まるのレビュー・感想・評価
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今の日本の時勢をまるっと収めた荻上直子作品
社会的生物と言われるアリでも働きアリの2割は働かないらしい。よく働くアリが2割、普通が6割。しかし、よく働く2割のアリは短命だそうだ。わたしがはたらいている組織のレベルはまぁよく見積って下の中ぐらいなので、わたしを含めてよく働くアリはほんの一握りで、2割が普通、残りは働かない。それでもなんとかなってしまうから下から抜け出せないのだが、リーダーシップを取ろうとするものがいないばかりか、他の会社のスパイではないかと思うものが孤軍奮闘しているふりをして、上に媚びているアリ様。ミツバチの巣に偵察に来たキイロスズメバチに後継ぎの御曹司君は気が付かない。アリやハチの場合は女王を頂点とする家族社会で人間の会社組織とは異なるので、当てはめること自体がナンセンスともいえる。
芸術家とそれにぶら下がる美術商、画廊オーナーたちなどはもともと異なる種で寄生や共生関係ともいえよう。そうだ、人間の歴史はもともと搾取と寄生の歴史。よくて共生。家族間でもそんなことはいくらでもある。
売れっ子イラストレーターのアシスタントを首になった沢田。部屋に大きな水槽を置いてチョウザメみたいな動かない魚を飼っている。アリが部屋の隅で行列を作っている。列から外れて不織布の上を歩き回る一匹のアリの周りに刷毛で円を描く。アリが元の列に戻れないように通せんぼしていたのかもしれない。
怪しげな骨董屋(片桐はいり)に持ち込むと、店主にマジックを渡されてサインを入れろと。「さわだ」と書いたら、いつの間にか100万の値がつき、国立近代美術館に所蔵されるまでに。覆面アーティストの書いた円相図としてネットで騒ぎになり、バイトのコンビニ店が特定され、ファンが押し寄せる。まぁ、女子高生のひとりやふたりなら歓迎だ。
自分の絵が展示された美術館に行き、円の縁の絵の具に足を捕られ埋没したアリを助けようとして、作品に触るな💢と怒られる沢田。
大家のオバサンも滞った家賃なんかいいから、ずっと居てくれて良いのよ。その代わりに、ここに◯を書いて頂戴と手のひらを返してくる。
漫画家志望のアブナイ隣の住人(綾野剛)にとっては羨ましすぎる事態。隣同志の友達だから寿司奢れよとなる。アシスタントをやめて労働運動に目覚めた吉岡里帆(住宅公団の賃貸物件のコマーシャルにでてる)も駅前で「あたしだって寿司が食べたーい」と叫ぶ。
そういえば、廻らない寿司屋には30年ぐらい行ってないな。行くとしても有楽町角川シネマの上の階のス◯ローとかMOVIXさいたまの向いのがっ◯ん寿司ぐらいだ。
コンビニの先輩店員の役の森崎ウィンがとてもよい。しばらく見ないうちに(蜜蜂と遠雷ぶり)立派な大人になっていた。さすが、仏教国の旧ビルマ、ミャンマー出身。人間が出来てる。バイトをやめると決めた沢田に店の色紙にサインを貰う時もバーコードをスキャンして、自腹で買っていた。エラい❗
それにしてもコンビニも回転寿司もタコ焼きチェーン店も外国人の店員が多くなった。盆栽も茶の湯も外国で大会が開かれるまでになってしまった。
まるという作品に日本の時勢をまるっと収めた荻上直子の作品であった。
大阪城つくったの誰?
宇宙にも団子にも見える「まる」は、優れた作品が多様に解釈できる事を思い出させるが、凡庸な鑑賞者は自分の解釈が唯一無二だと思い込んで他の鑑賞者だけでなく制作者にすらそれを押し付けようとする。また、出資者は往々にして金で創造性まで買い取ったと思い込み、あわよくば自分も名声を得たいと願う。ペットとは言い得て妙だ。
主人公はどうやら名声には無関心で自分の創作意欲が満たされれば良しとする素朴なアーティスト気質の持ち主だが、芸術表現を極めると作品自体が語り始めて作者は匿名となるらしいから、アートの王道を歩んでいるのかも知れない。
…などという事を監督が言いたい訳では無いと思うものの、「表現」というものについて色々考えるきっかけになった。
【とても日本を感じる】
劇場に人が入っていないのも納得だ。TV放映を優先しているのか、制作自体がTVメディア産業全体を捉えて描写されているように感じる。映画で映えるとは思えない剛ちゃんを、芸術と消費の境目を彷徨う主役に据え、綾野や吉岡が単純化された役を演じることで、映画的な体験よりも芸能プロ的なキャスティングと演技が目につく。
物語は、アリとの戯れから生まれた○が社会に流通し、「円相図」という意図しない形で社会的価値に置き換わり、やがて自身が○に囚われていく過程を描く。シンプルな円形がその形ゆえに人々の共感を呼び、一過性の流行として広がり、世界中の人々が便乗して消費していく様が印象的だ。
メディアが個人の小さな行為を過剰に記号化し、消費していく様子は、綾野が街中に○を貼り付ける場面でピークに達する。アート作品が流通する過程で本来の意図や個人性が失われ、まるで道端のしょんべん封じの護符のように、街全体が記号で覆われていく...
