劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来のレビュー・感想・評価
全1221件中、561~580件目を表示
流石の映像美
何かの加害者は、何かの被害者でもあるのかも
アニメ1クールが3時間に凝縮されたようなボリューム。とにかく展開が早くてノンストレス。大きく分けて3パートくらいに分かれるが、前2パートの記憶が薄れるくらいに最後のパートが分厚く、かつ内容も濃い。もう一回じっくり観たいと思えるほど満足度が高かった。
鬼滅といえばキャラクターごとのバックボーンの深さだが、今回もそれぞれがかなり良かった。3つのパートに共通するのは「敵討ち」だが、それぞれが立ち向かう鬼との関係性の違いによって、まったく別の物語として成立しているので単調にはならない。どの戦いにも、それぞれの正義や感情がしっかり宿っていた。
映像はCGとアニメーションのブレンド加減がかなり絶妙で、よくある“CGだけ浮いて見えるアニメ感”はまったくなかった。絵に全く詳しくなくても、風景の描き方ひとつひとつにかなり引き込まれる。とくに冒頭1秒目の風景画の美しさは、前回の映画と同じく、今回も幻想的でグッと惹きつけられた。
戦闘シーンが多いこともあってか、ユーモアシーンがアニメのときよりも削られていたのは個人的には良かった。テンポがより引き締まっていて、物語への没入感がより強くなっていた。
そしてやはり、この作品に惹きつけられるいちばんの理由は、鬼の一人ひとりにも悲惨なバックボーンがあるということ。これこそ“鬼滅といえば”なのかもしれない。
毎回描かれる「なぜ鬼になったのか」という原因には、ある種の「しょうがなさ」や「不可抗力感」のようなものがある。この作品ではそれを“鬼”という存在で描いているけれど、現実でも、悪人とされる人たちの中には、それぞれがそこに至るまでの理由や背景がある。
何かの加害者は、何かの被害者でもあるのかもしれない。
バックグラウンドが…
鬼滅の刃の最新アニメ、もう観ないといけない義務感、再び感動を感じたい中毒症の感覚で映画館へ。
ふと気づくと涙すること数回、でも過去の、煉獄さんの感動には至らず、今回の劇場シリーズは後2回も?
ちょっと尺が長すぎで重たい、正直な感想。
少し残念でした
漫画未読
アニメ、映画のみで追っています。
映画として長いです。
構成を改めた方が良かったかと思います。
胡蝶 善逸 炭治郎と3戦する中で
回想が毎回入る。
これがテンポを悪くしているように思いました。
話自体はいいのですが、映画としてのエンタメは破綻しているように思いました。
確かに泣ける場面もありましたが、話が三遍あるので、間延び間があります。
アニメの放送で胡蝶、善逸を放送したあとに猗窩座編のみを映画にすれば、いい感じに纏まったように思いました。
期待して視聴し、泣けた部分もありましたが、残念に思ったのも本心です。
無限列車編がすごく良くまとまっていたので比較してしまいました。
村田さんが活躍するのは良かったです。
7/29追記
元のレビューはいじっていません。
私のレビューにコメント頂き、ありがとうございます。
言葉足らずだったかもですが、先ず私は鬼滅が好きです。
残念と言ったのはもっと良くなったように思えたからです。
無限列車がとにかく良かったから。
原作を見ていないのは
アニメから入ったので最期までアニメで追いたい。
声優さんの演技と動く派手なアクションで初見したいからです。
この先のストーリーも見ないように努めています。
劇場版とするならば多少の構成や編集はあって良いのではと思っています。(結末が変わるなど極端でなければ)
多分劇場公開が終われば、無限列車のように、地上波でアニメ放送すると思います。
原作をなぞるのは地上波で良いのではと。
原作をなぞることに重きを置くより、映画としてエンタメを追求しても良かった。
もっとカタルシスを感じたかった。
心の底から自身を揺さぶられ、泣きたいと期待した。
それが私の正直な感想です。
主人公達の熱い想いが伝染るような胸アツ作
国民的人気作品の最終篇の第一章で、ドルビーアトモス劇場の前から三列目の席で見たんで、スクリーンから迸る熱量と大音量の音楽に圧倒されました。直前のエピソードでお館様を失った剣士達が、怒りを露わに復讐に燃えて無限城を疾走するオープニングからして胸アツです。お話しは大きく分けて3つの戦いだけど、全てがクライマックス級の見せ場ばかりで、お腹いっぱいになります。美しく迫力ある映像もさることながら、気合の入った声優陣のパフォーマンスがうまくシンクロしていて、長い上映時間の割にはダレずに盛り上がります。最後の猗窩座のエピソードはちょっと長い気がするけど、鬼になる前のエピソードを語る原作者の温かい視線が心地よいですね。次回が楽しみだけど、製作チームのプレッシャーも凄いだろうなぁ。
超超超超超超最高傑作
何も考えず、ただただ、鬼滅ワールドを楽しもう!
