ゆきてかへらぬのレビュー・感想・評価
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ブルーダイヤモンドにはほど遠い
ゆきてかへらぬ
小林が天才だ、ダイヤモンドと、何度も言うほどイエローダイヤへとくすんで行くのが詩人なのだ。
更に、大聖君も頑張っているが、そもそも17歳の青年からオッサンにまで薄汚れる詩人を演じるのは荷が重過ぎる。
泰子も、加齢に薄汚れる詩人と真逆に老練する評論家に挟まれればアタオカとなるも当然でしょう。
魔性なんぞ一欠片も感じ無かったのは、小林と同じだ。
あれはジェラシーだったのだろう。
とは言え、
その無理無理の青春の一コマを開花から落花を大正浪漫として楽しませてくれた。
また、ロケ地は最高の場所が数多くあった。
わかったのは、大徳寺の塔頭辺りかな。
出来たら、ロケ地巡りをしてみたい。
(^-^)
ゆきてかへらぬ
劇場公開日:2025年2月21日 128分
大正時代の京都と東京を舞台に、実在した女優・長谷川泰子と詩人・中原中也、文芸評論家・小林秀雄という男女3人の愛と青春を描いたドラマ。
大正時代の京都。20歳の新進女優・長谷川泰子は、17歳の学生・中原中也と出会う。
どこか虚勢を張る2人は互いにひかれあい、一緒に暮らしはじめる。
やがて東京に引越した2人の家を、小林秀雄が訪れる。
小林は詩人としての中也の才能を誰よりも認めており、中也も批評の達人である小林に一目置かれることを誇りに思っていた。
中也と小林の仲むつまじい様子を目の当たりにした泰子は、才気あふれる創作者たる彼らに置いてけぼりにされたような寂しさを感じる。
やがて小林も泰子の魅力と女優としての才能に気づき、後戻りできない複雑で歪な三角関係が始まる。
広瀬すずが長谷川泰子、木戸大聖が中原中也、岡田将生が小林秀雄を演じた。
「探偵物語」「ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ」の名匠・根岸吉太郎監督が16年ぶりに長編映画のメガホンをとり、
「ツィゴイネルワイゼン」の田中陽造が脚本を担当。
ゆきてかへらぬ
劇場公開日:2025年2月21日 128分
大時代的
中原中也という天才
汚れつちまつた悲しみに、
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の皮袋
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる
汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむもなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む
汚れつちまった悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……
この詩を読んで感動しない人間は居るだろうか?
この映画は長谷川泰子(広瀬すず)の映画なのです。
中原中也を描くなら、この詩は絶対に省けない
乳母車を押す中也、
哺乳瓶から乳を飲む中也、
マントを翻してローラースケートに興じる中原中也、
ラストの「ユーモア」という謎の題名のテーマ歌を省いても、
汚れつちまつた悲しみに、は、読まなくてはならない。
この詩を、冒頭か?ラストで、
テロップで流して声を被せたら、
たったの1分間で済むのに、そうすれば、
この映画は本物の芸術作品になり得たかもしれない。
久しぶりに観た【文芸作品】を。
それでも【文学】をそこはかとは感じる良い経験でした。
まず人間が描けている。
詩人・中原中也
女優・長谷川泰子
文芸評論家・小林秀雄
この3人が演じた木戸大聖、広瀬すず、岡田将生の
手堅い演技力、的確な人物像の把握、役への情熱、やる気
そのため実在しているかのような存在感が感じられる。
特に木戸大聖の演じる中也。
映画では否定していたが、17歳の旧制中学から、
女郎を買ったとの証言がある。
小林秀雄に泰子を奪われても、ちょくちょく顔を出して、
泰子が神経を病むほどの大音量で鳴る柱時計を贈る。
《中原中也と哺乳瓶そして乳母車》
これには伏線がある。
泰子が望まぬ妊娠・出産をした時、泰子を支えて、
子供の茂樹の名付け親になった中也。
案外、バンカラで豪放磊落な面倒見のいい男だったようだ。
この辺は木戸大聖も手堅く片鱗をみせている。
そして何より、中也と泰子は広島の鉄砲町で目と鼻の先に
住んでいた。
面識はなかったが、同郷でご近所なら、話が弾んだ筈だ。
中也は3歳年下にも関わらず、乳飲み子を抱えた泰子の面倒を
良く見ている。
【乳母車も哺乳瓶】も茂樹との交流に寄るものだろう。
ある意味で知的で冷たい小林秀雄より、情の濃い男。
中原中也の、
30年の生涯は濃縮されて濃い特濃のものだったのである。
岡田将生は小林秀雄にうってつけで、美貌と嫌味なほど知的で繊細。
料理の出来ない泰子を気遣い、ゆうげの食べ物を毎食買っ作る。
しかしどうだろう?
