ゆきてかへらぬのレビュー・感想・評価
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感情の言語化の是非
何とも言えない雰囲気を漂わせる作品
文学 特に詩に魅了された時代
大正時代という設定のようだが、セリフに「シベリア抑留」というミスがあった。意図的かもしれないが、その意味は解らない。
この物語は実在した中原中也と長谷川泰子、そして泰子と関係していたのではないかと言われている小林英雄の三角関係をフィクションとして描いている。
概ねこのことを知る人に、この物語の背景を隠すために、中也という名前を最後に出したのだろう。
あれがなければ気が付かなかった。
長谷川とか中原という名前さえ、しばらく登場しなかった。
そしてこの映画は、長谷川泰子が70歳のときに発表した自伝的小説をもとにしているようだ。
さて、
この作品の時代背景 詩という言葉が持つ世界観や情景
それは読み手の主観で変わるはずだが、そこにこそ真実が隠されていると疑わない中原と小林やその世界を牽引してきた人々
表面上の意味だけで言葉を無意味に並べ立てることを良しとしない。
このような文学的というのか詩に憑りつかれた中原中也
経験よりも先に言葉があり、意味があり、風景に感じる哲学的な想いや物事の理を考えずにはいられない。
誰かとあるテーマについて論じあい、それはまさに「剣道で真剣を使うようなもの」であり、竹刀のような中途半端な想いを真剣で切って捨てまくるように、言葉を遣って相手を畳みかける。
経験していないこと
中原にとってそうだとはいいにくく、またよくわからないのが、恋だったのかもしれない。
3つ年上の泰子
坊やと呼ばれる。
詩人として天才だと言われていた中原
感じたことを言語化することと、それを読んだ人が似たような感情や情景を思い浮かべることができることは、言葉が持つ最大の力だろう。
そこに確かな感情があることで、それが読み手に伝わるのは、発信者が持つ感受性の力であり、これを言霊と呼ぶのだろう。
だから他人が同じ言葉を使用しても、そこにその感情が伴わなければ言霊はなく、読み手に思いは届かない。
坊や 子ども 17歳
彼が持つ感情を言語化する能力は、子どもゆえの純粋さがあるからだろう。
同時に感情に任せて喧嘩することもあり、決してその溢れ出す感情を抑え込もうとはしないことこそが、中原の人間性であり泰子が彼と一緒にいた理由だろう。
彼は常に本心を表現しようとする。
長谷川康子
彼女にあったトラウマ
母の精神崩壊と入水自殺
母の本気の狂気
それは幼い泰子にとって強烈な出来事だった。
その狂気の血が自分にも流れているという。
中原が親友富永の吐血を見ながら何もしなかった泰子を責める。
「君には愛がないのか?」
「私、泣きたい。人のために、自分のために」
泰子は「泣いたことがないかもしれない」と言っていたが、中原の詩を聞き涙を流した夜があった。
泰子は気が狂った母親と無理心中というトラウマによって、感情にブレーキがかかってしまったのだろうか?