綺麗
人が鬼殺隊になる理由より、人が鬼になる理由が切なく深い155分
auマンデー『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』
こんなに劇場の上映予定が、△とXなのは久々@@!
ポップコーンの匂いと音と隣に誰か来るの嫌なので静観してましたが、月曜レイトでチャンス到来!
原作漫画は既に終わってるので、ネタバレ云々はさておき・・・・
アニメの映像としては超弩級の出来映え〜アニメーターの皆さんの奮闘にスタオベ!!!!!
人が鬼殺隊になる理由より、人が鬼になる理由が切なく深い155分
第一章って事ですが、各エピソード前日譚あるので、無限列車と比べると1話全集中出来なかった。。。
胡蝶編と善逸編で1本、冨岡&炭治郎で1本を猗窩座再来前後編で、間隔あまり開けずに公開なら興行収入更に倍ドンだったかも!?
でもそうなると三部作が六部作になっちゃうか^^;
個人的には、次まで1年待たされるなら半年間隔の方が集中途切れないんやけどね
*劇中歌は、過去作のようにグサっと来なかったかな。。。
漫画で何度も見たはずなのに、やられました
映画版しか見てないので
随所で回想を挟むことでテンポが悪くなっている感はありました。 原作...
アニメのチカラってすごいネェ…
他の映画と比べて
迫力はあった
良い作品。しかし問題点も・・
濃厚で密度の高い作画とセリフ。
ファンにとっては最高の作品だろう。
しかし、やたらに挟まれる回想や心の声はテンポが悪く、戦闘の高揚感や感動が続かない。
説明的セリフも多すぎる。
例えば、猗窩座が隣の剣術道場で虐殺を繰り広げた後の、奉行所の取り手の指揮官の「67名を素手で・・」といった長ゼリフ。
原作を読んでいないので知らないが、原作にもあるのかもしれないし、猗窩座の怒りを表す演出に必要なのかもしれない。
しかし、映像と一言で説明できるものでもあり、上映時間が長尺化していることを考えれば、不要と言えなくもない。
こうした部分がいくつか見られ、鬼滅ファンではない観客には、作品が濃密であるがゆえに、反って作品への没入感を減少させてしまう。
とはいえ、全体的によくできた作品であることは間違いなく、劇場で鑑賞する価値はあると思う。
感想
無限城にて、人は何を失い、何を取り戻すのか
鬼滅の刃 無限城編 猗窩座再来をめぐる哲学的思索
鬼滅の刃という作品は、戦いと情熱のアニメーションであると同時に、きわめて哲学的な作品でもある。中でも無限城編、そして猗窩座の再登場は、物語の核心にある人間とは何かという問いを観る者に強く突きつける場面である。
私はこの映画を観終えて、不思議な余韻に包まれた。あれほど心を揺さぶられたのに、音楽の記憶が一切残っていなかった。映像の中で確かに音は流れていたはずなのに、その旋律もメロディも、全く思い出せない。だがそれは不満ではなかった。むしろ音楽すら不要と感じさせるほど、映像と演技だけで感情が完結していた。音楽の存在を打ち消すほどの作品力。それは演出としての奇跡であった。
この作品が与えた主題は明確である。死とは何か。愛とは何か。欲望とは何か。そして人間の愚かさとは何か。それは世界中の哲学者が向き合ってきた普遍的命題であり、猗窩座という鬼を通して、物語はそれに正面から挑んでいる。
猗窩座は、死を否定し、死から逃れた存在である。彼は人間として生きていた時、父を想い、恋人を愛していたが、そのすべてを喪い、その喪失から逃げるようにして鬼となった。彼にとって死は、愛する者を奪い、自分の努力を否定するものだった。だからこそ、彼は死から最も遠い存在となり、不死という呪いの中に閉じこもった。
だが、不死であることは生きることとは違う。猗窩座の不死は、死から目をそらし続けることで成り立っていた。彼は死を拒むあまり、生の実感も失った。一方で炭治郎は、家族や仲間の死と日々向き合ってきた。死を受け入れ、死を継承し、死と共に歩く彼の姿は、死を遠ざけた猗窩座とは対照的である。死を避けることで人間性を喪った者と、死を抱くことで人間性を高めた者。その違いが、両者の最後の戦いを決定づけている。
