸惑いながらも、偶然が生んだ「想定外」をきっかけに計画以上の満足感で、これぞ正に「尊厳死」という最期を迎えるマーサ。その後の些末なアレコレをバッサリとやっつけ、もっと重要なことを美しく魅せる物語の「終着」はとても美しく、107分とコンパクトにまとめられた作品は「THE完璧」。流石のペドロ・アルモドバル、あっぱれです。
彼女の選択や頼み事の理由がよく分からない
癌で余命幾ばくもない女性が、どうして「安楽死」を選んだのかがよく分からない。
平和で静謐で尊厳のある死を迎えたいという願いはよく理解できるのだが、緩和ケアを用いれば、ある程度「生活の質」を維持しながら、安らかな死を迎えることは可能なのではないだろうか?
現代の医学は「末期」や「不治」といった言葉を許容しないという台詞が出てくるが、決してそんなことはないのではと思う。
「自分の人生を自分でコントロールしたい」という気持ちも分からないではないが、自らの死期が近いことを知っているのならば、わざわざ自死を選ばなくても良いのではないかとも思ってしまう。
おそらく、彼女がこうした選択をしたのは、戦場で、多くの死を目の当たりにしてきたからなのだろう。
自分の意思とは関係なく、無惨に死んでいった兵士達の最期を見て、自分はそうはなりたくないと思ったのかもしれない。
しかしながら、彼女の娘の父親が、ベトナム戦争で心に傷を負った様子が描かれたり、彼女自身がイラク戦争で経験した、同僚記者のエピソードは出てくるものの、彼女の死生観や、それに影響を及ぼした出来事について、明確な説明はないのである。
同じように、彼女が、友人に、「自分の死を看取る」のではなく、「死ぬ時に、隣の部屋にいてほしい」と頼む理由もよく分からない。
淋しくないように人の気配を感じていたいと言うのであれば、死ぬ間際までそばに居てほしいと願うのが普通だろうし、結局、彼女が、友人の不在時に計画を実行したことにも釈然としないものが残る。
それとも、すべては、友人に「自殺幇助」の罪を着せないための配慮だったということなのだろうか?
いずれにしても、そうした彼女の選択や頼み事の理由がよく分からなかったために、最後まで感情移入することが難しかった。
彼女の死後の、警察の取り調べや娘の訪問にしても、中途半端な描き方で終わってしまったような気がしてならない。
本当の末期癌患者のようにガリガリに痩せ細ったティルダ・スウィントンも、死にゆく者に対する慈愛の心を見事に体現したジュリアン・ムーアも、共に名演と思えるだけに、「よく分からない」感じを最後まで払拭することができなかったのは、とても残念だった。
色彩に息をのむ
隣にいることを考える
ティルダはいつだって変幻自在。人間だけじゃない。吸血鬼、天使、魔女。いかなる性別であれ、いかなるアイデンティティであれ、何にも囚われず自由に意識を流動させるところが好き。
ジョイスが意識の流れを外に開放させようとしたように。
ジュリアンムーアはいつだって人間の量感たっぷり。相手との一筋の糸を取らまえながら存在そのもので語るところが好き。ヴァージニアウルフが自分に意識を集中させたように。
本作は死についての映画ではない。やがて訪れる死を前にして人はどう生きるかという映画。
そして、死にゆく人に目を背けることなく側にいること、何も言わずにただ耳を傾けること、すべてを目撃する繋がりの映画。
私たちは誰かの隣の部屋にいる。ガザやウクライナの人々の死と共鳴するのは恐ろしいことだけど、私たちは彼らの隣の部屋にいる。彼らと繋がることを拒否しない優しさ。そのことをグサリと思い出させられた。
読書が大好きだった人がもう本を読めなくなったり、ひとつずつ自分の機能を失い始める辛さを、ティルダも〝自分自身が減ってしまう〟と言っていた。だからこそ、最後に真紅のルージュを引きイエローの服で自分自身を停止させなかったところが詩的で美しかった。
一方で、メタファー的な死とは、固定観念や過去に支配され自ら判断・選択することを停止した者のこと。取り調べをした単純思考の警察官や、「新自由主義と右翼が台頭する世界で…」ってセリフにも、思考停止に対する不安と批判が凝縮されていた。
それでは、過去に囚われ、誰かを助けるために火の中に飛び込んだ青年のことは?
