ゆきてかへらぬのレビュー・感想・評価
全148件中、141~148件目を表示
別世界のなかの、今もあるもの
※最後の文、不足を追加しました。
静寂のなかの雨音や足音
濡れた紅い番傘の艶
純白の雪
町屋の黒い瓦と壁
小さな電球が照らす畳
窓ガラスの木枠の雰囲気
雨戸を引く時の重みや質感
室内の会話劇が中心で時事背景の影はほとんど見えないため、心情や人柄を浮かばせるにはその場の空気を生み出すもの達が頼もしい。
予告を見たときの期待感を一番に越えるのはきっとこれ(映像)だろうと早々に思う。
ほどく先からまた絡み出すような3人の離れられない運命を〝嫉妬〟と〝翻弄〟がびっちり繋ぎ繰り返す。
充満する息苦しさを開放するには外出して遊ぶ無邪気な姿や風にはらむコート、桜の花のやさしい色はありがたいアクセントだった。
今思えば、あの奇妙なループに没入していた自分がいたということだろう。
そしてそれがなぜ起きてしまうのが〝ようやく〟ちょっとわかったようなラストの瞬間には、吸った息が〝くっ〟と喉に滞った。
そこで見た泰子と小林のそれぞれの表情がストップモーションでこびりついたままエンディング曲を聴いていた。
序盤からあれだけ感じた昂りからどういうことか遅れてきたファム・ファタールの実感だった。
広瀬すずに刮目せよ
去し日に思いを馳せられるのは、歪に耐え続けた一辺の、喪失でしか成し得なかったのだろうか
2025.2.21 イオンシネマ久御山
実在の人物による三角関係を描いた愛憎メロドラマ
監督は根岸吉太郎
脚本は田中陽造
物語は、大正13年の京都にて、駆け出し女優の長谷川泰子(広瀬すず、幼少期:浅田芭路)と天才詩人の中原中也(木戸大聖)が同棲する様子が描かれて始まる
中原は自分にしか書けない詩を追い求めるところがあって、他人には理解し難い行動をすることもあった
彼には友人の詩人・冨永太郎(田中俊介)がいて、彼がいるから京都にいるという側面もあった
泰子は宿代わりのつもりだったので二人の関係が深まることはなかったが、ある日を境にその距離が急接近してしまう
それは、撮影所にて大物女優(草刈民代)と口論になったことがきっかけで、泰子の京都での仕事が途絶えてしまったからだった
弱いところを見せた泰子にしがみついた中原は、そのまま彼女を押し倒してしまう
そうして大人の関係になった二人は、ある冬の日に、東京へと向かう決意を固めるのであった
映画は、中原との出会いと関係を描く前半と、小林と会ったことで三角関係になる後半に分かれている
中原に愛想を尽かした泰子が彼の元を去るのだが、その後も中原は幾度となく、二人の前に現れる
それが強迫観念のようなものになっていて、泰子の心をざわつかせていた
それが小林にも波及することになり、今度は小林側から打ち寄せられる波に翻弄されるようになり、泰子の精神状態はさらに不安になってしまうのである
恋愛映画のカテゴリーに入ると思うが、描かれているのは自我のバランスで、それぞれに依存しあっている奇妙なものがあったと思う
このバランスを崩したものが恋愛であり、性欲であると思うのだが、それに抗えるだけの精神性はまだ持ち合わせていなかった
それは中原の死によってようやく発芽したという感じになっていて、そのバランスを保っていた一辺の喪失によって、二人は自立できるようになったようにも思えた
そのために中原の死が必要だったかといえばそうではないのだが、振り返ってみると、そういったことでも起きない限り、歪なバランスは燻り続けていたのかな、と言えるのかもしれません
いずれにせよ、ある程度の時代背景、文学的な素養は必須で、中原中也が何を残した人で、長谷川泰子にどんな悪評があって、小林秀雄がどのように関わっていったのかを知らないと話に入り込めないように思う
映画のタイトルは中原中也の詩のひとつなのだが、この詩をタイトルにした意味なども含めて、映画だけで感じ取れない部分も多いように思う
「ゆきてかへらぬ」は詩集「在りし日の歌」に収録されていて、この歌がサブタイトルになっている長谷川泰子の書籍「中原中也との愛:ゆきてかへらぬ」というものもあるので、これを読み解けば映画の中でどう解釈されたのかというのはわかるのかもしれない
「ゆきてかへらぬ」は京都で過ごした日々のことを歌っていると思われるのだが、それはもう戻らない青春という意味にも思える
映画では、中原だけではなく、泰子の「もう戻らない青春」を描いていて、それがどのように壊れていったのかも描いているのだろう
そう言った意味において、ラストに道を違うというのは、希望を意味しているのかな、と感じた
文学映画
2025年の有力候補。
全148件中、141~148件目を表示