自分自身の気持ちを言葉で表現することができないし、したいとも思わない。
体裁を繕う嘘
本心とは逆の言葉を遣うこともある。
「嫉妬」
坊やと言いながら、女郎を買ってくると言った中原の頬を打つ。
この嫉妬は何度か登場する。
嫉妬とは人が最も隠そうとする感情かもしれない。
天才的詩人である中原の詩は確かに泰子の心を打った。
しかし、言葉は所詮言葉であって「それ」そのものではない。
泰子は本当の人間の心の闇を覗いた者だ。
母 彼女の狂気
そこに付ける言葉などない。
ただ、どうしようもなくなった女の狂気があった。
言葉は、共通語として利便的なだけであり、「それ」そのものに対する表現の一部でしかない。
「それ」を言葉にした途端、それそのものとは別物である「言葉」に置き換えられ、その人にだけ感じた唯一の「それ」は消えてしまう。
中原たちは「それ」を再発見するために言葉を遣って詩を書くのだろう。
しかし、実体験して感じた「それ」はもう言葉で作り上げることなどできない。
泰子は言葉にできない自身の感情を、他人が勝手に分析しようとすることが堪らなく嫌いだ。
泰子はしばらく同棲していた中原のところから小林のところへ移った。
それは、「私に対する愛情があるかどうか」が指針となった。
幸せと不幸 泰子が使った言葉 指針
中原には純粋な感情があった。
それを言語化することに夢中になっていた。
そして中原は、
自分以外のことは非常によく言語化できるのに、自分自身のことはよくわかっていないことを泰子は見抜いていた。
泰子に言い当てられた本心 ビー玉のような心
言い当てられたことに対する怒りをぶつけてくる始末
「わかったような口をきくな」
心を言葉にできない泰子だが、人間の闇の深さを体験している。
それさえも言葉にできない。
いつも詩を作ることに心を奪われている中原
しかし、
泰子にとって大切だったのは、もっと必要とされたいこと。
小林は泰子を必要としていた。
ところが何でも分析したい小林は、泰子の心まで分析しようとする。
泰子の心の奥底にあった母
何でも言語化したり分析したりすることに夢中な二人だったが、傍にいる泰子の本当の心の奥底を感じることもできなければ、それを言葉にすることさえできない二人。
泰子は、中原が当てつけに持ってきた柱時計の時打ち音に激しく反応した。
「同じ時計の音でつながっちゃう」
感情の言語化
何かを感じる心
中原の意図を感じた泰子
同じ時計の音 繋がり
別れても心に残る中原
それを「モノ」によって置き換えられたことに対する激しい嫌悪感
確かに中原は泰子の本心の一部だったのだろう。
決してそれを否定できない泰子
否定しても否定しても現れて来てしまう「本心」の存在
それは消したいと思っても永遠に残り続けている幼い時の出来事 母の狂気
小林は「二本のつっかえ棒」という言葉で3人の関係を表現した。
そして泰子に対し離別を宣言した。
この時の泰子は、あの時の母と同じになったのだろう。
泰子は、奇しくもあの時の母を自分自身で表現したかったということに、やがて気づくことになったように思う。
あの苦しいトラウマをもう一度再現したことで、「終わったのよ。私たちの不幸が」という言葉に繋がるのだろう。
毒を以て毒を制す つまり、痛みを以て痛みを消したのだ。
言葉にできない泰子の長い葛藤とそれからの解放
これを作品として表現した映画の持つ力
そして彼女自身が見つけた自己「表現」の方法
何でも言葉に置き換えて表現したい中原と小林
このコントラストを監督は表現したかったのかもしれない。
それ故この物語には明確な「別れ」が必要だったと解釈した。
だから中原の死と小林との別れ「さようなら」をはっきり描いた。
小林は泰子に、いつか中原が言った「散る花びら」のことを語る。
そこにあった「散るのか、それとも散らすのか?」という問いかけ。
この言葉は奥が深い。
起きる出来事に対する運命的解釈と意識的解釈
そしてこの言葉は、泰子のトラウマである母と同じ道を辿ってそれを終わらせたことが、運命だったのか意識していたのかということにもつながるように感じた。
潜在意識と顕在意識 または運命
棺に納めた赤い手袋
彼の母の手編み
中原は裕福だったがもしかしたら父は早くに亡くなったのかもしれない。
赤という女の子の色は、母が望んだのは女の子だったのかもしれない。
しかし、中原にとってその時期ほど幸せだったことはなかったのだろう。
学問 知識 言葉 そんなものを知ったと同時に、純粋な当時の気持ちを言語化しようとした瞬間に、中原は本当に大切なものを見失っていったのかもしれない。
母の手編みの手袋
オレの心臓
その大切なものを別れの記念に持たせることは、中原にとって泰子との別れがどんなものだったのかが伺える。
泰子とは真逆の幼少期
世の中にあるすべてのものは、自分自身の中にある。
対局さえも同居している。
感情や本心ほど自分の中心にあって見えない。
出来事や他者の振る舞いに感じる、反応するものこそ、自分の心
それそのものを言葉や何かに置き換えることはできない。
表現とは、それそのものではなくそれを受取った感想
この感想が連鎖するので多義的となるのだろうか?