泰子は、中原の部屋に泊まった朝、味噌汁をそれもあり合わせで
生姜の味噌汁を手作りしている。
中也と暮らしていれば泰子の神経症は出ない。
それでも中也と秀雄は泰子を挟んで交流を続ける。
監督の根岸吉太郎は2009年の太宰治を描いた
「ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ」以来16年ぶりの長編映画。
もともとは有名監督なので、「遠雷」と「ヴィヨンの妻」は観ている。
「遠雷」は有り余る若さが画面から迸っていた。
それに較べると今回の熱量の不足は否めない。
中原中也役の演者が見つからず、40年以上前の田中陽三の脚本が
やっと日の目をみたそうだが、
美しい良い役者(広瀬すずと岡田将生)を見ていると、
一瞬も目を離せず、一瞬も飽きる事が無かったが、
感動したかと聞かれれば、湧き上がる興奮は沸点を越えず
化学反応は起こらなかった。
なりふり構わず情に訴えるには、
広瀬すずの美しい背中を見つつ、
広瀬すずの見事な日本髪の美しさをしても、
足りない。
岡田将生は小林が掴めず不完全燃焼という。
圧倒的な芸術の香りや破壊力と熱量が微量な気がする。
根岸吉太郎監督は案外ニヒルな人なのかもしれない。
意味わかんねぇえええええ
【”ワタクシ達、神経と神経で繋がっていましたの。”今作は、中原中也と小林秀雄の間を行き来する長谷川泰子の姿を軸に、三人の”奇妙な三角関係”を描いた、文学調な装いを帯びた作品である。】
ー 今作は、ご存じの通り、長谷川泰子著「中原中也との愛 ゆきてかへらぬ」を基にしている。
若き中原中也と長谷川泰子の京都での出会いと、同棲から、二人が東京に移り住み、若き文芸批評家の小林秀雄と面識を持ち、長谷川泰子が中原中也との同棲を解消し、小林の家に同居する”奇妙な三角関係”を描いている。-
◆感想
・私は、ずっと長谷川泰子は大正から昭和にかけて、中原中也と小林秀雄の間を行き来する”ファム・ファタール”だと思っていた。
・だが、今作は上記の通り長谷川泰子著作を基にしているからか、彼女は繊細さと可愛さと我儘な面を兼ね備えた人物として描かれている。
時に嫉妬心を持ち、時に先輩女優に勝気な啖呵を吐き、時に冷たく中原の元を去り、時に神経症を患う、男(私)にとっては甚だ面倒な女性として、描かれている。
・今作の見所は、中原中也を演じた木戸大聖と、長谷川泰子を演じた広瀬すずの身体を張った演技と、二人を或る種達観した目で見る小林秀雄を演じた岡田将生の姿である。
特に、個人的には今まで観た事のないような広瀬すずの姿と岡田将生の流石の演技は、良かったと思う。
■中原の葬儀場に遅れてやって来た長谷川泰子が、彼の亡骸の胸の上に彼が幼き時に作って貰った且つて彼が自分の心臓だと言って長谷川泰子が中原の元を去る時に丸めて彼女の茶碗の中に乱暴に置いた赤い手袋を置くシーンや、小林秀雄が沈痛な顔で葬儀場の焼き場から上がる煙を見ずに、”アイツの骨を見たくない。”という姿や、長谷川泰子が小林に”私の背骨、曲がってない?つっかえ棒が無くなって、曲がってしまった気がするの。”と言う、再後半のシーンは彼女と中原と小林の関係性を上手く表現した台詞であった。
<今作は、中原中也と小林秀雄の間を行き来する長谷川泰子の姿を軸に、三人の”奇妙な三角関係”を描いた、文学調な装いを帯びた作品である。
近年、今作の様な趣の作品は皆無に近かったので、斬新且つレトロスペクティブな印象を持った作品でもある。>
広瀬すずの一皮剥けた演技は必見!
