HAPPYEND : インタビュー
なぜ日本人のアーティストは政治的な発言をしないのか――金子文子からもインスピレーション「HAPPYEND」空音央監督
2023年、坂本龍一の最後の演奏を収めたドキュメンタリー、「Ryuichi Sakamoto | Opus」のワールドプレミアで、ベネチア国際映画祭の地を踏んでから、わずか1年後。念願の初長編フィクション「HAPPYEND」で、再びベネチアの地を踏んだ空音央監督は、終映後、キャスト陣とともに満場の拍手で迎えられた。彼が胸にパレスチナの旗と「フリー・パレスチナ」と書いたワッペンを付け、「ケフィエ」と呼ばれる伝統的なパレスチナのスカーフをつけて登壇すると、観客席からは「ありがとう」という声も飛んだ。
近未来の日本を舞台に、監視社会や人種差別など、さまざまな脅威にさらされる高校生たちの友情と成長物語を瑞々しく描き、独創性を強く印象付けた彼に、本作に込めた思いを現地で語ってもらった。(佐藤久理子)
<あらすじ>
20XX年の日本のとある都市の高校で、幼馴染のユウタとコウは、気の合う仲間と大好きな音楽や夜遊びに興じていた。だが、ユウタの思いついたあるいたずらが元で校長が激怒。それを機に学生を監視するAIシステムが導入され、学生たちの中でも管理システムをめぐって意見が分かれる。さらに在日韓国人のコウに対する風当たりも強くなり、果てはコウとユウタの友情にも亀裂が乗じていく。
――近未来の日本が舞台ですが、政治的なテーマは普遍的で、公式上映ではそれが観客にも十分に伝わった印象がありました。ご自身はどのような手応えを感じられましたか。
この物語の大きなインスピレーションのひとつが、関東大震災とそれに付随する朝鮮人虐殺の歴史、また現代の人種差別的な投稿やデマといったものでした。上映のあとにいろいろな国の方々が話しにきてくれて、これは日本の話だけど、自分はブラジル人でイタリアに住んでいて同じような経験をしたと言われたり、在日コリアンの方にありがとうと言われました。構造的な差別や支配といったものはどこの国も似通っているもので、本当に多くの国がいまファシズムに近づいているような傾向があるので、観た人のなかに刺さるものがあったんじゃないかと思います。質疑応答も観客の方々がすごくいい質問をしてくれました。本当にちゃんと映画を見てくれているし、もっと知りたいと思ってくれているのが感じられ、感慨深かったです。
――主人公である5人の高校生たちは、ユウタとアタちゃんを除いた3人がそれぞれミックスルーツを持っています。また彼らの他にもクラスメートにはそういう子たちが見られますが、それはいまの現実を反映したいという意図からですか。
そうですね。普通の映画はみんな日本人ばかりというところに、僕はいつも違和感を持っているので。本当にそうなのか? ということを考えてしまうんです。なぜならじつはよく聞いてみたら、家系を辿ったら日本人じゃない人も多いかもしれないし、そもそも日本人って何? という問いに行き着くと思います。国籍かといったら、国籍を持っていない日本人もいますし、日本生まれではない日本人もたくさんいると思いますし、じゃあ日本語を喋れるから日本人なのか、といったらそういうわけでもない。
何が日本人を定義しているのかというと、近代国家を作るにあたってどうしても必要なナショナル・アイデンティティが日本人というものだと思うんです。じつは日本人と言われている人たちにはいろいろな血が混ざっているかもしれない。単一民族神話といったものを自分は崩したいと思っているのです。それは幻想であって現実と即さない。とくに将来は見るからにそうではなくなっていくということが、日本の近未来という設定を考えたときに当てはまると考えました。とくにそれをドラマにするわけではないけれど、そういう現実を当たり前かのように描きたかった、というのが大きなモチベーションとしてありました。
――在日韓国人であるコウとユウタの育ちの違いは、物語が進むに連れ明らかになります。コウは外からの差別を受けるけれど、ユウタはそういうことを何も考えずにいられる、ある意味恵まれた環境にある。それがあることがきっかけで友情に亀裂が入り、ユウタも考えずにはいられなくなる。そうした過程が、とてもリアルで説得力があると思いました。
