ゆきてかへらぬのレビュー・感想・評価
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タイトルなし(ネタバレ)
矢印が交わらなかった愛らしきものの行き着く先に確かな愛があったように思う。
泰子が声を殺して涙を流す姿がそれだったと感じた
君とのバランス。
大正時代の京都、17才学生の詩人・中原中也と、詩人・中原を認める友人で文芸評論家・小林秀雄と、中原の家で同居する新進女優・長谷川泰子の話。
虚勢を張りあう泰子と中原が惹かれあい、後に中原に用事があり訪ねてきた小林、…と恋に落ちる泰子だったが、泰子の様子が少しずつおかしなる…。
本作観て思ったのは気難しく、自由奔放な泰子と自信ありげな中原の関係性、今の時代では中々ありえないけど女性を殴る、取っ組み合いと、それに負けずやり返す泰子、その関係で精神バランスが安定してたって感じなんですかね?!
後に出会う小林と付き合い始めると、自分を押し殺して小林に合わせる生活でメンタル崩壊となってく泰子だったけど。結局、自分を出せた中原のことが好きだったのかな?!作品を観る限りでは私にはそう見えた。作品としては面白くもないし、つまらなくもなく、こんな話があったんだ!って感じ。
好きな広瀬すずさん主演だから観れたって感じと、広瀬すず作品にはハズレは無いと思ってた私だけど本作はどうかな!?(笑)
【”ワタクシ達、神経と神経で繋がっていましたの。”今作は、中原中也と小林秀雄の間を行き来する長谷川泰子の姿を軸に、三人の”奇妙な三角関係”を描いた、文学調な装いを帯びた作品である。】
ー 今作は、ご存じの通り、長谷川泰子著「中原中也との愛 ゆきてかへらぬ」を基にしている。
若き中原中也と長谷川泰子の京都での出会いと、同棲から、二人が東京に移り住み、若き文芸批評家の小林秀雄と面識を持ち、長谷川泰子が中原中也との同棲を解消し、小林の家に同居する”奇妙な三角関係”を描いている。-
◆感想
・私は、ずっと長谷川泰子は大正から昭和にかけて、中原中也と小林秀雄の間を行き来する”ファム・ファタール”だと思っていた。
・だが、今作は上記の通り長谷川泰子著作を基にしているからか、彼女は繊細さと可愛さと我儘な面を兼ね備えた人物として描かれている。
時に嫉妬心を持ち、時に先輩女優に勝気な啖呵を吐き、時に冷たく中原の元を去り、時に神経症を患う、男(私)にとっては甚だ面倒な女性として、描かれている。
・今作の見所は、中原中也を演じた木戸大聖と、長谷川泰子を演じた広瀬すずの身体を張った演技と、二人を或る種達観した目で見る小林秀雄を演じた岡田将生の姿である。
特に、個人的には今まで観た事のないような広瀬すずの姿と岡田将生の流石の演技は、良かったと思う。
■中原の葬儀場に遅れてやって来た長谷川泰子が、彼の亡骸の胸の上に彼が幼き時に作って貰った且つて彼が自分の心臓だと言って長谷川泰子が中原の元を去る時に丸めて彼女の茶碗の中に乱暴に置いた赤い手袋を置くシーンや、小林秀雄が沈痛な顔で葬儀場の焼き場から上がる煙を見ずに、”アイツの骨を見たくない。”という姿や、長谷川泰子が小林に”私の背骨、曲がってない?つっかえ棒が無くなって、曲がってしまった気がするの。”と言う、再後半のシーンはナカナカであった。
<今作は、中原中也と小林秀雄の間を行き来する長谷川泰子の姿を軸に、三人の”奇妙な三角関係”を描いた、文学調な装いを帯びた作品である。
近年、今作の様な趣の作品は皆無に近かったので、ナカナカだった作品でもある。>
この印象はまるで
途中、泰子が無声映画の俳優として芝居をするシーンがある。それを観た時、これかと思った。
あくまで一個人の印象だが、いわゆる普通の映画に思えなかった。泰子と中也、小林。私にはまるで三人が日々の姿を演じ、それを映画に撮っているような気がした。中の俳優さん達の演技ではなく本当の三人が演じる劇中劇だ。
なぜそうなったかは説明できない。ストーリーを通してある時は純情に、ある時はエゴを感じた物語がそうさせたのかもしれない。それでも三人は美しい。
二人の男性が一人の女性を愛し、お互いにそれを知っており、女性もまた二人を愛する。令和の世とは違う男女の感性。それは今の世には希少なものだろうか。
中也の最期を知り初めて涙を流し泣けた泰子。あの涙は泰子の心から何を消したか。これは観る人によって様々な感想が出そうだ。
別世界のなかの、今もあるもの
※最後の文、不足を追加しました。
静寂のなかの雨音や足音