中原や小林のように、どんなに言葉をつなぎ合わせるように考えても、自分自身というものが見えない。
泰子の「同じ時計の音でつながっちゃう」というセリフに込められた、記憶と感情の連鎖。
求めているものには決して追いつくことができず、逃げたいものからはすぐに追いつかれてしまう。
タイトル 「ゆきてかへらぬ」
今この瞬間に沸き上がった感情は、言葉にしてもそれに追いつくことなどできない。
過去も変えることなどできない。
過去のトラウマは、似たモノによってたちまち当時の感情が襲ってくる。
追いかけても捕まえることはできず、逃げようと思っても襲われてしまう。
これこそがこの世の理だとこの作品は言っているのかもしれない。
時代を纏った作品
広瀬すずさんの時代を纏った演技に始終圧倒されっぱなしの128分でした。
正直、彼女から大正時代の空気感などまるで感じていなかったので殆ど期待していなかったのですが、良い意味で見事に裏切られました。
長谷川泰子という大正時代の女優をしっかりとモノにしていらっしゃいました。
導入時、2階の窓辺から一階の玄関に至るワンカットでの所作や、雨の中で木戸さん演じる中原中也との会話からも普段の広瀬さんとは違う魅力が爆発していました。
彼女を通して男2人の関係が浮き彫りになっていく点も素晴らしかった。
まるで大正時代を舞台にした「突然炎のごとく」を観ているような気分にも浸れました。
一重に広瀬さんの時代を纏った演技のおかげだった気がします。
勿論、広瀬さんの演技だけでなく、セットや小道具、ロケ地に至るまで大正時代の空気感を損なわない演出が随所に散りばめられてました。
特に目を奪われたのが卓抜した撮影の巧さ。
雨の中、瓦屋根に挟まれた石畳の路地をゆっくり移動する赤い傘を捉えた真上からの映像や、咲きほこる桜の中で会話する中也と小林を捉えた映像など息を呑む美しい映像の数々に心を鷲掴みされてしまいました。
敢えて被写体だけにピントを合わせて手前と奥をぼかした映像も多く、ワンカットに対する熱量が半端なかったです。
中途半端な小道具やセットで時代感を損なう映画になっていないだけでなく、撮影で見せる絵作りを心がけたスタッフの尽力に並々ならぬ努力に感謝したいくらいです。
三人の演技が素晴らしい!
中也の生まれた山口市で上演しないなんて、間違っている!と思ってましたが、ちゃんと山口でやってくれました。ありがとう関係者の人達。
すごく楽しみにしてましたが、期待どおりでした。広瀬すずにとっては間違いなく代表作になるだろうし、木戸大聖はもう、中也そのもの!に見えました。素晴らしかった。
岡田将生の小林秀雄も、ピッタリでしたね。
榎本佑をあんなちょい役で使うなんて贅沢すぎる。監督の人脈でしょうか。
細部までこだわった美しい映像も、時代の空気感が見事に体現されてます。
あの三人の言ってるセリフがインテリジェンスすぎてよくわかんないんですけど、それがまた当時の文学っぽくてよかったです。
三人の複雑な関係をあんなに見事に表現することが出来たのは脚本のお陰だと思います。
ただ、泰子はなんで小林だけになると、あんなに神経症みたいになっちゃったんでしょう?
中也がいなかったから?小林が優しいけど完璧主義で、それに合わせて無理してたから?
数字にこだわってたのは何で?
