見逃していた、シュルレアリスム100年映画祭の7演目めを阿佐ヶ谷にてクリア。
これでフルコンプです。うーむ、達成感があるなあ(笑)。
家でぐずぐずしていたせいで、遅れて最初の5分ほどを見逃してしまったのだが、本人映像でがっつり固めた見どころの多いドキュメンタリーだった。
息子や若い後妻が父なり夫なりをナレーションで語るという構成になっていて、よく調整がついたなあとか思いながら観ていたのだが、エンドクレジットを観るかぎり、関係のない声優が声を当てているらしい。なんだよそれ、インチキじゃねーか(笑)。
マックス・エルンストという人は、日本ではどれくらいの知名度のある画家なのだろうか。
日本で「シュルレアリスム」というと、思想家としてのアンドレ・ブルトンはさておき、まずはサルバドール・ダリ、それからジョアン・ミロが筆頭にあがって、それからマグリットが来て、エルンストの名前が挙がるのはたぶん4番手くらいになるのではないか。
人によっては、イヴ・タンギーやアンドレ・マッソン、ポール・デルヴォーあたりを上げる方もいるだろう。
だが、欧米での知名度でいえば、もしかしたらエルンストのほうが上かもしれない。
長く活躍したうえに、アメリカとパリでの滞在期間が長く、二大市場で大きな存在感を示した点は大きい。
理念上も、画風上も、さまざまな技法を考案してみせたという点においても、エルンストほどに「シュルレアリスム」運動を体現する画家もいない。
とくにヒエロニムス・ボスで卒論を書いた僕からすると、エルンストの「モンストルム」(兆候・警告・奇形・怪物的なるもの)への妄念と、あけすけなまでの偏愛は、こたえられない魅力であるように思える。
彼ほどに「怪物」「神話的・伝承的存在」「グロテスク」「不気味なもの」「歪みとしての畸形性」に執着したシュルレアリストは他にいない。
作中でアメリカ時代の代表作のひとつ「聖アントニウスの誘惑」が登場するが、あからさまにボスやグリューネヴァルトを意識したその怪異と嗜虐の饗宴は、彼が両画家の精神的後継であることを示すとともに、その漫画的ともいえる居直った通俗性は、間違いなく次代の幻想画家たち(&SFやホラーの挿絵画家たち)にも大きな影響を与えたといえる。
コラージュ、フロッタージュ、デカルコマニー。
オシオグラフ、アクションペインティング。
技法上も、彼が開拓し、次代に引き継がれた要素は大きい。
とくに「コラージュ」の技法は、シュルレアリスムにおける最大の手法である「デペイズマン(物をそれが本来あるはずがない場所に置いたり、ありえない組み合わせで並置することで、観る者に大きな衝撃を与える)」と密接に関連しているし、フロッタージュ(木目の上に置いた紙を画材でこすって模様を浮き出させる)やデカルコマニー(絵具が乾く前に紙を貼り付けてはがす)の技法は、シュルレアリスムの核心ともいえる「偶然性」や「オートマティスム(自動筆記)」の概念と親和性が高い。
作中でエルンスト本人が自慢げに語っているアクションペインティングについても、彼が若い世代に伝えた理念がジャクスン・ポロックを介して花開いたのは確かで、その功績は大きいだろう。ちなみに若いころのジャクスン・ポロックの絵は明らかにマッタやマッソンを思わせるシュルレアリスム寄りの作風で、アクションペインティングの源流がシュルレアリスムにあるのは間違いないように思われる。ちょうど、ルネ・マグリットの作風がポップアートに影響を与えたといわれるのと似たものを感じさせる(マグリット自体はポップアートと同列視されるのを嫌がっていたようだが)。
エルンストは、シュルレアリスム芸術の体現者として、あらゆる芸風の作品を残し、さまざまな技法を開拓し、それは次代の画家たちによって引き継がれた。
伝統と前衛。保守性と革新性。
具象と抽象。哲学的深遠と皮相な通俗性。
彼は両極のありかたを軽々と跳躍しながら、
それぞれのスタンスで代表作を残していったのだった。
彼は生活面においても「放浪と衝動」の画家だった。
数々の女性と浮名を流し、きわめて活力的に、無尽蔵のヴァイタリティを示して動き続けた人だった。軍隊を経験し、敵性外国人もしくはナチの捕囚として収容所生活も経験した。アメリカ亡命後は、文明生活とサバイバル生活を行き来し、女と住居を転々と変えながら、充実した一生を送った。
とにかく、エルンストってこうやって映像で観てても、いい男なんだよね。
いっつも上半身裸で、ちょっとヘミングウェイみたいな野性味がある。
自分で家を建てて、壁を塗って、トーテムを組み立てて、自身の王国を作り上げる。
美女をはべらせて、自給自足の生活を送り、精力的に絵を描き続ける。
本作では、2年間におよぶアリゾナでのドロテア・タニングとの生活ぶりに、長尺を取って焦点を当てているのだが(要するに記録映像が残っているということ)、若い女と砂漠の果てみたいなところで、掘っ立て小屋建てて、クロコダイル・ダンディか、ケーブル・ホーグかって極上ワイルドライフを送ってるんだよね(笑)。
電気がついに開通して、ストラヴィンスキーの「春の祭典」を大音響でかけるとかさ。
荒野のヒエロニムスのような生活環境だけど、美女同伴で煩悩も満たされてるから、こちらもぐうの音も出ない。シュルレアリスム界の東出くんみたいな。
あこがれる。うらやましい。あやかりたい。
俺もあんなふうに暮らしてみたい。
まあ、モテるよね。
あんだけさらっと家建てちゃうんだから。自分で。
絵が描けて、インテリで、生活力があって、
肉体労働も出来て、映画にも何本も出て、
けっこう無敵すぎる。
こうやって、映像に残っているエルンストを観ると、彼は単なるシュルレアリスムを代表する画家だったというよりも、亡命芸術家によってパリからニューヨークに芸術の都が「移転」してきた40年代という時代を代表するアイコンであり、ヒーローだったんだなあと。
その意味では、彼の芸術的な立ち位置を再考するよすがになるとともに、エルンストという「人物」の魅力を再発見する好ドキュメンタリーだった。
いやあ、ちょっとエルンストのファンになっちゃったよ(笑)。