ビバ・マエストロ!指揮者ドゥダメルの挑戦のレビュー・感想・評価
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あの指揮者の笑顔の理由
ここ長野県塩尻市、
上映のためのフイルムは、都会を回遊したあとに、ゆっくりとこの片田舎に廻ってくる。
映画館での鑑賞を心待ちにする間に
2024年12月11日の
ドゥダメルの「ノートルダム大聖堂 リ・オープン演奏会」―
「サン・サーンスの3番、オルガン付き」、
この第三楽章をYoutubeで楽しんだ。心底楽しんだ。
彼のYoutube映像は、今まさにタイムリー。雨後のタケノコのようにアップが増えている。本人のチャンネルも開設された。
演奏会シーンだけでなく、練習の光景もいいのだ。凄くいいのだ。
「ドゥダメルの あの指揮」を見ていると、ほら、見ている僕らまで顔がほころんてしまうのはどうしてなんだろう?
音楽への喜び。
人間への信頼。
それが溢れている。
そして5年前のあの悲惨な火災から立ち直った、パリの魂にして世界の至宝=ノートルダム大聖堂 復活への歓喜。
笑っているドゥダメルの指揮は、そうなのだ、僕らの笑顔まで、そのタクトで引っ張り出してくれるのだ。
・・ (失礼ながら) お顔のお怖くていらっしゃる指揮者もあまた沢山いるけれど、「この人に会いに行きたい!」と思わずにはおれないドゥダメルは、本当に魅力的な人だ。
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素晴らしいドキュメンタリーだった。
とても見やすくて分かりやすい。
指揮者とはどんな役割を成しているのかも僕たちに教えてくれる。
こわばっていたそれまでの演奏が、ドゥダメルの夢見心地の一言で新しい命を吹き込まれる瞬間。音が一変するあの瞬間には驚愕した。
人と人との「中垣」を外し
クラシックファンと、音楽に縁の無かった“取り残されていた部外者”たちとの「障壁」を毀コボち、
東と西と、南と北との、世界の「国境」をその翼で安々と越えようとする彼。
「奇跡」は暴力によってではなく、その人がらによって起こるのだと僕たちに目撃させてくれる。
しかしこの「笑顔」の影には、実はこんな苦難も経てきたお方なのだと
初めて知らされた本作だった。
そして圧巻は、エンディングでの「師匠アブレムへの追悼コンサート」。
全員が喪服だが、ドゥダメルは国情ゆえ故郷を捨て、失意のうちに、裏切るかのように楽団を離れざるを得なかった“難民状態”の演奏者たちを探し出して、再びその羽根の下に集めた。
そして (ここで僕は打ちのめされて涙が止まらない) 、
あのチリ・サンチャゴで死んだ詩人パブロ・ネルーダ。その人の詩の一編をば演奏会決行の縁ヨスガとしてドゥダメルは仲間に語る
「すべての花が刈られようとも、春は必ずやってくるー」。
そして言葉を次ぐ
「君たちは残った根っこなんだよ」と。
「イル・ポスティーノ」でパブロ・ネルーダへのレビューを捧げたばかりだった僕は、続けて観ることになった本作の、この言霊の持つ迫力、
そして言霊が人を生かす力に、ただ猛烈に圧倒されるばかりだった。
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失意の時こそ、祝祭が輝くのではないか?
分断と不信。脅迫と戦争ばかりのこんな時代だからこそ、世界が彼=ドゥダメルの指揮に賭けて、「ノートルダム再建演奏会」に、彼に白羽の矢を立てた事。
納得しかない。
“人間回復”を、希望させてくれました。
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「オーケストラ全体を抱きしめなさい。
手は飛行機のように、鳥のように
手には翼と胴体があり、鳥は飛びながらそこに風を感じる。
自分の手に風を感じるんだ」。
ドゥダメルを薫陶したアブレウ氏の彼へのアドバイスだ。
楽団員は、指揮者によって支配されるのではなく、プライドを持って輝く音楽家になってゆく。
いいなぁ。
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映画館での、今年最後の鑑賞でした。
忘れられないX’masプレゼントを頂きました。
塩尻、東座のみなさん、そしてフォロアーの
sow_miyaさんにSpecial thanks。DMでのオススメを頂き感謝です。とっても良かったです。
小雪の中、バイクで駆けつけましたが、ベネズエラの指揮者にハグされて、僕の心はこんなに温かです。
ありがとうございました。✨✨
音楽の無力に直面し、なお音楽の力を信じるということ。国を想う魂のスピーチに思わず感涙。
いや~~
泣くわ、こんなん。
ずるいよ、作り方が(笑)。
ラストの飲み会での演説はヤバい。
で、あの演奏会でしょ?
