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キネカ大森での『ホラー秘宝祭り』視聴3本目(ラスト)。
正直、この映画にはびっくりした。
なんだこれ? ガチで傑作じゃないか。
しかもなんで??? アメリカ映画なのに、
ほとんどイタリアン・ホラーにしか見えない。
それも、ダリオ・アルジェントが『サスペリアPART2(プロフォンド・ロッソ)』(75)あたりで個人様式を確立する「前」に、すでに「アルジェントのような映像感覚」で映画を撮っている。
もちろん、マリオ・バーヴァや70年代初頭の他のジャッロ、あるいは『エル・ゾンビ』(スペイン映画でヨーロピアン・テイスト)あたりから影響を受けているという可能性もあるのだが、それにしても「アルジェントの個人様式」かと思い込んでいた映像感覚や美意識が、すでに遠いアメリカの地で作られたゾンビ系映画で「先取り」されていたことに、まあまあの衝撃を受けた。
まかり間違えば、「アルジェントが『メサイア・オブ・デッド』を、『プロフォンド・ロッソ』と『サスペリア』を撮る前に観ている」可能性まであるかもしれない。
そうなれば、これはクラシック音楽におけるマーラーとハンス・ロットの逸話に近いくらいの、歴史がひっくり返るレべルの衝撃である……。
具体的に言うと、
●暗闇の中で明かりを放つ孤絶した近代建築を据えて、都会の孤独とよるべなさを演出する感覚。あるいは、街の広場で人の影が消えうせたような瞬間の怖さ。アフタートークで女優さんが「マグリットみたい」とおっしゃっていたが、どちらかといえばエドワード・ホッパーの画風に近い。
●三原色を最大限に利用したカラリング&ライティング。おそらく大元はゴダールを含むヌーヴェル・ヴァーグに辿り得る美意識だが、マリオ・バーヴァ(アルジェントの師匠筋)がサスペンスにおける美的様式として確立したもの。
●極端にアーティスティックな空間を殺人現場に設定し、現代アートの絵画やオブジェを雰囲気づくりに積極的に利用してくるスタイル。この感覚は70年代のヨーロピアン・スリラーを席捲し、のちにはデイヴィッド・リンチへと引き継がれる。
このへんの「映像の好み」に加え、女優の撮り方とか、カット割りとか、歩くときの追い方とか、あらゆる漂ってくる「臭気」がアルジェント臭い。とくに、暗い街中を歩く女性を俯瞰で小さく撮るあたりとか、本当によく似ている。
ついでにいうと、冒頭の精神病院の奥まで続く通路(『フェノミナ』)とか、映画館での惨劇(『デモンズ』)とか、屋根が割れて落ちて来る(『サスペリア』)とか、さまざまなシーンでそれこそ猛烈な既視感をそそられるのだが(笑)、これらがすべてアルジェントが取り組む「前」に既に成されていたというのは、いささか信じられないくらいだ。
本人たちは、当時ゴダールやアントニオーニが好きで、ヌーヴェル・ヴァーグを意識して撮った結果だと言っているようだが、それでは納得がいかないくらいに「70年代後半のマカロニ・ホラーを先取りした」映画に仕上がっていると言っていい。
もう一点、重要な点を指摘しておくと、本作は明快にラヴクラフトのクトゥルフ神話を祖型とした物語であり、タイトルや売り出し方ほどにジョージ・A・ロメロの一連のゾンビ映画群との関係が強いわけではない。
海から来る異形の者。待ち受ける海岸べりの街の住人。古代の呪術的な信仰と信徒。街にとってはアウトサイダーに当たる人間の書き残した手記。それを紐解きながら怪異に巻き込まれる主人公。いずれもラヴクラフトお得意のパターンが踏襲されている。
すなわち本作における「ゾンビ」の場合、どちらかというと神話的な「赤い月」の影響下に発生する「怪現象」としての傾向が強く、「ルナティック(月×狂)」のたとえであったり、あるいは「暴徒」「排他的村落共同体」の誇張であったりと捉えたほうがしっくりくる。
ちなみに、本作に登場するスペイン貴族の末裔でジゴロの伝承収集家は、実はきわめて重要なキーとなる存在だったのではないかと、僕は勝手に類推している。
本来は、本人も気づかないままにこの街に引き寄せられてやって来たが、実際は「闇の訪問者」の末裔であり、再臨する怪異の依り代として求められていて、海で溺れるシーンのあと世界を統べる存在として華々しく復活し、ヒロインを花嫁として新たに迎え入れる――となるはずだったのではなかったか? 少なくとも自分はそういう流れになると信じ込んで観ていたので、ならなくて結構びっくりした。
後からパンフを読んだら、「撮影終盤で予算が尽き、物語の謎を説明するラストシーンを残して製作が中断。(中略)製作陣の手で編集されたバージョンが完成版として公開された」とあったけど、彼らが製作を諦めたラストというのはまさに上記のような内容だったのでは?