ラストのピンクの雪は、死者と生者 、批判する者と批判される者全てを一色に埋め尽くす。意識の階層の分断、その構造を全て均質化させた。
ヴァージニアウルフの遺書「また自分の頭がおかしくなっていくのがわかります。(中略)私にはもう何も残っていませんが、あなたの優しさだけは今も確信しています。」の言葉が思い出されて、本作の二人の物語に滲み出ているように思った。
あなたの選択よ‼️
末期ガンを宣告されたマーサは、親友イングリッドにあるお願いをする。それは自らの最期の時に傍にいて欲しいというものだった‼️人間にとって誰もが持つ不安 "どんな死を迎えるか"、そして大事な人がそんな状況に陥った時、自分は何をしてやれるのか⁉️尊厳死とその手助けという難しいテーマを扱い、非常にヘビーな内容ながらも、爽やかな印象の残る作品ですね‼️画面構成や鮮やかな美術などにアルモドバル監督らしさが出てると思うし、主人公の二人を演じるティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーアの演技が素晴らしいです‼️自らの人生をフラッシュバックしながら、最期の時まで一生懸命生きるマーサ‼️そんなマーサの力になりたいと思いながらも、自殺への加担という、いわば犯罪に躊躇するイングリッド‼️そんな二人の、過去に同じ男を愛したみたいなやりとりを含めた穏やかな日々に、死への恐怖や生きる歓びといったテーマが内包され、ヒジョーに見応えのある名作だと思います‼️そしてマーサの娘ミッシェル‼️ベトナムへ従軍したフレッドとの間にマーサが授かった一人娘のミッシェル‼️戦争での心の傷が原因でマーサと別れ、火災で亡くなったフレッドの娘ミシェル‼️仕事で多忙を極める母とすれ違い、父の愛を知らずに育ったミシェルは、マーサとイングリッドの会話の中で登場するだけなのに、その存在感がスゴい‼️そしてラスト、ティルダ・スウィントンの二役で登場するミシェル‼️あれだけ他人行儀だった母のベッドで眠り、母の長椅子で休息を取るミシェル‼️マーサが唯一の心残りだったミシェルとの確執‼️そんなマーサとミシェルとの雪解け、それを見守ったイングリッドへの祝福のように雪が舞う、セピアな画面のラストがホントに素晴らしいです‼️
誇り高き死を
身近に同じ病気の人がいたんですかね監督さんは…?
自分が大きめな病気になった時に、「自分の命が誰にも知られないまま終わるのは嫌だ」って気持ちなら体験したことがあります。
だから、誰かに尊厳死を見届けて欲しかった気持ちは、結構飲み込みやすく。
しかも、大親友ってわけでもないから全力で止めてこようとしないイングリッドって、多分ちょうどいい距離感なんですよね…
ところどころの会話から、マーサは治験を受けてるけど(つまり標準治療が効かなかった?)、それがうまくいかなかったと想像する。
死より、死ぬまでに味わう痛みや苦しみのほうが怖いとか、治療中の情緒不安定具合とか、わかるわかる!でした。
戦場記者って、死は身近だけど、「病気で苦しむ」って状況はきっと見慣れてない。
病気で痩せたからだを隠すように、ボリュームのある服を着るマーサが、最期はスタイルがよく伝わる服を着ていく。
対照的に見えたイングリットとマーサにも、やっと等しく雪が降る。
病気で亡くなったら自分のしたことが全部チャラになる…って表現じゃないのが結構グッときた。
あの状況で、「お母さんを許してあげて」とか言われたら絶対耐えられない。生きてきたことをありのまはま残す、って意味があったりするんでしょうか。
このテイストの作品でよく見かける、「死を見つめることによって、生の素晴らしさを感じる」
その捉え方も正解だと思うけど、
誇り高くあろうと自分で選択したマーサの最期が、素晴らしくないなんて私には言えない。
自由な死
自殺となると宗教的な理由で許されない国なんですね。尊厳死という選択。だけど独りで過ごすのは寂しい。
二人での、会話が楽しい。
最後に、スーツを着て口紅をぬった姿はとても美しかった。
美しいマーサ
美しく死にたい、気が狂いそうな程の痛みに侵され人間らしい思考が保てなくなる前に…
癌の痛みは壮絶と聞くけど、人格保てなくなるほどの痛みって
見てる方もつらい
普段は上品な女性が、痛みゆえにすごい言葉を吐く。私も自分の尊厳を保てないほどの痛みに見舞われ続けるのが分かってたら…終わらせたいと思うかも。