マジで涙腺が決壊しそうになった。
プロの演出だよね。
最近観たドキュメンタリーのなかでは、出色の出来だ。
まず、語り口が丁寧だし、とっつきやすい。
ドゥダメルの誠実で温厚な人となりがよく伝わるし、愛されている理由がよくわかる。
彼の出自と、彼が育ってきたエル・システマの組織や概要、彼がいま抱えている大きな問題についても、門外漢が観てもすっと理解できるようにつくってある。
映画的なギミックとしても、いろいろな図像が「消えていく」アニメーションをはさむことで、本作のテーマ――故郷の喪失、関係性の喪失、ライフワークの喪失といった部分をうまく表現している。
登場曲は超名曲だけで固めていて、音楽の力も大いにあて込んでいる。
ベートーヴェンの5番のリハで、ドゥダメルの指揮者としてのこだわりと指導力を示し、
ベートーヴェンの9番のリハで、彼の友愛と連帯への理想主義的だが切実な想いを示す。
プロコフィエフの「ロミオとジュリエット」のリハでは、「距離」に苦しむ姿を見せつつ、
ドヴォルザークの9番のリハでは、子供たちを乗せて「ゾーン」に導くカリスマ性を示し、
チャイコフスキーの4番のリハでは、愛する恩師の死に対する深い哀悼の念を分かち合う。
その他、バーバーの弦楽のためのアダージョや、マーラーの交響曲第5番の冒頭、マルケスのダンソン数種など、適所にドンピシャの音楽が置かれていて、ミキシングも抜群に良い。指揮者の言葉や指示で「音が変わる」瞬間や、「オケに生気が宿る」瞬間を、うまくとらえて音として刻印している。音楽に身を任せているだけでも、ぐっと乗っていける音楽ドキュメンタリーになっているのではないか。
語られている内容自体は、もしかすると結構いろんなことが「はしょられている」のかもしれない気もする。
実際、ドゥダメルはもともと国を出てアメリカで成功した指揮者で、現役のロサンゼルス・フィルの音楽監督(2026年からはニューヨーク・フィルの音楽監督)だから、ロスを簡単には離れられないし、ベルリンやウィーンでもしょっちゅう振っている、いわゆる「ジェット機指揮者」であって、もはや「ベネズエラの人」ではない部分ももともとある(ちなみにご家族はスペインにいるらしい)。単純に「国から出禁にされてかわいそう」といっただけの話ではないはずだし、ベネズエラ内部の音楽家たちから見ても、ドゥダメルは、ウィーン国立歌劇場でシェフをしていたころの小澤くらいには遠い存在なのだろうと思う。
政治的な内容に関しても、本当はもう少し複雑な背景がありそうだし、国家の側にも相応の理屈はあるのだろう。少なくとも暴動の実態は、この映画からはあまり伝わってこない。
ドゥダメルの思想も、作中で展開されているのはあまりに理想主義的な非暴力論で、実際はもう少し込み入った政治的主張をしているのではないかと思うのだが、製作者は「なるべくそのへんは簡素に、平易に、図式的に」まとめようとしている気配がある。
とにかく、紛争のなかで音楽は「無力」だということ。
それでも音楽には「価値」があり、演奏することには「意味」があるということ。
ベネズエラが生んだ「エル・システマ」は国家の誇りであり、国体の変化に左右されることなく未来に向かって継続されるべきものだということ。
そこさえ押さえておけばよい感じである。
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この映画自体は、「権力に音楽が蹂躙される」様を描く映画ではあるのだが、「エル・システマ」の理念の中核には、実はクラシック音楽のもつ「権威性」に素直に依拠している部分もあるように思う。