ちょっとその辺がわからなかったですね。
長谷川泰子の本でも読んで研究しようかなと思います。
追記‥そのあと長谷川泰子の「中原中也との愛 ゆきてかえりぬ」を読みました。
彼女の潔癖症という病気に関してはよくわかりました。彼女は、映画ではやんわり描かれてますが、けっこう幼少期の両親の記憶をひきずっていて、幸せになると不安になって、相手を追い詰めて自分を不幸にする、というタイプだったようです。だから、大切にされすぎるとダメになっちゃう可哀想な人でした。
数を当てさせる、というのも実際にあったらしいですね。
でも、映画では精神的にも経済的にも自立してかっこよく終わってましたけど、実際はだいぶ違ったみたい。もっと病的っていうか。。
まあ、まったく一緒である必要はないから、これはこれでいいと思うけれど、よく史実を知ってる人はモヤモヤしたかもしれません。
実際はもっと、ドロドロしてて、理解不能で、深くて、面白かったかもしれない。
でもあの時代の文豪って、描ききれないから魅力的なんだと思います。
歪な愛情
大正時代に出逢う女性と2人の男性。
それぞれの想いが交錯し歪な愛情の中で、愛することを模索する。
出逢いなく始まり、それぞれが本心を隠したまま進む恋愛模様が淡々と進む。
盛り上がりも薄く感じられ、それぞれが愛してたことは解るのだが今ひとつ心に届くものを感じられなかった。
好みもあるのだろうけど。
すずちゃんの艶技に刮目
長谷川泰子と小林秀雄・中原中也の若き日の奇妙な三角関係の話は、私が高校時代に知った。当時長谷川も小林も存命であり、このあたりの話は結局「棺を覆った」のと共に失われると思っていた。
本作の存在を知った時驚き、また「是非見たい。」とも思いました。
意図は不明だが全体的に室内や夜間のシーンが多く、画像は暗いが、それでも彼らの青春譚を虚実織り交ぜながら上手に描いている。それにしてもすずちゃんの濡れ場には刮目しました。もういつまでも高校生役ばかりじゃないからね。立派な大人の俳優になり、オジサンとしては嬉しい限りです。このあたりやはりロマンポルノ出身の監督の常で、根岸監督のねっとりとした描写にも満足です。なお、歯ブラシなど小道具の考証はしっかりしています。ロケバスは戦後型ですが、当時のバスはもうなかったのでしょう。この辺はハリウッドには負けますな。ラスト近く中原の葬儀でようやく画像が明るくなります。彼らの青春との訣別を表すメタファーだったのでしょうか。
大正時代って
「人生全てかけて書いている」
大正浪漫ごっこ
受験生時代に散々苦しめられた思い出しかない小林秀雄、彼と親交があり「汚れちまった悲しみに」で知られる中原中也、そして二人の男と深い関りを持った女優・長谷川泰子の複雑な三角関係を描いた大正時代の実話に基づくお話です。監督は久々に登場の根岸吉太郎さん。
さて、僕は勿論この時代に生きていた訳ではないのですが、セットや衣装をそれっぽくしても本作で描かれるのは「大正浪漫ごっこ」にしか見えず、一気に冷めてしまいました。更に、この頃既に先鋭的な表現者であった3人の間にはもっとネットリ・グズグズしたものがあった筈なのに、本作ではそれもすっかり漂白されてしまっていました。根岸吉太郎監督なぜこれを撮りたかったのでしょう。
根岸吉太郎の前作より面白かったし、好きな作品だけど…
久々の根岸吉太郎監督作品。
シナリオが田中陽造で、「知る人ぞ知る」幻の傑作だったとか。確かに短編小説ようなキレがあり面白い。
時代は、大正〜昭和の初期までを描いている。美術セットもかなり凝っている。CGなどVFXを駆使して大正〜昭和の時代の風景を情感豊かに作り出している。(新宿駅から屋外に出てくるシーンはワンカットで撮っているし、京都の下宿先の建物群のセットも目を見張る!)