そう思ってても、「近いうちに自死を決行するけど、隣の部屋にいて(事後の処理をして欲しいの)」とかの友達の頼みを受け入れるのは、辛いんだよ。イングリッドはとても強く優しい心を持ってる。あの狂信的な警官もそこは見抜いた(あなたは友人に自死を見守ってくれと頼まれれば断れない人だと)。
ミシェルは同一人物かなってほどそっくり。
色彩豊かに、主演女優の演技力を武器に描かれる旅立ち
「尊厳死」を題材に、病に侵された女性が、安楽死を求めて親友と共に過ごす数日間を描いた意欲作。
監督は、色鮮やかな映像とユーモア溢れる作品群で数々の賞を受賞してきたペドロ・アルモドバル。本作も2024年度ベネチア国際映画祭にて金獅子賞を受賞。W主演には、ティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーアの2大オスカー女優。
小説家のイングリッドは、自身のサイン会にて旧友から親友のマーサが闘病生活で入院している事を聞かされる。
見舞いに訪れたイングリッドは、再会したマーサと病室で語らいあう。かつて戦場ジャーナリストとして活躍していたマーサの人生は、若かりし日の恋人との苦い思い出や、彼との間に出来た娘との軋轢がありながらも、1人の女性が送ってきた人生として充実していた。
しかし、そんなマーサにも容赦なく病魔は歩み寄る。投薬治療も効果が無いと悟ったマーサは、「尊厳のある死を望む権利くらいはあるはず」と、ネットの闇サイトで安楽死の薬を入手。
「人の気配を感じながら最期を迎えたい」と、イングリッドに最期の日々を共に過ごしてほしいと懇願する。はじめは戸惑いつつも、イングリッドはマーサの要望を聞き入れ、彼女が借りた森の中の家で、彼女と最期の数日間を過ごす事になる。マーサは、自身がもうこの世にいない場合の証明として、自室のドアについてイングリッドに告げる。
「もしドアが閉まっていたら、私はもうこの世にいない」
私はアルモドバル作品初鑑賞。しかし、これ一作だけでも、監督の持つ独自の作家性を存分に味わう事が出来た。「尊厳死」を題材にしつつも、作品を彩る鮮やかな背景や美しい音楽が、最後の旅立ちへの物語を暗くさせずに演出している。それは、監督自身も意識していた部分であり、「死」というものを暗く陰鬱に描くのではなく、あくまで一つの旅立ちとして表現している。また、画角に収まる人物や小物の配置、ファッションに至るまであらゆる視覚的部分に拘っている事が伺える。
W主演のティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーアは同い年。何処か両性具有的な雰囲気を放つ個性派のティルダと、女性的な優しく暖かな印象を与える王道派のジュリアンの共演は、ともすれば個性のぶつかり合いに成りかねないかもしれないのに、抜群の調和を持って画面に溶け込んでいる。
そんな本作を語る上で、ティルダ・スウィントンの放つ「病に侵され、尊厳死を望む」というリアリティある女性像は外せない。これまで私は、『コンスタンティン』(2005)の天使ガブリエルや『ナルニア国物語』シリーズの白い魔女、『ドクター・ストレンジ』(2016)のエンシェント・ワンといった超常的存在を数多く演じてきた彼女に、リアリティある女性感を抱いた事は無かった。しかし、本作では癌に蝕まれ、思考がネガティブになっていく、精神的孤独を恐れ、親友に最後の頼みを行う姿のどれもこれもが、抜群のリアルさを感じさせる。不吉な発言ばかりで、時にイングリッドとの間に気まずい雰囲気が流れる様も他人事とは思えなかった。
対するジュリアン・ムーアは、長い赤髪と緑の瞳が放つ抜群の包容感で、ティルダ演じるマーサの最期の日々に寄り添う。長い間交流の無かった親友が、最後に頼る存在としての説得力がある。小説家としてではなく、親友としてマーサへの素直な言葉を紡ぐ姿の暖かさ。劇中で恋人のデイミアンが言う「君は他人に罪悪感を抱かせず、苦しむ方法を知っている」という台詞が印象的。
また、チョイ役ではあるが、マーサが自殺した後、イングリッドを取り調べる事になる警察署の刑事を演じたアレッサンドロ・二ボラも印象に残る。狂信的なカトリックである彼は、マーサの尊厳を無視して自殺を絶対の悪として捉え、協力者であるイングリッドにも厳しい視線を向ける。彼の言葉は、決して間違ってはいない。しかし、世の中には「正論では救えない事」がある。だからこそ、僅かな出演時間と台詞ながら、それを否定する彼は本作唯一の悪役として強烈な存在感を放つのだろう。