それを貧民街の子供たちに無償で分け与えることによって、子供たちに「誇り」と「力」を持たせ、生きていくための中核を形作る作業こそが、エル・システマの根幹でもあるからだ。それが、軍隊であり、武器であるかわりに、オーケストラであり、楽器であるということだ。
芸術の権威性というのは、意外に「よりどころ」としては機能すると僕は思っていて、結局は日本で子供にピアノやバレエを習わせるのも、そう異なる次元の話ではない。子供たちは芸術を学ぶと同時に、それを形作ってきた歴史と遺産によって精神的に「武装」するのだ。
南米の徒手空拳の貧しい子供たちにとって、それは日本や欧米よりもずっと命にかかわる切実な問題である。
成り上がる手段として、軍隊に入るか、サッカー選手になるしかなかったところに、「クラシック音楽」という思いがけない(しかもきわめて平和的で教養的な)第三の選択肢を与えて、ヤクの売人になる以外に道がなかったはずの子供たちに文化的に生きるすべを与えた、エル・システマと、そのグルであるアブレウの功績は果てしなく大きい。
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言いにくいことなのだが、
もともと僕はドゥダメルという指揮者自体には、あまりシンパシーを感じたことがない。
これまでの来日公演で少なくとも
2013年のミラノ・スカラ座公演の『序曲集』プロと、『アイーダ』(演奏会形式)全曲
2014年のウィーン・フィル公演の「ツァラトゥストラ」&ドヴォ8プロ
2015年のロサンゼルス・フィル公演のマーラー交響曲第6番
2019年のロサンゼルス・フィル公演のアダムス&マーラー交響曲第1番と、ジョン・ウィリアムズプロ、マーラー交響曲第9番の3公演
の計7公演を生で聴いているはずだが、実のところ、あまり感心したことがない。
ドゥダメルという人はとてもオケとの協調性を大事にする人で、偉大なオケと来日するときには、オケの流儀に合わせた穏当で守旧的な解釈をとって演奏することが多いのだ。
あえて自分の個性を強く打ち出すことはなく、どちらかというと、オケの弾き癖にまかせてうまく情報整理してまとめていく感じ。シモン・ボリバルとのCDで聴くような、ドゥダメルならではのラテン的な高揚感だとかイケイケの解釈というのは、すっと鳴りを潜めてしまう。
マーラー演奏に関しても、彼のアプローチはラトルやアバドにも似て、原典準拠の純音楽的スタイルである。
バルビローリやミトロプーロスのような、主情的で狂気を秘めたマーラー演奏を激しく好む僕のような好事家からすると、彼のはだいぶと薄味で陽性のアプローチだ。マリス・ヤンソンスの9番ほどに聴いていて腹立たしい怒りを喚起されるわけではないが(笑)、僕の興味のないタイプの演奏家であることは間違いない。
ところが数年前に、ドゥダメルの変化を感じさせる映像を観た。
ドゥダメルがマーラーの交響曲第2番をミュンヘン・フィルと教会で演奏しているDVDなのだが、ふだんは颯爽とスポーティに振っているイメージの強いドゥダメルが、レナード・バーンスタインのごとく楽曲に没入しながら涙目で振っている様子がうかがわれる。演奏もかなりケレンのきいた情緒的な側面を見せていて、ずいぶんとこの人も変わってきたんだなと思わされた。
その背後に、2017年以降の本作で描かれたような厳しい状況が存在し、2018年の恩師との悲しい別れがあったとすれば、なんとなく得心がいくというものである。
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指揮者という仕事は、身体の動きを用いてオケに指示を出す役割であることは確かなのだが、その前に指揮者は、「口」でやりたい音楽をオケに伝え、「口」で各楽器のプロの猛者たちを説得する必要がある。
