劇場公開日 2024年12月6日

「大門未知子のスペシウム光線あるいは印籠について」劇場版ドクターX Immanuelさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5大門未知子のスペシウム光線あるいは印籠について

2024年12月8日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

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難しい

「物語」は現実ではありません。

「物語」において、あまり空想がすぎると荒唐無稽になり視聴者は冷めてしまいます。でもあまり現実的すぎても「物語」は面白くありません。なぜなら「物語」は、現実に打ちのめされている「見る・読む」者に夢を与え、またひと時の現実逃避でカタルシスを味わい「現実の苦しさ」を緩和して明日への力に変えるものが、良い「物語」だからです。

要は「物語」は「理想と現実」のバランスが大事なのです。空想に振った「物語」は、ウルトラマンとかスーパーマンとか水戸黄門とか「ヒーローもの」と呼ばれます。そういうものを見て「それはあり得ない」と重箱の隅を突いても意味はありません。本作にも「ヒーローもの」にありがちな空想が多々ありますが、それはそれ、空想と分かった上で楽しんでしまうのが良いと思います、基本的には。

人間には勝つことのできない「現実」と「漠然とした未来への不安」があります。医学の進歩によって、飛躍的に病気に対処する術が生み出され、私たちもその恩恵を受けてきました。しかし病気に対して人類は対等に戦えているのかといえば、必ずしもそうとは言い切れない現実があります。また、将来自分が不治の病に侵されてしまうのではないかという漠然とした不安に対処する術もありません。

ウルトラマンが宇宙から飛来する怪物に対して、苦戦しながらもスペシウム光線で「必ず勝つ」。水戸黄門は悪代官からの理不尽を、最後には印籠を出して「必ず正義を通す」。「ヒーローもの」は、私たちが勝つことのできない「現実」に、有無を言わせず強引に「必ず勝つ」ことによって、私たちはカタルシスを得ることができます。

大門未知子が「私、失敗しないので。」と言うことは、病気に対して「必ず勝つ」ことを保証するもので、困難に立ち向かいながらも不可能を可能にすることで、私たちはカタルシスを味わい溜飲を下げることができるのです。大門未知子の「私、失敗しないので。」という強引な決め台詞は、ウルトラマンのスペシウム光線、水戸黄門の印籠、なのです。文句はありません。

それを重々承知の上で、私がどうしても感じざるを得なかった「違和感」があります。
それは「医師という職業はどういう仕事なのか」ということです。簡単にいえば「医師としての倫理とは何か」ということです。

大門未知子は「患者が生きていることが何よりも優先する」と思っている節があります。また本作は、見るものにもそう思うようにさせる同調圧力があります。私は医師という職業は「どう生と死に決着をつけるか」采配する職業で、最優先なのは、医師の一個人としてのひと時の感情や事情ではなく、一定の線をどこに引くのかを冷静に判断する仕事だと思うです。それは「命を軽く扱う」ということにはならず、むしろ本当の意味で「命に最大限の敬意を払う」ということです。

「自分が患者をなんとかする、なんとかできる」と妄想するのは医師の傲慢でしかないのです。例えば、延命処置を延々と続けて患者が苦しみ続けることを手助けすることは、果たして生命の尊厳を尊重していると言えるのかどうか。「延命処置」や「脳死」の判定一つとっても、簡単な問題ではありません。その現場・現実に日々直面し続けている医師なら、簡単に「患者の命が第一」と素直に言えないと思うのです。

大門未知子は、医師としての倫理の一線を躊躇なく踏み越えてしまいます。その姿は確かにヒーローと言えるかもしれないです。しかし彼女の医師としてのあり方としては、患者の命を最優先しているように見えますが、自分の私情や事情を最優先しているようにしか見えない時があるのです。

医師は全ての患者の命を救うことはできないし、全ての病気を治すことはできません。いやむしろ患者を救えないことの方が多いでしょう。また、一人の患者に自分の資源を費やすことはできず、時には「見捨てる」ようにして、より治る見込みのある人の治療に向かわなければならない時もあります。「手の施しようがない」ことはザラです。

医師の仕事とは、そういう痛み・苦しみと日々戦い・向き合う職業なのです。しかし相反するように見えて時に冷酷に見えるような「死との向き合い」の先にこそ、真の意味で「患者の命の尊厳を、真に尊重する」生命への敬意があるのです。そして、それを円滑に実施するために「医師の倫理」がある。

医師の仕事・医師の職業について、本作は誤解を与えてしまう危険性が無きにしてもあらずという気がするのです。「現実の医師と大門未知子を重ね合わせて比較・評価」してしまう、あるいは「現実の医師に大門未知子的な何か」を求めてしまう危険性があるのではないかと思う。本作はあくまで架空の「ヒーローもの」なのだと理解しているのであれば良いのですが、「現実」と「大門未知子」の間にあまりにギャップがあるな、と思ってしまった次第であります。

俗に宗教は「如何に生きるか」を問うものだと思われるかと思いますが、実は「如何に死ぬか」ということを問うものだと思います。なぜなら、人は必ず死ぬものだからです。逆説的ですが「如何に死ぬか」ということは、結局「如何に生きるか、生きたか」ということに尽きる。

大門未知子は、「生」に必要以上に執着しているように思えます。死んだら全て終わりだと思っているのでしょうか。人間の絶対の支配者であるところの「死」にまだ向き合えていないのなら、確かに生にしがみつくことには納得できます。

そういう意味で大門未知子は「神業的な手術の手技」という武器を手に全ての病気(つまりは死)と戦おうとしている、いわばドン・キホーテに見えなくもない。ドン・キホーテは、昼夜を問わず騎士道小説ばかり読んだあげくに正気を失い、世の中の不正を正す旅に出るべきだと考え旅に出かけ、ついには風車に突撃してしまいます。しかし、それは全て彼の妄想だったのです。

大門未知子が妄想に囚われているとかいうつもりはありません。実際、劇中で彼女に助けられている人がいるわけですから、その働きは貴重で褒められるべきことです。しかし、その「あやうさ」が、僕にはやはり気になって仕方がないものでした。そして、単なる娯楽映画だ・ドラマだと片付けてしまうのは簡単ですが、その「狂気」に気づかずに惑う人が少なからずいるのではないかと、余計な心配をしてしまいました。

Thank's, all Cast and Staff ! :‑D

Immanuel