本作を鑑賞した者ならば、自然と頭を過ぎるであろう「私がマーサの立場ならどうするか?」「私がイングリッドの立場ならどうするか?」という問い。私は、マーサには共感出来るのだが、イングリッドの持つ底知れない包容力は持ち合わせていないと思ってしまう。また、尊厳死として自殺を選択せざるを得ない現在の司法の是非についても、安易に答えは出せない。
しかし、先述した「正論では救えない事」があるのは間違いないし、あの刑事のようにマーサの死を責めたてられるだけの「自らの正義」はない。そう選択したのなら、それを理解は出来なくとも受け止めはすべきだと思うから。
マーサが雪降るマンハッタンの街を眺めて引用する『ザ・デッド/「ダブリン市民」より』(1987)の台詞と、それをアレンジして語るラストのイングリッドのシーンの美しさが圧巻。
【雪が降っている。寂しい教会の墓地や、すべての宇宙に、おぼろげに降り続く。かすかに降る雪。やがて来る最期のようにーすべての生者と死者の上に…】
【雪が降っている。一度も使わなかった寂しいプールの上に。森の木々の上に。散歩で疲れ果て、あなたが横になった地面に。あなたの娘と私の上に。生者と死者の上に降り続く】
死と向き合うこと
ベネチア国際映画祭金獅子賞作品。末期癌に侵された60代女性戦場カメラマン(ティルダ・スウィントン)、安楽死を願うが、病院でも1人でも死ぬのを拒み、長年疎遠になっていたが昔からの知り合いの女流作家(ジュリアン・ムーア)に最期を看取ってもらうように頼みます。二人が最後に暮らす数日間の物語。死を覚悟しながらも、自分の思い通りの生活をする、それを見守りながら死と生の間で揺れ動く、二人の女性の心理が見事に描かれています。ティルダ・ウィンストンの映画は初めてですが、演技派で長身、スレンダーなスタイルがかっこよく役柄に合っています。ジュリアン・ムーアもアカデミー主演女優賞を取るほどの演技派。私としては、マドンナ主演の「ボディ」での引き立て役や「ハンニバル」のジョディ・フォスターの代役などを経ての円熟した現在の演技が素晴らしいです。監督ペドロ・アルモドバルはスペインの監督らしく、赤・青などの色使いが鮮やか、雪の色が印象的です。ラストシーンがとても素敵です。
期待度◎鑑賞後の満足度◎ 嘗て“死”というのは生活の中で、社会の中でで、世界の中で生者の隣に居たのに、現代人はいつから“それ”が来るまで正面から向き合わなくなったのだろう…
①ペドロ・アルモドバルの監督作品で、主演の二人がご贔屓且つ現代映画界も最も優れた俳優であるティルダ・スウィントンとジャリアン・ムーア(でも老けた)と来たら、観ない訳にはいかないでしょう。
②初の英語作品ということだが、内容的には「母と娘」の物語、往年の映画・文学へのオマージュ(今回は特にジェイムズ・ジョイスの『ザ・デッド』と、ジョン・ヒューストン監督の映画化版作品)といったアルモドバル作品にはお馴染みの要素が散見される。
③ゲイにも触れられるけれども、「戦争の恐怖・悲惨さに比べたら世間で半道徳的と云われることなどつまらないこと」という台詞は刺さった。どこかの国のトップや政治屋達に聞かせてやりたい。
④それより、本作では「死」とそれに向き合う人間の姿が全面に押し出されている。
“生”と“死”とは隣り合わせ。
陳腐な連想かも知れないけれども、原題の“The Room Next Door”というは、「生と死」とのその関係性を暗喩しているのだろう。
間を隔てる扉の開閉がそのまま「生と死」を隔てている有り様のメタファーとなっている。
⑤また、登場人物たちの語る話の端々に人間の“死”だけでなく、“死”に向かう社会、世界の有り様をそれとなく散りばめていることで、風刺劇の側面をも持っている。
⑥
生き様と死に様
癌を患い死を覚悟した元戦場記者の女性と、彼女に寄り添う友人の作家の話。
本を出版してサイン会を行っているイングリッドのもとに友人がやって来て、マーサが癌を患っていると聞かされて巻き起こっていく。
かなり仲の良い古くからの友人の設定の様だけれど、娘のこととかその父親のこととかの離しの持っていき方が今更なのか?とちょっと脚本の都合を感じる流れもあったけれど、いよいよ余命が告げられて、そして森の中の家に住むようになって…。
あらすじ紹介を読んだだけではイマイチ判然としなかったけれど、扉を閉める時は薬を使う時ということなんですね。
病気や治療のせいで、時に精神的に不安定な状況に陥る友人と、素の感じで向き合う主人公が悲しく温かかった。
ただ、これを観て何を思えば良いのか…決して悪い作品ではないし共感出来るところもあったけれど、刺さるところはなかったかな。
メイビー・ネクスト・タイム