だから、「顔」や「オーラ」で相手を屈服させられるほどのカリスマや老齢者を除けば、基本的に指揮者は弁が立つし、話がうまい。そして、「人たらし」である。
この映画でも、ドゥダメルがリハを通じて楽団員と意思疎通をはかり、相手に自分の目指す音楽のヴィジョンを伝える姿は何度も描かれている。
この指揮者のもつ「言葉」の力が最大限に発揮されているのが、ラスト間近、アブレウ追悼コンサート直前の夕食会で、ドゥダメルがベネズエラの若者たちに語る感動的なスピーチである。
これは、本当に胸を突き動かされるスピーチだ。
彼は若者たちに、君たちはベネズエラという国の、文化の、音楽の「根っこ」だと語り掛ける。たとえ花がすべて手折られても、春は必ず来る。根っこさえあれば、また花はいつか開く。
そして、国に残るという選択肢を選んだ彼らのことを、心の奥底から誇りに思うと、熱く賛辞を述べる。エル・システマが、厳しい政治状況下にあってもなお生き残っている現状を語り、未来永劫失われないその価値について称揚する。
そこには、祖国を出てアメリカに渡ってしまったドゥダメルの「うしろめたさ」と「申し訳なさ」も含まれていることだろう。それでも、共通する偉大なる恩師への愛と敬慕の念を紐帯として、ベネズエラの音楽家たちを結び付け、ウィーン・フィルやベルリン・フィル、ロサンジェルス・フィルからもメンバーを呼んで「教育」というエル・システマの重要な要素を踏襲しようとするドゥダメルの想いは、疑いようもなく本物だ。
僕は、ううっとこみあげてくる嗚咽をぐっと抑えながら、シモン・ボリバルと、ユースと、ウィーン・フィルと、ベルリン・フィルと、ロス・フィルの混成部隊によるチャイ4の魂の爆演を、涙目で観ていた。
そう、音楽は無力だ。
でも、音楽は大きな力を持っている。
音楽の政治的な無力をまざまざと見せつけられてなお、
音楽のもつ連帯と融和の力を朴訥に信じつづけること。
少しお花畑に感じるかもしれないけれど、
お花畑に殉じて、ただピュアに、一途に
愛と非暴力を語ることもまた「力」なんだろうなと
思わされる真摯なドキュメンタリーだった。
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以下、箇条書きにて。
●リハで、ベートーヴェンの運命の出だしの刻みに執着して、何回もシモン・ボリバルにやり直させるあたり、大指揮者バルビローリがハレ管とのリハで、ブルックナーの7番のスケルツォ冒頭の「トゥリタッタ、トゥリタッタ」の刻みに納得がいかず、えんえん何度もやり直させているのを思い出した。ふだん何気なく聴いているような演奏でも、こういう膨大な「こだわり」の積み重ねのなかで出来ているんだろうね。
●ベネズエラ本国の音楽やってる子供たちからは、ドゥダメルは完全にスター扱いで、サインとかねだられてて、ほとんど小澤みたい――というか、力道山とか大鵬とか王さんレヴェルの人気ぶりでビビった。あの状況下である意味、天狗にならずに「いい人」で居続けているドゥダメルってすごい人なのかも。
●奥さんが白人で、めちゃくちゃ美人。完全に嫁選びの仕方が「成功したラティーナ」(笑)。
●リハ終わりに何かかっこいいことを言って、「ランチ!」って締めるの、すげえレナード・バーンスタインっぽかった(笑)。
●ラストの追悼コンサートのヴィオラの最前列で、ベルリン・フィル名物のあのおでぶさん(ホアキン・リケルメ・ガルシア)がドーンと構えてたな。
●ラストの、タンゴみたいなダンスとロマっぽいヴァイオリンは何だろう?
すっげえ楽しそうだったけど。あと、貴重なドゥダメルによるヴァイオリン演奏シーン!
