「松重さんの想いを妄想」劇映画 孤独のグルメ R41さんの映画レビュー(感想・評価)
松重さんの想いを妄想
原文レビュー
主人公井之頭五郎役の松重豊さんは、13年間TVシリーズとして出演してきたものの、年齢と小食化によって降板をきめ、同時にテレビ東京が開局60周年の記念として映画化したもの。
そしてこの作品は松重さん本人が初監督をしたものでもある。
大いなる含みを持ったこの物語
起きそうで起きなかったラーメン店主と志穂の復縁
上手くいったかに思えた「いっちゃん汁」
その幻のスープを求めて、出会いと別れの連鎖があった。
さて、
そもそも、「物語」とは、いつ始まるのだろう?
自分自身の人生で例えれば、「生まれて死ぬまで」のように感じるが、少し引いてみれば、両親の出会いや、子供の人生まで含まれてしまうのは、実際必然ではないのか?
そして、
無限に作り出せるのがこの物語の型と言っていいだろう。
この「物語」には終わりなどないように感じるのだ。
それは型の話ではなく、この物語の内容だ。
逆に言えば、「始まり」さえもない。
物語の一部を取り出すのは簡単で、誰もがしている。
この物語も、それぞれが一部であり、それを繋げている「依頼」があって、五郎から見る主人公はもちろん五郎だが、ラーメン店主も、松尾老人も、すべて自分という主人公としての背景がある。
松尾老人の想いは、孫の千秋によって物語を作り出した。
ところが、うますぎたスープは「母の味ではなかった」
つまり、この物語でさえ、まだ終わらない。
志穂の半生と現在の旦那の繋がりは、物語では描かれないだけで、その未来を視聴者に想像させている。
物語は、絶対に終わらないのだ。
それはまるで生命のように「終わりなどない」
逆に言えば生命もまた、「始まりなどない」のかもしれない。
松重監督は、数々の作品との出会いという始まりと撮影終了という終わりを通して、この「孤独のグルメ」を下敷きに、彼が感じるこの世の理という普遍的真理を描いたのではないだろうか?
13年間続いたシリーズ
それは松重さんにとって非常にありがたいことだ。
しかし、この無限に続けられる物語に、彼自ら終止符を打った。
それはもちろん加齢と体調の変化によるのかもしれないが、ひとつの物語を「終わらせる」ことができることに、彼自身が気づいたのではないだろうか?
そしてこの終わらせ方によって、この作品が始まった。
また何かが始まった。
同じ物語ではない別の物語
同じようだが、別
この「別」を松重さんは表現したかったのかなと思った。
このある種の堂々巡りであり、普遍性に気づいた彼は、その事を表現したくなったのではないだろうか?
冒頭から、すでにこの物語は始まっていた。
当然だがその始まりは最初には描かれない。
主人公が気づかないうちに「始まっていた」
それは「いつ」始まったのか?
直接的なのは「依頼」だろう。
しかしなぜ五郎が依頼された絵を届けるに至ったのか?
それは、千秋の母 五郎の元恋人だ。
つまりこの物語は、五郎と小雪が出会った時からすでに始まっていたとも取れる。
また逆に、「いっちゃん汁」という新しい依頼は、志穂とラーメン店主を繋ぐ架け橋を作ったと解釈できる。
人は、自分の物語を紡ぎながら、人の物語が始まるきっかけを作っているのかもしれない。
この連鎖はなくなることはない。
もしそうならば、おそらく始まりさえないように思ってしまう。
そしてもう一つの出会い。
「さんせりて」の単なる客だと思っていた青年中川
彼はTV番組を作る会社のプロデューサーで、その番組名は「孤独のグルメ」
五郎役ではなく「善福寺六郎」役で登場した遠藤憲一さん
これは逆かもしれないが、「物語」の視点で見れば奥が深い。
もう一人の自分 またはパラレルワールドを感じさせる。
個人で営む輸入雑貨商 井之頭五郎の、もう一つの人生が「存在」する。
そんなパラレルワールドに「介入」してしまうこと そんな捉え方も可能だ。
つまり物語とは、そもそも多重性があるのだろう。
お互いの物語は重なり合い、その中で始まるものがあれば終わるものもあるが、結局「物語」という括りでは、「終わりなどない」のだろう。
何度も言っているが、そうであれば「始まりなどなく」、部分を切り取って思考する現代科学は、根本から間違っているように思えてしまう。
私たちは、人は肺があるから息をするのか? それとも、息をするために肺が作られたのか?
この問いは、「機能があるから行動するのか」「行動する必要があるから機能が生まれたのか」という、存在の目的や進化の順序を問いかけている。
もし、始まりなどなく、終わりもないのであれば、私たちはどんな形態であれ「永遠」なのかもしれない。
大げさなレビューだが、松重さんの思考を、妄想で代弁してみた。