性と死
ザ・ルーム・ネクスト・ドア
イングリットの小説家の紹介の後、
マーサの紹介が始まった。
戦場カメラマンは、
殺戮の中で安らぐのはSEXだと、同性同士の行為を女性戦場記者に臆面もなく語り、
今インタビューした戦地の二人の男性達も恋人同士だと言い放った
マーサが20歳前に、戦地からPTSDで帰還した恋人と別離のキスして、その延長で激情に任せて性交に至り、その時に妊娠し、その後、戦場記者となった故に、戦場でのSEXの興奮が深く分かるのだろう
また、次の夫との激しい営みが同じ夫となるイングリットと赤裸々に語り合えるのが頼もしい
そんな生死の殺戮の戦場が、
自身の身体に癌として命を奪いに襲って来た時、マーサが選んだのは人間として尊厳ある最期を過ごし終えたいと言う望み…
その為には、介護でもなく寄り添わなくてもいいから信頼できる人を感じながら、隣の部屋に居るだけでいいから最期を迎えたいと言うことを疎遠だったイングリットに頼む
その思いと深部には、やはり、かの戦場カメラマンと同じように、理解あるイングリットに肌を触れられながら安穏の中で、その日を感じ、受け入れたのであろうか
その後に完璧に安楽の死に至る身だしなみを整え薬を飲んで白昼に屋外テラスの長椅子に横たわった
立派な終わり方だった。
素晴らしいロケーションと友人に包まれたその死は、爆弾と血肉飛び交う中を生き抜いた戦場記者だからこそ望んだ死のあり方だと思う。
二人は1960年11月と12月生まれの同い年生まれであった。
イングリットは、小説家というよりカウンセラーのようでしたね。
生きることを精一杯やって来たからこその安楽死であり、尊厳あるものと受け入れたいものだ。
こんな自前ホスピスを夢見るのもいいかも知れない。
そう言えば、
映画監督ジャンリュック・ゴダールさんがスイスで安楽死を選択したのを思い出す。
彼の友人がそうだったようだ。
(^_^)
ザ・ルーム・ネクスト・ドア
スペインの名匠ペドロ・アルモドバルによる初の長編英語劇で、2024年・第81回ベネチア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞したヒューマンドラマ。
ティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーアという当代きっての演技派の2人が共演し、病に侵され安楽死を望む女性と、彼女に寄り添う親友のかけがえのない数日間を描く。
重い病に侵されたマーサは、かつての親友イングリッドと再会し、会っていなかった時間を埋めるように、病室で語らう日々を過ごしていた。
治療を拒み、自らの意志で安楽死を望むマーサは、人の気配を感じながら最期を迎えたいと願い、“その日”が来る時にはイングリッドに隣の部屋にいてほしいと頼む。悩んだ末にマーサの最期に寄り添うことを決めたイングリッドは、マーサが借りた森の中の小さな家で暮らし始める。
マーサはイングリッドに「ドアを開けて寝るけれど、もしドアが閉まっていたら私はもうこの世にはいない」と告げ、マーサが最期を迎えるまでの短い数日間が始まる。
「フィクサー」でアカデミー助演女優賞を受賞し、アルモドバルの短編英語劇「ヒューマン・ボイス」にも主演したティルダ・スウィントンがマーサを演じ、
「アリスのままで」でアカデミー主演女優賞を受賞したジュリアン・ムーアが親友イングリッド役を務めた。
ザ・ルーム・ネクスト・ドア
La habitacion de al lado
2024/スペイン
演技は流石ですが、共感は出来ませんでした。
私はまだマーサと同じ立場になったことがないので、実際に同じ立場になったらどうするかは分かりません。ですので、あくまで想像上の話ですが、私ならば人生の最後に友人に迷惑をかけるようなこと(下手をすれば犯罪者になるかもしれないこと)は絶対にしたくありません。人に迷惑をかけてまで安楽死をするくらいなら尊厳死を選びたいです。なのでマーサには全く共感できませんでした。
それから、扉が閉まっていたらもうこの世にはいない、という設定がいかにも作り話的でとてもチープに感じました。
あと、マーサとマーサの娘を一人二役でやる意味ありげな意図も理解できませんでした。
ただ、ティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーアの演技は流石でした。
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