終映後、ダッシュで吉祥寺から横浜まで移動して日本フィルの演奏会に行かねばならず、パンフを買えなかったので、細かいことがわからない……。
一人でも多くの人に
映画が始まってまもなく、グスターボ・ドゥダメルが指揮してベートーベンの第9の練習をするところが流れ、私が未だ高校生の時、学校でTBSテレビのドキュメンタリー番組「小澤征爾”第9”を揮る」を観たことを思い出した。私たちは、皆小澤さんの音楽に触れて、クラシック音楽に親しんでいったのだ。それは、村上春樹さんも同じだと思う。
そのときのドゥダメルは、手兵であるシモン・ボリバル交響楽団のベートーベン交響曲全曲の欧州ツアーを控えていた。その映像に接しながら、ドゥダメルは単に音楽的な才能に恵まれているだけでなく、人を揺り動かす大きな力を持っていることがよくわかった。小澤さんや、レナード・バーンスタインがそうであったように。
オーケストラを振る場面では、やはりベートーベンの第5番の冒頭を練習する場面が印象的だった。5拍と言って4拍と言い直し、さらに3拍が大事と言う。そうだ、最初の1拍は休止符であり、次に8分音符が三つ続き、2分音符が伸ばされる。こんなに、最初の休止符が大事であることを教えてくれる姿は、これまでなかったと思う。ただ、マイクが音源に近すぎて、やや残念だった。日本のワン・ポイント収録のような優れた技術で、録音して欲しかった。
それにしても、2017年に、彼の祖国ベネズエラが政治的、社会的に危機に陥っていたことを、全く知らなかった。恥ずかしいことだ、彼の国のニュースは目にしていたのかも知れないが、それがエル・システマに及んでいたとは。ドゥダメルが、ベネズエラに入国できなくなった経緯もよくわかった。
しかし彼は、きっと遠い将来にはなると思うが、祖国の救済のために、あの国の文化相か首相、あるいは大統領として、招聘される日がくるだろう。どれくらい将来かまでは、わからないが、その日が来るまで、あるいは例え、その日が来ても、音楽を以って世界の人に語り掛けることを続けて欲しい。世界を代表する人間の一人として。
心に残る素晴らしいドキュメンタリー映画だ。
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私の得ていた情報が片寄ったものであった可能性がある。2017年オーケストラの海外公演ができず、ドゥダメルがベネズエラに入国できなかったことが全てと思っていた。しかし、2017年の彼の声明は十分ではなく「エル・システマ」を立ち上げたチャベス大統領を引き継いだ独裁者で、大統領選で混乱のあったマドゥス大統領を結局は容認しているのではないかとの批判があり、この8月には、ニューヨークでドゥダメルの指揮するコンサートに反対するデモがあったようだ。今後も、注意深く見守って行きたい。(2024.11.28 追記)
もっと聴きたかった
1981年にベネズエラで生まれ、10代の頃から天才指揮者として称賛を受けてきたグスターボ・ドゥダメルのドキュメンタリー。2009年に弱冠28歳でロサンゼルス・フィルハーモニックの音楽監督に就任し、TIME誌の、世界で最も影響力のある100人、にも選出された。母国ベネズエラの若手音楽家で構成されるシモン・ボリバル・ユースオーケストラを率いた演奏動画がブレイクしたり、2016年スーパーボウルのハーフタイムショウなど、活躍を続けてきた。しかし2017年、ベネズエラの反政府デモに参加した若き音楽家が殺害された事態を受け、ドゥダメルは現マドゥロ政権への訴えをニューヨーク・タイムズ紙に展開した。大統領府と対立したことでシモン・ボリバル・ユースオーケストラとのツアーは中止となり、祖国ベネズエラへの帰国も禁じられてしまった。そんなドゥダメルの栄光と苦悩の実話。
まだ43歳なのにものすごい知識と感性なんだろうと思った。
彼が指揮する曲をもっと聴きたかった。
祖国ベネズエラの若者たちに、いつか必ずまた指揮をしに行く、という約束が果たせる日を願ってます。
チャベス大統領の後を引き継いだ現マドゥロ大統領は相当な独裁者みたいだし、まだ61と若いから先は長いかも。
そんな感想。
ドゥダメルの魅力と葛藤が描かれた秀作ドキュメンタリー
指揮者ドゥダメル自身の魅力を余すところなく見せながら、同時にドゥダメル自身が育ち、今も支援し続けているベネズエラの音楽教育システム「エル・システマ」の責任者としての深い葛藤も描き出した秀作ドキュメンタリー。
まず「エル・システマ」の理念にとても感銘を受けた。富裕層も貧困層も関係なく楽器は無償提供。信条の違いを超えて、みんなで一つの音楽をつくりあげる過程を通して子どもたちを社会化し、人としての尊厳を持てるようにしていく。単なる楽器演奏の早期教育ではない「音楽を通した青少年教育」を実現した、ドゥダメルの恩師アントニオ・アブレウ氏の取組がすごい。
作中に「音楽は基本的な人権」という言葉が何度か出てくる。音楽にとどまらず、芸術全般は、人としての尊厳の肯定に深く関わっていると思っているが、これを具体的な現実の仕組みの中で、永続的に実現させていく困難さを考えるとき、この取り組みがほぼ半世紀続き、かつ世界各国に広がりをみせていることは驚くべきことだと思う。
その分、この取組を今中心になって牽引しているドゥダメルは、政情不安定な自国の子どもたちのよりよい環境での成長のために、自身の政治的な発言や行動がストレートにできないジレンマと苦悩がつきまとっていることだろう。
その彼が作中で語った、ベネズエラに残り「エル・システマ」の指導にあたっている友人からの電話のエピソードには泣けた。指導者として報われた瞬間の喜びが手に取るように伝わってきたし、ドゥダメル自身から私たちが感じ取る魅力も、演奏者の傍らにありながら、共に高みを目指す彼の指導者としての立ち位置あってこそと思う。
実際の所、世界では、例えばヘイト的な言動を繰り返すトランプが「言いたくても言えないことを代弁してくれる」と大統領選の支持率を回復しているという報道も流れている。
対立を、対話や音楽を通した調和で乗り越えていくには、まだまだ道は遠いかもしれない。
けれど、この作品を観ながら、その道をあきらめてはいけないという思いを強く持った。
音楽好きな方は、見ない訳にはいかない映画!