「自分には海に浮かぶ城がある」という最初の自己紹介とか、体型から見て間違いなく伝承の「闇の訪問者」のダブルを同じ俳優が務めているとか、当て推量ではあっても結構いい線いってると思うんだけどなあ……。(書いてからパンフで読み飛ばしていた伊藤美和氏のコラムにも同じことが書いてあったので、確信に至りましたw)
いずれにせよ、のちにラジー賞を総なめにした珍作『ハワード・ザ・ダック』(86)をジョージ・ルーカスとともに作ることになるウィラード・ハイクとグロリア・カッツの夫妻が、何故にここまでイタリアン・テイストの強いホラーを手掛けることになり、なおかつどうして題材としてラヴクラフトのクトゥルフ神話まがいのものを選んだのか、その経緯がまったくわからないので、これ以上はなんともいいようがない。
ただ、内容として、僕は本当に素晴らしい出来だと思った。
多少納得のいかないところもあるし、かったるいところもあるし、今となっては古ぼけているところもあるけど、総じてアーティスティックな空気感と、ニューロティックな緊張感、見知らぬ街で体験する孤絶したよるべない感じは、うまく描かれている。
自らが街の毒気に汚染されて変容していく恐怖や、最初は遠巻きに見守っているだけだった街の住人がだんだん見境なく襲ってき始める怖さも、しっかり伝わって来る。
何より、善玉(犠牲者)側であるはずの女性たちがいずれも、今一つ何を考えて行動しているのかよくわからないという不気味さ加減がたまらない。
個別のシーンとしては、映画館での惨劇のシーケンスがやはり群を抜いて完成度が高い気がするが、終盤のパパの燃やされる派手っぷりとか、屋根を破って落ちて来るゾンビーズの自由落下度合いとか、印象的なシーンが多発して、いずれも忘れがたい。
一番の問題は、この町で起きていることや住人に発症している症状があれだけ日記に克明に書いてあるのなら、なんで到着した最初の1時間で全部読み切って、さっさと遺品をまとめて家に帰らないのかってところだけど(笑)。まあ「日記を読み進めていく」系ホラー小説ではあるあるなんだけど、映画ではあまりないパターンなのですげえ気にはなりました。
なんにしても、これだけの傑作が、ジャンルを代表する名作として人口に膾炙してこなかったのは不思議なくらいだし、今まで全く知らなかった自らの不明も恥じるしかない。
以下、各論にて。
●アヴァンで展開する、男が逃げ込んだ先に待ち受ける邪悪な少女、という設定は、『世にも怪奇な物語』(67)のフェデリコ・フェリーニの『悪魔の首飾り』や、マリオ・バーヴァの『呪いの館』(66)を想起させる。
ちなみにあのアヴァンは、ショットがすべて「斜め方向」を意識したものであるのが実に手が込んでいる。またパテオのデコレーションは『サスペリア』の奥の院をどこか彷彿させる。あとこの若者、若かりし日のウォルター・ヒル監督なんだってね!!びっくり!