今回、カメラがよかった。特に異常に被写界深度を浅くして人物にフォーカスを合わせ、周囲がボケる撮り方が今回の濃密な人間関係に合っていたし、さまざまな場面での色調の変化も美しく暗示的。
などなど映像は素晴らしく、飽きない。
広瀬すずが長谷川泰子、木戸大聖が中原中也、岡田将生が小林秀雄で、この三角関係の演技陣の絡みも見応えがあるが…。
全体的にとても上手く上品で、楽しませてくれるしセンスもある。見ながら飽きない。でも…。何か物足りない。
多分、突き抜けたものがない。
広瀬すずは熱演で、申し分ないけど、やはり男女の絡みのシーンでは、演出に遠慮がある。何も広瀬すずの裸体を見たいわけではないけど(見たいけど)、ちょっと踏み込みが足りなかった。その分嘘くさく見えた。いくら神経がやられている芝居を見せても…
最初の下宿屋のシーンやローラスケート場、ダンスホールのシーン。母娘で入水するシーンなど見応えのあるシーンが数多くあり、見ている分にはとても楽しめる。でも見終わった後、思ったより残らない。
何かが足りない…。真剣さ?リアルさ??
根岸吉太郎の前作より面白かったし、好きな作品だけど…。
<3月29日追記>
エンドロールの「主題歌」はこの映画に合わなかった。なぜ岩城太郎の音楽だけで終わらせなかったのだろう。大人の事情?
広瀬すずさん
性と愛
疲れた身体に悪い意味で効く映画
期待半分不安半分で観に行きました。
予告編でかなりヤバそうと考えていたけれど、結局、悪い予感が当たりました。
中原中也を演じた木戸大聖さんが酷過ぎたかも。
主役の広瀬すずさんはいつもの感じだけど、やっぱり同じような演技しか出来ないのね、という印象。
岡田将生さんの演技は、悪くなかった。
中原中也の作風についてはよく知らないです。
映画は、大正浪漫的な雰囲気を何かそれっぽく映画で見せようとしていることで、結果として、ものスゴく安っぽい映画になっている感じがしました。
おカネ返して!と叫んで立ち上がるほどの怒りはないけれど、疲れた身体に悪い意味で効く映画でした。
思わせぶりな文芸映画だけど、楽しめた観客はいるだろうか?
中原中也及び小林秀雄と長谷川泰子の三角関係は、文学愛好家では、有名な話である。私もこの事実は知っていたが、どんな内容だったか知りたくて鑑賞してみた。
五十年近く前の高校生時代に、中原の詩集を購入し読んだが、もう全く覚えていない。小林秀雄は大学入試の試験問題に、昔はよく取り上げられた批評家だけど、今でもそうだろうか?
一見して、セットに贅沢な金を掛けているのがわかる邦画である。また、広瀬すずの衣装にも。
後に有名となる詩人と文芸評論家を惹きつける長谷川泰子がどんな人なのか。広瀬すずの演技力をもってしても、よく理解できなかった。脚本家及び監督の責任だろう。とにかく、エキセントリックな性格だったことはわかった。芸術家を惹きつける「ファムタクール?」であったことは間違いない。ルー・サロメやアルマ・マーラーのような。ちょっとスケールが小さいけれど。
しかし、これだけセットに金を掛けて、観客を動員できる映画だとは思わない。赤字だろう。また、楽しむ事も出来なかった。そもそも、中原中也や小林秀雄では客を呼び込むことが出来ない。企画の失敗だと私には思える。広瀬すずも二十代半ばとなった。どちらかと言えば美貌を抑えた演技で、これから大人相手の役者になっていくんだろと、ぼんやり考えていた。
妙本寺へ
先日の「シンペイ」に引き続き、大正ロマンを吸いに映画館に行きました。
映画の出来不出来を批評する気はない。
小林秀雄がその優秀させてを以って文学を批評しながら、自らはオリジナルを生み出せず(真に優秀な評論家はセルフツッコミが鋭過ぎて世に出さないのはよくあること)、
只管友人中也を褒めているくだりが、清々しくて好き。
大正時代の、それも詩人の生き方なんて、令和を生きるサラリーマンとはかけ離れていて、共感できないのは当たり前なのです。
その共感出来なさこそが、ロマンだと思うから。