映画の予告編で運命の冒頭部分を聴き、これはフルヴェン以降カラヤンでさえ心に響かなかったのに、凄い演奏だと感動し「グスターボ・ドゥダメル」氏を調べたら、また「マンボ」の演奏に魅せられ、しかも2026年には、ラテン系指揮者で初のNY・フィルの音楽監督就任が決定しているというから、これは映画を見ない訳にはゆかないナ!と見てきました
これからの名指揮者グスターボ・ドゥダメル氏の紹介映画ですが、音楽好きな方は、見ない訳にはゆかない映画です!
彼も貧困に関係なく子供たちに音楽教育を与え、犯罪に手を染めるのを防ぐという、「エル・システマ」出身と知り、ラグアイラ港に入港し、エル・システマに楽器を寄付していたピースボートで知っていただけに、更に身近に感じました
もっとも最近は映画が訴えていた様に、ベネズエラの政情不安・治安の悪化で入港が控えられていた為に楽器の提供もままならず、「エル・システマ」に入りたい子供たちの為にも、早期の国情の安定を祈るばかりです
芸術と政治
世界的に活躍するクラシック音楽の指揮者は欧米、東アジア出身者が多いが、ドゥダメルはベネズエラ出身だ。
貧困国ベネズエラの音楽教育について無知であったが、エル・システマという青少年教育音楽プログラムの存在を初めて知った。
オーケストラというのがミソで、楽器の演奏技術だけではなく、集団での音楽体験を通じて忍耐力・協調性・自己表現力を身につけられる、ひいては青少年を麻薬や犯罪などから遠ざける効果があるという。
ドゥダメルはこのプログラムの出身で、ボリビア交響楽団(BSO)を率いる立場でもあり、同僚の支持も厚い。
だが、40年来続いてきた国を挙げてのプロジェクトが、ベネズエラの経済危機、政情不安によって存続の危機に追い込まれる。
政治的発言から距離を置いてきたドゥダメルだが、オーケストラメンバーが反政府デモで射殺されたことで政府に対峙せざるを得なくなり、結果的に彼自身も故郷を追われることになる。
日本では芸術と政治は無関係と考える風潮が強いが、ナポレオンに影響を受けたベートーヴェン、ワーグナーを政治利用したヒトラーなど、世相と無関係だった音楽家はいない。
クラシック音楽のマーケットはヨーロッパがメインであり、事業自体が国家主導なこともあるため政治的利用をするのはたやすい。
その中でプロの音楽家として生きていくことは民間主導のごく一部のマーケットしかない日本より、ずっとハードなことなのだ。
(この映画は2017年前後に撮影されているが、数年後ロシアによるウクライナ侵攻が勃発し、ロシア出身の音楽家はキャンセルまたは亡命の選択肢を迫られ窮地に立たされている)
画面の中のドゥダメルは快活で人間愛に溢れ、自らが信ずる芸術への崇高な理念を語るだけでなく、周囲を巻き込んで行動するエネルギーを持ち合わせている。
ベートーヴェンを指揮する背中は、芸術は個人的な心の拠り所に非ず、社会を変革する力を持つことを雄弁に語っていた。
ドゥダメルの核を形作ったエル・システマの灯火を消してはならないだろう。
彼がふたたび故郷の地を踏めることを願う。
芸術や文化を開花できない為政者は愚の極み
リニューアル前の池袋、東京芸術劇場のステージから落ちる者が出てもおかしくないくらいの大人数。
その人数の修学旅行的ラテンのユースオーケストラを連れまわった招聘元は心底大変だったろうと想像に堅くない。
翻って日本の権威オケ。全員の楽器の値段を合計するとワンステージでも0.1兆円くらい平気で行きそうだが、そのオケの団員一人の楽器代で全員の楽器が賄えそうな南米のユースオケの音、これが出る出る。
もちろん人数も多いが体の芯から動いて、動いて、動いて鳴らす。響かせる。音を出す。これから比べたら日本のオケなぞお地蔵さんかハシビロコウみたいなもんで、まぁ、音、出ないですよね。人を踊らせられないですよね。
聞けば日本の楽器学習では「なるべく動かない」と言う掟(?)もあるとか。邦楽ですか?三味線ですか?
