「どうして江戸時代の打ち上げ花火の描写があんなに正確なの?」劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来 ジャワカレー澤田さんの映画レビュー(感想・評価)
どうして江戸時代の打ち上げ花火の描写があんなに正確なの?
21世紀のティーンエイジャーの大半は、自分のお小遣いで映画館に行こうとは思いません。彼らのお小遣いは、大抵の場合「物を買う行為」ではなく「デジタルサービスの課金」に消えます。
それがいいとか悪いとかを論じるわけではありません。要は、彼らは鬼滅の刃がなければそもそも映画館に足を踏み入れることのない人々ということを事実として認識しないといけない……ということです。言い換えると、原作のある映画の楽しみ方をまだ短い人生の中で経験したことがないという意味でもあります。
原作と映画、ここがこう違う。コミックでは彼はこういう行動を取ったけど、劇場版ではこうなっている。どうして制作陣はそのような変更を加えたのか? そうした議論をした経験もなければ、「原作と劇場版の温度差を楽しむ」という映画好きなら誰しもがやっている楽しみ方もそもそもしたことがありません。
その経験がのちのち「ただの子」と「一癖ある子」の違いを生み出すわけですが、いずれにせよ「映画慣れ」していない子に「原作と違う台本」を受け入れる心の余裕はありません。したがって、この作品も週刊誌でなら何とか読むに堪えるものになる「戦ってる最中の長い回想」を丸のままスクリーンにブチ込む…ということを平気でやってしまいます。
しのぶ、童磨、善逸、炭治郎、そして猗窩座がそれぞれ戦っている最中に非常に長~~~~~~~~~~~~~~~~~~い回想シーンを入れてくるため、結果として「前に回想シーンを入れたキャラ」の印象が時間経過と共に中和されていきます。しのぶなんて、はっきり言ってかなり大損してます。尺の中の位置関係で言ったら、彼女は前座に過ぎませんからね。
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鬼になる前の猗窩座の素流の師範、この人物こそ今頃は鬼になってるんじゃないですかね?
だって、「妻は娘の看病に疲れて10日前に入水自殺した」なんてことを笑いながら説明するんですよ? 何故こんなサイコパスが出てくるのに、みんな(観客も含めて)普通にそれを受け入れるんでしょうか? 週刊誌連載の漫画というのは、それをそのまま映画にするとそうした粗さがどうしても出てきてしまいます。
それと、この猗窩座の回想の中にもさらなる回想が出てくるもんですから、やっぱり長いです。回想シーンが長い分だけ、話の進行が停滞します。もっとも、そういうことはここでは度外視しても構いません。だって、この作品自体が普段映画を観ることのないティーンエイジャーの「お祭り」として作られているわけですから。月曜日に学校で「あそこはああいうことが起きて俺はここに感動した」というクラスメイトとの会話のネタになれば、それでこの映画は主目的を果たしたと言えます。
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そんな中、私が心の底から感動した点がひとつありました。
それは、鬼になる前の猗窩座の回想シーンで出てくる打ち上げ花火の描写。この打ち上げ花火には、赤や青や緑といった色は一切ありません。
これ、極めて正しい時代描写です。江戸時代の花火は単色で、黄色もしくはオレンジのたった一色でした。この部分、恐らく指摘する人は殆どいないと思いますから、ここではっきり書いておきます。
映画として見れば、はっきり言って人生の酸いも甘いも知ってる大人が味わうには甘味が強すぎるんですが、一方で細かい部分の描写がやたらとしっかりしている点も指摘しないとフェアとは言えません。
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