次に問われるのは、愛とは何かということである。猗窩座はかつて狛治という名の青年だった。父を想い、恋雪という女性を心から愛していた。しかしその愛は毒殺という暴力によって断ち切られ、彼は愛そのものを否定するようになった。鬼となってからの猗窩座は、愛を記憶の底に封じ、ただ強さを求める存在に変わった。だが、愛は完全に消えてはいなかった。
炭治郎の言葉、仲間の想い、それらは猗窩座の中に沈んでいた愛の記憶を呼び起こした。かつて恋雪が見せた微笑み、父が遺した言葉。それらが彼の魂の奥底から浮かび上がり、最後に彼は狛治としての記憶を取り戻す。人は愛を忘れることで鬼になり、愛を思い出すことで人に戻る。その過程をこの映画は丁寧に描いていた。
さらに、強さを求める猗窩座の姿は、欲望というテーマを突きつける。猗窩座の欲望は単なる破壊ではない。自分が強くなければ、大切な者を守れないという痛みから来ている。彼の強さへの執着は、失った者への罪悪感であり、赦されたいという祈りでもあった。しかしその欲望は次第に孤独な暴走に変わっていく。強くなりすぎた彼は、誰からも認められず、誰も愛せなくなった。強さが目的化したとき、人は他者とのつながりを喪い、自分の存在意義さえも見失う。
猗窩座の欲望は、人間誰しもが抱える承認欲求の極限である。誰かに認められたい。役に立ちたい。愛されたい。その純粋な感情が、満たされずに肥大化するとき、人は鬼にもなり得る。だが、炭治郎や義勇の存在が彼の中に残る人間性を呼び起こし、彼は欲望の檻から抜け出すことができた。欲望とは呪いではなく、理解と共感によって、もう一度人に戻る道でもあるのだ。
そして最後に、人間の愚かさとは何かが問われる。猗窩座の最も根本的な愚かさは、過去と向き合うことから逃げたことにある。失ったものを見ない。自分の記憶を封じる。その行為は一時の安寧をもたらすが、やがて心を蝕み、誰も愛せず、誰にも愛されない存在にしてしまう。彼はずっと、人間のままでいたかった。しかし自ら鬼となり、人間であることを捨てた。
しかし、最後の最後で彼は泣いた。父を思い出し、恋雪を思い出し、自分が何を失ってきたのかを思い出したとき、猗窩座は鬼であることをやめ、人に戻った。人間の愚かさとは、自分が愚かであると気づかぬこと。だが、その愚かさに気づいたとき、人は変わることができる。誰かを赦し、自分を赦し、再び人間として終わることができる。
無限城とは、そうした心の牢獄を象徴する空間である。上下も左右もなく、終わりなき戦いが続くあの城は、過去の痛みに囚われ、赦せぬ記憶の中で彷徨い続ける者たちの内面そのものである。猗窩座はその迷宮の中で、自ら築いた牢獄を破壊し、自分自身を解放した。それは敗北ではなく、解放だった。
そして、この壮大なドラマを通して、私の記憶に残ったのはただ一つ。音楽がまったく記憶に残っていなかったという事実である。だが、それはこの作品にとって欠点ではなかった。むしろ、音楽が消えるほどに、映像と声優の演技が圧倒的であり、余計な装飾を必要としなかったという証だと感じた。
この映画は、音楽を必要としないほど、作品そのものが強烈な表現力を持っていた。音楽があったはずなのに、それを意識させないほど、魂のやりとりが画面の中で完結していた。それはもはや、芸術としての完成ではなく、人間の真実そのものだった。
鬼滅の刃の無限城編、猗窩座再来は、戦いの物語ではない。それは人間の本質に迫る物語であり、死と愛と欲望と愚かさに向き合うすべての人にとっての、鏡である。鬼になった者の中に残る人間性。人間の中に潜む鬼性。そのどちらも直視しなければならないという覚悟を、この映画は私たちに問いかけてくる。
音楽を忘れた映画。それはつまり、魂の音が聞こえたということだった。
全1221件中、561~580件目を表示
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。







