「本心で生きられない、未来の社会」本心 mayuoct14さんの映画レビュー(感想・評価)
本心で生きられない、未来の社会
言いたいことはよくわかるのですが、映画のまとまりや筋の通し方があまり巧くなく、観た後「散らかっているなぁ」と感じてしまいました。これがマイナス1ポイントです。
それでも、原作や映画の中から投げかけられた「大きな問題提起」は非常に意義深く、このチャレンジングなストーリーや着想は5点満点だと考えています。
自分の本心では生きられぬ、そんな未来社会がやってくるという示唆(問題提起)です。
映画の中にはいくつかの軸があります。
①池松壮亮演じる朔也が母親の本心を探る軸
②リアルアバターが本心を出せずに顧客の言いなりで仕事しないと行けない、近未来の闇の軸
③三好彩花をめぐる朔也とイフィーの本心が何かを考えさせる軸
これらはいずれも人間の深いところを掘り下げる話であり、1本2時間くらいの尺で描き切るのにはやはり限界があったのではないかと思います。
しかしながら、朔也という主人公一つの軸だけで考えると、それらは全て「本心ではない」ことに集約されます。
①自由死した母親の本心を探るため、VFを作りたいというのが朔也の本心だったのか、定かではありません。
母親の本心も結果的にはクリアにはなりません。
②生きていくお金を得るために、アバターとして自尊心も本心も踏み躙られて朔也は仕事をしないといけません。
③同居していく中で、三好彩花へのほのかな想いはあるものの、自分の本心を隠して、結局イフィーの身代わり(アバター)として彼の想いを伝えます。
これらは全て、朔也の「本心を隠している」行為なのです。
アバターとして、メロンを顧客の代わりに買うシーンで、顧客の罵詈雑言を浴びながらじっと耐え、最後に「包み方が下手だから買わない」と顧客の言葉を、本心でないのに自分の言葉として店員に伝えるシーンは、まさに「本心で生きられないことの苦渋」が朔也の顔に満ちていた、何とも苦々しい場面でした。
すでに今の時点で私たちは、ネットのコメントやSNSでの情報や同調に操られ、自分の本心でそのことを決めたり選んだりしていることをしていない可能性があります。
この『本心』という映画で描かれた少し先の未来はもっともっと「自分の意志や本心」が出せない、本心を出さずに生きていかねばならない社会の闇が到来するのかも知れません。
映画のラストシーンで朔也の手にそっと重ねられる暖かい手は、私は三好彩花ではなく、朔也が高校時代に恋心を抱いていた「ゆき」の手だと解釈しています。
最後のカットで、「朔也の本心」を見せたのだと。
つまり、朔也が本当に愛していた人は自分が純粋に恋した高校時代の「ゆき」さんだけ、三好彩花にも恋心はあったものの心の底からの本心とは少し違っていたのではないかという解釈です。
このラストと、冒頭で意味深に出てくる「ゆき」さんの振り向いている表情とが繋がる形です。言葉はなくとも本心が伝わっていたのではないかと。
所属する映画サロンの合評会でも「ラストの手は三好彩花」という解釈が多く、さらにそこに希望的な感覚を乗せている意見も多かったのですが、自分は全くと言っていい程異なる解釈を持ってしまったので、記憶と記録でここにレビューしておきたいと思います。
ラストの手についての考察、興味深く読ませていただき、少し先の未来にあるかもしれない闇を、ある人は過去の記憶、またある人は現在のあたたな感覚で乗り越えていくのだろうとも思いました。