そんなユースオケ、最晩年のアバドに呼び寄せられたヨーロッパ公演で見事な「悲愴」を演奏しきった。アバドの心底満足した微笑みが忘れられない。客席にはオケの音楽監督のドゥダメルもいた。
この映画でもたびたび登場したがチャイコフスキーやプロコフィエフの楽曲は世界のクラシック公演で欠かせない。だというのに隣国に武力行使し、自国の音楽家たちに踏み絵を踏ませることになった大統領がいる。
このドキュメンタリーでも語られたが、音楽は演奏する人に尊厳を与え心を広げる。生きるために音楽が必要な人がいる。
おそらくすべての創造にそういう作用がある。だから子どもたちに芸術に触れさせ、国や地域になるべくの平穏をもたらすように、気持ちから豊かにしていくのが為政ってもんじゃないのか。
ドンパチやってるバカどもも、そうでなくても人々を苦しめる方向に突き進む政治やってるバカどもも、いい加減、別の惑星行ってやってくんないかなー。地球にオマエラは必要ない。
それと、芸術は権威主義の対極でもある。
アブレウ氏の追悼コンサートの楽屋の廊下でドゥダメルはじめとしたストリングスがワイワイとタンゴで盛り上がる様。
日本でも音楽演奏が一部の権威の物でなくカジュアルに街に溢れるようになればいいね、と思う。
あ、それと。
踊れない人間にまともな音楽はできないだろう。
ボリバルユースはバーンスタインのマンボを持ちネタにのしてきたオケだが、「ユース」が取れて大人のオケになり、この映画でもドゥダメルがマンボを振ることはなかった。
あの子たちがみんな平穏に演奏できる世界を作るのは大人たちひとりひとりの責任でもある。
あんまり分かってないまま見たようで、 成功した指揮者の、 それまで...
あんまり分かってないまま見たようで、
成功した指揮者の、
それまでの大変だった人生を描くのかと思ったら、
成功した指揮者が色んな目に遭う映画だった
この人の言葉の一つ一つに愛が溢れてる
指揮する前に言葉を投げかけてるのを聞くだけで、
泣けてくる
他にも、『え?ここで?」と、
自分でもびっくりするようなところで泣いていた
頑張ってほしいです、これからも
現代のフルトヴェングラー的な
予備知識あまりないままに見てしまい、途中までよくあるサクセスストーリーかと思いきや、途中からとっても重い方向へ。でもグスターヴォは笑顔を絶やさない。あのゆるキャラのようなかわいい笑顔は(失礼!)つらさを知らないからではなく、誰よりもつらい思いをして、それでも希望を諦めないからではないかと思えてきた。
フルトヴェングラー的な、と書いたがグスターヴォはほとんど深刻な顔を見せない。もちろん置かれた環境が違うとはいえ、彼の笑顔に皆が集まり、自然と道がひらけてくる。はじめは天才のサクセスストーリーだと思ったが、本質は違った、たぶん大事なのは師匠への尊敬の念、そして仲間への愛情だ。彼はこれからも音楽の輪を広げてくれることだろう。
ビバ、マエストロ!!
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