痛みを知っている人は他の人の痛みに気付くし、構造的な差別や社会的な理不尽に気付きやすいと思うんです。でもそれを経験したことがない人たちは、たとえばそれを気付かなくてもいい人生を歩んでいる人たち――もちろんそれでも気付く人もいると思うんですが、気付かない人もたくさんいる。それが社会の構造を露呈しているということはいつも考えていることなんです。日常を観察すると、本当にそれがいろいろなところに現れている。そういう背景の違いや階級格差なども、辿っていくと人種とか植民地主義の歴史などに繋がっていくものだ、ということが歴史を勉強してわかりました。
その気付きを与えたくれたのが、アメリカにおける黒人の存在なんです。ブラック・ライブズ・マターでつねに指摘されていたのは、アメリカの経済格差を見ていると、黒人の女性やトランスジェンダーの人たちが一番下層にいて。それはなぜかと考えたとき、英語ではジェネレーショナル・ウェルスと言われますが、世代的な富が政策的に禁じられてきたから。たとえば白人が許可されているような、家を買って資産を築くみたいなことが黒人は制度的に許可されていなかった。そういった歴史を知ると、今の日本における格差や差別も日本の歴史と切り離せないものだとわかってきたのです。
――学生たちのなかで、一番行動的なキャラクターをフミ(祷キララ)という女性にした意図は?
このキャラクターのインスピレーションになったのが金子文子(かねこふみこ・大正時代のアナーキスト、歌人)という人なんです。1920年代、政治的に怒りを表明した女性で、朴烈(パクヨル)という若い在日朝鮮人の詩人と出会って、関東大震災の直後に逮捕されてしまった。彼女がインスピレーションのもとになったというのがあります。
――この映画のようにストレートに政治性を打ち出したものは、日本映画には珍しいのではないかという印象を受けました。
僕にとっては逆に、なぜ日本人のアーティストが政治的な発言をしないのか、ということの方が不思議です。僕は映画やアートや音楽に一番教えられるものというのは、人間とは何かということだと思っています。たとえば戦争を描いた映画だったら、いかに戦争が悲惨で人間性を破壊してしまうものなのか、ということを自分は映画から学んだ。表現を仕事にしている人だったら、誰でも当たり前のようにすぐに声をあげるのではないか、その方がふつうだと僕は思っていたのですが、どうやら世の中はそうでもないということがわかってきた。でも個人的には、じゃあ彼らは何をアートから学んできたのだろうと思います。
――5人の高校生(栗原颯人、日高由起刀、林裕太、シナ・ペン、ARAZI)のキャスティングについて聞かせて下さい。ほとんどが、演技経験がなかったというのが信じられないほど説得力がありました。
数百人のオーディションをしたんですが、本当にそれぞれが一目惚れのように、直感的にこの人だとわかったんです。部屋に入ってきた瞬間に。そのあとセリフを言ってもらっても、演技未経験者が多いにも関わらず本当にうまかったし、話を聞くと、それぞれキャラクターとすごく共通するなにかを持っていた。その5人がとても仲良くなって、いまでも親友のようになっています。完璧な人が見つからない限りは探しつづけるという覚悟でやっていましたが、本当に奇跡的な出会いでした。
――神戸で撮影され、ほとんどは日本人のスタッフと聞きましたが、撮影監督だけは前作で組んだビル・キルスタインですね。日本での撮影にも拘らず彼を選んだ理由は?
ビルとは僕の最初の短編、「The Chicken」から、ずっと一緒にやっています。本当にあうんの呼吸で信頼し合っていて、彼のセンスも大好きです。何より映画を本当に愛しているのが感じられます。そして技術的に美しい画を作るだけじゃなく、そのシーンに必要なエモーションを掬い取る、気にかけてくれるので、ビルしかいないというのは最初からわかっていました。それで2017年頃、脚本の第一稿ができた段階ですでに相談しました。
――最後に、空監督が一番尊敬する監督というと、どなたになりますか。
(きっぱり)エドワード・ヤン監督です。