実に文学的な演出で、誇張された演技が特徴の作品です。
主人公 長谷川泰子(広瀬すず)、中原中也(木戸大聖)、小林秀雄(岡田将生)の
三角関係を描いているので、時代は大正〜昭和です。
率直申し上げて、映像のつくりあがりから、あまり大正感は感じられず、
そこは少し残念でした。
本作の見どころは広瀬すずの一皮向けた演技だと思います。
今までの広瀬すずのイメージから脱却し、
中原・小林から見たら、非常にやっかいな人物として演技していますし、
精神的に参っている時の言動・行動など、狂気をまとった演技も
実に見事、というより頑張っているなぁ、広瀬すず!と感じました。
広瀬すずは声に特徴があるので、
誰を演じても、広瀬すずだなぁと思ってしまうところはあるものの
表情・所作などで今までのらしさ的なところは突破している気がします。
ただ、もう一歩、二階堂ふみくらいの吹っ切れ方で演じていると、
また見方も変わったかもしれません。
木戸大聖の演技はちょっと鼻につくというか、本当に中原はあんな感じだったのかな?
なんて思っちゃいました。
一方、岡田将生も繊細な役どころを巧みに演じていましたね。
中原中也の半生を描いた作品でもあり、私は興味深く観ることができました。
本日、公開日のレイトショーでの鑑賞でしたが、
私を含め観客2名。
これは全国的にも興行は厳しそうだなと感じております。
※広瀬すずが主演というだけあって、集客力もそこそこあるかと予想していましたが、甘かったです
ああ おまえはなにをして来たのだと…吹き来る風がわたしに云う
殆ど実家からの仕送りで生活していたという自堕落で穀潰しの有り様は、太宰治にそっくりな中原中也。映画には無かったが、家族の手前、働きますというパフォーマンスでNHKの入社面接を受けに行くも、面接官を怒らせて、わざと落ちている。生涯、詩人として生きる覚悟を持った破天荒な男を木戸大聖が演じたが、“不遜な若者”感は充分だったけれど、“詩人”になりきれてはいなかった。ドラマで1990年『三上博史の中也』がハマりすぎていて、これには勝てない。一方、岡田将生の印象は悪くない。上から目線の稀代の文学者、髪型なのかメイクなのか昭和初期の雰囲気を漂わせ乍ら、本作での主要な三角関係の危うさを、醒めた視点で捉え、なおかつ優しく均衡を保ち続けるという難役をこなした。
そして主役の広瀬すず、大人になりました!時々は気の利いた事も言えるけど、いくら背伸びしても二人に割って入れない、疎外感に苛まれる、はすっぱな大部屋女優を見事やりきった。
中也が皮肉たっぷりにお祝いとして持ってきた柱時計 と小林の目利きで買った白磁の壺は、泰子が精神的に壊れていくシーンで重要な役割を果たす。うるさいから壊してっ!として庭にぶん投げた柱時計が中也の象徴なら、壺は小林のそれである。バラバラになっても鳴り続ける“ナカハラ”に“コバヤシ”を投げつけて一緒に壊してしまい、私はあんたらの“おもちゃ”じゃない!とキレる場面は秀逸である。
文芸作品でも演技の幅を魅せた広瀬すず、人気者ゆえに引っ張りダコの状況だろうが、あんまりミーハーなところに顔を出さず、作品を選んで大成して欲しい。
(表題変更しました)
ファム・ファタールとしての広瀬すずの魅力が感じられない
雨に濡れた屋根瓦と、柿の実や真上から撮った朱色の傘のコントラストの美しさ、タバコをふかして花札を打つ、ちょっとハスッパな広瀬すずと、序盤は画面に引き込まれる。
ただ、それ以降は、3人の男女がくっついたり離れたりの話が続くばかりで、少し退屈してしまった。