●シンセの電子音とテルミンの音色を交えたフィリアン・ビショップによる音楽は、たとえば『悪魔のしたたり』のようなチープさとは無縁で、映画の空気づくりに一役買っている。
●まさにエドワード・ホッパー的なガソリン・スタンド。
赤い車。赤い服。赤いトラック。赤い鮮血。
闇に向かって銃を乱射しながら怯えていた従業員が、ふりむきざま平静に応対してくる違和感がハンパなくこわい。
それと、マカロニ的ともデイヴィッド・リンチ的ともいえる奇顔の寄り目男(ネズミが好物)のインパクトが凄い。ここの一連のシーンはスキがないなア。
●海辺の館に着いても、独特の美意識は貫かれている。
赤い扉。赤い服。赤いライト、赤いクッション、赤いカーテン。
トロンプ・ルイユ(だまし絵)の手法で壁面全体に描かれたポップ・アート調の街の風景(ヒロインの父親である画家が描いたもの)が違和感を盛り上げる。白黒の奇妙な人物像を背景に主人公が探索する様子は、2年後に撮られた『サスペリアPART2』の第一の殺人を彷彿とさせる。
●父の情報を求めて画商を訪ねたら、画商なのに盲目のお婆さんが店主で、息子らしき店員に猛速度の指点字で情報を伝えている。そこで得た情報でチャーリーなる男の家を訪ねたら、目をひんむいた得体の知れないオヤジが意味不明の話をぶつぶつと証言している。それをベッドに寝そべった優男とグルーピー女2人が録音している……。この奇人変人大集合的な感じは、まさにデイヴィッド・リンチ!(笑)
●ジゴロ役のマイケル・グリアって、若いころのダリオ・アルジェントによく似ているような。なんかすげえ俺好みの体型と容姿と声なんだけど!(パンフによればナイトクラブの人気パフォーマーで、最初期のカミングアウト・ゲイだったんですって)
●ワーグナーの「マイスタージンガー」第一幕前奏曲を流しながら近づいてくる、例の赤いトラック(前回は後部座席に死体をゴロ積みしていたが、今回は月見客を満載している)。女を拾うと今度は「ローエングリン」第三幕前奏曲を流しながら、ネズミの踊り食いを披露(笑)。まさに悪夢のようなヒッチハイク。
●繰り返される波の映像と、夜のスーパーマーケットに入るとメロウな音楽が流れていて人影もまばらという感じは、同じく1973年に撮られて1974年に公開されているロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』ととてもよく似ていて、両者の影響関係がちょっと気になる。
●スーパーマーケットを舞台とした惨劇は、『ゾンビ』(78)を先取りしているが、消費社会への社会的警鐘といった意図は希薄で、どちらかというと「ふつうの街の住人かと思ったらおかしかった、助けてくれるかと思ったら寄ってたかって狩られた」という逆転の恐怖を演出する広域閉鎖空間として機能している。
●映画館のシーンはホラー映画史上に残る名シーンといっていいだろう。
アイディア、演出とも申し分なし。
看板に『Kiss Tomorrow Goodbye』とあったので、『明日に別れの接吻を』(50)でも上演しているのかと思ったら、まさかのウエスタン(じゃああれは映画館名なのか?)。ネットでググると『Gone with the West』(75)というジェイムズ・カーン主演の西部劇映画らしい。1975年公開の映画がなんで本作で使用できてるのか不思議だが、どうも1969年に製作されたあとお蔵入りしていたとWikiに書いてあるから、本作製作時点では未公開だったフィルムをフッテージとして利用させてもらったということらしい。
ロッテントマトで見るとボロッカス書かれてて気になる(笑)。サミー・デイヴィス・Jrがガンマン役で出てるんだよな。ネットに落ちてるっぽいから観てみようかな。
●ヒロインが口から蜘蛛とかGとかミールワームとかトカゲ(トークショーでお客さんが「イモリ」とかいってたけど、これはアノールなので「トカゲ」ですね)吐くのは、口から出て来たってよりは、「知らないあいだに(あのネズミ男みたいに)食べてる」って描写なのでは。
●ラスト近くでお父さんが帰還して襲ってくるシーンは、まさに三原色の饗宴。ペンキで青く塗られたパパの姿は、ゴダールの『気狂いピエロ』(65)へのオマージュだよね。ペンキのせいか、よう燃えとる燃えとる(笑)。