「きっと私たちも気づいていないだけ」アイミタガイ TSさんの映画レビュー(感想・評価)
きっと私たちも気づいていないだけ
アイミタガイ(=相身互い)。呪文のようなコトバ。
それは、造語ではなく、昔からある日本語だということを本作を観て知った。
物語は、主人公:梓(黒木華)の親友:叶海(藤間爽子)の死から始まる。この叶海の存在、彼女の生前の言葉、行動が物語を紡ぐ重要な糸になっている。
登場人物達に起こる日常の出来事。
叶海は糸の役割を果たしている。奇跡を起こす糸。
日常のちょっとした出来事を繋げて奇跡を起こす糸。映画だから、私たちが体験できないような世界を創ることができる。奇跡を起こすことができる。彼女は特別な存在?
私は、特別な存在がなくても、私たちの周りでも、この作品で起こったような、小さな出来事が、点が、そこかしこで発生していて、別の点と繋がったりしていると感じた(作品の舞台を桑名という地方都市に設定したのも、奇跡ではなくて、これは私たちにも起こりうることだということを示唆しているように思う)。
点と点を繋ぐ線は、知らないところで繋がったり、途中で途切れたりして、多くは私たちの前に現れない。私たちが気づいていないだけで。
映画の場面場面を思い起こしてみると、「点」を発生させるのは、1人1人の、小さな優しさだったり、思いやりだったり、お節介だったり、少しの勇気だったり。取り立ててドラマチックなものではない。
しかし、その1つ1つの、バラバラに発生した点が、少しずつ線となって繋がっていき、とうとう1つの円環となって、最後に大きな出会いとドラマを生む。
線となるには、何らかの「縁」が必要なのだろう。それが、この作品では叶海であり、現実世界では、「アイミタガイ」の精神、人と人の繋がりなのかもしれない。
そして、この物語は、前に進めなくなった人が前進し始める力を得る物語でもあった。
親友の死を受け入れられず、結婚にも踏み切れない梓。言いたい一言が言えない澄人(中村蒼)。娘の死を受け入れられない親(田口トモロヲ、西田尚美)。人前でピアノが弾けなくなったこみち(草笛光子)。
彼ら、彼女らが前に進む力を得たきっかけは、小さな点のようなものから始まっている。自ら気づき、あるいは人に恵まれた彼ら、彼女らは、それぞれが一歩を踏み出す・・・。
105分という決して長くない尺の中で、丁寧に人を描き、日常を描き、物語を紡ぐ。決して起こらない、でもひょっとしたら起こるかもしれないと期待をさせるような、日常と非日常の間(はざま)を魅せてくれた脚本と、演者達。心を込めて創った作品であることが伝わってきた。
人に優しくしよう、思いやりを持とう、と肩に力をいれる必要はない。心の中で沸き起こった想いを、面倒くさがらずに言葉にして相手に伝える、ちょっと行動に移してみる。「アイミタガイ」でその言葉や行動が自分に返ってこなくてもいい。
そのうちの何分の1かは、点となり、あるいは次の点と繋がるかもしれない。それが、どこかの誰かの日常に、少しの幸せをもたらしているかもしれない。そう考えると、自分の日常にも幸せを感じられるかもしれない。
そう思いたい。
そう思わせてくれる、とても優しい映画でした。
(2024年映画館鑑賞32作目)
このサイトで高評価だったから、
と足が動いた自分がいて、
今作が桑名が舞台である事を知り、
あまり映画を観ない桑名出身の知人に伝え、「教えてくれてありがとう」と泣きながら感謝されました。
コレも縁が線になりましたね。
点と点のように優しさが繋がることってありますよね。
ドラマのように直接的な繋がりではなくても、誰かが横断歩道で戸惑ってるお年寄りをサポートしてるのをみて、次は自分もやろうと思い、別のところで障害のある方を手伝っていたり…
電車の中であくびが伝播するように?
優しさも伝播する。そう思うと今度は自分が誰かのキッカケになるかもしれないと、街中で困ってる人が気になり、声をかけるようになる。そういう社会になって欲しいです。
今晩は。素敵なレビューを拝読しました。
”そして、この物語は、前に進めなくなった人が前進し始める力を得る物語でもあった。”
仰る通りですね。今作は、久方ぶりにカタルシスを覚えた映画でした。映画はフィクションですが、私は鑑賞した後に、”自分と関係する人たちに優しく接しなければいけないな。”と思わせてくれる作品が好きなのです。色んなジャンルの映画が有り、どのジャンルも好きなのですが、私は矢張りヒューマンドラマが好きなのだなあ、と思う昨今です。では。返信は不要ですよ。
共感ありがとうございます。
こんな事もあり得るかも・・思わせてくれる映画貴重ですね。故人に送っていたLINEに一斉に既読が付く、自動改札で知らずニアミスしていた等イマならではの演出も良かったですね。