長谷川泰子は、確かに、中原中也と小林秀雄の2人を同時に愛していたのだろうし、中原中也と小林秀雄も、互いに尊敬し、信頼し合う仲で、そこには性別を超えた愛情があったに違いない。
精神を病んだ泰子が、中也と秀雄の3人で遊園地やダンスホールに出かけた時の楽しそうな様子が印象的だが、この3人は、お互いにお互いのことを愛しており、3人でいる時が一番幸せなのだろう。
そこで、誰かが、他の2人のうちのどちらかを独占しようとする時に、3人の関係性のバランスが崩れ、軋轢が生じるのではないだろうか?
「泰子の体を通じて中也を感じたかった」という秀雄の言葉や、「私たちの不幸せを終わらせる」とか「神経と神経で繋がっていた」といった台詞からは、まさしく、こうした3人の関係性が窺い知れるのである。
どれだけ愛し合っていても、一緒にいると幸せになれないということは、確かにあるのだろうし、その場合は、映画のタイトルが示すように、やはり、別れるしかないのだろう。
そうした、人間関係の悲劇を描いた映画であるということはよく分かるのだが、せっかく中原中也や小林秀雄を題材に取ったのであれば、その創作活動や評論活動に、長谷川泰子がどれだけ大きな役割を果たしていたのかといったところも、もっと描いてもらいたかったと思う。
その点、鬼気迫る演技とは裏腹に、ファム・ファタールとしての広瀬すずの魅力があまり感じられなかったのは、残念としか言いようがない。
物語に感動することも、共感することもないが、広瀬すずさんの演技は見ごたえあり
長谷川泰子のホラー劇場「詩と死」
この印象はまるで
途中、泰子が無声映画の俳優として芝居をするシーンがある。それを観た時、これかと思った。
あくまで一個人の印象だが、いわゆる普通の映画に思えなかった。泰子と中也、小林。私にはまるで三人が日々の姿を演じ、それを映画に撮っているような気がした。中の俳優さん達の演技ではなく本当の三人が演じる劇中劇だ。
なぜそうなったかは説明できない。ストーリーを通してある時は純情に、ある時はエゴを感じた物語がそうさせたのかもしれない。それでも三人は美しい。
二人の男性が一人の女性を愛し、お互いにそれを知っており、女性もまた二人を愛する。令和の世とは違う男女の感性。それは今の世には希少なものだろうか。
中也の最期を知り初めて涙を流し泣けた泰子。あの涙は泰子の心から何を消したか。これは観る人によって様々な感想が出そうだ。
別世界のなかの、今もあるもの
※最後の文、不足を追加しました。
静寂のなかの雨音や足音
濡れた紅い番傘の艶
純白の雪
町屋の黒い瓦と壁
小さな電球が照らす畳
窓ガラスの木枠の雰囲気
雨戸を引く時の重みや質感
室内の会話劇が中心で時事背景の影はほとんど見えないため、心情や人柄を浮かばせるにはその場の空気を生み出すもの達が頼もしい。
予告を見たときの期待感を一番に越えるのはきっとこれ(映像)だろうと早々に思う。
ほどく先からまた絡み出すような3人の離れられない運命を〝嫉妬〟と〝翻弄〟がびっちり繋ぎ繰り返す。
充満する息苦しさを開放するには外出して遊ぶ無邪気な姿や風にはらむコート、桜の花のやさしい色はありがたいアクセントだった。
今思えば、あの奇妙なループに没入していた自分がいたということだろう。
そしてそれがなぜ起きてしまうのが〝ようやく〟ちょっとわかったようなラストの瞬間には、吸った息が〝くっ〟と喉に滞った。
そこで見た泰子と小林のそれぞれの表情がストップモーションでこびりついたままエンディング曲を聴いていた。