コンビニ店員のモーや剛ちゃんが仏教用語を日々の精神安定のために口にする場面も印象的だが、どこか空虚さが漂う。『波紋』のように、精神安定としての宗教が顔を見せるものの、ただの口癖や表面的な記号として用いられ、深みがない。宗教を通じた積極的な行動も見られず、「やってられない」と言わんばかりに「諸行無常」を口ずさみ、その無力さが強調されている。
劇中のアリと開けられた穴は、『アンダルシアの犬』の歴史的な重要なモチーフだが、展開が限定的で冗長に感じた。アリや部屋間に開けた穴も、いつもの荻上ならもっと違う処理をしたのではないかしら。制作、物語からテーマまで一貫してTV向けに感じる。そういう意味でとても納得できる。
剛くんの妙
普通
主演の顔の輪郭から当て書きされた作品(大嘘)
やっぱり猫が好きが好きじゃない自分としては、もたいまさこ&小林聡美出演というだけで敬遠していた荻上直子監督作。今作主演は堂本剛だし前評判もよさげだったので荻上初挑戦してみたわけだが、やはり己を信じるべきだった…。
とにかく沢田が何を考えどうしたいのかがさっぱりわからない。有名になりたいのか、金がほしいのか、そもそも絵が好きなのかもよくわからない。怒らないし笑わないしで感情もまるで見えない。本作は堂本に当て書きしたとのことだが、彼のメンタルまで織り込んでのキャラ設定かと思うほど(爆)。
漫画家志望者を変人扱いし外国人労働者や経済格差問題などを揶揄するのはいちいち不愉快だし、柄本明が説教くさいことを語る場面があるかと思えば、最後には△を出すとか…。こんな不条理ネタ一発、雑な話で2時間もやるなよ!やたら寿司寿司言って、ど根性ガエルかよ!という怒りのデスロード。
エンドロールでは何言ってんのかよくわからない歌まで聴かされるので、堂本と荻上ファン以外には観る意味がないと思う。
たしかに◯には角がないからいいな
不思議な映画
刺さらなかった。
鏡のような映画
普段観る映画は洋画でエンタメ性の高い作品多めなので、落ち着いた画面の印象の邦画は少し苦手意識あった自分が、その認識をガラリと変えて「映画って面白いんだ」と思わせてくれた作品。
ストーリーは起承転結が曖昧で波が小さい。
こう書くとネガティブっぽいが、だからこそ疲れずにずっと集中し続けることが出来た。
というか、起承転結がはっきりしていてクライマックスが画面的にも話し的にも見せ場です!という作品ばかり観て、映画とはそういうものと思ってた人間からすれば、真逆なのに面白いことが不思議で、初めての映画体験が出来て感動した。
どの主要人物の主張にも共感でき、沢田や横山、矢島のアーティスト側の思いも、若草オーナーや怪しい美術商の土屋の商業側の考えも理解できる。
個人的に好きなのは、別にどの人物も善い悪い、正しい正しくないで描かれていないから、その辺りも観ていて楽に感じる点かもしれない。
ラストの1シーン以外は沢田視点なため、本人の知らぬ所で状況が動いて祭り上げられる気味の悪さが分かりやすく、ぞわぞわした。
考察大好きな人にはオススメしたい作品。
比喩が多くてリンクするシーンも多いので、二回目以降観ると、ここってこういうことか~と考察が進むので楽しい。
人によって印象に残るシーンや受け取るものも大きく変わる、自分の過去や今を映す鏡みたいな不思議な映画。
まるでアートのような映画
「円相」を巡る円環の物語
なんとなく引っかかった「まる/3.14」と「蟻」に、多分本人も無自覚にインスパイアされて描いた絵が、勝手に「円相」と解釈されて、えらいことになる話。
円相を巡る話だけど、ストーリー自体が一つの円環になってるところがよい。
始まって終わり、また始まる。
でもその始まりは最初と同じではない。
そんな展開が心地よかった。
主人公・沢田の心理や、柄本明演じる先生、吉岡里帆演じる矢島が何度も「まる」越しに沢田を覗くシーンを踏まえると、「円相」はむしろ「円窓」(己の心をうつす窓)ともいえるのかもしれない。
円の内側がはっきりしたとき、他人の評価や悩みは円の外に切り離される。
ただ起伏があまりないので、面白くない、退屈という意見があるのはわかる。
もともと小さい起伏を、俳優陣のちょっとした表情、動き、声によって解像度を高めることで見えるようにしているような作品なので、その芝居を楽しめないと向かないのかもしれない。
で、ここからは堂本剛、というよりも、ENDRECHERIが好きな立場から見ると、最後の「街」が効いていた。
ファンク色が強まってからの彼の曲やパフォーマンスが好きなので「街」という曲に私自身、特別な思い入れはない。
でも、なんというか、20代、まだファンクにも出会わず、苦しんでいたころに作った「街」とい曲は、もはや彼の曲の中では異色にも思えるのだけれど、それが今、20年たって本人を映したような作品のエンディングにこういう形で使われること。このことこそが、円環よなと思ったりもする。
音楽活動の始まりに作った曲が、苦しみの末に到達した今(多分再録ですよね?)の堂本剛=ENDRECHERI自身の歌唱によって歌われている。その曲もまた、始まりのころの歌と同じ曲であっても同じではないという事実。
荻上監督はよくぞここまで当て書きに振り切ったものだ、本人に断られたら間違いなくお蔵入りだったよなぁと思わされた。
芝居においても繊細にも大胆にも表現できる演技力と身体性を秘めた人なのだから、円の外と内がはっきり切り分けられたなら、たまにはまた芝居を見せてほしい、と一映画ファンとして思った。
柄本明さんの
いちばん丸かったのは、堂本剛
役作りで丸くなっていたのかな、丸く見せるために、ニットキャップ?かぶっていたのかな。
とにかく丸かった。
NFTってなんか変だよね、ってことを描きたかったのかな。
現代アートも、そんな感じだけれど。
とはいえ、理解できないからといって、アート、美術を破損するのは正当化しちゃいけない。
円窓の話が出たところで、十牛図とか、禅とか、そういう話にもなるかと思ってしまったが、そんな深い話じゃなかった。
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