「感想」劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来 tatuさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0 感想

2025年7月28日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

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無限城にて、人は何を失い、何を取り戻すのか
鬼滅の刃 無限城編 猗窩座再来をめぐる哲学的思索

鬼滅の刃という作品は、戦いと情熱のアニメーションであると同時に、きわめて哲学的な作品でもある。中でも無限城編、そして猗窩座の再登場は、物語の核心にある人間とは何かという問いを観る者に強く突きつける場面である。

私はこの映画を観終えて、不思議な余韻に包まれた。あれほど心を揺さぶられたのに、音楽の記憶が一切残っていなかった。映像の中で確かに音は流れていたはずなのに、その旋律もメロディも、全く思い出せない。だがそれは不満ではなかった。むしろ音楽すら不要と感じさせるほど、映像と演技だけで感情が完結していた。音楽の存在を打ち消すほどの作品力。それは演出としての奇跡であった。

この作品が与えた主題は明確である。死とは何か。愛とは何か。欲望とは何か。そして人間の愚かさとは何か。それは世界中の哲学者が向き合ってきた普遍的命題であり、猗窩座という鬼を通して、物語はそれに正面から挑んでいる。

猗窩座は、死を否定し、死から逃れた存在である。彼は人間として生きていた時、父を想い、恋人を愛していたが、そのすべてを喪い、その喪失から逃げるようにして鬼となった。彼にとって死は、愛する者を奪い、自分の努力を否定するものだった。だからこそ、彼は死から最も遠い存在となり、不死という呪いの中に閉じこもった。

だが、不死であることは生きることとは違う。猗窩座の不死は、死から目をそらし続けることで成り立っていた。彼は死を拒むあまり、生の実感も失った。一方で炭治郎は、家族や仲間の死と日々向き合ってきた。死を受け入れ、死を継承し、死と共に歩く彼の姿は、死を遠ざけた猗窩座とは対照的である。死を避けることで人間性を喪った者と、死を抱くことで人間性を高めた者。その違いが、両者の最後の戦いを決定づけている。

次に問われるのは、愛とは何かということである。猗窩座はかつて狛治という名の青年だった。父を想い、恋雪という女性を心から愛していた。しかしその愛は毒殺という暴力によって断ち切られ、彼は愛そのものを否定するようになった。鬼となってからの猗窩座は、愛を記憶の底に封じ、ただ強さを求める存在に変わった。だが、愛は完全に消えてはいなかった。

炭治郎の言葉、仲間の想い、それらは猗窩座の中に沈んでいた愛の記憶を呼び起こした。かつて恋雪が見せた微笑み、父が遺した言葉。それらが彼の魂の奥底から浮かび上がり、最後に彼は狛治としての記憶を取り戻す。人は愛を忘れることで鬼になり、愛を思い出すことで人に戻る。その過程をこの映画は丁寧に描いていた。

さらに、強さを求める猗窩座の姿は、欲望というテーマを突きつける。猗窩座の欲望は単なる破壊ではない。自分が強くなければ、大切な者を守れないという痛みから来ている。彼の強さへの執着は、失った者への罪悪感であり、赦されたいという祈りでもあった。しかしその欲望は次第に孤独な暴走に変わっていく。強くなりすぎた彼は、誰からも認められず、誰も愛せなくなった。強さが目的化したとき、人は他者とのつながりを喪い、自分の存在意義さえも見失う。

猗窩座の欲望は、人間誰しもが抱える承認欲求の極限である。誰かに認められたい。役に立ちたい。愛されたい。その純粋な感情が、満たされずに肥大化するとき、人は鬼にもなり得る。だが、炭治郎や義勇の存在が彼の中に残る人間性を呼び起こし、彼は欲望の檻から抜け出すことができた。欲望とは呪いではなく、理解と共感によって、もう一度人に戻る道でもあるのだ。

そして最後に、人間の愚かさとは何かが問われる。猗窩座の最も根本的な愚かさは、過去と向き合うことから逃げたことにある。失ったものを見ない。自分の記憶を封じる。その行為は一時の安寧をもたらすが、やがて心を蝕み、誰も愛せず、誰にも愛されない存在にしてしまう。彼はずっと、人間のままでいたかった。しかし自ら鬼となり、人間であることを捨てた。

しかし、最後の最後で彼は泣いた。父を思い出し、恋雪を思い出し、自分が何を失ってきたのかを思い出したとき、猗窩座は鬼であることをやめ、人に戻った。人間の愚かさとは、自分が愚かであると気づかぬこと。だが、その愚かさに気づいたとき、人は変わることができる。誰かを赦し、自分を赦し、再び人間として終わることができる。

無限城とは、そうした心の牢獄を象徴する空間である。上下も左右もなく、終わりなき戦いが続くあの城は、過去の痛みに囚われ、赦せぬ記憶の中で彷徨い続ける者たちの内面そのものである。猗窩座はその迷宮の中で、自ら築いた牢獄を破壊し、自分自身を解放した。それは敗北ではなく、解放だった。

そして、この壮大なドラマを通して、私の記憶に残ったのはただ一つ。音楽がまったく記憶に残っていなかったという事実である。だが、それはこの作品にとって欠点ではなかった。むしろ、音楽が消えるほどに、映像と声優の演技が圧倒的であり、余計な装飾を必要としなかったという証だと感じた。

この映画は、音楽を必要としないほど、作品そのものが強烈な表現力を持っていた。音楽があったはずなのに、それを意識させないほど、魂のやりとりが画面の中で完結していた。それはもはや、芸術としての完成ではなく、人間の真実そのものだった。

鬼滅の刃の無限城編、猗窩座再来は、戦いの物語ではない。それは人間の本質に迫る物語であり、死と愛と欲望と愚かさに向き合うすべての人にとっての、鏡である。鬼になった者の中に残る人間性。人間の中に潜む鬼性。そのどちらも直視しなければならないという覚悟を、この映画は私たちに問いかけてくる。

音楽を忘れた映画。それはつまり、魂の音が聞こえたということだった。

tatu
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