つまり令和の「べき論」でカチコチになった脳をほぐす映画です。たった百年前の日本人ってこんなだったと。しかも教科書に載るような先生が、こんなだったと。
桃色に咲く海棠の花は、小林秀雄「中原中也の思ひ出」に描かれています。
鎌倉妙本寺。
比企一族を供養するお寺だそうです。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、比企一族が滅ぼされたシーンは鮮烈でした。そのお寺、できれば海棠が咲く季節に行ってみたいです。行きます。
レトロガール
広瀬すずファッションショー
大正〜昭和初期あたりの文学作品が好きで、中原中也についても色々調べ、長谷川泰子と小林秀雄とのあれこれも知っていたので、本作予告を観てから非常に楽しみにしていてやっと鑑賞できました。
まず、映像がとても綺麗でした。京都の町の静かな寂しさとか、東京の賑やかな寂しさとか、映像から伝わってきました。
しかし、物語に対する期待値が高すぎたのか…元々関心ある分野で先入観があるのがよくなかったのか…今いち入り込めず、だいぶ距離を感じながら(置いてけぼり感を抱きながら)観ていました。
何が物足りなかったのかなと考えたのですが、主要な3人それぞれについての掘り下げが足りなかった気がする。個々のキャラクターとしても、関係性としても。個々の掘り下げがないので、魅力がいまいち感じられず、なぜ惹かれ合うか釈然としないし、なぜ離れがたいかも理解できない。言葉は悪いですが、『有名な三角関係』を上っ面だけ描いてる感じで、とにかく入り込めない…。やはり恋愛を描く以上は、キャラの魅力が分かるようにしてもらわないと感情移入できないし、そうなるとだんだん「なんか3人でワチャワチャやってんな〜」みたいに客観的にしか見られなくなってくるんですよね。
それで後半はもう、綺麗で可愛い広瀬すずのモダンガールファッションショーだと思って鑑賞(笑)。いやほんとめちゃくちゃ可愛かった。和モダンな大正ファッションがすごく似合ってた。写真集出してほしいくらい。
とか思いつつ見ているうちに、制作陣もファッションショーのつもりだったのかなと思えてきた。だって、そうじゃないと、昔の男の葬式にバッチバチにキメた喪服姿で乗り込んできて、奥様の目の前でなんか思い出の品っぽい意味深な物を棺に入れて、意味深なことを言ってスタスタ去っていくの、嫌な女すぎるだろ笑。あの喪服姿もすごく良かった、写真集あるなら絶対のせてほしい。
あと、中也役の俳優さん、申し訳ないことに存じ上げなかったのですが、すごく良かった!黒目がちでつぶらな瞳が中原中也ぽかった。そして、喧嘩っ早くて危ういんだけど純真で人懐っこい中也の魅力をよく表現されていたと思う。あと、結核に冒されてからのやつれぶりが物凄く、一瞬俳優さん変わったかと思った。役作りすごい。
岡田将生さんもさすがシュッとしていて、当時のファッションがよく似合っていたし、大人の男の安定感も醸されていて小林秀雄としての説得力がありました。
内容的には、全体に没入しづらいストーリーと展開で惜しいな星3くらいかなと思ったけど、広瀬すずの可愛さを満喫できたのと、中也と小林のキャスティングが良かったので、0.5プラスしました。
大正ロマネスク‼️
大正時代の京都と東京を舞台にした、女優と詩人、文芸評論家の三人の男女の三角関係を描いた大正ロマネスク作品‼️作品としては、森田芳光監督の「それから」みたいな作品かなと思ったら、大正時代を舞台にした、トリュフォー監督の「突然炎のごとく」だと感じました‼️16年ぶりにメガホンを取った根岸監督が、男女三人のまるでつっかえ棒で支え合っているかのようなもろい恋愛関係を、レトロに描いてます‼️大正時代の京都や東京の街並みの再現も完璧だし、衣装や風俗も同じく、色を抑えた映像も大正時代っぽいし、そしてすずちゃんや岡田将生の演技もちゃんと大正してる‼️ただ中原中也役の木戸大聖の演技が思いっきり令和で、違和感ありまくりでした‼️
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