序盤からあれだけ感じた昂りからどういうことか遅れてきたファム・ファタールの実感だった。
広瀬すずに刮目せよ
去し日に思いを馳せられるのは、歪に耐え続けた一辺の、喪失でしか成し得なかったのだろうか
2025.2.21 イオンシネマ久御山
実在の人物による三角関係を描いた愛憎メロドラマ
監督は根岸吉太郎
脚本は田中陽造
物語は、大正13年の京都にて、駆け出し女優の長谷川泰子(広瀬すず、幼少期:浅田芭路)と天才詩人の中原中也(木戸大聖)が同棲する様子が描かれて始まる
中原は自分にしか書けない詩を追い求めるところがあって、他人には理解し難い行動をすることもあった
彼には友人の詩人・冨永太郎(田中俊介)がいて、彼がいるから京都にいるという側面もあった
泰子は宿代わりのつもりだったので二人の関係が深まることはなかったが、ある日を境にその距離が急接近してしまう
それは、撮影所にて大物女優(草刈民代)と口論になったことがきっかけで、泰子の京都での仕事が途絶えてしまったからだった
弱いところを見せた泰子にしがみついた中原は、そのまま彼女を押し倒してしまう
そうして大人の関係になった二人は、ある冬の日に、東京へと向かう決意を固めるのであった
映画は、中原との出会いと関係を描く前半と、小林と会ったことで三角関係になる後半に分かれている
中原に愛想を尽かした泰子が彼の元を去るのだが、その後も中原は幾度となく、二人の前に現れる
それが強迫観念のようなものになっていて、泰子の心をざわつかせていた
それが小林にも波及することになり、今度は小林側から打ち寄せられる波に翻弄されるようになり、泰子の精神状態はさらに不安になってしまうのである
恋愛映画のカテゴリーに入ると思うが、描かれているのは自我のバランスで、それぞれに依存しあっている奇妙なものがあったと思う
このバランスを崩したものが恋愛であり、性欲であると思うのだが、それに抗えるだけの精神性はまだ持ち合わせていなかった
それは中原の死によってようやく発芽したという感じになっていて、そのバランスを保っていた一辺の喪失によって、二人は自立できるようになったようにも思えた
そのために中原の死が必要だったかといえばそうではないのだが、振り返ってみると、そういったことでも起きない限り、歪なバランスは燻り続けていたのかな、と言えるのかもしれません
いずれにせよ、ある程度の時代背景、文学的な素養は必須で、中原中也が何を残した人で、長谷川泰子にどんな悪評があって、小林秀雄がどのように関わっていったのかを知らないと話に入り込めないように思う
映画のタイトルは中原中也の詩のひとつなのだが、この詩をタイトルにした意味なども含めて、映画だけで感じ取れない部分も多いように思う
「ゆきてかへらぬ」は詩集「在りし日の歌」に収録されていて、この歌がサブタイトルになっている長谷川泰子の書籍「中原中也との愛:ゆきてかへらぬ」というものもあるので、これを読み解けば映画の中でどう解釈されたのかというのはわかるのかもしれない
「ゆきてかへらぬ」は京都で過ごした日々のことを歌っていると思われるのだが、それはもう戻らない青春という意味にも思える
映画では、中原だけではなく、泰子の「もう戻らない青春」を描いていて、それがどのように壊れていったのかも描いているのだろう
そう言った意味において、ラストに道を違うというのは、希望を意味しているのかな、と感じた
文学映画
全82件中、61~80件目を表示