濡れた紅い番傘の艶
純白の雪
町屋の黒い瓦と壁
小さな電球が照らす畳
窓ガラスの木枠の雰囲気
雨戸の板を引くときの質感
室内の会話劇が中心で時事背景の影はほとんど見えないため、心情や人柄を浮かばせるにはその場の空気を生み出すもの達が頼もしい。
予告を見たときの期待感を一番に越えるのはきっとこれだろうと早々に思う。
ほどく先からまた絡み出すような3人の離れられない運命を〝嫉妬〟と〝翻弄〟がびっちり繋ぎ繰り返す。
充満する息苦しさを開放するには外出して遊ぶ無邪気な姿や風がはらむコート、桜の花のやさしい色はありがたいアクセントだった。
今思えば、あの奇妙なループに没入していた自分がいたということだろう。
そしてそれがなぜ起きてしまうのが〝ようやく〟ちょっとわかったようなラストの瞬間には、吸った息が〝くっ〟と喉に滞った。
そこで見た泰子と小林のそれぞれの表情がストップモーションでこびりついたままエンディング曲を聴いていた。
序盤からあれだけ感じた昂りからどういうことか遅れてきたファム・ファタールの実感だった。
去し日に思いを馳せられるのは、歪に耐え続けた一辺の、喪失でしか成し得なかったのだろうか
2025.2.21 イオンシネマ久御山
実在の人物による三角関係を描いた愛憎メロドラマ
監督は根岸吉太郎
脚本は田中陽造
物語は、大正13年の京都にて、駆け出し女優の長谷川泰子(広瀬すず、幼少期:浅田芭路)と天才詩人の中原中也(木戸大聖)が同棲する様子が描かれて始まる
中原は自分にしか書けない詩を追い求めるところがあって、他人には理解し難い行動をすることもあった
彼には友人の詩人・冨永太郎(田中俊介)がいて、彼がいるから京都にいるという側面もあった
泰子は宿代わりのつもりだったので二人の関係が深まることはなかったが、ある日を境にその距離が急接近してしまう
それは、撮影所にて大物女優(草刈民代)と口論になったことがきっかけで、泰子の京都での仕事が途絶えてしまったからだった
弱いところを見せた泰子にしがみついた中原は、そのまま彼女を押し倒してしまう
そうして大人の関係になった二人は、ある冬の日に、東京へと向かう決意を固めるのであった
映画は、中原との出会いと関係を描く前半と、小林と会ったことで三角関係になる後半に分かれている
中原に愛想を尽かした泰子が彼の元を去るのだが、その後も中原は幾度となく、二人の前に現れる
それが強迫観念のようなものになっていて、泰子の心をざわつかせていた
それが小林にも波及することになり、今度は小林側から打ち寄せられる波に翻弄されるようになり、泰子の精神状態はさらに不安になってしまうのである
恋愛映画のカテゴリーに入ると思うが、描かれているのは自我のバランスで、それぞれに依存しあっている奇妙なものがあったと思う
このバランスを崩したものが恋愛であり、性欲であると思うのだが、それに抗えるだけの精神性はまだ持ち合わせていなかった
それは中原の死によってようやく発芽したという感じになっていて、そのバランスを保っていた一辺の喪失によって、二人は自立できるようになったようにも思えた
そのために中原の死が必要だったかといえばそうではないのだが、振り返ってみると、そういったことでも起きない限り、歪なバランスは燻り続けていたのかな、と言えるのかもしれません
いずれにせよ、ある程度の時代背景、文学的な素養は必須で、中原中也が何を残した人で、長谷川泰子にどんな悪評があって、小林秀雄がどのように関わっていったのかを知らないと話に入り込めないように思う
映画のタイトルは中原中也の詩のひとつなのだが、この詩をタイトルにした意味なども含めて、映画だけで感じ取れない部分も多いように思う
「ゆきてかへらぬ」は詩集「在りし日の歌」に収録されていて、この歌がサブタイトルになっている長谷川泰子の書籍「中原中也との愛:ゆきてかへらぬ」というものもあるので、これを読み解けば映画の中でどう解釈されたのかというのはわかるのかもしれない
「ゆきてかへらぬ」は京都で過ごした日々のことを歌っていると思われるのだが、それはもう戻らない青春という意味にも思える
映画では、中原だけではなく、泰子の「もう戻らない青春」を描いていて、それがどのように壊れていったのかも描いているのだろう
そう言った意味において、ラストに道を違うというのは、希望を意味しているのかな、と感じた
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